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2010-08-12

一切衆生は必堕無間なのか11(化土往生について)

飛雲」というブログで、親鸞会教義の誤りが次々と明らかにされています。親鸞会も相当に焦っている様子です。親鸞会の痛いところを的確に突いているからです。

私のブログでは、親鸞会教義の誤りの中でも重要な3つの項目に絞って述べてきました。大筋は述べてきたつもりですので、細かい点は「飛雲」を御覧頂くのがよいと思って更新を敢てしてきませんでした。

過去に書いたことも踏まえて、少し補足したいと思います。

飛雲」には、化土についての豊富な根拠が紹介されていますので、別の根拠をだします。

『歎異抄』第11条


 誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまゐらせて生死を出づべしと信じて、念仏の申さるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆゑに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらに異なることなきなり。つぎにみづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて申すところの念仏をも自行になすなり。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢・疑城胎宮にも往生して、果遂の願(第二十願)のゆゑに、つひに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなはち、誓願不思議のゆゑなれば、ただひとつなるべし。

現代語訳を示せば

阿弥陀仏は、 誓願の不可思議なはたらきにより、 たもちやすく称えやすい南無阿弥陀仏の名号を考え出してくださり、 この名号を称えるものを浄土に迎えとろうと約束されているのです。 だから、 まず一つには、 大いなる慈悲の心でおこされた誓願の不可思議なはたらきにお救いいただいて、 この迷いの世界を離れることができると信じ、 念仏を称えるのも阿弥陀仏のおはからいであることを思うと、 そこにはまったく自分のはからいがまじらないのですから、 そのまま本願にかなって、 真実の浄土に往生するのです。
これは、 誓願の不可思議なはたらきをひとすじに信じれば、 名号の不可思議なはたらきもそこにそなわっているのであり、 誓願と名号の不可思議なはたらきは一つであって、 決して異なったものではないということです。
次に、 自分の勝手なはからいから、 善と悪とについて、 善が往生の助けとなり、 悪が往生のさまたげとなると区別して考えるのは、 誓願の不可思議なはたらきを信じないで、 自分のはからいで浄土に往生しようと努め、 称える念仏をも自分の力でする行とみなしてしまうことです。 このような人は、 名号の不可思議なはたらきも信じていないのです。 しかし、 信じてはいないけれども、 念仏すれば辺地・懈慢界・疑城胎宮などといわれる方便の浄土に往生して、 果遂の願により、 ついには真実の浄土に生れることができます。 それは名号の不可思議なはたらきなのです。 このことはそのまま誓願の不可思議なはたらきによるのですから、 この二つはまったく一つのものなのです。



となります。

第17条には、


信心かけたる行者は、本願を疑ふによりて、辺地に生じて疑の罪をつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまはり候へ。信心の行者すくなきゆゑに、化土におほくすすめいれられ候ふを、つひにむなしくなるべしと候ふなるこそ、如来に虚妄を申しつけまゐらせられ候ふなれ。

現代語訳は

信心の欠けた念仏者は、 阿弥陀仏の本願を疑うことにより、 方便の浄土に往生し、 その疑いの罪をつぐなった後、 真実の浄土においてさとりを開くとうかがっております。
本願を信じて念仏するものが少ないので、 仮に方便の浄土に多くのものを往生させておられるのです。 それが結局意味のないことであるようにいうのは、 それこそ浄土の教えをお説きくださった釈尊が嘘いつわりをいわれたと申しあげておられることになるのです。



また後序には


かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。

現代語訳は

幸いにも念仏する身となりながら、 ただちに真実の報土へ往生しないで、 方便の浄土にとどまるのは、 何と悲しいことでしょう。 同じ念仏の行者の中で、 信心の異なることがないように、 涙にくれながら筆をとり、 これを書いたのです。 「歎異抄」 と名づけておきます。


このように、『歎異抄』には、化土について何回も書かれています。それどころか、自力念仏者が多く、化土往生の者が多いことを嘆いて著したのが『歎異抄』だといわれているのです。『歎異抄』と化土とは切っても切り離せない関係があるのです。

ところが化土往生を説く『歎異抄』は、親鸞会にとっては許し難い”邪義”の書である筈ですが、なぜか『歎異抄をひらく』という書物には、化土往生の”邪義”について全く触れていません。一切衆生必堕無間を根底から覆す”邪義”である筈なのに、それを正さないのはどういうことであるのか、答えは簡単です。
親鸞聖人も自力念仏者の化土往生について至る所で仰っているからです。化土往生を否定したら、親鸞聖人の仰せを否定することになるからです。かとって化土往生を認める訳にもいかないので、触れないという結論に至ったのだと分かります。

親鸞会のブログを見ると、極重の悪人は念仏を称えることができないとびっくりするようなことを書いていますが、阿弥陀仏、釈尊、七高僧方が難行である諸善ではなく、易行の念仏を極重の悪人に勧められているのも知らないとは、ただただ絶句です。その念仏を称えている人にも、20願自力念仏の人と18願他力念仏の人がいると親鸞聖人が特別に力を入れられて峻別せられたのではありませんか。

20願自力念仏の人は、真実信心が欠けているから化土往生になるので、真実信心を獲て18願他力念仏者になって報土往生をしてくれよ

そればかり御著書に書かれてあるといっても過言ではないでしょう。自力念仏者がいないのならば、親鸞聖人が明らかにされた信心正因称名報恩の教えも理解できません。だから、信心正因称名報恩を否定した信楽教授の論文を引っ張り出してきても何とも思わないのです。

念仏を称えることが我々にはできないと言い出したら、浄土仏教でも聖道仏教でもありません。聖道仏教でも称名念仏を教え勧めています。

以前にも紹介しました加藤智学編『香樹院講師語録』には、


綾五郎、命終に臨んで尋ねて曰く。
私、生涯御法を聞き、
この頃は日夜に六万遍の念佛を申して日課にいたし、
本願を心にかけ居り候えども、
信心なくば、空しく三悪道へ帰ると仰せらるるを思えば、
誠に嘆かわしく候、と。

予、これに答えて云う。
念佛を多く申して佛に廻向するさえ、
佛しろしめして辺地の往生を遂げしめ給う。
まして念佛申し本願に心をかけ、
そのうえ信の得られぬことを悲しんで、
加被を待つ。これ辺地の往生疑いなし、と。

また問うて云うよう。
何ぞ本願を疑うもの、辺地に往生するや。
信を得ぬは、疑いと承り居り候。

答。
これ如來の御誓いなり。

淨土和讃の初めに、

弥陀の名號となへつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
佛恩報ずるおもひあり

との給う。これ報土往生の人なり。次に、

誓願不思議をうたがひて
御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳
むなしくすぐとぞときたまふ

とあり。これ化土往生の人なり。

なにも悲しまずに、喜びて念佛すべし。
予も老年ゆえ、追っ付け淨土にて御目にかかるなり。
化土は五百歳永きようなれども、実にわづかの間なり、
と申しければ、
さてはかかる機なれども、辺地の往生を遂げしめて、
終には弥陀の真実報土に生れさせ給う御慈悲なれば、
たとい千年万年でも如來の御はからいなり、と、
たちどころに弘願に入り、めでたく往生いたされき。

右、日々六万遍の称名は、
臨終の両三日より初めて申せしなり。
かような人は、他には一人も見ず。
これを思うに、信は宿善開発にあらざれば、
得ること能わずと見えたり。
本願を心にかけ念佛せん人、
辺地の往生を遂げしめ給う御慈悲なれば、
身心を投げ込んで聞けば、信は得ずとも念佛申す御徳にて、
悪道に堕ちぬことなれば、命限り疑いのはるるまで求めて、
聞きとげずばおくまいと、勇み励んで聞き求むべし。
このたび本願に値い、生涯法に身を入れても、
少しも損のなきは聞法の利益なり。



とあります。親鸞会の好きな香樹院師も自力念仏者の化土往生を言われています。
当たり前のことであって、このことで香樹院師を親鸞会が非難したと言うことも聞いたことがありません。

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2010-02-28

宿善とは8

前回二河白道の譬喩について述べましたが、思ったよりも反響がありまして、もう少し詳しく知りたいとの御要望も頂きました。

二河白道の譬喩は、『教行信証』信巻ほか、『浄土文類聚鈔』『愚禿鈔』にも書かれていますし、『一念多念文意』『高僧和讃』『御消息集』にも話題にされるほど、親鸞聖人が重要視なされたものです。

詳しい解説を聞くよりも、皆さんが原文を実際に読まれて、どういう意味かを理解することが大事だと思います。私の解釈と高森会長の解釈の違いと単に片付けられて終わってしまっては残念ですので、皆さんが確認してみて下さい。

以下に喩え話の部分を『教行信証』信巻に引かれたものと、その現代語訳を載せます。

たとへば人ありて、西に向かひて行かんとするに、百千の里ならん。忽然として中路に見れば二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りてこの人を殺さんとす。死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言すらく、〈この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死せんこと疑はず。まさしく到り回らんと欲へば、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せんことを〉と。時にあたりて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。

この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。

この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。




現代語訳(浄土真宗教学研究所編『顕浄土真実教行証文類−現代語版−』より)


ここに一人の人がいて、百千里の遠い道のりを西に向かって行こうとしている。その途中に、突然二つの河が現れる。一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河と火の河の問に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。
この道の東の岸から西の岸までの長さも、また百歩である。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり少しも止むことがない。

この人が果てしない広野にさしかかった時、他にはまったく人影はなかった。そこに盗賊や恐ろしい獣がたくさん現れ、この人がただ一人でいるのを見て、われ先にと襲ってきて殺そうとした。
そこで、この人は死をおそれて、すぐに走って西に向かったのであるが、突然現れたこの大河を見て次のように思った。『この河は南北に果てしなく、まん中に一すじの白い道が見えるが、それはきわめて狭い。東西両岸の間は近いけれども、どうして渡ることができよう。わたしは今日死んでしまうに違いない。東に引き返そうとすれば、盗賊や恐ろしい獣が次第にせまってくる。南や北へ逃げ去ろうとすれば、恐ろしい獣や毒虫が先を争ってわたしに向かってくる。西に向かって道をたどって行こうとすれば、また恐らくこの水と火の河に落ちるであろう』と。こう思って、とても言葉にいい表すことができないほど、恐れおののいた。そこで、次のように考えた。『わたしは今、引き返しても死ぬ、とどまっても死ぬ、進んでも死ぬ。どうしても死を免れないのなら、むしろこの道をたどって前に進もう。すでにこの道があるのだから、必ず渡れるに違いない』と。

こう考えた時、にわかに東の岸に、《そなたは、ためらうことなく、ただこの道をたどって行け。決して死ぬことはないであろう。もし、そのままそこにいるなら必ず死ぬであろう》と人の勧める声が聞えた。また、西の岸に人がいて、《そなたは一心にためらうことなくまっすぐに来るがよい。わたしがそなたを護ろう。水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな》と喚ぶ声がする。

この人は、もはや、こちらの岸から《行け》と勧められ、向こうの岸から少しも疑ったり恐れたり、またしりごみしたりもしないで、ためらうことなく、道をたどってまっすぐ西へ進んだ。そして少し行った時、東の岸から、盗賊などが、〈おい、戻ってこい。その道は危険だ。とても向こうの岸までは行けない。間違いなく死んでしまうだろう。俺たちは何もお前を殺そうとしているわけではない〉と呼ぶ。しかしこの人は、その呼び声を聞いてもふり返らず、わき目もふらずにその道を信じて進み、間もなく西の岸にたどり着いて、永久にさまざまなわざわいを離れ、善き友と会って、喜びも楽しみも尽きることがなかった。



如何でしょうか。

ポイントをピックアップしてみましょう。

二河おのおの闊さ百歩
二つの岸あひ去ること近し


東の岸と西の岸は、僅かに百歩で、近いことを示されています。中国の長江のように向こう岸が見えない河ではありません。
ちなみに

南北辺なし

を東の岸から西の岸が見えないと勘違いしているのでしょう。方角が違います。

われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、

これは所謂三定死と呼ばれる部分です。親鸞会では白道の中間でこの心境になると教えていますが、原文では東の岸にいる時です。

高森会長の師匠であった伊藤康善師の『仏敵』には、


だれでもその関所を通るのです。今が、二河白道の真ん中へ出た味です。前へ進むには進まれず、後へ帰るには帰られず、じっと止まるにも止まられずという三定死の苦しいところです・・・が、今しばらくの辛抱です。この聞信の一念は、弥勒菩薩などが行われる百大劫の修行の代わりですからね・・・


とありますので、高森会長はこれをそのまま信用して今の話を創り上げたのだろうと思われます。

前回述べたように、白道は他力の信心ですので、

われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし

と心が定まって白道に乗った時が捨自帰他です。

しかし白道に乗っても、四五寸の白道は巾が広くなる訳でもなく、

その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

という状態も変わっていません。東の岸にいる時と白道を進んでいる時とは、表面的にはほとんど変わっていないのです。つまり信心決定しても、劇的な変化があるものではないということです。

親鸞会でも有名な『一念多念文意』のお言葉


「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。


は、信後の人のことを説明されたものですので、救われても臨終まで煩悩は何も変わらないのです。

信前信後の違いは、白道に対して「すでにこの道あり、かならず可度すべし」と決定して乗ったか乗らないかの違いであり、自力を捨てて他力に帰したかどうかの違いです。驚天動地の神秘的な体験の有無の違いではありません。

高森会長の獲信体験には


はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。


とありますが、二河白道の喩と矛盾しないものです。現在、高森会長が主張しているような一念覚知的な安心とは異なっています。

なお、当然のことですが、東の岸で善を修するような内容は全く書かれていません。

最近、善の勧めの非難に対する内輪向けの反論が、


善を捨てよということは、善をしてそれで助かろうとする自力の心を捨てよということだ

と繰り返し言っています。親鸞会が怯えていることが感じられますが、

法施も財施も、獲信とは何の関係もないので、善をして信仰が進むことはありませんし、宿善の厚薄は全く問題になりません

と言わないところが、大問題です。


次回の法話の演題が「二河白道」と聞きました。

会員も、そして高森会長も予習になりましたでしょうか。
単なる揚げ足とりをしているのではありません。
喩え話が変わることで、善についての解釈がまるっきり違ってきますので、大変重要なところです。
当ブログを高森会長が読んでいると言われていますが、昔から知っていたような顔をして珍しき喩え話が修正されるのか、はたまた間違ったまま話をするのか、後日報告をお願いします。

『仏敵』が根本聖典の善知識様。

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2010-02-12

宿善とは7

ある現会員さんから以下の御意見を頂きました。

煩悩と戦って善をしていく求道が白道なんだから、それが宿善を求めていくことになるのではないですか。

とんでもない大間違いです。親鸞会では、二河白道の譬について善導大師、親鸞聖人の仰ったことと全く異なったことを平気で教えています。

『教学聖典(6)』にこんな問いと答えが記されています。

(問)
「二河白道の譬」は誰が創られたものか。
何を教えんがために説かれたものか。

(答)
○善導大師
○信心獲得するまでの求道の道程を示すため。


二河白道の譬を何も知らないのでしょうか。
善導大師は『散善義』の「回向発願心釈」の中で


いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。


と譬え話を説かれる理由を仰っています。信心守護の譬ですから、ここだけ見ても、信後のことを譬えられたことがお分かりになると思います。信心獲得するまでの求道の道程ではありません。

また

(問)
「二河白道の譬」について、次の問いに答えよ。
(1)彼岸とは
(2)此岸とは
(3)白道とは
(4)群賊悪獣とは
(5)火の河とは
(6)水の河とは
(7)西に向かって、とは

(答)
(1)弥陀の浄土
(2)娑婆世界
(3)求道心・信心
(4)求道聞法をさまたげるすべて
(5)怒りの心
(6)欲の心
(7)幸福を求めて


とありますが、これも原文を読まれれば、間違いは一目瞭然です。


次に喩へを合せば、「東の岸」といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。

「西の岸」といふは、すなはち極楽の宝国に喩ふ。「群賊・悪獣詐り親しむ」といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。「無人空迥の沢」といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。「水火二河」といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとく、瞋憎は火のごとくなるに喩ふ。「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。また「水波つねに道を湿す」といふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を染汚するに喩ふ。

また「火炎つねに道を焼く」といふは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

「東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む」といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらざれども、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ。すなはちこれを声のごとしと喩ふ。

「あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚ばひ回す」といふは、すなはち別解・別行・悪見人等妄りに見解を説きてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失するに喩ふ。

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。「須臾に西の岸に到りて善友あひ見えて喜ぶ」といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。

仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんといふに喩ふ。



とそれぞれに何を譬えられたのか解説しておられます。
この中で、親鸞会の教えていることと明確に違うところは「白道」と「西に向かふ」の2つです。

白道」について、「清浄の願往生心を生ずるに喩ふ」と仰っています。他力の信心のことです。
西に向かふ」とは、「もろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ」とあり、自力の行である諸善万行を捨てて、ただちに浄土に向かうことです。幸福を求めてなどという軽いものではありません。

高森会長の様なデタラメ解釈をする人が現れることを予想されて、親鸞聖人は「白道」について『教行信証』信巻で更に解釈しておられます。


まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。


まとめると
」=「選択摂取の白業、往相回向の浄業
」=「本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道

この反対として
」=「無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善
」=「二乗・三乗、万善諸行の小路

つまり
白道」=「能生清浄願心」=「金剛の真心を獲得する、本願力の回向の大信心海

と明言なされています。
更には『高僧和讃』


善導大師証をこひ
 定散二心をひるがへし
 貪瞋二河の譬喩をとき
 弘願の信心守護せしむ



と仰っています。
また『愚禿鈔』には


「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。


ともあります。
どこを探しても「白道」は信後の他力信心のことであって、信前の求道心の意味は全くありません。

正しい親鸞聖人の教えを明らかにせよというので、簡潔に書いておきます。
雑行である諸善、自力を捨てて他力に帰せよと親鸞聖人は教えられました。捨自帰他の真実信心を「白道」というのです。正しい「白道」を勧めるのが善知識です。往生のために諸善を修せよと「黒路」を勧める人を悪知識といいます。



『教行信証』を読んだことのない人物は、真宗学に疎いので間違えても仕方がないですが、万が一正しいことを知った上で「黒路」を「白道」と偽っているとすれば、大謗法罪です。
会員の皆さん、善導大師、親鸞聖人の教えられた通り「白道」を進むんで浄土へ往くか、悪知識に引き摺られて「黒路」を歩まされて火抗に堕ちるか。
どちらを選ぶか迷う必要がありますか。

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2010-01-29

宿善とは6

『教学聖典(5)』にある、

(問)
 「宿善」とはどんなことか、二通りの読み方を示せ。
 また宿善が厚くなる順から三つあげよ。
(答)
○「宿世の善根」とか「善が宿る」とも読む。
  (1)熱心な聞法
  (2)五正行の実践
  (3)六度万行の実践



が根本的におかしいことは、宿善とは2にも書きました。
真宗では信心決定するには、聴聞に極まるとは確かに教えられます。親鸞会の現会員、元会員の方ならば、その根拠もご存知のことと思いますが、この聴聞が最高の宿善になると考えるのは、とんでもない間違いです。

そのことを紅楳英顕師の『派外からの異説について』では、


 そもそも、真宗の「聞」とは、第十八願成就文の「聞其名号信心歓喜」の如
実の「聞」でなければならない。これは、第二十願の「聞我名号係念我国」の
「聞」とも峻別される他力の「聞」なのである。高森親鸞会の主張のように、
破邪顕正や財施等の自力の行と同列に扱うこと自体が、そもそも問題なのであ
る。この意味から、存覚上人は、
  聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たも
  ちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おも
  ひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりば
  かりもよりつかざるなり。
(『浄土見聞集』)
と述べられているのである。


とすでに指摘されています。
『教行信証』信巻には


しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。


とあります。
また『一念多念文意』には、


「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。


蓮如上人は『御文章』1帖目第15通


されば『経』(大経・下)には、「聞其名号信心歓喜」と説けり。「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。


と仰っています。
「聞」とは、疑いなくきいたことをいうのであり、それが信心なのです。「本願力回向の信心」には、自力の入り込む余地の全くないものですから、聴聞が宿善になるかどうかという次元の問題ではないのです。

では何を聞くのか。「仏願の生起本末」「本願の名号」ですから、18願を聞くのです。20願ではありません。ましてや19願である筈がないのです。
このことは前回紹介した『顕正』に書いてある通りで、「虎の説法」を聞くのです。「猫の説法」でも「鼠の説法」でもありません。念の為説明しておきますと、「虎」とは18願他力念仏のことです。「猫」は20願自力念仏です。私が「鼠」と加えたのは19願自力修善のことです。

『教行信証』行巻には、他力念仏について経典と七高僧方のお言葉を詳しく紹介なされていることはもちろんですが、多くの諸師方の著書からも引いておられます。


法相の祖師、法位のいはく(大経義疏)、「諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること決定して疑なし。称名往生これなんの惑ひかあらんや」と。


名号を称えることが仏の徳を讃えることになりますので、名号を称することで正定聚に至ることができるということです。


慈雲 遵式なり の讃にいはく(元照観経義疏)、「了義のなかの了義なり。円頓のなかの円頓なり」と。以上
大智 元照律師なり 唱へていはく(同)、「円頓一乗なり。純一にして雑なし」と。以上
律宗の戒度 元照の弟子なり のいはく(正観記)、「仏名はすなはちこれ劫を積んで薫修し、その万徳を攬る。すべて四字に彰る。このゆゑにこれを称するに益を獲ること、浅きにあらず」と。以上
律宗の用欽 元照の弟子なり のいはく、「いまもしわが心口をもつて一仏の嘉号を称念すれば、すなはち因より果に至るまで、無量の功徳具足せざることなし」と。以上



このように念仏の功徳を称えられた根拠を多く出されているのです。もちろんこの念仏は他力念仏のことです。修善については、捨てよとしか仰っていません。ですから、修善の勧めは獲信にとって何の役にも立ちません。
正しい教えと比較するために、間違った教えを紹介されたのが化土巻です。『教行信証』を要約された『浄土文類聚鈔』には、化土巻の内容がありません。そんな重要な教えを省略したとでも高森会長は説明しているのでしょうか。

最近高森会長はこんなことをいっているそうです。


親鸞会の説が間違いだと言うのなら、正しい親鸞聖人の教えを明示すればよいではないか


非難に対して執ようなまでに反撃した『顕正』を書いていた頃とは大違い、というよりも別人です。正しい親鸞聖人の教えを明示せよというのであれば、18願1つです。自分で書いていたではないですか、


教家は常に虎の説法をしなければならないのである。


と。これが正しい親鸞聖人の教えです。


「飛雲」というブログにこんなことが書かれてありました。


親鸞会で長年求めていながら、なぜ信心決定する人が現れないのか。会長の身内も、華光会時代に母親が信心決定したと言われているだけで、他の人は未信。次期会長の長男でさえも、以前に今年こそ信心決定しますと皆の前で決意発表をしながら、未だに信心決定したという報告を聞いたこともない。


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2010-01-21

宿善とは5

当ブログは、一般会員さんと退会された方向けでもありますが、本心は無二の善知識に向けて書いています。
私の気持ちを高森会長は察してくれたようです。

いつもの元会員さんが、コメント欄で教えて下さいました。

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親鸞会ブログポータル
http://親鸞会.com/?p=10004&cpage=1#comment-142
の「1月10日のテレビ座談会」のコメント欄に、
『内容が「宿善」の解説になるとは思っていませんでした。』
とのコメントがありました。
このブログで「宿善」が取り上げられた影響でしょうか?

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1月15日号の『顕正新聞』の「大喝」に以下のことが書いてあったそうです。


弥陀の本願を批判する者

「”善をしなければ信仰は進まない”と、なぜ『諸行往生』と誤解されやすいことを言うのか」 と非難する輩がいる。諸行往生とは”善をすれば助かる”という善慧房の主張である。それは体失不体失往生の諍論で、親鸞聖人が徹底破邪されたことである。本会をその諸行往生よばわりするのだからアキレるが、そんな者たちにはこう反問すればよい。「弥陀が十九願を建てられたのが、誤解されやすい元凶なのか」と。
十九願は修諸功徳の願といわれ、善のお勧めだ。目的は”唯除逆謗”と知らせ”若不生者”と救い摂る、十八願へ導くためのご方便であると聖人は教えられている。
「諸善万行ことごとく 至心発願せるゆえに
 往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり」
諸善を「間違いやすいから説くな」の非難は、「誤解されやすい本願を建てるな」と弥陀に楯突き、文句を言っているのだ。それだけではない。十九の願意を開かれ修善を勧められた釈迦一代の教えを”誤解の元凶”と謗法し、仏教を否定する暴言でもある。外道と言われて当然であろう。



当ブログの読者の皆さんには、このトリックがお分かりと思います。ここで再度説明しなくてもこれを書いた本人が、自分の間違いを指摘しています。
これも、いつもの会員さんが教えて下さいました昭和33年発行の高森顕徹著『顕正』には、



 然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
 勿論、機には未熟の者もあるから、いくら信心正因、称名報恩、信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧めても、直にその通りになれない人もあろうけれども、それは機の過失であって法門は常に信因称報の仏意を説き示さなければならない。
 喩えば、虎の手本をみて虎を描こうと思っても、どうしても最初の間は虎ではなく猫の絵になってしまうが、たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに本当の虎の絵がかけるようになるように、手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或は定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
 或る画家が弟子に虎を描かす為に虎の手本を渡した。ところが弟子のかいたものは、どうみても虎ではなく、猫の絵であった。画家は再三描かせてみたが、やはり猫しか書けなかった。そこで師匠は虎をかゝせることをあきらめて猫の手本をわたした。その弟子は一生猫より描くことが出来なくなったという。
 未熟な人に合せて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて信心を得る方法には称名せよなどと教えればあたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。故に教家は常に虎の説法をしなければならないのである。


とあります。
自分の教えていることの辻褄くらいあわせてほしいものです。これは主に20願について会長が言っていることです。半世紀前の会長には
「弥陀が二十願を建てられたのが、誤解されやすい元凶なのか」
と反問すればよいことを「大喝」では言っています。

20願でさえこうですから、その前の19願については尚更です。

昭和33年といえば親鸞会を設立した年です。半世紀という時間が、かつての自分を


諸善を「間違いやすいから説くな」の非難は、「誤解されやすい本願を建てるな」と弥陀に楯突き、文句を言っているのだ。それだけではない。十九の願意を聞かれ修善を勧められた釈迦一代の教えを”誤解の元凶”と謗法し、仏教を否定する暴言でもある。外道と言われて当然であろう。


と、外道とまで言い切ってしまうまでに変化させたのです。時代にあわせて教えが変わるのは当然だ、とは高森会長でもまさか言わないでしょう。


前回書いた内容で言えば、蓮如上人が「まず宿善・無宿善の機を沙汰すべき」と仰っていますが、半世紀前の高森会長は「宿善の機」と思えますが、現在は「無宿善の機」です。
「宿善の機」には、「常に虎の説法をしなければならない」と蓮如上人は教えておられます。もちろん親鸞聖人も、「常に虎の説法」しかしておられません。

虎を描きたいと弟子入りした人に、猫どころか鼠の手本をわたしてどうするつもりでしょうか。

これについての弁明を、また「大喝」にでも書いて下さい。お待ちしています、無二の善知識様。

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2010-01-14

宿善とは4

これまでの3回にわたって、宿善の厚薄について、親鸞会が如何におかしな解釈をしているか述べてきました。宿善という言葉を、覚如上人、蓮如上人は、他のところでも使っておられますので、それと併せて、宿善の意味をみてみたいと思います。

『口伝鈔』には、前々回挙げた第4章の、


宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。


とは別の意味で、第2章に宿善について書かれています。


十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。


ここでの宿善は、第4章とは意味が異なっています。第4章では、過去世に行ってきた善、宿世の善根という意味で使われていますが、この第2章では宿善のある人を、「浄土教を信受する機」、つまり阿弥陀仏の18願を信じられる人としています。この2つは同じと親鸞会では考えているようですが、違います。
今生に善をこのみ悪をおそる」という「宿善あつきひと」であっても、「この教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし」の人は、「宿福なきもの」になります。その逆で、「今生に悪をこのみ善にうとし」の人でも、「今生にこの教にあうてまさに信楽す」人は「過去の宿善あつきもの」になります。
具体的にいえば、法然上人を激しく攻撃した聖道仏教の学僧達は、「今生に善をこのみ悪をおそる」人達の代表といえるでしょう。いい加減な者もいたかもしれませんが、多くは真面目に修善に励んできたなればこそ、善を否定された法然上人を許すことができなかったのです。彼らは、過去、そして今生でも六度万行等の善を我々よりも遥かにしてきたと思われますが、阿弥陀仏の18願を信じることは到底できませんでした。彼らは宿世の善根は厚くても「宿福なきもの」になります。その反対で、五逆を犯した阿闍世は、「今生に悪をこのみ善にうとし」ですが、救われていますので、「過去の宿善あつきもの」です。

ですからこの第2章でいわれている宿善は、あくまで阿弥陀仏のお育てによって、18願を信じられる機であるかどうかという意味であり、それを覚如上人は宿善の有無として仰っているのです。

蓮如上人のお言葉については、親鸞会では『教学聖典』等にも『御文章』からいくつか挙げられています。

一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。2帖目第11通


それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。
3帖目第12通


されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。
しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。
4帖目第1通


あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。4帖目第15通


これ以外にも宿善という言葉を使った箇所はまだありますが、どれも宿善の有無について問題にされたものです。18願を信じられる人と信じられない人との違いが問題であって、親鸞会でいう宿善の厚薄を問題にされたところはありません。
『口伝鈔』第2章も、『御文章』も、18願を信じられない人は、たとえ宿世の善根が厚くとも、誹謗するだけで謗法罪を造ることになりますから、そんな無宿善の人には話をしてはいけないと仰っています。

この無宿善の人のために説かれた教えが、権仮方便なのです。無宿善の人が多いから、釈尊は聖道仏教を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられたのです。
ですから18願を信じて求める宿善のある人に、善を勧める必要はないのです。宿善の薄い人は、宿善を厚くしてからでないと真実に入れないなどとは、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の仰せと全く違うことがお分かり頂けるでしょう。

これは単に解釈の違いで済まされることではないのです。学問上のことを論じているのではありません。宿善のある人が、信心決定できない最大の障碍が、宿善の厚薄を問題にして善を勧める邪義です。
親鸞会の会員が、なぜ信心決定できないのか。それは善を勧めて阿弥陀仏一仏に向かわせないように仕向けている高森会長が、18願を誰も救われない絵に描いた餅にしてしまったからです。だから、30年、40年聞いたくらいでわかるものではないという高森会長の発言は筋が通ります。

『親鸞聖人御消息』に、


弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまゐらせて、仏恩を報じまゐらせんとこそおぼしめすべきに、念仏をとどめらるることに沙汰しなされて候ふらんこそ、かへすがへすこころえず候ふ。あさましきことに候ふ。ひとびとのひがざまに御こころえどもの候ふゆゑ、あるべくもなきことどもきこえ候ふ。申すばかりなく候ふ。ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。


と書いておられます。親鸞聖人は関東の同行に宛てたお手紙の中で、
「遇いがたい阿弥陀仏の本願に遇わせせて頂き、仏恩に報いようと思わなければならないのに、念仏を妨げようとすることは、全く理解できないことであり、浅ましいことです。間違って理解している人達がいますので、あってはならないことが聞こえてくるのです。念仏の人といいながら、間違ったことを教えている人こそが、地獄に堕ち、天魔になるのです。すべての念仏者の罪になるのではないと思います。」
と仰っています。


親鸞聖人が"地獄に堕ちる"と仰っているのは、誰のことでしょうか。お前たちは一人残らず無間地獄に堕ちると説き、獲信のための善を勧めて念仏を妨げている人物のことです。会員さんのことではありません。

当ブログ読者の皆さんは、阿弥陀仏の18願を信じて求めている宿善のある方です。天魔の教えに迷われることなく、親鸞聖人の正しい教えを正しく聞いて下さい。そうすれば必ず信心決定できるのです。
もし、これだけいっても御理解頂けず、天魔を信じられるのであれば、残念ですが無宿善の人と言わざるをえません。

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2010-01-09

宿善とは3

『御一代記聞書』の中に、宿善について記された以下の箇所があります。


一 他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。(234)


ここでは、「宿善」を「信心をうる」という意味で使われています。

「宿善」は、親鸞聖人が御著書の中で使われたことのない言葉ですから、その時々の文章によって宿善の意味が異なることがあるようです。一般的には、宿世の善根という意味で使われますが、浄土真宗ではほとんどが、阿弥陀仏のお育てと理解され、自力的意味を排除されます。

このことを踏まえた上で以下を読んでください。


親鸞会で、宿善を厚くせよ、宿善を求めよ、と教えている根拠が、『教学聖典(5)』に載っています。

(問)
 「宿善に厚薄あり」と言われた蓮如上人のお言葉と、
 その根拠を示せ。
(答)
○宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり、
 弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く
 開くる人もあり。
              (御一代記聞書)


この全文は以下の通りです。


一 陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。(307)


このお言葉は蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛されました『安心決定鈔』にあるお言葉を言い換えられたものです。『御一代記聞書』には、『安心決定鈔』からの引用が多数あります。
ここの関連部分を、説明の都合上前後も含めて紹介します。

『安心決定鈔』本

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。


『安心決定鈔』のこれらの部分は、阿弥陀仏が十劫の昔に、本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについて書かれたものです。『御一代記聞書』のこの部分は『安心決定鈔』を受けられて記されたのは間違いないでしょう。内容は同じです。

『御一代記聞書』の「已今当の往生あり」のところが、『安心決定鈔』では


すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり

已・今・当の三世の往生は不同なれども



ですので、
『御一代記聞書』の「宿善も遅速あり」は、『安心決定鈔』の


仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり



に当ります。「ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に


昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり


とありますので、「宿善」とは、信心のことを指していることがお分かり頂けると思います。冒頭の『御一代記聞書』の「宿善」と共通するものです。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、


弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり



に、そのことが明確に解説されています。ですから、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

親鸞会で教えているように宿善の厚薄について教えられたものではありませんし、ましてや宿善を厚くするようにという意味はどこにもありません。
『御一代記聞書』にも『安心決定鈔』にも、善を勧められたところは皆無です。勧められていることは、


信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなり


です。前回申し上げたように聴聞を自力と理解することは、親鸞聖人、蓮如上人の御心に反します。



明らかに善を否定されているにも関わらず、これが善を勧めた蓮如上人の根拠と理解しているとすれば、何ともお目出たいことです。『御一代記聞書』と『安心決定鈔』との関係について知らないことは、仕方がないでしょう。その程度の力しかないのですから。しかし、『御一代記聞書』だけ読んでもこんな無茶苦茶な珍説になりません。

このような人物の邪説を指摘することくらい、優秀な頭脳を持った会員さんならば、さほど難しくないと思います。あとは、確かめようとする気を起こすかどうかです。

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2010-01-03

宿善とは2

前回、親鸞会が断章取義している『唯信鈔』の、


宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。


について書きました。
これと同じことを書かれたものが、『口伝鈔』第4章にあります。


宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。


ここでは宿善と宿悪というお言葉で表現なされています。
これは『口伝鈔』第4章全体を読まれれば、ここで聖覚法印と覚如上人の仰りたいことがよく分かると思います。全文は少し長いので以下に抜粋します。


一 善悪二業の事。
(中略)
しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ。
 ここをもつて光明寺の大師(善導)、「言弘願者 如大経説 一切善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁也」(玄義分)とのたまへり。文のこころは、「弘願といふは、『大経』の説のごとし。一切善悪凡夫の生るることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗りて増上縁とせざるはなし」となり。されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。
(中略)
善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし。



これでお分かりと思いますが、覚如上人は、

宿善あつきひと=善人
宿悪おおきもの=悪人

という意味で使っておられます。

悪もおそろしからずともいひ善もほしからず
かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからず
善もたすけとならず、悪もさはりとならず


つまり、阿弥陀仏の本願は、善人悪人関係なく救うということをここで教えておられるのです。もちろん善をせよという意味もありません。
これを踏まえて『唯信鈔』のお言葉を読まれれば、やはり同じことを教えられているとご理解頂けると思います。

『唯信鈔』ならば

宿善あつきもの=善人
宿善すくなきもの=悪人

ということです。

親鸞会で教えているように、宿善薄い人は厚くなるようにしなければならないというのは、悪人は善人にならなければ救われないといっているのと同じことになるのです。
親鸞聖人が『教行信証』信巻で、五逆罪を犯した阿闍世でも救われることを『教行信証』全体の1割も費やして教えられた御心を根底から覆すことになります。
そのことは
一切衆生は必堕無間なのか4
一切衆生は必堕無間なのか5
一切衆生は必堕無間なのか6
に書きましたので、時間のある方は読んで頂けるとより理解しやすくなります。

また『歎異抄』第1条


弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々。


の意味もまるっきり分かっていないのが親鸞会です。

このように書けば、親鸞会では善人になれといっているのではない、と反論があるでしょうが、『唯信鈔』のお言葉を用いて、宿善を厚くせよと言っている時点で、善人にならなければ救われないと主張していることなのです。
私たちのやった善は、獲信とよい関係になるのだ、と更に聖道仏教的な屁理屈をいうでしょうから、その邪義についても、覚如上人は次の第5章で完璧に破邪しておられます。


一 自力の修善はたくはへがたく、他力の仏智は護念の益をもつてたくはへらるる事。

 たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。ゆゑは六賊知聞して侵奪するがゆゑに。念仏においては、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」と等釈せらるれば、凡夫自力の善にあらず。まつたう弥陀の仏智なるがゆゑに、諸仏護念の益によりて六賊これを犯すにあたはざるがゆゑに、出離の資糧となり、報土の正因となるなり。しるべし。



親鸞会に当て填めれば、どれだけ法施、財施をしようとも、宿善として蓄えられて、獲信のもといとならないのです。それに対して念仏は、凡夫自力の善ではなく、すべて阿弥陀仏のお力ですから、報土の正因となるのです。自力の入り込む余地の全くないのが、他力です。この念仏はもちろん他力念仏のことです。
親鸞会では聴聞も宿善になると理解しているようですが、自分が聴聞したことで獲信できるとはとんでもない間違いです。
自力と他力の理解が根本的に狂っているのです。

『教学聖典(5)』には、

(問)
 「宿善」とはどんなことか、二通りの読み方を示せ。
 また宿善が厚くなる順から三つあげよ。
(答)
○「宿世の善根」とか「善が宿る」とも読む。
  (1)熱心な聞法
  (2)五正行の実践
  (3)六度万行の実践


とありますが、真宗とは全く無縁の論外な問答です。
これは以前に書いた親鸞会は諸行往生4で紹介しました、加藤智学編『香樹院講師語録』をもとにして、六度万行の実践を加えたものです。香樹院師は宿善を厚くする行為として教えられていませんし、もちろん善知識方の教えでもありません。ですから、この根拠を示すことは絶対にできません。高森会長の創作教義です。

親鸞会が、浄土真宗とか、親鸞聖人のお名前を使わなければ、単なる新興宗教と扱うだけですが、本当の親鸞聖人のみ教えを伝えている団体と大嘘を公言していることは絶対に許せません。


ネットでいわれているように、もし他人の著書を盗作したり、最高幹部の不倫を容認したり、偽装勧誘を指示するような十悪ばかりか、親鸞聖人の教えをねじ曲げる謗法罪を平気で造っているとすれば、「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」です。「宿悪おおきもの」の人物に、「宿善のあつきもの」になるよう、誰か勧めてあげてください。

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ジャンル : 心と身体

2010-01-03

宿善とは1

親鸞会教義の根本的な誤りは、経典と善知識方の聖教を素直に拝読すれば、誰にでもわかることです。

ただし善については、しないよりはした方がよいに決まっているという思いが誰にでもあります。そこに付け込んで、宿善という名目で善をすることが獲信とよい関係にあると親鸞会は会員に理解させているのです。この考えこそが自力で捨てよと教えられているものですが、高森会長は巧妙なトリックで邪義を説いているのです。

宿善については、紅楳英顕師の『派外からの異説について』を先入観を廃して読まれれば、親鸞会の間違いが分かるのですが、理解できない人も多いようですので、宿善について少し述べたいと思います。

まず、宿善ということについて親鸞聖人がどのように考えられていたのかを知るために、法然上人関係の文書から宿善について見てみます。

法然上人の「十二箇条問答」に


ある時には、我が身の、宿善を、喜ぶべし。賢き、卑しきも、人、多しと、言えども、仏法を信じ、浄土を、願う者は、希なり。信ずるまでこそ、かたからめ、謗り、憎みて、悪道の因をのみ、作る、しかるに、これを信じ、これを貴びて、仏をたのみ、往生を志す、これ偏に宿善の、しからしむる也。只今生の、励みに有らず、往生すべき、期の至れる也と、頼もしく、喜ぶべし。斯様のことを、折に従い、事によりて、思うべき也。


とあります。信じがたい浄土を願い往生を志すことができたのは、偏に宿善によるものと法然上人が教えられていたことを示しています。

また『法然上人絵伝』第二十七巻には、


武蔵国の御家人、熊谷の次郎直實は、平家追討のとき、所々の合戦に忠をいたし、名をあげしかば、武勇の道ならびなかりき。しかるに宿善のうちにもよをしけるにや、幕下将軍をうらみ申事ありて、心ををこし、出家して、蓮生と申けるが、聖覚法印の房にたづねゆきて、後生菩提の事をたづね申けるに、さようの事は法然上人に、たづね申ベしと申されければ、上人の御庵室に参じにけり。



とあり、熊谷次郎直實は、宿善があって後生菩提を尋ねる心をおこして、法然上人のところへ参ったと記されています。
これらは、『大無量寿経』の往覲偈にある


もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。
清浄に戒を有てるもの、いまし正法を聞くことを獲。
むかし世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、
謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。
驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。
宿世に諸仏を見たてまつりしものは、楽んでかくのごときの教を聴かん。



『観無量寿経疏 定善義』


もし人浄土の法門を説くを聞き、聞きてすなはち悲喜交はり流れ、身の毛為竪つものは、まさに知るべし、この人は過去にすでにかつてこの法を修習して、いまかさねて聞くことを得てすなはち歓喜を生じ、正念に修行してかならず生ずることを得。


を受けられて、宿善がある人が阿弥陀仏の本願を聞けるのであって、そんな人は稀であることを法然上人が教えられていたことが分かります。

更には親鸞聖人が尊敬されていた聖覚法印の『唯信鈔』には、


つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。



と教えられています。ここで言われていることは次の通りです。

宿善の薄い人と厚い人があるが、それは今生で善悪をしている有様でわかる。自分は善いことを行おうという心がなく宿善が薄いが、五逆罪を犯しておらず、阿弥陀仏の本願を深く信じさせて頂いている。五逆罪の者の十回の念仏が宿善によるものであって、我々の一生の念仏をもって宿善の浅いこととどうして思うのか。その考えが往生の妨げになっている。

つまり宿善の厚薄を問題にすることが間違いであると言われているのです。

この詳しい内容につきましては

「21世紀の浄土真宗を考える会」
宿善の厚薄 唯信鈔の言葉


に、分かりやすい解説がなされていますので、御参照下さい。

ところが驚くことに、この『唯信鈔』のお言葉を断章取義して、真逆の意味で利用しているのが親鸞会です。

親鸞会で使われている『教学聖典(5)』なるものには以下の問いと答えが載っています。

(問)
 宿善の厚き人と、薄き人との違いを教えられた『唯信鈔』の御文を示せ。

(答)
 宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。
 宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず


『教学聖典(5)』にある他の問いと答えから、このお言葉が、宿善の薄い者は、宿善を厚くするように勧められたかのような誤解を生じさせる悪質な設問です。


親鸞会は諸行往生12のところでも述べましたように、親鸞聖人は宿善という言葉を御著書の中では1度も使っておられません。親鸞聖人は、経典や善導大師、法然上人、聖覚法印のお言葉を踏まえられた上で、宿善を宿縁と敢て言い換えておられます。自力的な要素を徹底的に排斥されたのが親鸞聖人ということも述べてきました。

法然上人の教えを受け継がれ、『唯信鈔』を同行に読むように勧められた親鸞聖人が泣いておられるでしょう。


最近、当ブログの読者から、獲信の報告を頂きました。大変喜ばしいことです。獲信とは捨自帰他です。阿弥陀仏に救われた人は、これ以外にないことをこの方も含めて皆語られます。当然なことです。なぜならすべてが阿弥陀仏のお力によるものだからです。

たとえどんな理由を付けようとも獲信のために修善に励むことは、阿弥陀仏の本願に反する行為です。雑行を捨てるためには、雑行に励まなければならないなどという考えが、阿弥陀仏の救いから遠ざけているのです。
『唯信鈔』のお言葉で言えば、「小智は菩提のさまたげといへる」なのです。
親鸞会会員の獲信を妨げている最大の原因が、善の勧めでしょう。


宿善という言葉を悪用して、獲信のために諸善を勧めることは、謗法罪です。獲信するために修善を勧めている人は、捨自帰他を体験していない異安心であるか、あるいは他人に獲信してもらっては困る理由があるかのどちらかです。

獲信された方数人が、一年前に親鸞会から除名処分になったと聞いています。その理由は、明らかでしょう。

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2009-12-19

親鸞会は諸行往生13

法然上人が諸善を廃して念仏一行を立てられたこと、そのことによって聖道諸宗からの激しい非難があり、承元の法難が起きたこと、その聖道諸宗の非難に対する反論書が『教行信証』であったこと、更には『教行信証』化土巻で何を教えられているのかをこれまで述べてきました。
歴史的背景を踏まえられれば、『教行信証』化土巻でしか仰っていない三願転入の意味も御理解頂けると思います。

なお、奇しくも「21世紀の浄土真宗を考える会」で、同じテーマで述べられていますので、そちらも併せて読んで頂ければ、この後の部分がより分かりやすくなると思います。

「21世紀の浄土真宗を考える会」
浄土三部経と三願



18願、19願、20願は生因三願といわれます。衆生が浄土に往生する因について3通りあると親鸞聖人は解釈なされているのです。三願はそれぞれ独立したものということです。
生因三願と往生、『教行信証』の関係は以下の通りです。

18願──他力念仏往生(報土往生)──『教行信証』真仏土巻
19願──自力諸行往生(化土往生)──『教行信証』化土巻
20願──自力念仏往生(化土往生)──『教行信証』化土巻


また浄土三部経と生因三願の関係については

『大無量寿経』──18願意−他力念仏往生
『観無量寿経』──顕説(方便)19願意−自力諸行往生
         └─隠彰(真実)18願意−他力念仏往生
『阿弥陀経』──顕説(方便)20願意−自力念仏往生
        └─隠彰(真実)18願意−他力念仏往生


となります。
これまで繰り返し述べてきたように、親鸞聖人は19願、20願を誡めておられます。真仮廃立の教えです。これは、「雑行雑修自力のこころをふりすてて」と仰っている蓮如上人と同じ意味です。
親鸞聖人、また蓮如上人当時でも、聖道仏教が中心であり、聖道諸宗から、善を勧めないとは何事だ、との激しい非難があったのです。非難どころか迫害を受けるほど、当時の仏教界において法然上人、親鸞聖人の教えが異端と看做されていたことはご存知の通りです。

いつもの元会員さんがコメント欄で紹介されていました高森会長の教え

●はずがない(雑行)
 善行をやっていない人に、
「これだけ善をやっているのだから、死んでも悪い処へは行かないだろう」
(こんな心でやっている善行を雑行と言う)
などと言う心があるはずがない。
 そんな心のない人に
「その心(雑行)を捨てよ」
 といわれるはずもない。
 ないものを捨てよ、と言われるはずがないからである。
 善行をやっている人にのみ、雑行といわれるものがあるのである。


これでいうならば、仏教とは善を勧めたものである、というのが当時の常識中の常識でしたので、その考えが間違いであるから、獲信のためには雑行を捨てよ、と親鸞聖人、蓮如上人は教えられたのです。
同様に

●はずがない(雑修)

朝晩キチンとお勤めをし念仏称えていない人に、
「これだけ朝晩チャンとお勤めをし、これだけ念仏称えているのだから、死んでも悪い処へは行かないだろう」
(こんな心でやっている念仏を雑修という)
などと言う心があるはずがない。
こんな心のない人に
「その心(雑修)を捨てよ」
と言われるはずもない。
お勤めをチャンとし、念仏称えている人だけに雑修と言われるものがあり、また、雑修が廃ったということがあるのである。


これも、せっかく浄土仏教を信じながら、念仏を取り違えて自力念仏に留まっている人ばかりでありましたので、親鸞聖人、蓮如上人が20願、雑修を捨てよと仰ったのです。
時代背景を考えれば簡単に分かる非常に程度の低いトリックです。


また一方で親鸞聖人は、三願を従仮入真とみられているところがあります。
以前紹介しました『教行信証』化土巻・要門釈


しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。


とあります。19願とは、此土での修行成就を断念した聖道門の人に対して、浄土を欣い慕わせるために建てられた権仮方便の願と解釈されています。聖道仏教から真実18願へ調機誘引させるために、しばらく用いられるものであって、機が熟すれば廃して真実へ入れさせるということです。しかし19願に留まっていては化土往生しかできないので、親鸞聖人は19願を勧められることはなく、報土往生の18願に帰入せよ、とばかり仰っているのです。
それを親鸞聖人の体験を通して仰ったのが、三願転入の文なのです。
これも前々回紹介した三願転入の文の直前にある真門決釈


悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。


と親鸞聖人は仰り、阿弥陀仏が権仮方便をもって18願へ導かれた御恩を知らされ、長く方便の教えに迷っていたことを懺悔なされたのです。個人的なことを一切語られなかった親鸞聖人が、御自身のことを仰った唯一のところが化土巻です。
それは、自力で往生できるに違いないと堅く信じて、他力念仏での往生を願おうとしていない人に対して、早く方便を捨てよと御自身の体験を語られてまで厳しく誡められたのです。

以上のように歴史的背景と化土巻の流れからいえば、正しい従仮入真とは、高森会長のいう18願に入るためにまず19願から始めよと仰った意味である"はずがない"です。

『御消息集』では、関東の同行の中で造悪無碍の邪義が蔓延り、それを誡められたものが数多くみられます。親鸞聖人が関東で、19願や命懸けの修善を勧められていたとしたならば、このような邪義が蔓延る"はずがない"です。

七高僧方が、外道、小乗仏教、聖道仏教と迷われて、最後18願に帰入された体験から、外道、小乗仏教、聖道仏教から出発しなければ、方便が方便と知らされないと七高僧方が教えられる"はずがない"のと同じです。

『御一代記聞書』にある


前々住上人へ、ある人、申され候う。開山の御時のこと申され候う。「これは、いかようの子細にて候う」と、申されければ、仰せられ候う。「われもしらぬことなり。何事も何事も、しらぬことをも、開山のめされ候うように、御沙汰候う」と、仰せられ候う。(百五十九)


の文をもって、何事も何事も親鸞聖人のなされた通りにしなければならない、と語っている高森会長とは一体何者か。

一切衆生必堕無間も、善知識への無条件服従も、獲信のための善の勧めも、親鸞聖人と真逆のことを教えながら、よくもぬけぬけとこのようなことが平気な顔して言えるものです。

親鸞聖人を信じて報土往生を遂げるのか、高森会長を信じて地獄に堕ちても後悔しないと言い続けるのか。

判断するのは自分自身です。

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プロフィール

Author:ソイフル
親鸞会教義の誤りを正して、マインドコントルール下にある親鸞会会員が正しい真宗の教義を学ぶ御縁にして頂きたいと願う者です。

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