--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2009-07-30

親鸞会は諸行往生1

親鸞会は諸行往生と非難されていますが、それがその内容です。

Q、「諸行往生」とはどんなことか、一言で書け。また、それは正しいか、間違いか、答えよ。

A、諸善をすれば善のできない自分が知らされて救われるということで、間違い。
  例として、
  親鸞聖人の20年間の比叡山での御修行で、機の深信が知らされたという邪義。
  19願の入り口にも入っていない講師部員や、30年、40年求めたくらいでは
  分からないと教えられた親鸞会の会員は、この世では救われないから、親鸞会の
  求道は遠生の結縁と考えている邪義など。

  この世で救うという18願ではないので、明らかな間違い。

  参考までに、
  精一杯の財施をしなければならない、とか、善知識に絶対服従せよなどは、
  諸行往生でもない、カルトの教え。


親鸞会は体失往生ですから、諸行往生なのですね。
19願の善を実践して、善のできない自分であったと知らされることがいつあるのか?
19願の善を実践させるということは、長い長い時間が当然必要ですので、不体失往生ではないですよ。

諸行往生は間違い、と教えながら、諸行往生を目指していることを、会員は知るべきでしょう。

会長のトリックは巧妙なのです。

>   参考までに、
>   精一杯の財施をしなければならない、とか、善知識に絶対服従せよなどは、諸行往生でもない、カルトの教え。

これは、諸行往生の教えから派生した会長独自の教えです。

善のできない自分であったと知らされる財施とは、全財産を親鸞会に差し出せ、ということです。しかし、全財産を差し出して善のできない自分であると知らされると思いますか?

会長に絶対服従するには、人間をやめなければなりません。余りにも理不尽で、方向が頻繁に変更されますので、どの指示に服従するのでしょうか?犯罪も厭わない指示がこれまでいくつもありました。
全ての指示に服従するには、人間をやめるか、超人にでもならなければ無理です。

金集めと会長への絶対服従が、会員を苦しめ、不体失往生を妨げている最大の原因です。
スポンサーサイト

2009-07-30

親鸞会は諸行往生2

【質問】
下記の書き込みを読んで、困っています。
誰か解説してください!

535 :神も仏も名無しさん:2009/06/30(火) 12:21:35 ID:aFbNIyl5
今回の講師試験の問題

Q、「諸行往生」とはどんなことか、一言で書け。また、それは正しいか、間違いか、答えよ。

A、諸善をすれば善のできない自分が知らされて救われるということで、間違い。
  例として、
  親鸞聖人の20年間の比叡山での御修行で、機の深信が知らされたという邪義。
  19願の入り口にも入っていない講師部員や、30年、40年求めたくらいでは
  分からないと教えられ、親鸞会の会員は、この世では救われないから、親鸞会の
  求道は遠生の結縁と考えている邪義など。

  この世で救うという18願ではないので、明らかな間違い。

  参考までに、
  精一杯の財施をしなければならない、とか、善知識に絶対服従せよなどは、
  諸行往生でもない、カルトの教え。



【回答】
これは、体失不体失往生の諍論についての内容です。
『口伝抄』に法然上人のお言葉があります。

念仏往生は仏の本願なり。諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず。至心信楽の帰命の一心、他力よりさだまるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識におうて、聞持する平生のきざみに治定するあいだ、この穢体亡失せずといえども、業事成弁すれば、体失せずして往生すと、いわるるか。本願の文あきらかなり。かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は、臨終を期し、来迎をまちえずしては、胎生辺地までもうまるべからず。このゆえに、この穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりて、そのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて、定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いずれも文釈ことばにさきだちて歴然なり。


諸行往生は、体失往生です。19願の諸善を実践することによって、助かろうとするものです。

親鸞会で教えていることは、19願の実践です。19願を実践しようとする人は、どうなるでしょうか。
会長は講師部員に対して、「19願の入り口にも入っていない」といっています。
また説法の中でも、「30年、40年求めたくらいでわかるものではない」ともいっています。
当然なことです。19願で誓われた善を実践できる筈がありません。至心で善ができますか?
善をしてはじめて、善のできなかった自分が知らされるといいますが、最初から答えの分かっていることが、実践できますか?

それで、講師部員をはじめ、会員はどう考えているか。
臨終に観世音菩薩の説法にあって、救われることを期待している人はましな方で、大抵の人は、次に人間に生を受けた時、あるいは、次の次で救われればいいだろう、つまり遠生の結縁になればいい、と思っている人ばかりです。今生で救われるとは、誰も思っていません。19願の入り口にも入っていない、30年、40年求めても分からないと言われれば、そう思うのも無理はありません。

法然上人は、我々凡夫は諸善のできないものであるから、往生の妨げになる諸善を捨てよ、とまで仰っておられます。言い換えれば、19願を捨てて、18願を信じよ、ということです。19願を捨てるために実践するというのは、会長のトリックです。

会長は、我々にできない19願の善を実践させることで、18願の念仏往生とは別の方向に進ませているのです。だから、会長の身内も、側近も救われないのです。

法然上人の仰った諸行往生とは、親鸞会の会員のことです。

2009-07-30

親鸞会は諸行往生3

【質問】
詳しいコメントありがとうございますm(__)m。

親鸞会では善を勧めるのが仏教の教えで、
善をすることをやめろとういうのは仏教ではない!
というように教えられると思いますがそのあたり、
どうなんでしょうか?


【回答】
仏教は善を勧めています。これは間違いないことです。問題は、善をすることと往生することと関係があるのかです。
往生するには善をしなければならないというのが、聖道仏教です。往生するために善をする必要がないというのが浄土仏教です。

法然上人の『選択本願念仏集』には、

故に知んぬ。諸行は機に非ず、時を失えり。念仏往生は機に当り、時を得たり。
感応あに唐捐ならんや。まさに知るべし。隨他の前には暫く定散の門を開くと
いえども、隨自の後には還って定散の門を閉づ。一たび開いて以後永く閉じざるは
ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意ここに在り、行者まさに
知るべし。


とあります。正法や像法ならばいざ知らず、末法の凡夫では善ができないから、正定の業である念仏を称えよ、といわれているのです。
あるいは、

おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための
所以なり。初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために
説く、念仏は立せんがために説く。次の義はすなはちこれ助正のために説く。
いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。後の義はすなはちこれ
傍正のために説く。いはく念仏・諸行の二門を説くといへども、念仏をもつて正
となし、諸行をもつて傍となす。ゆゑに三輩通じてみな念仏といふ。ただし
これらの三義は殿最知りがたし。請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。いまもし
善導によらば、初め(廃立)をもつて正となすのみ。


とも仰っておられます。

これは本願寺の主張も同じです。
灘本愛慈著『現代の教学問題・宿善について』には、

親鸞会は、宿善として自力諸善を積むように勧めているが、当流では他力の信心を獲るために、まず自力諸善を積まねばならないなどという説示はない

とあります。

また紅楳英顕著『派外からの異説について』には、

私が再三、もとめたところの『破邪顕正や財施を獲信のための宿善として修せよ』とある文証は、未だに何等示されていない。
私が問題にしたのは、このことなのであり、高森親鸞会が自説の根拠となる文証を明示されない限り、私への反論になっていると認めることはできないのである


とはっきり書かれています。実際、親鸞聖人も蓮如上人も、往生のために善を勧められたところはありませんので、本願寺の主張は正のです。

では善導大師、法然上人、親鸞聖人は善を勧められなかったのか、といえば往生とは関係ないところで善を勧めておられます。

たとえば法然上人の書かれた「念佛往生義」には、

念仏して往生するに不足無しといいて、悪業をも憚らず、行ずべき慈悲をも行ぜず、念仏をも励まさざらん事は、仏教の掟に相違するなり。
例えば、父母の慈悲は、良き子をも悪しき子をも育むめども、よき子をば喜び悪しき子をば嘆くが如し。
仏は一切衆生を哀れみて、良きをも悪しきをも渡し給えども、善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しみ給えるなり。
良き地に、良き種を、まくかんが如し。構えて、善人にして、しかも念仏を修すべし。これを真実に、仏教に従うものという也。


とあります。「苦笑の独り言」に意訳が載ってますので、確認してみてください。
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-376.html

仏教である限り、善を勧めるのは当然なことです。世界には多くの宗教がありますが、宗教とは善を勧めるものといっても過言ではないと思います。

往生と関係のある善とそうでない善とを同じこととして主張するのが高森会長のトリックです。

2009-07-30

親鸞会は諸行往生4

【質問】
ご親切にさらに詳しいコメントをいただき感謝いたしますm(__)m。

あの、もうすこし教えていただいてもいいでしょうか?
浄土真宗では往生のための善はやっても意味がないというふうに理解していいのでしょうか?

また、善に励むほど法鏡に照らされて真実の自己が知らされるときかされてきましたが間違いなのでしょうか?


【回答】
善導大師、法然上人は、善を捨てて、念仏を称えなさい、と仰っておられます。
親鸞聖人、蓮如上人は、善ではなく、聴聞をしなさい、と仰っておられます。

善知識方が、往生のために善をせよ、と仰っていないことを、どのように理解されますか?

『選択本願念仏集』には、

諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。
もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。
もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。
しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。
もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し
。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。
しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。


とあります。善のできるほんの一握りの善人のために建てられた本願ではないということを法然上人は仰っています。

善ができると固く信じて、18願をとても受け入れることのできない善人は、19願を実践される方がよいかもしれません。

先日の降誕会で、親鸞聖人の比叡山での御修行によって、機の深信が知らされて救われた、という話がありましたが、過去に命懸けで修行をされた方は、親鸞聖人だけではないでしょう。しかし、それらの人達が、善のできない自分であったと知らされたでしょうか。知らされていなから、浄土仏教に帰依せず、浄土仏教を非難したのではないでしょうか。

求道者の心構えについて、親鸞会でも有名な香樹院師は、以下のように教えられています。加藤智学編『香樹院講師語録』より

禅僧弘海曰く。予かつて師に問う、
私、浄土真宗の教えに帰し、
御講師に随い聴聞いたせども、
未だ心に聞え申さず、如何致すべく候や、と。
師の仰せに、
汝まづ聖教を熟覧せよ、と。

則ち命のごとく拝見候いしが、文義はわかれども、
我が出離にかけて思えば、往生一定ならず。
再び、如何せんと問い参らす。
師曰く、よく聞くべし、と。

予聞いて云わく、
よく聞くとは如何聞くべきや。
師曰く、骨折って聞くべし。

予云わく、
骨折るとは、遠路を厭わず聞き歩くことに候や、
衣食も思わず聞くことに候や。
師曰く、しかり。

予また問うて云わく、
しからば、それほどに苦行せねば聞えぬならば、
今までの禅家の求法と何の別ありや。
師呵して曰く、
汝法を求むる志なし、いかに易行の法なりとも、
よく思え、今度佛果を得る一大事なり。
しかるに切に求法の志なき者は、
これを聞き得ることをえんや、ああうつけ者かな、と。

予云わく、
しからば身命を顧みぬ志にて、聞くことなりや。
師曰く、
もっともしかり。切に求むる志なくして、
何ぞ大事を聞きえんや。
また曰く、常に絶え間なく聞くべし、と。

予問い参らするよう、
それはその志にて聴聞つかまつれども、
法縁の常になきを如何致すべきや、と。
師その時に、
何ぞ愚鈍なることを云うぞ。法話なき時は、
聞きたることを常に思うべし。
聞く間ばかり聞くとは云わぬぞ。
また曰く、
汝眼あり、常に聖教を拝見すべし、
これまた法を聞くなり。
もしまた世事にかかりあい、聞見常に縁なき時は、
口に常に名号を称すべし、これまた法を聞くなり。
汝信を得ざるは業障の故なり。
さればいよいよ志を励まし、かくの如く常に心を砕き、
よく聞けよ。信を得る御縁は聞思に限るなり、と。

予問うて云わく、
法話を聞くことと、
自ら聖教を読んで我が耳に聞くということとは、
有り難く承りぬ。ただ、念佛するを聞くと申すは、
われ称えて我が声を聞くことに候や。
師大喝して曰く、
汝何事をか云う。我が称える念佛というものいづこにありや。
称えさせる人なくして、罪悪の我が身何ぞ称うることをえん。
称えさせる人ありて称えさせ給う念佛なれば、
そもそもこの念佛は、何のために成就して、
何のためにか称えさせ給うやと、心を砕きて思えば、
即ちこれ常に称えるのが、常に聞くのなり、と。

予、この一語心肝に徹し、はっと受けたり。
心に思うよう。
我至成佛道、名聲超十方、究竟靡所聞、誓不成正覚。
また第十七の願に、我が名を諸佛にほめられんとの誓いは、
名号を信ぜさせんとの御意なり。
かつまた、常に聞くと申すことは、
ただ法話のみを聞くことと思いしは誤りなりき。

あわれ、志の薄かりしことよと恥ぢ入り、
今まで禅門において、知識より、
汝今をも知れぬ命なれば、昼夜十二時思惟して、
この公安を拈底せよ、しばらくも忘るることなかれ、
と云われしことを思い浮かべ、
聞思して遅慮するなかれ、との祖訓を、
見聞集に尽したまいしことを感悟し、
それより常に法話なき時は聖教を拝聴し、
朝夕は『大經』、『正信偈』、『和讃』、『御文』を拝読し、
また常恒に念佛を拝聴し奉るに、
われ今称うる念佛には、御主ありて称えさせ給うなり。
しかればただ称えさせるを詮としたまわず。
称えさせ給うは、助け給わんために、
一声をも称えさせて下さるることよと思えば、
それより称えることについて、
尊く称えさせてくださるる身となりしなり。
このこと今に耳にありて、忘るる能わず、
と申されけり。


聴聞の心構えについて述べられた後、日頃すべきことを
法話を思い出す、聖教の拝読、念仏を称えよとあります。諸善の勧めはありませんね。

親鸞聖人は三願転入したと仰っていますが、皆も自分と同じように三願転入せよ、とは仰っていません。蓮如上人の『御文章』のどこを読んでも、三願転入した、とか、三願転入せよ、とは書かれていません。

浄土真宗の教えを正しく学んでください。

2009-07-30

親鸞会は諸行往生5

親鸞会が諸行往生の邪義であるとの非難に対する反論が、親鸞会からありました。
(親鸞会のHPより)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 諸行往生とは、「諸善をしたら助かる」ということ、これは間違いである。それでは、自力の善の積み重ねで助かることになるからだ。
「一切の自力を捨てて、他力に帰せよ」これ以外に親鸞聖人の教えはないことを、覚如上人は次のように断言されている。

「今の真宗においては、専ら自力をすてて他力に帰するをもって宗の極致とする」(改邪鈔)

 親鸞聖人の、この捨自帰他のみ教えの徹底に専心する親鸞会は、未だかつて、「諸善をすれば助かる」などと主張したことは一度もない。
 当然である。

 また諸行往生は、死ぬまで助かったということがない。
 体失不体失往生の諍論で、親鸞聖人に論破された法友・善慧房証空の主張を、法然上人はこう評されている。

「善慧房の体失して往生するよし述ぶるは、諸行往生の機なればなり」(口伝鈔)

 肉体を失わなければ(体失)助からぬという善慧房の主張は諸行往生であり、「諸行往生は本願にあらず」とまで言い切られている。

 阿弥陀仏が本心を誓われた十八願には、平生の一念にいつ死んでも極楽往生間違いない身に救い摂る、と約束されているからだ。

 だから親鸞聖人のみ教えは、平生業成、現生不退。現在ただ今、肉体あるままの不体失往生を90年間、強調されたのである。

善の勧めはなぜなのか

 高森先生もまた、この信仰の決勝点、一念の弥陀の救いを、常に黒板に縦の線で示され、親鸞聖人の平生業成のみ教えを一貫して説き続けられているのは世間周知のこと。
 その親鸞会に対する「諸行往生」の非難が、いかに的外れであるかは明らかであろう。

 では、善の勧めはなぜなのか。
 阿弥陀仏が、本心を誓われた十八願に導くために、十九の願(修諸功徳の願)で、諸善を勧めていられるからである。

 十方衆生のほとんどが、仏とも法とも知らぬのだから、まず宇宙の真理である
「善因善果、悪因悪果、自因自果」の因果の大道理から、廃悪修善の必要性を納得させ、実行を勧め、十八願の無碍の一道まで誘導するのが弥陀の目的なのだ。

 要門と言われる十九願は、善を捨てさす為のものではなく、善を実行させる為の願であることは、明々白々である。
 実践しなければ果報は来ない。 知った分かったの合点だけでは、信仰は進まないのである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前半は真宗の教科書通りの答えです。しかし、なぜ親鸞会が諸行往生と非難されているのかの的を敢てずらしています。

親鸞会は、平生業成と口では言っていますが、実際は平生業成になっていません。

覚如上人は『口伝抄』に


如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって、本願とせば、いのち一刹那につづまる
無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす。
そのゆえは、願成就の文には「聞其名号 信心歓喜 乃至一念 願生彼国 即得往生 住不退転」(大経)ととき、おなじき『経』の流通には、「其有得聞彼仏名号 歓喜踊躍乃至一念 当知此人 為得大利
即是具足無上功徳」とも、弥勒に付属したまえり。しかのみならず、光明寺の御釈には、「爾時聞一念 皆当得生彼」(往生礼讃)とら、みえたり。これらの文証、みな無常の根機を本とするゆえに、一念をもって往生治定の時剋とさだめて、いのちのぶれば、自然と多念におよぶ道理をあかせり。
されば、平生のとき、一念往生治定のうえの仏恩報謝の多念の称名とならうところ、文証・道理顕然なり。もし、多念をもって、本願としたまわば、多念のきわまり、いずれのときとさだむべきぞや。



と仰っておられます。親鸞会でいうまず善をして、善のできない自分が知らされてから助かる、というのは「一念」ではありません。「多念」です。「聞」の一念で阿弥陀仏に救われるというのが、平生業成です。
「まず善をして」、では「いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや」です。

高森会長は過去に何度も話をしていたことですが、「今」とは、「い」と言った時は「ま」は未来、「ま」と言った時は「い」は過去になるので、「いま」は言えない、と聞いたことのある会員は多いでしょう。救いを先延ばしにする心は、永久に助からない心とも聞いている筈です。

ならば、「まず善をして」は、永久に助からない心です。だから会員は、今助かるとは誰も思っていません。

親鸞聖人は、比叡山で20年間命懸けの御修行をして、地獄一定の自分と知らされた、と先日の降誕会で話をしていましたが、親鸞聖人が命懸けで御修行なされても20年もかかられたのなら、自分はその何倍かかるだろうかと皆思っています。仮に平均寿命まで生きておれるとしても、今生では救われないですね。

だから体失往生になり、諸行往生と非難されているのです。それを誤魔化すいつもの汚い論法です。


では、親鸞聖人の三願転入はどうなるのだ、と思われる方もあるでしょう。

『教行信証化土巻』に


ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依りて、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離れ、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入し、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。


と親鸞聖人は、御自身の体験を告白しておられます。
よく読んで頂きたいところは、「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依りて」の七高僧方によって親鸞聖人はどうのように導かれたのかです。

それは

久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離れ、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。

ですね。七高僧から19願を離れて20願に回入せよと教えられたのです。19願の諸善をせよではありません。

七高僧方の教えられたことは、難行道、聖道仏教、自力仏教を捨てて、易行道、浄土仏教、他力仏教に帰依せよです。親鸞聖人が直接お導きを受けられた法然上人は、至る所に、諸善を捨てて本願の念仏を称えよ、と仰っています。往生のために善をせよとは、どこにも仰っていません。他の高僧方も同じです。

たとえば『選択本願念仏集』には

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、
しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて
選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定を
もつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。
名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。


と教えておられます。蓮如上人も雑行(諸善)を捨てよとは仰っていますが、まず雑行(諸善)を実行して、とはどこにも仰っていません。

親鸞聖人は、御自身が三願転入したとは仰っていますが、他の人にも三願転入せよとは仰っていません。
覚如上人も、蓮如上人も三願転入について仰っていません。

だから親鸞会の反論の結論部分では

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 十方衆生のほとんどが、仏とも法とも知らぬのだから、まず宇宙の真理である
「善因善果、悪因悪果、自因自果」の因果の大道理から、廃悪修善の必要性を納得させ、実行を勧め、十八願の無碍の一道まで誘導するのが弥陀の目的なのだ。

 要門と言われる十九願は、善を捨てさす為のものではなく、善を実行させる為の願であることは、明々白々である。
 実践しなければ果報は来ない。 知った分かったの合点だけでは、信仰は進まないのである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

と自説を述べても、その「明々白々」な根拠が全く挙げられないのです。前半部分とは対照的ですね。

高森会長のいつものトリックです。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。