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2009-08-02

一切衆生は必堕無間なのか1

親鸞会では、「一切衆生必堕無間」だから、親鸞会に入って信心決定しなければならないといいます。この「一切衆生必堕無間」とは、全ての人は死んだならば、必ず無間地獄に堕ちるということです。しかし、本当に一切の衆生は必堕無間なのでしょうか。

まず「一切衆生必堕無間」と言う言葉は、経典にも、七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の著書にもありません。では高森会長の造語なのかといいますと、日蓮著『撰時抄』には、以下のようにあります。

教主釈尊の金言まことならば多宝仏の証明たがずば十方の諸仏の舌相一定ならば今日本国の一切の衆生無間地獄に堕ちん事疑うべしや

ここから拝借した可能性は大いにあります。
参考までに、親鸞会でよく使われる「絶対の幸福」「相対の幸福」は、創価学会の「絶対的幸福」「相対的幸福」を真似たのは、間違いないでしょう。

高森会長が創価学会を真似ているところは多々指摘されています。分かりやすいところでは「正本堂」という言葉は、大石寺に創価学会がかつて建設した建物の名称です。「正本堂」という言葉は歴史的にも真宗では使われたことがありません。その他、組織拡大方法も創価学会を参考にしてきたといわれています。

ですから、親鸞会の根幹をなす言葉「一切衆生必堕無間」も、創価学会を真似たものと考えるのが自然です。

このように言いますと、「必堕無間」は親鸞会以外の真宗関係団体でも使っているとの反論があるでしょう。高森会長が著作の大半を盗作したといわれている大沼法竜師の『魂のささやき』には、

三千世界の者はみな助かっても、法竜一人は助からないのだ、と往生の望みの綱が切れたとき、無間のどん底に投げ込まれたのが先か、その機のままを摂取するのだぞの勅命が届いたが先か、必堕無間が先か、十方法界唯であったの自覚が先か、明来闇去か、闇去明来か、そんなことなど考える余裕あればこそ、この極悪最下の機が極善最上の法に生かされたのだ。

とあります。また高森会長が18才で獲信体験をした時の所属団体である華光会でも、「必堕無間」という言葉は使用されています。本願寺系発行の書物にも、「必堕無間」の言葉は見られます。その元になったのが『歎異抄』の、

いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

です。『歎異抄』は親鸞聖人の書かれた書物ではありませんので、これが親鸞聖人のお言葉と断定はできませんが、親鸞聖人のお言葉であるとして、親鸞会では、「親鸞聖人でさえ、地獄しか行き場のないものであると仰っているのだから、全人類は必堕無間で間違いない」、と主張します。

しかしここに論理の飛躍があります。親鸞聖人は御自身を非常に厳しく見つめられたお方ですので、御自身を顧みられたときに、懺悔のお言葉としてこのように仰った可能性は否定できませんが、他の人も「地獄一定」とはどこにも仰っていません。またこの「地獄」も「無間地獄」と特定されていません。

親鸞聖人の書かれた『教行信証総序』には

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、かえってまた曠劫を径歴せん。

と仰っています。「曠劫を径歴」ですから、六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)を輪廻するということです。信心決定できずに死んだならば、地獄に堕ちるとも仰っていません。ましてや「必堕無間」ではありません。

曇鸞大師は『讃阿弥陀仏偈』に御自身のことを

我無始より三界に循りて、虚妄輪の為に廻転せらる。
一念一時に造る所の業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。


と仰っています。
善導大師は『観経疏』散善義に機の深信として、

自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと深信す。

と仰っています。
親鸞聖人、曇鸞大師、善導大師ともに、六道輪廻もしくは三悪道(地獄界・餓鬼界・畜生界)を経巡ると表現なされています。

親鸞聖人が地獄に堕ちると表現なされたのは御和讃では、
『浄土和讃』の

衆生有碍のさとりにて
無碍の仏智をうたがえば
曾婆羅頻陀羅地獄にて
多劫衆苦にしずむなり


と、『正像末和讃』の

念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなくうとぞときたまう


だけです。「衆生有碍のさとり」という異安心の人と、「念仏誹謗の有情」という謗法罪を造った人を限定に仰っています。「一切衆生」とは全く違います。

蓮如上人の『御文章』には

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。(一帖目第十一通)

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。(二帖目第十四通)

と地獄に堕ちる人の条件を限定されて仰っています。
親鸞会が「一切衆生必堕無間」の根拠として挙げるのが、

この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(二帖目第二通)

です。『御文章』がお手紙であることと、他では限定した人に対して「地獄に堕ちる」と蓮如上人が仰っているところからすると、ここも、異安心や邪義を称えていた人に対して仰ったお言葉であったと考える方が、理解しやすいと思います。

蓮如上人のこの一文をもって、「一切衆生必堕無間」と主張するのは、釈尊、七高僧、親鸞聖人が決してされなかった脅しでの信者獲得を目指すものであり、外道です。
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2009-08-04

一切衆生は必堕無間なのか2

親鸞会では、信心決定できれば浄土、できなければすべての人は同じく無間地獄に堕ちると教えていますが、経典、聖教ではそのような説き方はされていません。阿弥陀仏の本願を疑っている人でも、浄土往生を願わない人と浄土往生を願う人とを区別しておられます。

浄土往生を願う人について『大無量寿経』下巻の胎化段には


「その胎生の者、処する所の宮殿、あるいは百由旬、あるいは五百由旬、おのおのその中においてもろもろの快楽を受くることトウ利天上のごとし、またみな自然なり。」
その時、慈氏菩薩(弥勒菩薩)、仏に白して言さく、「世尊、何の因、何の縁ぞ、彼の国の人民胎生・化生なる」仏、慈氏に告ぐ、「もし衆生ありて、疑惑の心をもってもろもろの功徳を修し彼の国に生れんと願じ、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、この諸智において疑惑して信ぜず。しかも猶罪福を信じ、善本を修習し、その国に生れんと願ぜん。このもろもろの衆生、彼の宮殿に生じ、寿五百歳、常に仏を見ず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず。このゆえに彼の国土において之を「胎生」と謂う。もし衆生ありて明らかに仏智乃至勝智を信じ、もろもろの功徳を作し、信心回向すれば、このもろもろの衆生、七宝華中において自然に化生し、跏趺して坐し、須臾の頃に身相光明・智慧功徳もろもろの菩薩のごとく具足し成就す。」
「また次に慈氏、他方仏国の諸大菩薩、発心して無量寿仏を見たてまつり、およびもろもろの菩薩・声聞の衆を恭敬し供養せんと欲せん。
彼の菩薩等、命終りて無量寿国に生ずることを得、七宝華中において自然に化生せん。弥勒、当に知るべし、彼の化生の者は、智慧勝るるがゆえに。
その胎生の者はみな智慧なし。五百歳の中において、常に仏を見ず、経法を聞かず、菩薩・もろもろの声聞衆を見ず、仏を供養するに由なし。
菩薩の法式を知らず、功徳を修習することを得ず。当に知るべし、この人は宿世の時、智慧あることなし。疑惑の致す所なり。」
仏、弥勒に告げたまわく、「たとえば転輪聖王の別に七宝の宮室ありて種々に荘厳し、床帳を張設し、もろもろの絵幡を懸けたらん。
もしもろもろの小王子ありて罪を王に得ば、すなわち彼の宮中に内れて繋ぐに金鎖をもてし、供給に飲食・衣服・床褥・華香・伎楽を供給転輪王のごとく乏少する所なけんがごとし。
意において云何ん、このもろもろの王子、むしろ彼の処を楽わんやいなや。」
対えて曰く、「いななり、但種々に方便し、もろもろの大力を求め、自ら免出するを欲せん。」
仏、弥勒に告げたまわく、「このもろもろの衆生もまたまたかくのごとし。
仏智を疑惑するをもってのゆえに彼の宮殿に生ず。
刑罰乃至一念の悪事あることなく但五百歳の中において三宝を見ず、供養しもろもろの善本を修することを得ず。
これをもって苦となし、余の楽ありといえども猶彼の処を楽わず。
もしこの衆生、その本罪を識り、深く自ら悔責し、彼の処を離れんと求むれば、すなわち意のごとく無量寿仏の所に往詣し、恭敬供養することを得、また遍く無量無数諸余の仏の所に至り、もろもろの功徳を修することを得ん。
弥勒、当に知るべし、それ菩薩ありて疑惑を生ずる者は大利を失すとす。
このゆえに応当に明らかに諸仏無上の智慧を信ずべし。」



とあります。なお参考までにここの部分の訳は本願寺出版社発行の『浄土三部経(現代語版)』によれば、以下の通りです。


「その胎生のもののいる宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬という大きさで、みなその中でトウ利天と同じように何のさまたげもなくさまざまな楽しみを受けているのである」そのとき弥勒菩薩がお尋ねした。「世尊、いったいどういうわけで、その国の人々に胎生と化生の区別があるのでしょうか」
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。
 これに対して、無量寿仏の五種の智慧を疑いなく信じてさまざまな功徳を積み、まごころからその功徳をもってこの国に生れようとするものは、ただちに七つの宝でできた蓮の花に座しておのずから生れる。これを化生といい、たちまちその姿を光明や智慧や功徳などを、他の菩薩たちと同じように、欠けることなく身にそなえるのである。
 また弥勒よ、他の仏がたの国のさまざまなすぐれた菩薩たちも、さとりを得ようとして無量寿仏を見たてまつり、その仏をはじめとして菩薩や声聞たちに至るまで敬い供養したいと思うのである。これらの菩薩たちも、命を終えて後に無量寿仏の国に生れ、七つの宝でできた蓮の花におのずから化生するのである。
 弥勒よ、よく知るがよい。化生のものは智慧がすぐれているが、胎生のものは智慧が劣っていて、五百年の間まったく無量寿仏を見たてまつらず、教えを聞かず、菩薩や声聞たちを見ず、また他の仏を供養することもできない。菩薩の自利利他の修行ができず、功徳を積むことができない。よく知るがよい。これらのものは、過去世において智慧がなく、仏の智慧を疑ったからにほかならない」
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。
「たとえば転輪聖王が王の宮殿とは別に七つの宝でできた宮殿を持っているとしよう。そこにはさまざまな装飾が施されており、立派な座が設けられ、美しい幕が張られ、いろいろな旗などがかけられている。その国の王子たちが罪を犯して父の王から罰せられると、その宮殿の中に入れられて黄金の鎖でつながれるのであるが、食べものや飲みもの、衣服や寝具、香り高い花や音楽など、すべて父の王と同じように何一つ不自由することがない。さてその場合、王子たちはそこにいたいと願うだろうか」
 弥勒菩薩がお答えする。
「いいえ、そのようなことはないでしょう。いろいろな手だてを考え、力のある人を頼ってそこから逃れ出たいと思うでしょう」
 そこで釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「胎生のものもまたその通りである。仏の智慧を疑ったためにその宮殿の中に生れたのであって、何のとがめもなく、少しもいやな思いをしないのであるが、ただ五百年の間、仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、仏がたを供養してさまざまな功徳を積むこともできない。このことがまさに苦なのであり、他の楽しみはすべてあるけれども、その宮殿にいたいとは思わないのである。
 しかしこれらのものが、その苦は仏の智慧を疑った罪によると知り、深く自分のあやまちを悔い、その宮殿を出たいと願うなら、すぐさま思い通り無量寿仏のおそばへ行き、うやうやしく供養することができる。また、ひろく数限りない仏がたのもとへ行ってさまざまな功徳を積むこともできる。
 弥勒よ、よく知るがよい。仏の智慧を疑うものはこれほどに大きな利益を失うのである。そうであるから、無量寿仏のこの上ない智慧を疑いなく信じるがよい」



釈尊は、浄土を願う人の中に、化生(報土往生)と胎生(化土往生)の人があり、その違いについて詳しく説かれています。つまり化土往生があることを教えられています。

この『大無量寿経』下巻胎化段を受けられて親鸞聖人は『浄土三経往生文類』に、


弥陀経往生というは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号をえらびて万善諸行の少善をさしおく。しかりといえども、定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず、如来の尊号をおのれが善根として、みずから浄土に回向して、果遂のちかいをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称・不可説・不可思議の大悲の誓願をうたがう。そのつみ、ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあいだ、自在なることあたわず、三宝をみたてまつらず、つかえたてまつることなしと、如来はときたまえり。しかれども、如来の尊号を称念するゆえに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆえに難思往生ともうすなり。不可思議の誓願、疑惑するつみによりて、難思議往生とはもうさずとしるべきなり。


と書かれ、自力念仏の人は、七宝の牢獄(化土)にいくと仰っています。

『正信偈』にも、


専雑執心判浅深 報化二土正弁立


とあり、蓮如上人の『正信偈大意』では、


「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」というは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり、また専修正行になりきわまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽に生ずべしとなり。これすなわち、専雑二修の浅深を判じたまえるこころなり。『讃』にいわく、「報の浄土の往生はおおからずとぞあらわせる 化土にうまるる衆生をば すくなからずとおしえたり」といえるこころなり。


と教えておられます。

また隆寛律師の著された『自力他力事』には、


そのうへに弥陀の本願をつやつやとしらざるとがのあるなり。さればいみじくしえて往生する人も、まさしき本願の極楽にはまゐらず、わづかにそのほとりへまゐりて、そのところにて本願にそむきたる罪をつぐのひてのちに、まさしき極楽には生ずるなり。これを自力の念仏とは申すなり。


とあります。自力念仏の人は、極楽のほとり(化土)に往生するということです。
隆寛律師は法然上人門下で親鸞聖人の兄弟子にあたります。『自力他力事』は、親鸞聖人が親写されたもので、巻末には「寛元四歳丙午三月十五日これを書く。愚禿釈親鸞七十四歳」とあり、親鸞聖人が関東の門弟達に読むように勧められた親鸞聖人の御著書に準ずる書物です。

また『歎異抄』第十一条には、


次に自らの計をさしはさみて、善悪の二につきて、往生の助け・障り二様におもへば、誓願不思議をばたのまずして、わが心に往生の業を励みて申すところの念仏をも自行になすなり。この人は名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地・懈慢・疑城・胎宮にも往生して、果遂の願の故に、遂に報土に生ずるは、名号不思議の力なり。これ即誓願不思議の故なれば、ただ一なるべし。


とあり、同じく第十七条には、


辺地の往生を遂ぐる人、つひには地獄に堕つべしといふこと。この條、いづれの証文に見え候ぞや。学生たつる人のなかに言ひ出さるることにて候なるこそ、あさましく候へ。経・論・聖教をばいかやうに見做されて候やらん。信心缺けたる行者は、本願を疑ふによりて辺地に生じて、疑の罪をつぐのひて後、報土の覚を開くとこそ承り候へ。信心の行者すくなき故に、化土に多く勧めいれられ候を、「つひに虚しくなるべし」と候なるこそ、如来に虚妄を申しつけまゐらせて候なれ。


とあります。更に後序には、


悲しきかなや、幸に念仏しながら直に報土に生れずして辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに信心異ることなからんために、泣く泣く筆を染めてこれをしるす。名けて『歎異抄』といふべし。


とあり、『歎異抄』とは化土往生に留まる人を歎いて書いたものだと記しています。

上記いずれの聖教のお言葉も、化土往生について述べられたものです。自力修善、自力念仏の人が多いために、自力の人が往く化土と他力の人が往く報土とを比較なされて、早く他力に帰するように勧められているのです。自力の人が往くのは無間地獄であるとはどこにも仰っていません。

2009-08-05

一切衆生は必堕無間なのか3

前回化土往生について述べましたが、ここで注意しなければならないのは、釈尊も親鸞聖人も他の善知識方も、化土往生を勧めておられるのではなく、逆に誡めておられるということです。誡められているということは、化土往生の人が実際に多いからです。

『浄土和讃』には


誓願不思議をうたがいて
御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳
むなしくすぐとぞときたまう

安楽浄土をねがいつつ
他力の信をえぬひとは
仏智不思議をうたがいて
辺地懈慢にとまるなり



とあります。更に『正像末和讃』誡疑讃では


不了仏智のしるしには
如来の諸智を疑惑して
罪福信じ善本を
たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがいて
自力の称念このむゆえ
辺地懈慢にとどまりて
仏恩報ずるこころなし

罪福信ずる行者は
仏智の不思議をうたがいて
疑城胎宮にとどまれば
三宝にはなれたてまつる

仏智疑惑のつみにより
懈慢辺地にとまるなり
疑惑のつみのふかきゆえ
年歳劫数をふるととく

転輪王の王子の
皇につみをうるゆえに
金鎖をもちてつなぎつつ
牢獄にいるがごとくなり

自力称名のひとはみな
如来の本願信ぜねば
うたがうつみのふかきゆえ
七宝の獄にぞいましむる

自力諸善のひとはみな
仏智の不思議をうたがえば
自業自得の道理にて
七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがいて
善本徳本たのむひと
辺地懈慢にうまるれば
大慈大悲はえざりけり

本願疑惑の行者には
含花未出のひともあり
或生辺地ときらいつつ
或堕宮胎とすてらるる

仏智を疑惑するゆえに
胎生のものは智慧もなし
胎宮にかならずうまるるを
牢獄にいるとたとえたり

七宝の宮殿にうまれては
五百歳のとしをとしをへて
三宝を見聞せざるゆえ
有情利益はさらになし

辺地七宝の宮殿に
五百歳までいでずして
みずから過咎をなさしめて
もろもろの厄をうくるなり

罪福ふかく信じつつ
善本修習するひとは
疑心の善人なるゆえに
方便化土にとまるなり

弥陀の本願信ぜねば
疑惑を帯してうまれつつ
はなはすなわちひらけねば
胎に処するにたとえたり

ときに慈氏菩薩の
世尊にもうしたまいけり
何因何縁いかなれば
胎生化生となづけたる

如来慈氏にのたまわく
疑惑の心をもちながら
善本修するをたのみにて
胎生辺地にとどまれり

仏智疑惑のつみゆえに
五百歳まで牢獄に
かたくいましめおわします
これを胎生とときたまう

仏智不思議をうたがいて
罪福信ずる有情は
宮殿にかならずうまるれば
胎生のものとときたまう

自力の心をむねとして
不思議の仏智をたのまねば
胎宮にうまれて五百歳
三宝の慈悲にはなれたり



と述べられた後に、


仏智の不思議を疑惑して
罪福信じ善本を
修して浄土をねがうをば
胎生というとときたまう



と結んでおられます。化土往生とは19願、20願を行じている人のことです。釈尊、善知識方は、自力の化土往生を誡められて、他力18願の報土往生を説かれるのです。
化土往生が嘘で必堕無間が真実ならば、自力の人は皆、無間地獄に堕ちるといわれれば良いでしょうが、これでもかこれでもかと化土往生を誡められる理由は化土往生する人が実際に多いからでしょう。
化土が方便で、報土が真実ですが、方便よりしか真実に入れず、であるなら、化土よりしか報土に入れず、という理屈になります。「まず善をしましょう」は、「まず化土に入りましょう」と同じです。
しかし、釈尊も善知識方も方便の化土往生をまずしなさいとは仰らずに、真実の報土往生を願うように教えられています。

釈尊は、『大無量寿経』で阿難に報土と化土を見せられて、報土往生を勧められ、『観無量寿経』では、韋提希に阿弥陀仏の報土を見せられて導かれました。
お前たちの死後は必堕無間だぞ、と地獄の恐怖を植え付けるような説き方はされていません。
『涅槃経』では、父殺しの五逆罪で必堕無間に怯える阿闍世にさえ、地獄に堕ちる罪ではない、とまで仰っています。

邪義を唱える者に対して、それでは地獄に堕ちるぞ、と仰ることはあっても、浄土往生を求めている人に、地獄の恐怖を与える説き方は、歴代の善知識方はされていません。
地獄に堕ちたくないなら仏教を求めよ、ではなく、衆生に報土往生したい、仏になりたいという願いをおこさせるのを方便といい、そのように導かれる方が善知識です。

ですから「一切衆生必堕無間」と叫んで会員を脅迫するような教団は、浄土真宗でもなければ仏教でもないことは、明々白々です。
脅しを説く人のことを、仏教では悪知識と呼ぶのです。

2009-08-07

一切衆生は必堕無間なのか4


父殺しの五逆罪を造った阿闍世について、親鸞聖人は『教行信証』信巻に、『涅槃経』から異例といってもいい程の長さで引用されて詳しく教えておられます。ここは一見矛盾に思えるところもあり、解釈についても様々な説がありますが、親鸞聖人が力を入れて引用されているところですので、紹介しておきます。

父親を牢獄に幽閉して殺害したことから、五逆罪で無間地獄に堕ちることに怯えて慚愧の心を発した阿闍世に対して釈尊が、阿闍世の罪は無間地獄に堕ちる罪ではない、と仰っておられます。その理由をいくつも挙げて教えられるのですが、長いので以下その概要を述べます。


心と口で造る罪は軽く、身と口と心で造る罪は重い。
阿闍世は父殺しを心に思い口に言っただけで、体で行なわないからその報いは軽い。
阿闍世は、父王を殺せと口で命じたのではなく、ただ足を傷つけて幽閉せよと命じただけであるから罪にならない。
父王はいつも仏方を供養してその功徳で王位につくことができたのであり、王位につかなかったら阿闍世が国を奪うため父を殺すことはなかったのだから阿闍世が父王を殺して罪になるなら、仏方にも罪があるはずである。
仏方に罪がないのだから阿闍世に罪はない。

昔、父王が鹿狩に出かけたとき、一頭も獲物を得ることができなかったことを、仙人がいたからだとして家来に命じて仙人を殺させてしまった。
仙人が死ぬ間際に残した言葉を聞いて父王は後悔して、仙人の亡骸を供養した。
その功徳で父王は地獄に堕ちなかったのである。
まして阿闍世は殺せと命じたわけではないので地獄に堕ちるはずがない。
父王は自分の罪の報いを受けたのである。
阿闍世には父王を殺したという罪はない。
父王はこの世で王になるという善果と、殺されるという悪の果報を得た。
善悪不定であるから、父王を殺してもそれは善悪不定である。
殺したことが善悪不定だから地獄に堕ちることはない

衆生の錯乱には総じて四通りある。
貪欲によるもの、薬によるもの、呪われたことによるもの、過去の行いによるものである。
衆生が錯乱してつくった悪は地獄や餓鬼や畜生の世界に至る罪とはならない。
阿闍世が国王につきたいという心から父王を殺害したのであって、それは貪欲による錯乱からしたことであるから罪ではない。



釈尊はこのように仰って、阿闍世を導かれた訳です。父殺しの罪で無間地獄に堕ちるのは間違いない、と仰るどころか、地獄に堕ちる罪ではない、とまで仰って阿闍世を励まされています。
ここで釈尊が阿闍世に仰った地獄に堕ちない理由を読まれれればわかると思いますが、親鸞会で教えていることとまるっきり反対のことばかりです。
この部分の理解は確かに難しいところでもあります。ただ、阿闍世に対する対機説法であり、真実に導くための方便とはいいながらも、親鸞聖人は省略されずに、釈尊と阿闍世とのやりとりを敢て長々と引用されている御心を知るべきでしょう。

更に『教行信証』信巻でこの後には、


 大王、たとえば涅槃は非有・非無にしてまたこれ有なるがごとし。非有・非無にしてまたこれ有なりといえども、慚愧の人はすなわちすなわち非有とす。無慚愧の人はすなわち非無とす。果報を受くる者、これを名づけて「有」とす。空見の人は、すなわち「非有」とす。有見の人は、すなわち「非無」とす。有有見の者は、また名づけて「有」とす。何をもってのゆえに、有有見の者は果報を得るがゆえに、無有見の者はすなわち果報なし。常見の人はすなわち「非有」とす。無常見の者はすなわち「非無」とす。常常見の者は「無」とすることを得ず。何をもってのゆえに、常常見の者は「無」とすることを得ず。この義をもってのゆえに、非有非無にしてまたこれ有なりといえども、大王、それ「衆生」は出入の息に名づく、出入の息を断つがゆえに、名づけて「殺」とす。諸仏、俗に随いて、また説きて「殺」とす。


とありますが、ここも非常に難しい内容で釈尊は「空」の思想で罪を説明しておられます。「空」とは、固定的な実体がないことをいいます。罪についても、固定不変的な実体として捉えるのは間違いということです。世間的な考えに合わせて、因果の道理から罪に対する悪報を説かれますが、その真意は「空」ということでしょう。ここでは慚愧の心を発した阿闍世にとっては、父殺しの五逆罪が、そのまま無間地獄に堕ちるという固定的なものではない、と教えられています。

親鸞聖人も『正像末和讃』に


罪業もとよりかたちなし
妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
この世はまことのひとぞなき



と書いておられます。罪にはもともと形があるのではなく、妄想顛倒によって、固定的なものと捉えているだけだと仰っています。

この後、阿闍世は救われます。そして釈尊に言った言葉が、


「世尊、もし我審かによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせず。」



です。これに対して釈尊は阿闍世に以下のように仰っています。


その時に、世尊、阿闍世王を讃めたまわく、「善いかな、善いかな、もし人ありてよく菩提心を発せん。当に知るべし、この人はすなわち諸仏大衆を荘厳すとす。大王、汝昔すでに毘婆尸仏のみもとにして、初めて阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。これより已来、我が出世に至るまで、その中間において、未だかつてまた地獄に堕して苦を受けず。大王、当に知るべし、菩提の心はいましかくのごとき無量の果報あり。大王、今より已往に、常に当に菩提の心を懃修すべし。何をもってのゆえに。この因縁に従って、当に無量の悪を消滅することを得べきがゆえなり。」


阿闍世は過去世に菩提心を発したので、それ以後多生の間に地獄に堕ちたことがない。菩提心は無量の悪を消滅することができるのだから菩提心を失わないように勤めなさい。
菩提心の功徳を仰ったものですが、この菩提心を真実信心と解釈するのは間違いです。

親鸞聖人は『正像末和讃』に、


三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなわで流転せり



と仰っています。親鸞聖人も過去世に大菩提心を発したけれども流転したと仰ってますが、地獄に堕ちていたとは仰っていません。

菩提心について曇鸞大師は『浄土論註』に、


この無上菩提心とはすなわち是れ願作仏心なり。
願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。
度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。
このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。


と仰っています。仏に成りたいという「願作仏心」と衆生を済度したいという「度衆生心」の自利利他の心です。阿闍世もこの菩提心を発したのです。

五逆罪は無間業と教えられますが、その罪を造った人を、即必堕無間と結論付けるのは運命論的考え方です。五逆の罪を犯した者も救われることを明らかにされ、運命論的考え方の間違いを親鸞聖人は阿闍世を通して教えておられると理解すべきででしょう。

ましてや全ての人が五逆罪、謗法罪を犯しているから、「必堕無間」と運命的に決まっていると教える人は、親鸞聖人の御心に反するまさに「念仏誹謗の有情」ですので、その人のことを「必堕無間」ということはできるかも知れません。

2009-08-11

一切衆生は必堕無間なのか5

阿闍世を通して、五逆罪を犯した者でも救われることを明らかにされた後、『教行信証』信巻では五逆罪と謗法罪について教えておられます。
『大無量寿経』では阿弥陀仏の18願で


唯除五逆誹謗正法


と五逆罪、謗法罪のものは阿弥陀仏の本願から除くと教えられ、『観無量寿経』では、五逆、十悪の「下品下生」の者が、


「下品下生」とは、あるいは衆生ありて不善業を作り、五逆・十悪、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもってのゆえに悪道に堕し、多劫を経歴して受苦無窮なるべし。かくのごときの愚人、命終の時に臨み、善知識の種々安慰してために妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。この人苦に逼められて念仏するに遑あらず、善友告げて言わく、「汝もし念ずること能わずば応に無量寿仏を称すべし」と。
かくのごとく至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せん。仏名を称するがゆえに念々の中において八十億劫の生死の罪を除き、命終の時、金蓮華の猶し日輪のごとくしてその人の前に住するを見ん。一念の頃のごとくにすなわち極楽世界に往生することを得。蓮華の中において十二大劫を満ち蓮華方に開く。観世音・大勢至大悲の音声をもってそれがために広く諸法実相・除滅罪の法を説かん、聞き已りて歓喜し、時に応じてすなわち菩提の心を発さん。



と、救われることを教えておられます。この二経の相違についてどう理解すべきなのか、親鸞聖人は、曇鸞大師と善導大師の解釈を引用されています。

原文は長いので、それをまとめたものが、
「清森問答」の親鸞会教義の相対化・28
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-94.html

に分かりやすく書かれてあり、以下それを引用します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2-1曇鸞大師の解釈

★曇鸞大師の解釈

曇鸞大師は、この問題を『往生論註』八番問答で、

1)五逆罪と正法を誹謗する罪の、二つの重い罪を犯したものは往生できない。
2)五逆罪のみを犯しても、正法を誹謗する罪を犯していないものは往生できる。
3)正法を誹謗する罪はすごく重いので、五逆罪を犯してなくても往生できない。

というように、「正法を誹謗しなければ極楽浄土に往生できる」と解釈しています。


★「正法を謗る」とは?
また曇鸞大師は、

問う。「正法を謗る」というのは、具体的にどのようなことか?

答える。もしも、
「仏はいない!」「仏の説いた法はない!」
「菩薩はいない!」「菩薩の実践する法はない!」
というようなことを言って、このような見解を、自ら抱き、あるいは他の人から教えられて持って、その誤った見解に、心が定まってしまうことを、「正法を謗る」というのである。


というように、

「正法を謗る」というのは、単に「けなす」とか「ののしる」というのではなく、仏や仏の説いた法や、その法に従って実践する存在を、根底から否定することを意味しています。


★闇を照らす光の譬え

その上で、

たとえば、千年間も光が入らない闇室に、一瞬でも光が入れば、たちまち明るくなるようなものである。
闇は千年間も室の中にあったのだから、光が入っても去らない、ということがありえようか。(いやありえない)

という譬えでもって、五逆の罪がどれほど重くても、阿弥陀仏の名号を十回称える無上の信心があれば、全ての罪が除かれると解釈しておられます。

つまり、
1)釈尊や阿弥陀仏という仏の存在。
2)阿弥陀仏の本願を信じてお念仏申すことによって、極楽浄土に往生することができる。
という、お念仏の教えそのものの存在。

これらを否定することなく、信じてその通りにお念仏を申すならば、「正法を謗る」ことにはならず、最も重い罪を犯していないので、たとえ五逆罪を犯していたとしても、千年の闇を一瞬で光が照らすように、全ての罪が除かれ、極楽浄土に往生することができる。

ということになります。


2-2善導大師の解釈

問う。
『無量寿経』の四十八願の第十八願には、「ただ五逆と正法を誹謗するものを除く」とあって、これらの者の往生を許さないが、いまこの『観経』の下品下生のところでは、正法を誹謗するものをえらび除いて、五逆のものをおさめ取って、往生できるとしているのは、いったいどういう意図があるのか?

答える。
 このことについては、仏意を仰ぎおしはかって、抑えとどめる教えの上で解釈する。
 四十八願の中で、法を誹謗するものと五逆とを除いているのは、実にこの二つの悪業はその障りが非常に重く、衆生がもし犯したならば、ただちに阿鼻地獄におちて、途方もなく長いあいだ苦しみもがいて、ついに出る道がないから、ただ如来はこの二つの罪過を犯すことを恐れて、たくみなてだてとして制止し、往生できないと説かれのであって、これもまた、おさめとらぬというのではない。

 また下品下生の文の中で、五逆はおさめとって、正法を誹謗するものを除いているのは、五逆はすでに犯してしまっており、このまま見捨てて、迷いの世界に流転させることはできないから、かえって大悲をおこして、これをおさめとって往生させるのであるが、法を誹謗する罪はまだ犯していないから、これを制止して、もし法を誹謗するならば往生はできない、と説かれるのである。

 これはまだ悪業をつくっていない点について解釈するのであって、もし罪を犯したならば、かえってこれをおさめとって往生させるのである。


というように、


★「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」(『無量寿経』)という記述は、
まだ五逆罪と正法を誹謗する罪を犯していない者に対して、「もしこのような罪を犯したならば往生はできない!」と戒めて、おさえとどめるための教え
⇒抑止門(おくしもん)であると解釈されます。

★「五逆罪を犯したものでさえ、まごころをこめて、お念仏を申せば救われる」(『観経』)という記述は、すでに五逆罪を犯してしまった者であっても、阿弥陀仏は見捨てることなく、大悲をもって救い取って往生させることを示すための教え
⇒摂取門(せっしゅもん)であると解釈されます。


 つまり、最終的には『観経』の記述のように、五逆の罪を犯したものであっても救い取るのですが、人々がそのことに甘んじて罪を造ってしまうことを未然に防ぐために、『無量寿経』では、人々を巧みに導くために、「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」と述べておられる。

そのように解釈されています。

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曇鸞大師は、仏法を求めている人は、謗法のものではないと仰り、善導大師は五逆と謗法を抑止するために本願で除かれたのだと仰っていますので、これは五逆罪と謗法罪を未だ造っていない人がいる前提でのことです。已に造ってしまっている人しか存在しなければ、未造の人への抑止は不要です。

阿闍世からの話の流れから、阿闍世のような五逆罪を造ったものでも、救われるのだから、一般の人が救われる教えが、阿弥陀仏の本願であることを強調されているのです。つまり、阿闍世のことを最下のものの代表として見られているのです。
曇鸞大師、善導大師のお言葉を素直に読めば、仏法を求めている人は謗法罪を造っていないし、親を殺していない人は五逆罪を造っていない人ですから、そういった未造の人に対して、恐ろしい悪を造らないように仰っていることがわかります。
しかし、已造の人に対しても阿闍世と同様に救われると教えられ、善導大師は『法事讃』に


すなわち悲智の心を起こして、広く四十八願を弘めしめたまいしに由ってなり。仏願力をもって、五逆と十悪と、罪滅し生を得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く


と、往生できないという謗法罪を犯した者も、成仏することができないという闡提の者でも、回心懺悔すれば救われるのだと仰ったのです。
それを親鸞聖人は『尊号真像銘文』に


「唯除五逆 誹謗正法」というは、唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切のみなもれず往生すべし、としらせんとなり。


と仰り、また『唯信鈔文意』には


「汝若不能念」(観経)というは、五逆十悪の罪人、不浄説法のもの、やもうのくるしみにとじられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ、くちに南無阿弥陀仏ととなえよとすすめたまえる御のりなり。これは、称名を本願とちかいたまえることをあらわさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのたまえるは、このこころなり。「応称」は、となうべしとなり。「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念念中 除八十億劫 生死之罪」(観経)というは、五逆の罪人は、そのみにつみをもてること、と八十億劫のつみをもてるゆえに、十念南無阿弥陀仏ととなうべしと、すすめたまえる御のりなり。一念にと八十億劫のつみをけすまじきにはあらねども、五逆のつみのおもきほどをしらせんがためなり。「十念」というは、ただくちに十辺をとなうべしとなり。しかれば、選択本願には、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」(往生礼讃)ともうすは、弥陀の本願は、とこえまでの衆生、みな往生すとしらせんとおぼして、十声とのたまえるなり。念と声は、ひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし。声をはなれたる念なしとなり。


と、五逆の者でも念仏の功徳によって救われるのだから、念仏を称えなさいと仰ったのです。

このようにすべての人が救われることを繰り返し仰っています。仏教はプラス方向で教えられていて、マイナス方向では教えられていません。前回述べました釈尊が阿闍世に仰っていることも、菩提心についてもみなプラス方向です。抑止のために悪報を説かれるのも、プラスに向けさせるためです。恐怖心を煽るのは明らかにマイナス方向です。

地獄絵で有名な源信僧都の『往生要集』も、地獄界ばかりを描かれていると誤解されていますが、極楽と六界が描かれて、その1つの世界として地獄界が取り上げられているのです。大半は往生極楽について詳しく著された書物です。また『往生要集』を解説なされた法然上人は、地獄の描写については敢て触れておられません。

「一切衆生必堕無間」を殊更に強調して、恐怖心を原動力として求めよというのは、プラス思考の仏教とは方向性が全く違うといえます。
そんな団体が仏教や浄土真宗を名乗るのは如何なものでしょうか?
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