2009-07-29
当ブログの主旨はタイトル通りで、親鸞会教義の誤りを明らかにすることです。
その中でも、会員が特に騙されている大きな点について書いています。
読者の方から、真宗の教義を明らかにしてほしいという御要望を頂くことがありますが、以上の主旨でありますので、御理解ください。
ご存知の方も多いと思いますが、すでに真宗の教義を基本から体系的に解説されたブログがあります。「苦笑の独り言」で、その中に”やさしい浄土真宗の教え”というシリーズがあります。
正しい真宗教義を学ばれたい方はこちらをお勧めしますが、更新が頻繁で他の記事に埋もれてしまっていまして、残念ながら読まれたことのない方もあるようです。
それで、「苦笑の独り言」の管理人である苦笑氏の許可を頂きまして、このシリーズだけを独立させたブログを新たに作りました。
やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)
です。このブログの管理人は私ですが、著作権は苦笑氏にあります。言葉遣い等を多少変えてありますが、内容は変えていません。
当ブログとあわせてお読みください。
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2009-07-30
親鸞会は諸行往生と非難されていますが、それがその内容です。
Q、「諸行往生」とはどんなことか、一言で書け。また、それは正しいか、間違いか、答えよ。
A、諸善をすれば善のできない自分が知らされて救われるということで、間違い。
例として、
親鸞聖人の20年間の比叡山での御修行で、機の深信が知らされたという邪義。
19願の入り口にも入っていない講師部員や、30年、40年求めたくらいでは
分からないと教えられた親鸞会の会員は、この世では救われないから、親鸞会の
求道は遠生の結縁と考えている邪義など。
この世で救うという18願ではないので、明らかな間違い。
参考までに、
精一杯の財施をしなければならない、とか、善知識に絶対服従せよなどは、
諸行往生でもない、カルトの教え。
親鸞会は体失往生ですから、諸行往生なのですね。
19願の善を実践して、善のできない自分であったと知らされることがいつあるのか?
19願の善を実践させるということは、長い長い時間が当然必要ですので、不体失往生ではないですよ。
諸行往生は間違い、と教えながら、諸行往生を目指していることを、会員は知るべきでしょう。
会長のトリックは巧妙なのです。
> 参考までに、
> 精一杯の財施をしなければならない、とか、善知識に絶対服従せよなどは、諸行往生でもない、カルトの教え。
これは、諸行往生の教えから派生した会長独自の教えです。
善のできない自分であったと知らされる財施とは、全財産を親鸞会に差し出せ、ということです。しかし、全財産を差し出して善のできない自分であると知らされると思いますか?
会長に絶対服従するには、人間をやめなければなりません。余りにも理不尽で、方向が頻繁に変更されますので、どの指示に服従するのでしょうか?犯罪も厭わない指示がこれまでいくつもありました。
全ての指示に服従するには、人間をやめるか、超人にでもならなければ無理です。
金集めと会長への絶対服従が、会員を苦しめ、不体失往生を妨げている最大の原因です。
2009-07-30
【質問】
下記の書き込みを読んで、困っています。
誰か解説してください!
535 :神も仏も名無しさん:2009/06/30(火) 12:21:35 ID:aFbNIyl5
今回の講師試験の問題
Q、「諸行往生」とはどんなことか、一言で書け。また、それは正しいか、間違いか、答えよ。
A、諸善をすれば善のできない自分が知らされて救われるということで、間違い。
例として、
親鸞聖人の20年間の比叡山での御修行で、機の深信が知らされたという邪義。
19願の入り口にも入っていない講師部員や、30年、40年求めたくらいでは
分からないと教えられ、親鸞会の会員は、この世では救われないから、親鸞会の
求道は遠生の結縁と考えている邪義など。
この世で救うという18願ではないので、明らかな間違い。
参考までに、
精一杯の財施をしなければならない、とか、善知識に絶対服従せよなどは、
諸行往生でもない、カルトの教え。
【回答】
これは、体失不体失往生の諍論についての内容です。
『口伝抄』に法然上人のお言葉があります。
念仏往生は仏の本願なり。諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず。至心信楽の帰命の一心、他力よりさだまるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識におうて、聞持する平生のきざみに治定するあいだ、この穢体亡失せずといえども、業事成弁すれば、体失せずして往生すと、いわるるか。本願の文あきらかなり。かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は、臨終を期し、来迎をまちえずしては、胎生辺地までもうまるべからず。このゆえに、この穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりて、そのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて、定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いずれも文釈ことばにさきだちて歴然なり。
諸行往生は、体失往生です。19願の諸善を実践することによって、助かろうとするものです。
親鸞会で教えていることは、19願の実践です。19願を実践しようとする人は、どうなるでしょうか。
会長は講師部員に対して、「19願の入り口にも入っていない」といっています。
また説法の中でも、「30年、40年求めたくらいでわかるものではない」ともいっています。
当然なことです。19願で誓われた善を実践できる筈がありません。至心で善ができますか?
善をしてはじめて、善のできなかった自分が知らされるといいますが、最初から答えの分かっていることが、実践できますか?
それで、講師部員をはじめ、会員はどう考えているか。
臨終に観世音菩薩の説法にあって、救われることを期待している人はましな方で、大抵の人は、次に人間に生を受けた時、あるいは、次の次で救われればいいだろう、つまり遠生の結縁になればいい、と思っている人ばかりです。今生で救われるとは、誰も思っていません。19願の入り口にも入っていない、30年、40年求めても分からないと言われれば、そう思うのも無理はありません。
法然上人は、我々凡夫は諸善のできないものであるから、往生の妨げになる諸善を捨てよ、とまで仰っておられます。言い換えれば、19願を捨てて、18願を信じよ、ということです。19願を捨てるために実践するというのは、会長のトリックです。
会長は、我々にできない19願の善を実践させることで、18願の念仏往生とは別の方向に進ませているのです。だから、会長の身内も、側近も救われないのです。
法然上人の仰った諸行往生とは、親鸞会の会員のことです。
2009-07-30
【質問】
詳しいコメントありがとうございますm(__)m。
親鸞会では善を勧めるのが仏教の教えで、
善をすることをやめろとういうのは仏教ではない!
というように教えられると思いますがそのあたり、
どうなんでしょうか?
【回答】
仏教は善を勧めています。これは間違いないことです。問題は、善をすることと往生することと関係があるのかです。
往生するには善をしなければならないというのが、聖道仏教です。往生するために善をする必要がないというのが浄土仏教です。
法然上人の『選択本願念仏集』には、
故に知んぬ。諸行は機に非ず、時を失えり。念仏往生は機に当り、時を得たり。
感応あに唐捐ならんや。まさに知るべし。隨他の前には暫く定散の門を開くと
いえども、隨自の後には還って定散の門を閉づ。一たび開いて以後永く閉じざるは
ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意ここに在り、行者まさに
知るべし。
とあります。正法や像法ならばいざ知らず、末法の凡夫では善ができないから、正定の業である念仏を称えよ、といわれているのです。
あるいは、
おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための
所以なり。初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために
説く、念仏は立せんがために説く。次の義はすなはちこれ助正のために説く。
いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。後の義はすなはちこれ
傍正のために説く。いはく念仏・諸行の二門を説くといへども、念仏をもつて正
となし、諸行をもつて傍となす。ゆゑに三輩通じてみな念仏といふ。ただし
これらの三義は殿最知りがたし。請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。いまもし
善導によらば、初め(廃立)をもつて正となすのみ。
とも仰っておられます。
これは本願寺の主張も同じです。
灘本愛慈著『現代の教学問題・宿善について』には、
親鸞会は、宿善として自力諸善を積むように勧めているが、当流では他力の信心を獲るために、まず自力諸善を積まねばならないなどという説示はない
とあります。
また紅楳英顕著『派外からの異説について』には、
私が再三、もとめたところの『破邪顕正や財施を獲信のための宿善として修せよ』とある文証は、未だに何等示されていない。
私が問題にしたのは、このことなのであり、高森親鸞会が自説の根拠となる文証を明示されない限り、私への反論になっていると認めることはできないのである
とはっきり書かれています。実際、親鸞聖人も蓮如上人も、往生のために善を勧められたところはありませんので、本願寺の主張は正のです。
では善導大師、法然上人、親鸞聖人は善を勧められなかったのか、といえば往生とは関係ないところで善を勧めておられます。
たとえば法然上人の書かれた「念佛往生義」には、
念仏して往生するに不足無しといいて、悪業をも憚らず、行ずべき慈悲をも行ぜず、念仏をも励まさざらん事は、仏教の掟に相違するなり。
例えば、父母の慈悲は、良き子をも悪しき子をも育むめども、よき子をば喜び悪しき子をば嘆くが如し。
仏は一切衆生を哀れみて、良きをも悪しきをも渡し給えども、善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しみ給えるなり。
良き地に、良き種を、まくかんが如し。構えて、善人にして、しかも念仏を修すべし。これを真実に、仏教に従うものという也。
とあります。「苦笑の独り言」に意訳が載ってますので、確認してみてください。
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-376.html
仏教である限り、善を勧めるのは当然なことです。世界には多くの宗教がありますが、宗教とは善を勧めるものといっても過言ではないと思います。
往生と関係のある善とそうでない善とを同じこととして主張するのが高森会長のトリックです。
2009-07-30
【質問】
ご親切にさらに詳しいコメントをいただき感謝いたしますm(__)m。
あの、もうすこし教えていただいてもいいでしょうか?
浄土真宗では往生のための善はやっても意味がないというふうに理解していいのでしょうか?
また、善に励むほど法鏡に照らされて真実の自己が知らされるときかされてきましたが間違いなのでしょうか?
【回答】
善導大師、法然上人は、善を捨てて、念仏を称えなさい、と仰っておられます。
親鸞聖人、蓮如上人は、善ではなく、聴聞をしなさい、と仰っておられます。
善知識方が、往生のために善をせよ、と仰っていないことを、どのように理解されますか?
『選択本願念仏集』には、
諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。
もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。
もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。
しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。
もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し
。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。
しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。
とあります。善のできるほんの一握りの善人のために建てられた本願ではないということを法然上人は仰っています。
善ができると固く信じて、18願をとても受け入れることのできない善人は、19願を実践される方がよいかもしれません。
先日の降誕会で、親鸞聖人の比叡山での御修行によって、機の深信が知らされて救われた、という話がありましたが、過去に命懸けで修行をされた方は、親鸞聖人だけではないでしょう。しかし、それらの人達が、善のできない自分であったと知らされたでしょうか。知らされていなから、浄土仏教に帰依せず、浄土仏教を非難したのではないでしょうか。
求道者の心構えについて、親鸞会でも有名な香樹院師は、以下のように教えられています。加藤智学編『香樹院講師語録』より
禅僧弘海曰く。予かつて師に問う、
私、浄土真宗の教えに帰し、
御講師に随い聴聞いたせども、
未だ心に聞え申さず、如何致すべく候や、と。
師の仰せに、
汝まづ聖教を熟覧せよ、と。
則ち命のごとく拝見候いしが、文義はわかれども、
我が出離にかけて思えば、往生一定ならず。
再び、如何せんと問い参らす。
師曰く、よく聞くべし、と。
予聞いて云わく、
よく聞くとは如何聞くべきや。
師曰く、骨折って聞くべし。
予云わく、
骨折るとは、遠路を厭わず聞き歩くことに候や、
衣食も思わず聞くことに候や。
師曰く、しかり。
予また問うて云わく、
しからば、それほどに苦行せねば聞えぬならば、
今までの禅家の求法と何の別ありや。
師呵して曰く、
汝法を求むる志なし、いかに易行の法なりとも、
よく思え、今度佛果を得る一大事なり。
しかるに切に求法の志なき者は、
これを聞き得ることをえんや、ああうつけ者かな、と。
予云わく、
しからば身命を顧みぬ志にて、聞くことなりや。
師曰く、
もっともしかり。切に求むる志なくして、
何ぞ大事を聞きえんや。
また曰く、常に絶え間なく聞くべし、と。
予問い参らするよう、
それはその志にて聴聞つかまつれども、
法縁の常になきを如何致すべきや、と。
師その時に、
何ぞ愚鈍なることを云うぞ。法話なき時は、
聞きたることを常に思うべし。
聞く間ばかり聞くとは云わぬぞ。
また曰く、
汝眼あり、常に聖教を拝見すべし、
これまた法を聞くなり。
もしまた世事にかかりあい、聞見常に縁なき時は、
口に常に名号を称すべし、これまた法を聞くなり。
汝信を得ざるは業障の故なり。
さればいよいよ志を励まし、かくの如く常に心を砕き、
よく聞けよ。信を得る御縁は聞思に限るなり、と。
予問うて云わく、
法話を聞くことと、
自ら聖教を読んで我が耳に聞くということとは、
有り難く承りぬ。ただ、念佛するを聞くと申すは、
われ称えて我が声を聞くことに候や。
師大喝して曰く、
汝何事をか云う。我が称える念佛というものいづこにありや。
称えさせる人なくして、罪悪の我が身何ぞ称うることをえん。
称えさせる人ありて称えさせ給う念佛なれば、
そもそもこの念佛は、何のために成就して、
何のためにか称えさせ給うやと、心を砕きて思えば、
即ちこれ常に称えるのが、常に聞くのなり、と。
予、この一語心肝に徹し、はっと受けたり。
心に思うよう。
我至成佛道、名聲超十方、究竟靡所聞、誓不成正覚。
また第十七の願に、我が名を諸佛にほめられんとの誓いは、
名号を信ぜさせんとの御意なり。
かつまた、常に聞くと申すことは、
ただ法話のみを聞くことと思いしは誤りなりき。
あわれ、志の薄かりしことよと恥ぢ入り、
今まで禅門において、知識より、
汝今をも知れぬ命なれば、昼夜十二時思惟して、
この公安を拈底せよ、しばらくも忘るることなかれ、
と云われしことを思い浮かべ、
聞思して遅慮するなかれ、との祖訓を、
見聞集に尽したまいしことを感悟し、
それより常に法話なき時は聖教を拝聴し、
朝夕は『大經』、『正信偈』、『和讃』、『御文』を拝読し、
また常恒に念佛を拝聴し奉るに、
われ今称うる念佛には、御主ありて称えさせ給うなり。
しかればただ称えさせるを詮としたまわず。
称えさせ給うは、助け給わんために、
一声をも称えさせて下さるることよと思えば、
それより称えることについて、
尊く称えさせてくださるる身となりしなり。
このこと今に耳にありて、忘るる能わず、
と申されけり。
聴聞の心構えについて述べられた後、日頃すべきことを
法話を思い出す、聖教の拝読、念仏を称えよとあります。諸善の勧めはありませんね。
親鸞聖人は三願転入したと仰っていますが、皆も自分と同じように三願転入せよ、とは仰っていません。蓮如上人の『御文章』のどこを読んでも、三願転入した、とか、三願転入せよ、とは書かれていません。
浄土真宗の教えを正しく学んでください。