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2009-08-22

善知識には無条件服従しなけらばならないのか 1

親鸞会教義の中で、「一切衆生必堕無間」と並んでカルト性の高いものは、「善知識への無条件服従」です。信前の者は、信後の世界が分からないし、どのような道を通るのかも分からないので、善知識と呼ばれる他力信心を獲ていて教学力、指導力のあるリーダーの指示に無条件服従していかなければ、絶対に信心決定できないという、親鸞会独特の教義です。

カルトといわれる宗教団体は、ほぼ間違い無くこれと同様の教義を持っています。

では、浄土真宗では本当にそのようなカルト的な教義があるのでしょうか。

親鸞会によれば、善知識への無条件服従が信心決定するには必ず必要であるとする根拠は、蓮如上人の『御一代記聞書』にあります。


善知識の仰せなりとも成るまじきなんど思うは、大きなるあさましきことなり。なにたる事なりとも、仰せならばなるべきと、存ずべし。此の凡夫の身が仏になるうえは、さてなるまじきと存ずること、あるべきか。しかれば、「『道宗、近江の湖を一人してうめよ』と、仰せ候うとも、『畏まりたる』と、申すべく候う。仰せにて候わば、ならぬこと、あるべきか」と、申され候う。(百九十二)


です。蓮如上人はこのように仰っているのだから、善知識から近江の湖(琵琶湖)を一人で埋めてこいといわれれば、躊躇無く、疑い無く従わなければ信心決定できないのだと親鸞会では教えています。
しかし、これが本当に正しい解釈なのでしょうか。

以下、歴史学的観点から史料を分析します。

まず、『御一代記聞書』とは、蓮如上人78才の時に生れた実悟法師が、蓮如上人の言行録(空善著『空善記』、蓮悟著『蓮如上人御物語次第』、実悟著『実悟旧記』)を抄出し再編集したものとされています。あるいは実悟法師の子顕悟法師の編という説もあります。

さて、この『御一代記聞書』にある文章は大きく分けて4通りに分けることができます。

1.蓮如上人の直のお言葉
2.蓮如上人のお言葉の聞き書き
4.実如上人、法敬、道宗等の言葉
3.著者もしくは発言者不明の言葉

1番目は、『御文章』の引用です。たとえば、


然れば、『御文』には、『一心一向に、仏、たすけたまえと申さん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、かならず、弥陀如来はすくいましますべし。これ、すなわち、第十八の念仏往生の誓願の意なり』と云えり。(百八十五)


は、『御文章』をそのまま引用していますので、間違い無く、蓮如上人のお言葉です。

2番目は、蓮如上人の仰ったことを聞いていた人の記録か、又聞きをして記したものです。
前々住上人とは、蓮如上人のことです。たとえば、


蓮如上人、仰せられ候う。「物をいえいえ」と、仰せられ候う。「物をいわぬ者は、おそろしき」と、仰せられ候う。「信不信、ともに、ただ、物をいえ」と、仰せられ候う。「物を申せば、心底もきこえ、又、人にもなおさるるなり。ただ、物を申せ」と、仰せられ候う由候う。(八十七)

前々住上人、その時、仰せられ候う。「それは、不思議にてもなきなり。仏の、仏に御なり候うは、不思議にてもなく候う。悪凡夫の、弥陀をたのむ一念にて、仏になるこそ不思議よ」と、仰せられ候うなり。(七十八)


などです。また主語はありませんが、


大津近松殿に対しまして仰せられ候。信心をよく決定して、ひとにもとらせよと、仰せ候ひき。(十五)


これも蓮如上人のお言葉として書かれています。これらは必ず「仰せられ」と尊敬語を使用しています。
この2番目については、聞き間違いや又聞きによる伝達上の誤りの可能性もありますので、1番目の蓮如上人の直のお言葉に比べると、間違いない蓮如上人のお言葉という断定はできません。

3番目は、それぞれの発言者の名前を出して書かれています。前住上人とは、蓮如上人の後、本願寺を継がれた実如上人のことです。


前住上人、仰せられ候う。「前々住より御相続の義は、別義なきなり。ただ弥陀たのむ一念の義よりほか、別義なく候う。これよりほか、御存知なく候う。いかようの御誓言もあるべき」由、仰せられ候う。(八十五)

法敬坊、九十まで存命そうろう。「このとしまで聴聞もうしそうらえども、これまでと存知たることなし。あきたりもなきことなり」と、もうしそうろう。(四十七)

道宗は、「ただ、一つの御詞を、いつも聴聞申すが、初めたるように、有り難き」由、申され候う。(百三十一)


これらがそうです。実如上人には名前と「仰せられ」という尊敬語を、他の人は名前と「申され」という謙譲語を使ってありますので、分かりやすいです。実如上人にも尊敬語が使われていますので、蓮如上人と間違いやすいですが、実如上人の場合は、主語がはっきりと書かれてありますので、それで区別できます。

以上1番目から3番目までは発言者の名前がはっきりわかりますので、聞き間違い等があるとしても、著者は自信を持ってその人の発言として書いたと思われます。

問題は4番目です。たとえば、


教化するひと、まず信心をよく決定して、そのうえにて聖教をよみかたらば、きくひとも信をとるべし。(十三)

無生の生とは、極楽の生は三界をへめぐるこころにてあらざれば、極楽の生は無生の生というなり。(三十六)


は、発言者の名前がなく、「仰せられ」「申され」と書かれてありませんので、普通に解釈すれば著者の言葉です。これらも蓮如上人のお言葉と親鸞会では解釈していますが本当にそう言い切れるでしょうか。少なくとも、蓮如上人のお言葉を正確に伝えている可能性は、1番目、2番目よりも格段に落ちます。

少し話は逸れますが、次の有名な文章では、


他流には、「名号より絵像、絵像よりは木像」と、云うなり。当流には、「木像よりは絵像、絵像よりは名号」と、いうなり。(七十)


と発言者の名前がありません。「仰せられ候」とも書かれてありません。親鸞会では、これが蓮如上人のお言葉として、御本尊は名号に限る、と声高らかに主張していますが、蓮如上人が御本尊を木像、絵像にされたこともある歴史的事実を見れば、ここは蓮如上人のお言葉ではなく、著者の言葉である可能性が非常に高いことになります。伝承を書いたのかもしれませんが、蓮如上人の真意を誤って記していることも十分にあり得ます。

以上のことを踏まえて、善知識への無条件服従の根拠である


善知識の仰せなりとも成るまじきなんど思うは、大きなるあさましきことなり。なにたる事なりとも、仰せならばなるべきと、存ずべし。此の凡夫の身が仏になるうえは、さてなるまじきと存ずること、あるべきか。しかれば、「『道宗、近江の湖を一人してうめよ』と、仰せ候うとも、『畏まりたる』と、申すべく候う。仰せにて候わば、ならぬこと、あるべきか」と、申され候う。


をみると、前半の3つの文は、発言者の名前もなく、「仰せられ」とも「申され」とも書かれてありません。最後の文は、「申され候」とありますので道宗の言葉です。
この文章を先入観を無くして読んでみて下さい。著者が、自分の意見を述べているのだと感じられると思います。
ここには蓮如上人のお言葉と考えられる文が1つもないのです。
つまり、この文章をもって蓮如上人が「善知識に無条件服従せよ」と仰った根拠とは、ならないのです。

一方、蓮如上人のお言葉で間違いのない『御文章』で善知識に対する姿勢をみると、


またあるひとのことばにいわく、「たとい弥陀に帰命すというとも、善知識なくは、いたずらごとなり。このゆえに、われらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と云々。これも、うつくしく当流の信心をえざるひとなりときこえたり。そもそも善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。一には宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義成就せずは、往生はかなうべからずとみえたり。されば善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよといえるつかいなり。宿善開發して、善知識にあわずは往生はかなうべからざるなり。しかれども、帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おおきなるあやまりなりとこころうべきものなり。(二帖目第十一通)


と、「善知識ばかりをたのむべし」「ただ善知識ばかりを本とすべきこと」は、大変な間違いであると仰っています。無条件服従するのは善知識ではなく、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」の阿弥陀仏であります。これが浄土真宗であり、蓮如上人の教えられたことです。
阿弥陀仏に無条件服従するためには、善知識に無条件服従せよ、とは一言も仰っていませんので、善を捨てるために善をせよ、と全く同じトリックです。

信心決定に最も大事な「阿弥陀仏に帰命(無条件服従)する」を、「善知識に無条件服従する」と無条件服従の対象をすり替えてしまっては、万劫の間求めても信心決定などできる筈がありません。向くべき方向が違うのですから。

なぜ、こんなにはっきりした善知識だのみの異安心を更に強調して親鸞会は教えているのか。
常識では考えられない邪義ですので、こんな邪義を説く人物が善知識でないことは、今更説明するまでもありません。
高森会長の目的が、会員の信心決定とは別にあるとしか言い様がありません。
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2009-08-27

善知識には無条件服従しなけらばならないのか 2

親鸞聖人の法然上人に対するお気持ちを表したとされる『歎異抄』第2章の文を挙げて、親鸞聖人も法然上人に無条件服従なされたのだから、善知識に無条件服従しなければ信心決定できない、と親鸞会では説明しています。それが


親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひと(法然上人)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生まれるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、 総じてもって存知せざるなり。
たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。



です。衝撃的な内容で、ここだけ読めば、親鸞聖人は法然上人を盲信しておられ、親鸞会の主張も一理あると錯覚する人もあるでしょう。
ただし『歎異抄』は親鸞聖人の書かれたものではありませんので、親鸞聖人のお言葉と断定はできません。そこで親鸞聖人の御著書の中から法然上人に対するお気持ちを仰ったものでは、『高僧和讃』に


曠劫多生のあいだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし



とあります。『歎異抄』の表現とはかなり違います。この御和讃と関係があるものとして、『正像末和讃』には


三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなわで流転せり



と仰っています。
親鸞聖人は、過去世から自力修善に勤められてきました。その結果、流転輪廻をされたと仰っています。それが法然上人に出遇われて「出離の強縁」を教えられ、阿弥陀仏に救われられたのです。もし、法然上人に出遇わなければ、また過去世同様に流転輪廻をしていたであろう、との親鸞聖人のお言葉です。法然上人に対する深い感謝のお気持ちを表されたものです。

ここで思い出されるのが『教行信証』化土巻の三願転入の御文です。


ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。


法然上人を通して、高僧方の御教化によって、永い間迷ってきた自力修善の仮門、19願を離れることができた、そして自力念仏の20願に回入して、果遂の誓いにより、他力念仏の18願へ転入した、とのお言葉です。ここでも、法然上人によって、自力修善の迷いから離れることができたと仰っています。修善から念仏へ導いて下された善知識方に対して、大変な感謝のお気持ちを仰った御文ともいえます。

同様のことを、存覚上人は『浄土真要鈔』の中で


釈尊・善導この法を説きあらはしたまふとも、源空・親鸞出世したまはずは、われらいかでか浄土をねがはん。たとひまた源空・親鸞世に出でたまふとも、次第相承の善知識ましまさずは、真実の信心をつたへがたし。善導和尚の『般舟讃』にいはく、「若非本師知識勧 弥陀浄土云何入」といへり。文のこころは、「もし本師知識のすすめにあらずは、弥陀の浄土にいかんしてか入らん」となり。知識のすすめなくしては、浄土に生るべからずとみえたり。また法照禅師の『五会法事讃』にいはく、「曠劫以来流浪久 随縁六道受輪廻 不遇往生善知識 誰能相勧得回帰」といへり。この文のこころは、「曠劫よりこのかた流浪せしこと久し、六道生死にめぐりてさまざまの輪廻の苦しみを受けき。往生の善知識に遇はずは、たれかよくあひすすめて弥陀の浄土に生るることを得ん」となり。


と教えられています。
いずれも、善知識に遇うことで、阿弥陀仏の本願を知ることができ、出離して、浄土往生できるのだと仰ったものであります。

以上のことを踏まえて、先程の『歎異抄』第2章を後の文章も含めて改めて読み直してみましょう。


親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひと(法然上人)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生まれるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、 総じてもって存知せざるなり。
たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。
その故は、自余の行も励みて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄に堕ちて候はばこそ、「すかされたてまつりて」といふ後悔も候はめ。



以前にも述べましたように親鸞聖人の懺悔のお言葉として「地獄に堕ちる」とありますが、これを親鸞聖人の御著書のお言葉から「流転輪廻」と読み替えると、先の『高僧和讃』や三願転入の御文と同じ内容を、表現をかえただけであることが分かります。
法然上人に騙されなくても、自力修善に勤めて流転輪廻するのですから、騙されても騙されなくても関係ないのです。「地獄に堕ちる」という強烈な言葉に迷わされて、この文章を読むと善知識だのみになってしまいます。

なお、同じ『歎異抄』で善知識の仰せに対する心構えについて書かれたものとしては、第13章に、


あるとき「唯円房は我がいふことをば信ずるか」と仰せ候ひし間、「さん候」と申し候しかば、「さらば我が言はんこと違ふまじきか」と重ねて仰の候ひし間、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば人を千人殺してんや、しからば往生は一定すべし」と仰候ひしとき、「仰にては候ども、一人もこの身の器量にては殺しつべしともおぼえず候」と申して候ひしかば、「さては親鸞がいふことを違ふまじきとは言ふぞ」と。「これにて知るべし、何事も心にまかせたることならば、往生の為に千人殺せといはんに即ち殺すべし。然れども一人にても殺すべき業縁なきによりて害せざるなり。我が心の善くて殺さぬにはあらず、また、害せじと思ふとも百人千人殺すこともあるべし」と仰の候ひしは、我等が心の善きをば「よし」と思ひ、悪しきことをば「あし」と思ひて、「本願の不思議にて助けたまふ」といふことを知らざることを仰の候ひしなり。


とあります。親鸞聖人が、「浄土往生したいのならば千人殺してきなさい」と仰っても、それに従わない唯円に対して、その心構えがおかしいとは仰っていません。

以上のことから、この『歎異抄』第2章のお言葉で、親鸞聖人が法然上人に対する無条件服従をされ、しかも自分と同じように善知識に無条件服従をせよ、という解釈は、到底導き出せません。善知識に対して尊敬や深い御恩を感じることはあっても、それと無条件服従とは全く別の事柄です。

『歎異抄』は読み間違えると非常に危険な聖教であり、そのために蓮如上人が奥書に


無宿善の機においては、左右なくこれを許すべからず


と書き加えられましたが、全くその通りであります。

蓮如上人が仰った「無宿善の機」とは、拡大解釈を繰り返して、親鸞聖人の教えをカルト教義に変貌させる人物のことではないでしょうか。
そんな人物に騙されて地獄に堕ちたならば、必ず後悔します。騙されている親鸞会会員の皆さんが、一刻も早く目を覚まされることを、心より念じ申し上げます。

2009-09-02

善知識には無条件服従しなければならないのか 3

これまで2回にわたって善知識への無条件服従という考え方の誤りを述べて来ました。
また最近、他のブログでも同テーマについて解説されています。

「清森問答」親鸞会教義の相対化・83
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-333.html


「苦笑の独り言」本当の善知識は無条件服従を強要せえへんのや!!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-427.html


ところが、親鸞会では未だ理解できない会員が多いようで、『御一代記聞書』に蓮如上人の仰ったこととして記されている


前々住上人へ、ある人、申され候う。開山の御時のこと申され候う。「これは、いかようの子細にて候う」と、申されければ、仰せられ候う。「われもしらぬことなり。何事も何事も、しらぬことをも、開山のめされ候うように、御沙汰候う」と、仰せられ候う。(百五十九)


は間違いなのか、という反論をしてくる人がいると聞きましたので、もう少し解説致します。

親鸞聖人は『教行信証』化土巻に『大智度論』から以下を引用されています。


『大論』(大智度論)に四依を釈して云わく、涅槃に入りなんとせし時、もろもろの比丘に語りたまわく、「今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし」と。「法に依る」とは、法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。


釈尊が涅槃入られた後、何に従っていくべきかを教えられたものです。その最初に、「法に依りて人に依らざるべし」とあり、その説明が「「法に依る」とは、法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。」です。釈尊が説かれた教えに従うのであって、教えを説く人に従うのではない、ということです。
なぜなら、どんなに素晴らしいと思える善知識であっても、仏ではありませんので、間違いを犯すことはあります。仏である釈尊から御教導頂けない時代には、仏ではない善知識に無条件服従するのは誤りであるとはっきり教えられています。
仏ではない善知識が、間違ったことを教えているのかどうか凡夫にはどうかわからないのですから、何も考えずに鵜呑みにしては、異安心に陥る危険性が大です。

そのことを『教行信証』化土巻では『涅槃経』から引用されて


また言わく、善男子、信に二種あり。一つには信、二つには求なり。かくのごときの人、また信ありといえども、推求するにあたわざる、このゆえに名づけて「信不具足」とす。信にまた二種あり、一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞より生じて、思より生ぜず、このゆえに名づけて「信不具足」とす。


と教えられています。教えられたことをただ鵜呑みにして、納得するまで推求、追及しないのは、「信不具足」、間違った信心である。また、ただ聞いているだけ、信じているだけで、納得するまで思惟しないのは、「信不具足」、間違った信心である、ということです。つまりは、善知識からいわれたことに対して、すべてのことを鵜呑みにして、納得もしない、考えることを放棄する、これが間違いを教えられるために親鸞聖人は『涅槃経』を引用されているのです。

また覚如上人は『改邪鈔』に
「一 本願寺聖人の御門弟と号する人々のなかに、知識をあがむるをもって弥陀如来に擬し、知識所居の当体をもって別願真実の報土とすという、いわれなき事。」
と題して以下のように書いておられます。


善知識において、本尊のおもいをなすべき条、渇仰の至りにおいてはその理しかるべしといえども、それは仏智を次第相承しまします願力の信心、仏智よりもよおされて、仏智に帰属するところの一味なるを仰崇の分にてこそあれ、仏身・仏智を本体とおかずして、ただちに凡形の知識をおさえて「如来の色相と眼見せよ」とすすむらんこと、聖教の指説をはなれ、祖師の口伝にそむけり。本尊をはなれて、いずくのほどより知識は出現せるぞや。荒涼なり、髣髴なり。実語をつたえて口授し、仏智をあらわして決得せしむる恩徳は、生身の如来にもあいかわらず、木像ものいわず経典くちなければ、つたえきかしむるところの恩徳をみみにたくわえん行者は、謝徳のおもいを専らにして、如来の代官と仰いであがむべきにてこそあれ、その知識のほかに別の仏なしということ、智者にわらわれ愚者をまよわすべきいいこれにあり、あさまし、あさまし。


たとえ正しい教えを説かれているとしても、知識は、阿弥陀仏ではありませんし、仏でもありません。知識を仏のように扱うのは浅ましいことであると教えられています。

このように、善知識に無条件服従するのは間違いであることが、至る所で書かれてある訳です。

そこで、最初の『御一代記聞書』を改めて検証しますと、これがそのまま全ての事柄において蓮如上人が親鸞聖人の仰った通りになされたと理解するのは無理があります。
蓮如上人は親鸞聖人の教えられたことと表面上は違うことを沢山なされています。たとえば、権力者に近付くことを誡められた親鸞聖人に対して、蓮如上人は権力者を利用されています。以前にこのブログに書いたことに関連していえば、親鸞聖人は化土往生について、かなり力を入れて説かれていますが、蓮如上人は化土往生について『御文章』には全く仰っていません。その他いくつもあります。
そのことで蓮如上人を非難する人が今日でも多いことを考えれば、ここに記されてあることは、ある特定の事柄について仰ったお言葉と考えるのが自然でしょう。実際そういった考え方が通説になっています。
前々回と前回にも述べましたが、親鸞聖人、蓮如上人の御著書以外の"お言葉"は、聞き間違い、理解の間違い、伝え間違い等があり、注意が必要です。
なお念の為申しておきますが、蓮如上人が親鸞聖人の仰った通りになされていないことが、親鸞聖人の御心に反することであったとは、私は考えておりません。そのことは、紅楳英顕著『続・浄土真宗がわかる本』(教育新潮社刊)にも詳しく書かれてありますので、興味がある方はそちらをお読み下さい。

皆さんご存知の通り、親鸞聖人も間違ったことをなされたという記録があります。飢饉で亡くなる人を浄土三部経を千回読まれて救おうとされて、それが間違いであったと述懐されたことがあると、『恵信尼消息』に記されてます。親鸞聖人でさえ、明らかな間違いをされたことがあるのです。

親鸞聖人の教えに盲信や無条件服従はありません。
ましてや、これまで散々述べてきたように、浄土真宗でも仏教でもない外道の教えを説く悪知識に、無条件服従するのは正気の沙汰とは思えません。
会員の皆さんが社会復帰するためには、まず悪知識への無条件服従をやめて下さい。第二のオウムとなってからでは手遅れです。

2009-09-30

善知識には無条件服従しなければならないのか 4

最近親鸞会で、無条件服従(絶対服従)についての反論や無条件服従した結果どうなるのかの実例がありましたので、再度、無条件服従の誤りを明らかにします。

親鸞会講師部員の「静かな劇場」というブログに


仏門においては絶対服従などあったりまえのことだろ、それがいやなら最初から門をくぐるな。


とあります。親鸞会では、よく「あったりまえ」とか「明々白々」という言葉を使いますが、そこにはいつも根拠がありません。間違いといっている人に対して、それは当たり前のことであるといいたいのなら、根拠の1つでも挙げるべきでしょうが、それがありません。
私は、できるだけ多くの根拠を挙げて、論理的に述べているつもりです。

善知識には絶対服従しなければならないのか 1
善知識には絶対服従しなければならないのか 2
善知識には絶対服従しなければならないのか 3

しかし、親鸞会では根拠も論理展開もなく、最初から最後まで結論だけです。
この講師も根拠が挙げられないから、たとえ話を出して誤魔化しています。


自分がガンの末期となり、医者という医者から匙を投げられ途方に暮れていたところ、ある所にそのガンを治してくれる医者がいると知れば、仕事をやめてでも診察を受けにいくだろう。その時、その医師の指示に絶対従うのではないか?「手術します」と言われて、そんなの嫌です。そんな押し付けは民主主義の精神に反します、傲慢だ、とか言って治療を拒むものだろうか?
そのガンを根絶したいなら私の言ったとおりにしなさいと、医師ならば当然言うだろうし、でも、病気を治したいと思うかどうかは本人の問題である。

病の深刻さを知り、何とか治したいと思うならば、医師の指示には絶対服従が善いか、悪いか、民主主義の価値観を共有する現代に照らしていかがなものか?などという論題がいかに無意味なものか分かるだろう。



親鸞会のいつものトリックです。このたとえ話自体に問題がないと確信しているのでしょうが、ガン患者が衆生とするなら、ガンを直す医者はどなたでしょうか。普通に考えれば、阿弥陀仏ではないでしょうか。このたとえでいうならば、阿弥陀仏に無条件服従する、これは正しいことです。しかしこの講師は、善知識を医者にたとえています。高森会長の話でも、阿弥陀仏を医者にたとえているのではないですか。このたとえがおかしいと思わないところが、典型的な善知識だのみの異安心です。

ただし、『涅槃経』には、仏と菩薩に限って真実の善知識として、医者にたとえられています。それを親鸞聖人は『教行信証』化土巻に


またのたまはく(涅槃経・徳王品)、「善男子、第一真実の善知識は、いはゆる菩薩・諸仏なり。世尊、なにをもつてのゆゑに、つねに三種の善調御をもつてのゆゑなり。なんらをか三つとする。一つには畢竟軟語、二つには畢竟呵責、三つには軟語呵責なり。この義をもつてのゆゑに、菩薩・諸仏はすなはちこれ真実の善知識なり。また次に善男子、仏および菩薩を大医とするがゆゑに、善知識と名づく。なにをもつてのゆゑに、病を知りて薬を知る、病に応じて薬を授くるがゆゑに。たとへば良医の善き八種の術のごとし。まづ病相を観ず。相に三種あり。なんらをか三つとする。いはく風・熱・水なり。風病の人にはこれに蘇油を授く。熱病の人にはこれに石蜜を授く。水病の人にはこれに
薑湯を授く。病根を知るをもつて薬を授くるに、差ゆることを得。ゆゑに良医と名づく。仏および菩薩もまたまたかくのごとし。もろもろの凡夫の病を知るに三種あり。一つには貪欲、二つには瞋恚、三つには愚痴なり。貪欲の病には教へて骨相を観ぜしむ。瞋恚の病には慈悲の相を観ぜしむ。愚痴の病には十二縁相を観ぜしむ。この義をもつてのゆゑに諸仏・菩薩を善知識と名づく。善男子、たとへば船師のよく人を度するがゆゑに大船師と名づくるがごとし。諸仏・菩薩もまたまたかくのごとし。もろもろの衆生をして生死の大海を度す。この義をもつてのゆゑに善知識と名づく」と。



と著しておられます。もし善知識を医者にたとえたいのならば、その善知識は仏と菩薩に限っていうべきでしょう。
仏と菩薩が第一真実の善知識である理由について、
畢竟軟語(この上なく優しい言葉)
畢竟呵責(この上なく厳しい言葉)
軟語呵責(優しい言葉と厳しい言葉)
を用いて衆生の心を調え導くからとあります。
また、仏と菩薩をすぐれた医者にたとえる理由は、
病のことも薬のこともよく知っていて、病に応じた薬を与えることができる
とされています。
つまり、仏と菩薩は、智恵と慈悲を具えている方だからです。

では、親鸞会の会長は、仏と菩薩に準ずるような智恵と慈悲を具えているでしょうか。
高森会長の近くにいた方から以下のようにいわれています。(「さよなら親鸞会」より)


 私は毎年、お中元とお歳暮を先生に贈っていました。その度に、お礼状が届きましたが、秘書が代筆して、最後に先生の直筆の署名が書かれてある葉書です。ある時、意味の分からない歌が書かれてありました。

 無常佛 疑いぬかせ 助け切る

「無上佛」なら分かりますが、「無常佛」とはどんな御心なのだろうか。先生の署名もあるし、秘書がたとえ書き間違えたとしても、最も心にかけておられる阿弥陀仏のお名前が書き間違えられていることを見逃される筈がない。きっと何か深い御心があるに違いない、しかし、何度読んでも意味が分からない。もしかして間違っているのではないか。でも何があっても絶対服従なので、間違っていると思うこともあってはならない。悩んだ挙げ句、局長に葉書を見せると、「これは今問題になっているんだ」と言われて葉書を取り上げられてしまいました。数日後、

 無上佛 疑いぬかせ 助け切る

と訂正されて、秘書のお詫びの言葉が添えられた葉書が届きました。しかし、今回先生の署名はありませんでした。

 特専部員として任務を遂行するには、呼ばれた時にはすぐに行けるようにしておく必要がありますので、会社を辞めて独立しました。先生の御指示にはすぐに対応する、絶対服従なんだからと、常に心掛けているつもりでした。

 先生との打合せで、「Aの方針にする」と決定されれば、その通りに即実行します。その後中間報告をすると、「Bにするのが当然だろう」といわれるので、すぐにBに変更します。再度確認すると、「なぜBにするのだ、Cの方がいいだろう」、すぐさま変更します。これを延々繰り返して、最後にはAに落ち着く、よくあるパターンでした。
 なぜこんなに方針が変わるのか。理由は

 ・前回のことを忘れた。
 ・思い直して変更したが、前回の指示が間違っているとはいえないだけ。
 ・絶対服従の姿勢を試している。
 ・機嫌が悪く、単なる嫌がらせ。

が考えられますが、その時々で4つともあります。しかし、信心決定のためには、何も言わずに従わなければならない教えです。

 先生とのある打合せの前日、私の身内が亡くなり、通夜の準備をしていると上司から電話があり、「明日は先生との打合せだろう、どうして前日から来て準備をしないのだ」と一方的に叱られ、事情を説明するも聞く耳持たずでしたので、「明日の早朝から準備をして打合せに備えます」と答えて納得してもらいました。もちろん翌日の葬式を欠席し、先生との打合せに出ました。打合せ後残っていると、「早く帰らなくていいのか」と言われましたが、今更帰っても葬式の後片付けも終わっています。他にいう言葉がないのかと思いました。

 またある人のアトリエで先生と打合せの前日、「あそこは汚いから、前もって皆で掃除をしてきなさい」と上司からいわれました。他人の所を勝手に掃除するなど、そんな非常識なことはできないというと、「汚いことで先生の御機嫌が悪くなり、やり直しと言われたら大変だろう」といわれるのです。機嫌で方針がころころ変わるのことを周りの人はよく知っていたのです。

 またある日の朝、「今日の昼に先生との打合せをする」との電話を受け、当日の予定を全てキャンセルして必死の思いで、時間に間に合わせるも、約束を先生にすっぽかされました。先生を追いかけて、他の場所で打合せをするも、先生から逆ギレされて罵られる。しかし、信心決定するには絶対服従するしかないので、ただただ耐えるしかありませんでした。

 来いといわれれば、片道4時間、往復8時間をかけてでも打合せに出向き、1週間に4往復、1ヶ月に16往復をしてでも任務を果たそうと努めました。

 先生と上司からの指示には、世間の仕事を放り出してでも、何を差し置いてでも従う、これ以外に救われる方法はない。上司は自分よりも先生に従っている、まだ自分は甘いのだと反省するのですが、あれほど先生に信順している上司でも救われないのなら、自分が救われることはないのではないかと、思い始めました。

 そして昨年、大事件が起こりました。同朋の里第1期工事で、特専部員が工事の大半の設計を請け負うことになったのですが、私は当時別の任務で余り関わっておりませんでした。その設計内容が、先生の思いと大きく違うということが工事中に発覚し、しかも特専部員以外の設計担当者の意見を無視して、特専部員が勝手に決めたということになっていたのです。特専部の関係者は退部に値する大問題となりましたが、当時全く関わっていなかった私までも重大な責任を問われたのです。

 余りにも理不尽なことでしたが、皆口を噤むばかりで反論する人が誰一人ありません。仕方なく、その時の経緯を私が聞き込みをした結果、濡れ衣を着せられていたことが判明し、問題が解決したかに見えましたが、それが大きな誤りでした。一度振り上げた拳は、簡単には降ろせません。特専部への責任は軽くはなったものの、その時の設計責任者と私に今回の責任が押し付けられた格好になりました。遠方から通う交通費は全て自腹、週の半分を使う任務も無報酬で続けるしかありませんでした。そんな状態が長く続く訳もなく、仕事も収入面でも大変な無理をした結果、経済的に破綻し、大きな借金を負うことになったのです。



この方の証言から高森会長に智恵も慈悲もないことが証明されています。

しかもこの方が当ブログについて会長に反論を依頼したところ、強制的に退会させられ、他の人にそのことを知らせると除名。
高森会長に無条件服従した結末が、除名
高森会長を医者にたとえるなら、命懸けで従う末期ガンの患者の病も分からず出鱈目な薬も与え、患者をさんざん弄んで、ついには身ぐるみ剥いで放り出した医者を騙る悪徳詐欺師でしょう。
このように高森会長は愚痴と無慈悲の塊のような人物であり、もちろん当ブログに一切反論できない高森会長に教学力もないことは、「あったりまえのことだろう」で、医者にたとえる善知識の条件は何一つ具えていません。

そんな人物を無二の善知識として崇めて、無条件服従を強いることが仏門と勘違いしているお目出たい講師には、呆れるばかりです。

また、都合のいいどこかの学者の説を探し出してきて、内輪で反論しているつもりの講師もいるそうですが、おおよそ論文というものを書いたこともないのでしょうし、論理的な思考のできない小学生レベルの人では、まともな議論も成立しません。

もし親鸞聖人の教えについて語りたいのならば、カルト教義ではなく真宗教義を基本から勉強しなさい。人格が崩壊して、私利私欲のための教義を創造したカルトの教祖に無条件服従することによって、謗法罪を際限もなく造り続ければ、行き着く先が無間地獄であることは、明々白々です。

2009-10-30

善知識には無条件服従しなければならないのか 5

善知識への無条件服従が間違っていることは、多くの方に理解して頂いていると思いまして、これ以上このことで書くつもりはありませんでした。しかし、ある変わった方からおもしろい意見を言われましたので、他の方から頂いた御意見も交えながらもう少し書いてみます。


説明するまでもありませんが、人間は完璧ではありません。それは知識でも同じですから、間違いを犯すことはあります。知識の説かれる正しい教えに従うのは、当たり前ですが、間違った教えと教えとは無関係なことに従う必要はありません。

具体例として、除名になった特専部員のことが出ていましたが、高森会長からの礼状に

「無常佛 疑いぬかせ 助け切る」

とあったそうです。親鸞会の無条件服従の教えでは、高森会長の言うことに間違いはないし、どんなことでもハイと信順する、つまりこれをこのまま正しいものとして受け取るべきと教えています。

親鸞会講師部員聖則
一、会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
一、上司の指示は会長先生の命と心得ます。

しかし、それが正しいことでしょうか。明らかに間違っていることは、理性の残っている人なら分かる筈です。
それで、この礼状を代筆した秘書も、相談を受けた局長も間違いと流石に認識して訂正しています。その時の態度がどうであったかはともかくとして、高森会長の誤りを訂正したのは正しいことです。しかし、無条件服従という教えからいえば間違った行為となりますので、ここに矛盾があります。本来はこの歌で正しいと押し通したかったのでしょうが、余りにも明らかな、しかも最も心をかけるべき無上仏に対しての問題ですから、誤魔化すこともできず、渋々訂正せざるを得なかったというところでしょうか。

大体、不完全な人間を完全なものと考えよということ自体がおかしなことです。そんな教えがどこにありますか。そういえば『往生要集』を根拠にされた奇特な方もありましたがお笑いです。

では何に依るべきか。それについて教えられたのが四依です。『教行信証』化土巻にあるお言葉と、その解説をした書物がありますのでそれを読んでみて下さい。


『教行信証』化土巻

『大論』(大智度論)に四依を釈して云わく、涅槃に入りなんとせし時、もろもろの比丘に語りたまわく、「今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし」と。「法に依る」とは、法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。「義に依る」とは、義の中に好悪・罪福・虚実を諍うことなし。かるがゆえに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人、指をもって月を指う、もって我を示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人、語りて言わん、「我指をもって月を指う、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるや」と。これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもってのゆえに、語に依るべからず。「依智」とは、智はよく善悪を籌量し分別す。識は常に楽を求む、正要に入らず、このゆえに「不応依識」と言えり。「依了義経」とは、一切智人います、仏第一なり。一切諸経書の中に仏法第一なり。一切衆の中に比丘僧第一なり。無仏世の衆生を、仏、これを重罪としたまえり、見仏の善根を種えざる人なり、と。
 しかれば末代の道俗、善く四依を知りて法を修すべきなりと。
 


存覚上人著『六要鈔』

次に『大論』の文、四依の釈なり。その意は顕著なり。委しく述ぶるに能わず。「依義」の下、「如人」等とは、指を以て語に譬え、月を以て義に喩う。玄悟の賓は直爾〈すぐ〉に月を看て指を見ざるなり。「依了義」の下、「有一」等とは、了・不了の義は諸経の異説。諸宗の所談、領解まちまちなれども、今教の宗はただ仏説を以て了義経とす。この論灼然なり。『大経』の下に云わく「如来の智慧海は深広にして涯底なし。二乗の測る所にあらず。ただ仏のみ独り明了なり」已上。弥陀の五智深奥の理は、三乗・五乗はその境界にあらず。この故に今、菩薩等の説は信用に足らざることを談ず。この義を以ての故に、了義経の名は仏説に被らしむるなり。深心の釈(散善義)に云わく「仏を除きて已還は、智行未だ満たせず。その学地に在り。正習ありて、二障未だ除こらず、果願未だ円かならざるに由りて、これらの凡聖は、たとい諸仏の教の意を測量すれども、未だ決了すること能わず。平章することありと雖も、かならず須く仏証を請して定とすべきなり」已上。「一切衆中比丘」等とは、問う、仏を除きて已還はみな所信にあらず。今の釈の如きは、これを用うべきや。答う、信用する所の仏自口説・了義経とは、所説の理に約す。「今比丘僧第一」等とは、無仏世の時、その形体に約してこれを判ずる所なり。


星野元豊著『講釈 教行信証』

 竜樹菩薩は『大智度論』において修行者の依るべき教訓として四つあることを説いている。釈尊が涅槃に入ろうとされるとき、もろもろの比丘たちに語られた。お前たちは今日からはまず第一にどこまでも教法に依りどころを求めるべきであって、人に依ってはならない。第二に教法の意味道理によるべきであって、単なる表面上の語句に依ってはならない。第三には、智慧に依るべきであって情識に依るべきではない。「識」には「シルニ」の左訓がなされている。理性的概念的な知識の意味であろう。仏教における真実の智慧と単なる概念的知識とは本質的に異なっている。更に智慧は感情とも異なっている。ここは智慧に依るべきで概念や感情に左右されるなといわれているのである。第四には了義経(教の義理を完全にあらわしている経典)によるべきであって、不了義経(不完全な経典)によってはならない。
 法に依るというのは、仏の教説は十二部に分類されているが、いずれにしても仏の教説に従うべきであって、その教説を説く人に従ってはならない。人ということになると、人によってその説き方なり、解釈の相違も出てくるであろうから、人に随ってはならない。
 義に依れということはどういうことかといえば、そもそも意味・論理の中に好きとか嫌いとか、罪悪とか福徳とか、虚偽とか真実とかをあらそうことはない。意味・論理にはそのような争いの対立はない。言語というものはすでに意味・論理というものを表わすことを目指したものである。意味・論理はそのまま即言語ではない。たとえば人が指で月を指して私に教えるばあい、指だけを視て月をみないならばその人はいうであろう。わたしは指で月を指してあなたに教えているのに、あなたはどうして指を見て肝心の月をみようとしないのですかと。いまそれと同じで、言葉というものは、その意味を指す指のようなものである。言葉は意味ではない。だから言葉にとらわれてはならないのである。
 第三に智に依るというのは、智慧はよくものの善悪をはかって分別するものである。それに対して心情的なものは常にただ楽しみのみを求めるものである。それで生死を出離するという正しい肝心なことに気付かぬのである。それであるから識(心情的なもの)によるべからず、智慧に依らねばならぬといっているのである。
 了義経に依るということは、完全な教を説いた経典に依れということであるが、その次の「一切智人います仏第一なり。…」とどのように続くのであろうか。おそらくいろいろな智者といわれる人はいるが、それらの中で仏は第一である。だから仏の説いた了義経は第一にすぐれた完全なものであるという意味であろう。それだからまた経典といわれているものは多いが、仏法の経典は第一位に位するものである。いろいろな人のいるなかで無仏の世の人たちを仏は重罪の者であるとされた。何故ならそれらは仏を身たてまつるという善根を植えない人たちであるからである。この無仏の世の人たちについての文は理解しにくいが、親鸞の意をくんで解してみよう。無仏の世は末世であり、そこに生を享けた人は不幸な人たちといわねばならない。見仏の善根のないいわゆる無宿善の機である。無仏の世はこのような仏をみる機会がない。仏を見ない者は真実を見ない者である。真実を知らないから、自己の真実がいかなるものであるかも知らない。自己を知らないから自己が仏によって在らしめられていることを知らない、あくまでも自主独立的に在ると思っている。それは全く仏に背いた者として重罪といわれるに値するであろう。いまここでは、第一の智人たる仏と衆生中の第一の比丘僧と重罪無宿善の者の三者があげられている。文章の上からいえば、「了義経とは…」とあるから、了義経の説明といわねばならない。とすれば、了義経の第一は一切智人のうちの第一の仏の説いた経であり、仏法第一であるから、仏法の説かれている仏教経典が了義経であることを示したものであるといえよう。そしてこの了義経によって修道する比丘僧は衆生中の第一であり、仏について知らない者、換言すれば了義経を知らない者は重罪の者であるということである。
 それであるから末代の出家や在家の人たちはよくこの四依を知って、心して道を求め法を修すべきである、と結ばれている。

 『大論』に釈してとあるが、ここの引文は『大智度論』そのままではなく、取捨があり、書き加えたところもあるが、一々吟味する必要はなかろう。ここはむしろ親鸞の文として、そのまま解すべきである。それにしても「了義経とは……」の文は極めて理解しにくいため、先輩はいろいろとこれについて論じているが、いまはわずらわしくそれを紹介するほどのことでもないので、止めたいと思う。それよりもここで肝心なことは「了義経に依れ」ということである。そして了義経とは仏、仏法、比丘僧を完備して説かれている経をいうのである。また無仏世の衆生とは、末世のわれわれのことをいっているのである。心をひそめて読むならば、末世の衆生は了義経によれという意図を理解することができるのであろう。
 親鸞は「しかれば末代の道俗よく四依を知って法を修すべきなり。」と結んでいる。わたくしは親鸞の浄土真宗の末学はなによりもこの句を肝に銘じて忘れてはならないと思う。
 仏はいよいよ涅槃に入ろうとした時、こういっている。「法に依って、人に依らざるべし」と。これは言葉を換えていえば、私が云ったから尊いのであり、真実であるのではなくして、法なるが故に真実なのであり、尊重すべきなのだと。しかもそれをわざわざ説明して、法に依れとは、法はその説き方に十二の説き方があるけれども、その説き方にまどうことなく、それを説く人に随うことなく、その説かれた教法の真髄をつかむべきだと。ここでは前文の仏説なるが故に信用すべきだということと矛盾するようであるが、しかしむしろここでこそ、前文の本当の意味するところが理解されるであろう。仏説の仏とは人間釈尊その人をいうのではなくして、仏となった仏釈尊そのもの、仏そのものをいうのである。そこでは人間釈尊が説いているのではなくして、法と一体の仏それ自身、あるいはもっと適切には法としての仏が説いているのだといえよう。仏とは生きた法そのものである。従って大乗が釈尊金言口の説法でなくとも、そのことによって大乗仏教としての浄土三部経の価値は微塵も損ぜられない。たとえ人間釈尊より時代が隔たって説かれたものであっても、依然として仏説なのである。前文の仏説は「法に依って人に依らざるべし」という、ここの文を根底においてこそ正しく理解されうるといえよう。



浄土真宗教学研究所編『顕浄土真実教行証文類-現代語版-』

 『大智度論』に、四つの依りどころについて次のようにいわれている。
 「釈尊がまさにこの世から去ろうとなされるとき、比丘たちに仰せになった。<今日からは、教えを依りどころとし、説く人に依ってはならない。教えの内容を依りどころとし、言葉に依ってはならない。真実の智慧を依りどころとし、人間の分別によってはならない。仏のおこころが完全に説き示された経典を依りどころとし、仏のおこころが十分に説き示されていない経典に依ってはならない。
 教えを依りどころとするとは、仏の説いた教えには十二部経があり、この教えにしたがうべきであって、説く人にしたがってはならないということである。教えの内容を依りどころとするとは、教えの内容に、よいと悪い、罪と功徳、嘘とまことなどの違いをいうことなく、だから言葉は教えの内容を表わしているものであって、教えの内容が言葉そのものなのではない。言葉に依って教えの内容に依らないのは、人が月を指さして教えようとするときに、指ばかりを見て月を見ないようなものである。その人は、《わたしは月を指さして、あなたに月を知ってもらおうとしたのに、あなたはどうして指を見て月を見ないのか》というであろう。これと同じである。言葉は教えの内容を指し示すものであって、言葉そのものが教えの内容であるわけではない。このようなわけで、言葉に依ってはならないのである。真実の智慧を依りどころとするとは、真実の智慧に依れば善と悪とをよく考えてその違いを知ることができるが、人間の分別は常に楽しみを求め、さとりへ向かう正しい道に入ることができないということである。だから、人間の分別に依ってはならないといったのである。真実を完全に説き示した経典を依りどころとするとは、智慧あるものすべての中で仏を第一とし、教えを受けるものすべての中で出家のものを第一とするということである>と。
 仏のおられない世の衆生を、仏は罪が重いとされた。これは仏を見たてまつる功徳を積まなかった人なのである」
 このようなわけであるから、末法の時代の出家のものも在家のものもこの四つの依りどころをよく知って仏法を修めなければならない。



さて、皆さんはどのように理解されましたでしょうか。

古い学者の説を押しつけようとしているのは、「指を見て月を見ていない」人でしょう。解釈は学者によって異なって当然です。
また存覚上人が引用された『大無量寿経』と『散善義』のお言葉をどのように解釈しているのでしょうか。
星野氏が「人ということになると、人によってその説き方なり、解釈の相違も出てくるであろうから、人に随ってはならない。」と書かれたことをよく考えてみるべきです。

しかし、言葉に囚われて、指を見て月を見ていないといわれてている本人は、それが自分のことという自覚がないので理解できず、下らないことをいつまでも言い続けるのでしょう。
御苦労なことです。
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