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2009-12-03

紅楳英顕著『派外からの異説について』

親鸞会と本願寺との論争で、最も重要な論文が、紅楳英顕師の書かれた
『派外からの異説について』です。この論文に対する反論が『本願寺なぜ答えぬ』
ですが、『本願寺なぜ答えぬ』の巻末に全文載せると本文中に書きながら、
高森会長が載せなかったものです。幹部会員にも一切見せていないそうです。
なぜ、載せなかったのか、幹部会員に読ませなかったのか、この論文を読まれれば
その理由が明らかになります。
紅楳英顕師から許可を頂いて全文紹介致します。






      派外からの異説について



         紅楳英顕著




     

 もと本願寺派の僧侶であった高森顕徹氏は、現在富山県の高岡市に本部を設
ける宗教法人「浄土真宗親鸞会」(以下、高森親鸞会という)の会長として、かねてよ
り破邪顕正の名のもとに本願寺に対する誹謗をかさね、あるいは宣伝ビラを広
く配付し、あるいは本願寺派寺院におしかけて議論をしかけ、あるいは法座の
妨害をするなどの活動をつづけていることは御承知の方も多いと思う。
 しかし、私どもから見れば、同会の主張には親鸞聖人の正しい宗義に違背す
ると思われるところが少なくない。そこで、本派の方々が同会の宣伝に惑わさ
れることのないように、その主張の問題点の一部を昭和五十四年十二月発行の
『伝道院紀要』24号に「現代における異議の研究」-高森親鸞会の主張とその
問題点-と題して発表したわけである。
 ところが、右の論文について、同会から「親鸞会を中傷した」ということで、
質問状が十数回も送られ、宣伝ビラが配付され、伝灯奉告法要中には多数の会
員が白洲に入りこんで、手に手にマイクを持って絶叫し、大切な法要を妨害す
るありさまであった。
 高森親鸞会は真実開顕のためと述べてはいるが、実は初めから高森氏の主張
が真実で、他の本願寺などの説くところはうそ偽りであるという前提に固執し
た上での論議をするのである。このことは、同会の本願寺非難の文を見れば容
易におわかりいただけると思う。
 けれども、私は、要求に応じて答えるべきことは答えたのであるが、自分達
の気に入らない答えは答えと認めない、という態度で繰り返し答えを要求する
始末であった。そこで、私は文証をあげて論文で同会の主張を批判したのであ
るから、それに異議があればお聖教の適確な文証を示して論文として発表する
のが筋であろう、と最後に返信したのである。
 その後、昨年(昭和五十六年四月)、高森親鸞会は『本願寺の体質を問う』という
本を出版し、大々的に宣伝し、また地方にも持ち歩いて頒布した。その書は、
私も一読したが、失礼ながら、適格な文証を示しての反論ではなく、私の主張
を歪曲したり、悪口雑言を並べたりしているものである。また同会から、私に
本を出版したとも、反論しろとも、何の連絡もなかったので、あえて反論する
必要もなかろうと思い、そのまま放置していたのである。
 ところが、本年八月十三日に「答えを求める」ということで、またまた多数
の会員が総御堂に入り、揃いの鉢巻をしめて座りこみ、閉門時が過ぎても退去
しないという行動に出てきたのである。しかも、これで終わることなく、更に
次の挙に出るといっている。
 こういうわけで、高森親鸞会が私個人に対して罵詈誹謗をあびせるだけなら
ば、相手にしないということも考えられるが、このように騒ぎ立てる以上は、
ここにおける宗義上の問題は何か、真相はどうか、ということを各位に知って
いただくため、その論点の概要を示す次第であります。

    はじめに

 高森親鸞会発行の『本願寺の体質を問う』は、「なぜ真実開顕に背を向けるの
か、本願寺の体質を問う」と「親鸞会はかく反論する」の二部からなっている。
この中、第一部「本願寺の体質を問う」は、高森親鸞会から私や本願寺当局宛
に出された質問状と、私から同会に出した返信を、月日の順に掲載したもので、
第二部「親鸞会はかく反論する」には、宿善論の問題と後生の一大事の問題に
ついて、私の論文の主張に対する反論非難がなされている。
 問題を混乱させないために、最初に申しあげておくが、この書『本願寺の体
質を問う』のはじめに、
  本派本願寺発行の『伝道院紀要』二十四号は、「現代に於ける異義の研究
  -高森親鸞会の主張と、その問題点」と題して、「親鸞聖人の教えに反す
  る、全くの謬見であり異義である」と、親鸞会批難の論文を掲載した。本
  願寺の主張を代弁して、紅楳英顕氏が書いたものである。
(はじめに)
とある。ここに「本願寺の主張を代弁して……」とあるが、私は、本願寺の主
張を代弁したのではない。かねてから本願寺に対して何かと非難中傷している
高森親鸞会の主張について、その問題点を私個人の研究論文として発表したの
である。それは、派内の方がたに参考にしていただくためであって、同会に対
する攻撃を目的としたものではない。その旨は、同会に知らせてある。にもか
かわらず、「相変わらず本願寺の主張を代弁して」等と言い張っているわけで
ある。
 また、次下には、
  本願寺の批判論文には幾多の不審や疑問があった。そこで親鸞会はその不
  審を散ぜんが為に四つの質問を提出し、誠心誠意返答を求め続けて来た。
  が今だに回答が得られない。
(はじめに)
と述べている。高森親鸞会は、私が一度も回答をしていないようにいい、同会
の発行する『顕正新聞』にも、そのように書いて盛んに宣伝しているのである。
しかし、それが事実でなかったことは、この『本願寺の体質を問う』に掲載さ
れて私からの返信を見ていただけば、おわかりいただけると思う。
 往返の手紙の内容は、同書に全文が載せられているので、見ていただく通り
であるが、読者の中には、私の返信について、もっと親切に書いた方がよいの
ではないかと思われる方があるかも知れない。しかし、その必要はなかったと
私は思っている。なぜなら、高森親鸞会側には、私の主張に耳を傾け、自らに
も反省すべき点がないかどうかを考える姿勢がみられず、自らの主張は絶対に
正しいという前提のもとに議論をしかけてきていると考えられるからである。
 なるほど、同書には「このような体質で、本願寺に明るい未来があるだろう
か」とあり、また、同書の宣伝ビラには「本願寺の明るい未来を願って提言」
と書いている。だが、高森氏に本願寺のためを思う気持があるとは私には思え
ない。これは先に発行された『どちらがウソか』において、本願寺に対する一
方的独善的な非難中傷をしていることからも、よく解ることである。また、そ
の頃、本願寺前で配付され、今も配付をしている宣伝ビラに、
  今まで親鸞聖人の教えをネジ曲げて大衆をだまし、仏法を喰い物にして来
  た人達は、本当の親鸞聖人の教えが大衆に知れ亘ることを極度に怖れます。
  それは丁度牛肉だと喰わされていた大衆がネズミの肉であったことを知れ
  ばどんなにか憤激し離反することは必至だからです。

等と書いていることでも、自明である。さらには『こんなことが知りたい』②
の「なぜ自ら本願寺をとび出したか」の項に、
  現今の本願寺は沈没寸前の老朽船です。それどころか親鸞聖人や蓮如上人
  のみ教えをネジ曲げ、真実の仏法を破壊している本願寺の老船は速やかに
  爆沈すべきです。これこそ「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、
  師主知識の恩徳も、骨を砕きても謝すべし」の恩徳讃の心に燃える信心の
  行者の心意気でなければならないと確信しております。

ともある。このように、高森氏は、本願寺を破壊することを目的としていると
しか受けとれない表現を使っているのである。
 その上、高森親鸞会は、公約として私への書簡(『本願寺の体質を問う』26頁掲載、以
下頁数だけの表記は同書における掲載箇所)やビラ等にも、
  浄土真宗親鸞会はこのことに関しては、相手が集団であれ、個人であれ、
  公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望せ
  られる方法で時と場所を問わず、申し出さえあれば親鸞聖人の本当のみ教
  えを開顕する為に喜んで応ずることを公約しているのですから、遠慮なさ
  れず申し出て下さい。

ともいってある。同会からの質問に対しては、すでに私から返答しているので
あるから、まだ異議があるなら、同会も、独断によるのではなく、文証をはっ
きり示して、論文形式で反論すべきであろう。どちらの主張が正しいかは読者
が判断することであろうと考える。

   一、宿善論の問題

 『本願寺の体質を問う』の第二部(134頁以下)は「親鸞会かく反論する」とな
っており、宿善論の問題と後生の一大事の問題について、私の所論に対する反
論非難がなされている。
 ここには、私の論文が部分的に引用されているが、第一部には私からの返信
が全文のせられているのだから、むしろ初めに『伝道院紀要』に私が発表した
論文も全文のせてもらった方が、よく解ってよかったのではなかろうか。論文
を部分的に引いて反論されたのでは、私の主張の内容が読者に解りにくく、誤
解を生ずる点もあろうと思われるからである。

 まず、宿善論の問題からふれていこう。私は「私の意見に対する反論である
なら、独断によらず、宗祖聖人や蓮如上人の上にみられる文証をはっきり示し
て反論されるように」といっていたのであるが、私が再三もとめたところの、
「破邪顕正や財施を獲信のための宿善として修せよ」とある文証は、未だに何
等示されていない。私が問題にしたのは、このことなのであり、高森親鸞会が
自説の根拠となる文証を明示されない限り、私への反論になっていると認める
ことはできないのである。
 そもそも宿善ということについては、私の論文にも述べているように、宗祖
聖人は、
  遇、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。(『教行信証』総序)
  遇、信心を獲ば遠く宿縁を慶べ。(『浄土文類聚鈔』)
と仰せられてある。宗祖聖人が宿善とは宿因等といわず、宿縁といわれている
のは、『教行信証』も『文類聚鈔』も同じであるが、これは、その直前にある
「弘誓の強縁」(他力)の「縁」の語をうけているものと考えられる。だから、
「遠く宿縁を慶べ」とは、ひとえに他力のお育てによるところであったと慶ば
れているのである。蓮如上人も、
  遇獲信心遠慶宿縁と聖人のあそばし置れたるは、たまたまといふは過去に
  あふと云心なり。又、とおく宿縁をよろこぶといふは、今始めてうる信心
  にあらず、過去遠々の昔より以来の御哀にて今うる信心なり。
(『拾遺御一代
  記聞書』)
と述べられている。信心を得たところで過去を振り返り、すべて他力のお育て
によるところであったと慶ばれたのが、宗祖聖人であり、蓮如上人である。
 この点高森親鸞会は、
  宿善というのは過去世の仏縁のことであるが、過去に仏縁浅きものは現在
  において真剣に宿善を求めねばならない。でなければ宿善開発の時節到来
  ということはあり得ない。されば宿善は待つに非ず、求めるものである。

                          (『白道もゆ』212頁)
  まず自身の信心決定をめざせ、そのためには宿善をつめ。イ、聴聞、ロ、
  破邪顕正。
(『顕正新聞』第93号)
  真実を知らない人に真実をおしえ、求めねばならぬわけを説いているうち
  に、いや他人に説くことによって自分の聞法心も深まって来るのです。即
  ち宿善が厚くなるのです。法施は最上の布施行だからです。
(『こんなことが知
  りたい』②87頁)
  真実の仏法のために浄財はすべて尊い宿善となります。この会費改正にあ
  たって進んで宿善を求めさせて頂きましょう。
(『顕正新聞』第175号)
等と主張している。「過去に仏縁浅きものは現代において真剣に宿善を求めね
ばならない」とか「まず信心決定をめざせ、そのためには宿善をつめ」等とい
って、これから信心を得るために自力で宿善を積むことを勧めているわけであ
る。このような主張は、宗祖聖人や蓮如上人が信心を得たところから振り返っ
て宿善を語られたのと、基本的に相違しているといわねばならないであろう。
 私が論文に引用したように、大原性実師も「我々が今日弥陀法に遇い之を信
受奉行することを得し因縁となりしことを悉く宿善と称すべく……」と述べて
おられ、また『新・仏教辞典』(中村元監修)も「前世・過去世につくった善根功
徳をいう、また、人の一代に限って、今まで作った善根を指すこともある」と
出している。これらは、現在から過去を振り返っているのであって、これから
獲信のために修することを宿善といっているのではない。
 ところが、高森親鸞会は、大原師や『新・仏教辞典』の所説を、これから獲
信のために修する善のことであるかのように解釈して、「破邪顕正や財施が諸
善万行にはいるか、はいらないか」と質問してきている。私は、それらが諸善
万行にはいるかどうかは問題にしていないのであり、これから獲信のための宿
善として「破邪顕正や財施をせよ」というようなことは、宗祖聖人や蓮如上人
の上にはないと論じているのである。だから、私の意見に反論するのなら、宗
祖聖人や蓮如上人の上で、その文証を出してほしいと求めたわけである。
 その上、同会は、私に対する四項目の質問に対して「何百日以上も経過する
のに未だ返答がない」と盛んに宣伝しているが、私が返答を出してあることは、
すでに述べた通りである。同会の質問に対して、逆に私の方から「破邪顕正や
財施を修することが獲信のための宿善となる」という文証があれば示してもら
いたいと求めたのが、一昨年(昭和五十五年)の六月二十一日(57頁)であるから、
もう八百日以上が経過していることになるが、これについては何の返答もない
ままである。

 また「本願寺の稚気」(138頁)といって、われわれが同会の正式名称である浄
土真宗親鸞会といわず、高森親鸞会と呼称していることについて、高森氏は
「陰険な悪意を感ずる人も少なくなかろうと思うが、ただ保身の為、親鸞会憎
しの怨念に燃え、あえて真実に立ち向かおうとするのであるから、彼らだって
空しい闘志をかきたてねばならないことは容易に想像される」等と述べている。
はじめから自らは真実、他は不真実と決めこんだ上の想像としかいいようがな
いが、これは、派内に東京親鸞会・金沢親鸞会など親鸞会と名のつく会がある
ので、そうした派内の親鸞会と区別するために、高森氏を会長とする宗教法人
「浄土真宗親鸞会」のことを、われわれは便宜上、「高森親鸞会」というので
あって、決して陰険な悪意からいうのではない。この点、誤解のないようにさ
れたいと思う。

 それから、本願寺は「真剣な聞法をすすめることを間違い」(140頁)というと
いって、あたかも私が聞法(聴聞)を否定しているように書いている。宗祖聖人
は、
  たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきく人は な
  がく不退にかなふなり。
(『浄土和讃』)
といわれ、蓮如上人は、
  仏法は世間の隙を闕きてきくべし、世間の隙をあけて法をきくべきように
  思うこと、浅ましきことなり。
(『御一代記聞書』)
  いかに不信なりとも聴聞を心に入れ申さば、御慈悲にて候間、信を獲べき
  なり、只仏法は聴聞に極まることなりと云々。
(『御一代記聞書』)
等と教示されている。このことは、論文にも述べたことであって、聞法(聴聞)
を勧めることが間違いである等とは、私はどこにもいっていない。私の述べて
いるところを故意にネジ曲げて非難していることは明らかである。
 そもそも、真宗の「聞」とは、第十八願成就文の「聞其名号信心歓喜」の如
実の「聞」でなければならない。これは、第二十願の「聞我名号係念我国」の
「聞」とも峻別される他力の「聞」なのである。高森親鸞会の主張のように、
破邪顕正や財施等の自力の行と同列に扱うこと自体が、そもそも問題なのであ
る。この意味から、存覚上人は、
  聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たも
  ちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おも
  ひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりば
  かりもよりつかざるなり。
(『浄土見聞集』)
と述べられているのである。
 次に『本願寺の体質を問う』(144頁)には、
  所詮は、案ずるな、煩ろうな、計ろうな、心配するな、そのままじゃ、無
  条件じゃ、念仏さえ称えておれば死んだら極楽が本願寺の主張だと、従来
  より指摘し続けて来た親鸞会の批判が正しかったことを証明したにすぎな
  い。

とある。これは、先年以来、本願寺の門前等で配付している同会のビラに、本
願寺の主張として「死なねば助からぬ」とか「念仏さえ称えればよい」「念仏
はみな同じものだ」というように書きたてて、平生業成もわからず、信心ぬき
の念仏を説いているのが本願寺の主張であるかのように指摘し宣伝しているの
であるが、その指摘が正しかったことを証明した、といっているようである。
高森氏は、高岡仏教学院や竜谷大学で学ばれたそうであるが、平生業成や念仏
の自力・他力について学ばれなかったのであろうか。
 高森親鸞会のビラに対して本願寺から出されたものの中、「いつ助かるか」
について、
  今、ここで救われます。「なもあみだぶつ」のいわれを聞いて、疑いの心
  がなくなるとともに、まことの信心にめぐまれて如来の光明の中に摂取さ
  れます。やがて、この人生が終われば、浄土に往生して仏のさとりを開か
  せていただくのです。

とあり、「どうしたら助かるのか」について、」
  まことの信心ひとつであります。いちずに念仏を称えさえしたら助かると
  いうのではありません。真実の教え(本願が名号に成就されたいわれ)を聞くこと
  が大切であります。

と明示し、さらに「念仏について」には、
  まことの信心から必ず念仏が流れて出て下さいます。これを他力の念仏と
  いい、「なもあみだぶつ」を口に称えて如来の御恩を感謝します。疑いの
  心をもったまま唱える自力の念仏では真実の浄土に往生することはできな
  いのです。

と、本願寺の正しい見解が述べられている。「死なねば助からぬ」とか「念仏
さえ称えておればよい」とか「念仏はみな同じものだ」などと、本願寺の誰が
説き、どこに書いているのだろうか。書物や話の一部分だけとらえて、悪意に
解釈するならば、あるいはそのようにとれるところがあるかも知れないが、そ
れは、あまりにも片寄った見方であって、故意に曲解して本願寺を非難してい
るとしかいいようがない。
 それから『同書』(148頁)には、宿善は他力によるのであるならば、なぜ聴聞
にはげまねばならないのか、教えを勧めねばならないのかという問題が繰り返
されている。
 これも、つまりは、宗祖聖人が「遇、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」と仰せら
れ、蓮如上人が「とをく宿縁をよろこぶといふは、今始めてうる信心にあらず、
過去遠々の昔より以来の御哀にて今うる信心なり」と示され、存覚上人が「き
くも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自
力のはからひのちりばかりもよりつかざるなり」と他力をよろこばれたお心が、
理解できないところから生じたものと思わざるを得ない。
 また『同書』(150頁)では、宿善があくまでも他力によるというならば、すべ
ての人の宿善が平等でなければならないといい、そして、
  本願寺は宿善の相違を認めないのであろうか、若しそうなら紅楳氏のよう
  な熱心なものもあれば、仏とも法とも思っていない人もいるという厳然た
  る事実をどう説明するのか。

と述べている。
 私は宿善の厚薄(相違)を認めないなどといっているのではない。しかし、私
がご法義を喜ぶ身にならせていただいたのは、自力の善を積んだからであると
は毛頭考えず、ひとえに仏のお導き、お育てによるものと味わっているのであ
る。
 この宿善の問題については、さらに『同書』(151頁以下)に『阿弥陀経』の
  已発願、今発願、当発願。
  若已生、若今生、若当生。

等の文をはじめ、覚如上人の
  十方衆生のなかに浄土経を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんと
  ならば『大経』の中に説くが如し、過去の宿善厚き者は今生にこの教えに
  値うてまさに信楽す、宿福なき者はこの教えに遇うといえども念持せざれ
  ばまた遇わざるが如し。
(『口伝鈔』)
の文や、蓮如上人の
  陽気・陰気とてあり、されば陽気をうくる花は早く開くなり、陰気とて日
  陰の花は遅く咲くなり。かように宿善も遅速あり、されば已今当の往生あ
  り弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。
(『御一代
  記聞書』)
の文等を引いて、往生に遅速があるのは宿善が平等でないからであり、宿善が
平等でないことは他力ではないからであるという旨を述べている。
 この点については、すでに私の論文でもふれておいたが、本派の宗学上にお
いても、宿善自力説・宿善他力説・当相自力体他力説等と、学的見解の別れる
ところである。私は、宿善は他力と味わっているが、宿善自力というも、当相
自力体他力というも、それは獲信の立場から振り返って宿善の物体を論ずるこ
とであって、高森氏のように、これから獲信のために自力の宿善を修せよとい
うような宿善論は、先哲の説にもなく、もちろん宗祖聖人をはじめ覚如上人、
蓮如上人の上にも示されていないのである。
 高森親鸞会が引用している覚如上人の『口伝鈔』には、その文の次下に、
  しかれば往生の信心のさだまることは、われらが智分にあらず、光明の縁
  にもよをしそだてられて名号信知の報土の因を得としるべしとなり。これ
  を他力といふなり。

とあるように、覚如上人も、他力のお育てにより信を得ると仰せられてある。
蓮如上人が他力を慶ばれたことについては、今さら論ずるまでもないことであ
る。したがって、覚如上人・蓮如上人の所説に往生の遅速の問題があるからと
いって、宿善が他力のお育てによるとよろこぶことを否定する理由にはならな
いのである。
 さらに、破邪顕正や財施が諸善万行にはいるかどうかの問題が『同書』(153頁)
に出ている。このことは、すでに述べたように、これが諸善万行にはいるかど
うかを私は問題にしたのではなく、破邪顕正や財施を獲信のための宿善として
修せよと主張する義に、疑義を呈したのである。もっとも、正しい意味の破邪
顕正や財施が諸善万行の中にはいることは、いうまでもない。しかし、自らの
主張だけを正しいものとし、他派の法座や法要の妨害をするようなことを破邪
顕正と考え、そのような集団に献金することを財施というのであれば、それが
果たして諸善といえるかどうかは疑問である。
 以上、私の批判に対して、高森親鸞会は種々に反論しているのであるが、宗
祖聖人や蓮如上人の上で「未信の者は破邪顕正や財施を獲信のために宿善とし
て修せよ」とある文証を挙げなければ、どれほどもっともらしいことをいった
としても、結局、それは私見に過ぎないのであって、正しい反論にはならない
のである。また、実際、そのような文証があるはずはない。
 次に、他者に教えを説くことについては、論文にも書いたことであるが、宗
祖聖人は、
  仏慧功徳をほめしめて 十方の有縁に聞かしめん 信心すでに得んひとは
  つねに仏恩報ずべし。
(『浄土和讃』)
  自ら信じ、人を教えて信ぜしむること、難きが中に転たまた難し、大悲弘
  く普く化する、真に仏恩を報ずるになる。(『往生礼賛』=『教行信証』信巻に引用)
と教示されているように、他者に教えを説くことを勧めておられる。それは、
獲信のための宿善として修せよと勧められているのではなく、信後の報恩行と
して勧めていられるのである。蓮如上人も、
  信もなくして人に「信をとられよ」と申すは我れは物をもたずして人に物
  をとらすべきという心なり、人承引あるべからず。
(『御一代記聞書』93)
等と仰せられるように、信を得てから他者に教えることの大切さを示されては
いるが、獲信のための宿善として他者に教えを説くことを勧めてはいられない
のである。
 一方、財施については、宗祖聖人は、他者から志を受けたことに対して、
  銭弐拾貫文慥に給候、穴賢、穴賢。(『末灯鈔』)
  銭二百文御こころざしのものたまわりてそふらふ。(『御消息集』)
等と、謝念の意を表わしてはいられるが、それを獲信のための宿善として積め
などという仰せは、まったくないのである。『歎異抄』第18には、
  仏法のかたに、施入物の多少にしたがひて大小仏になるべしといふことこ
  の条、不可説なり不可説なり。比興のことなり。(中略)いかにたからもの
  を仏前にもなげ、師匠にほどこすとも、信心かけなばその詮なし。一紙半
  銭も仏法のかたにいれずとも、他力にこころをなげて、信心ふかくば、そ
  れこそ願の本意にてさふらはめ。

とある。施入物の大小を云々することは誤りであり、たからものを仏前になげ
たり、師匠にものを施したりすることによって救いが決まるのではないことが
述べられているのである。このように、献金等の財施を宿善として修せよとい
う見解は、まったくないということができよう。蓮如上人も、
  ちかごろはこの方の念仏者坊主達、仏法の次第もてのほか相違す。そのゆ
  へは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとと
  いへり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにおほ
  くまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべき
  ようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだ
  にをひて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし、まことにあ
  さましや。
(『御文章』1の11)
  信心のとおりをば手がけもせずして、ただすすめといふて銭貨を、つなぐ
  をもて一宗の本意とおもひ、これをして往生浄土のためとばかりおもへり、
  これおほきにあやまりなり。
(『帖外御文章』37)
  一すぢに弥陀をたのみまひらせて、もろもろの雑行、物のいまわしき心な
  どをふりすてて、一心にふたごころなくたのみまひらせ候てこそほとけに
  なり候はんずれ。さように人に物をまひらせ候て、そのちからにてなどう
  け給候、なにともなき事にて候。よくよく御心え候べく候。
(『帖外御文章』127)
等と示されるように、財施によって救いが定まるというような、いわゆる施物
だのみを誡められている。財施を獲信のための宿善としてなすべき旨を勧める
などということは、まったくあるはずはないのである。
 高森親鸞会は「真剣な聞法をすすめるのは間違い」とか「聞法は信心獲得す
ることとは無関係」などと、私が聞法をも否定しているように書き立てている
が、上述のように、私は聞法を否定するなどとは一言も書いてはいない。破邪
顕正や財施(高森親鸞会への献金、財施)等が、獲信のための宿善となるのだから、こ
れを修せねばならぬとする主張に、疑義を呈したのである。
 以上のように、高森親鸞会は、獲信のための宿善としての善根を自力で修す
べきであると、盛んに勧めているのであるが、その一方で、こんどは『同書』
(158頁)に、
  これではまるで親鸞会が「自力の善根で信心獲得出来る」といっていると
  いわんばかり。ひどい中傷である。

といい、また『同書』(165頁)には、
  それでは自力の善根によって宿善開発(信心決定)させることが出来るのか、
  と間抜けは返難するかもしれない。事実『伝道院紀要』には「高森親鸞会
  は宿善開発(信心決定)が自力で出来ると言っている」と丁度鬼の首でもとっ
  たように繰り返す。その後の彼我の往復書簡にもそのことが顕著にでてい
  る。本願寺の親鸞会中傷の最も大きな点の一つである。

等と、まるで「獲信のために宿善を自力で積め」などいったことがないかのよ
うないい方をしているのである。それならば、
  過去に仏縁浅きものは現在において真剣に宿善を求められねばならない。
  でなければ信心開発の時節到来ということはあり得ない。されば宿善は待
  つに非ず、求むるものである。
(『白道もゆ』212頁)
  生まれた時から他力に摂取されているものは一人もいないのですから、み
  んな自力で求めていくのです。
(「顕正新聞」第93号)
等と述べていることは、ウソだったのであろうか。
 また『本願寺の体質を問う』(171頁)には、
  自力の善が獲信の資助になるどころか、自力無効、捨自帰他、弥勒菩薩も
  三世諸仏も化土往生人も、自力が廃らない限り絶対に弥陀の本願は判らず、
  報土往生は出来ないことを開顕し続けて来たのが、親鸞会の歴史である。

ともいっているが、それならば、
  まず自身の信心決定をめざせ、そのためには宿善をつめ。イ聴聞、ロ、破
  邪顕正。
(「顕正新聞」第93号)
  真実の仏法のために提供される浄財はすべて尊い宿善となります。(「顕正新
  聞」第175号)
と書いてあるのは、間違いであったというのだろうか。にもかかわらず、
  命がけの聴聞も破邪顕正も、自力の一切は間に合わなかったと廃った一杯
  が、本願力に間に合ったことに驚き呆れ、すべてが他力であったなあーと
  不思議不思議と踊り上がったときを宿善開発というのだ
(『本願寺の体質を問う』
  175頁)
と述べている。あれだけ自力で宿善をつめといい「破邪顕正こそ無上の宿善」
とか「浄財はすべて尊い宿善」といって、それが誤りであると批判されると、
繰り返し質問状を発し、さんざんな罵詈雑言を浴びせ、法要妨害までしておき
ながら、こんどは掌を返すように、自力の宿善は間に合わないというのである。
 そして『同書』(175頁)には、つづけて、
  一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常に能く法財を焼く、急作急修して頭
  燃を灸ふが如くすれども、衆て、雑毒雑修の善と名け、亦虚仮諂偽の行と
  名づく。真実の業と名づけざるなり。此の虚仮雑毒の善を以て無量光明土
  に生ぜんと欲す、此れ必ず不可なり。
(『教行信証』信巻)
  今の真宗においては専ら、自力をすてて他力に帰するをもって宗の極致と
  する。
(『改邪鈔』)
  もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて、一心に阿弥陀如来、我等が今
  度の一大事の後生、御たすけさふらへとたのみまうしてさふらう。
(『領解文』)
等の文を引き、
  かかる親鸞聖人や覚如上人・蓮如上人を一貫せる自他力廃立の御教化によ
  って救われ、その真実を開顕せん為に死力を尽している親鸞会を「自力に
  よって宿善開発(信心獲得)出来るといっている」という本願寺の非難は悪辣
  極まる中傷と断ぜざるを得ないのである。

と結んでいる。ここに示されてある通り、宗祖聖人・覚如上人・蓮如上人のご
教示・ご教化が、一貫して徹底した自他力廃立のものなるが故に、私は「未信
の者は獲信のために自力の善を積め」という高森親鸞会の宿善説に疑義を呈し
たのである。それを「悪辣極まる中傷」と、まるで事実無根であるかのように
高森氏はいうのである。これでは、まったく議論にならないといわねばならぬ。

  二、後生の一大事の問題

 次に、後生の一大事の問題についてであるが、これについて、高森親鸞会は
  後生の一大事とは何か。人間は必ず一度は死なねばならない。では人間は
  死んだらどうなるか。釈尊は必堕無間と、四十五年間叫びつづけられた。
  「一切の人は死んだら必ず無間地獄におち八万劫年の間大苦悩をうけねば
  ならない」これを後生の一大事という。
(『顕正新聞』第205号)
  仏法を聞く目的は後生の一大事の解決に極まる……一大事というは取り返
  しのつかないことを言うが、それは無間地獄に堕在するということである。
  曽無一善・一生造悪が我々の実相であるから、因果の道理に順じて、必ず
  無間地獄へ堕ちる、これを経典には必堕無間と説かれている。
(『白道もゆ』
  137頁)
  親鸞聖人や蓮如上人が不惜身命の覚悟で教示された生死の一大事とは、ど
  んなことかといいますと、これは後生の一大事ともいわれていますように、
  総ての人間はやがて死んでゆきますが、一息切れると同時に無間地獄へ堕
  ちて、八万劫年苦しみ続けねばならぬという大事件をいうのです。
(『こんな
  ことが知りたい』①6頁)
等と主張している。後生の一大事を「必ず無間地獄に堕ちる」という意に取り
切り、しかも、これによって恐怖心をあおり「悲泣悶絶」の苦しみを経ねばな
らぬという、いわゆる機責めの傾向がうかがえるのである。これに対して、私
は疑義を呈し、論文で「後生の一大事ということは、往生浄土(極楽)の一大事、
あるいは往生浄土(極楽)出来るかどうかの一大事、という程度の意味」である
との見解を示したわけである。
 『本願寺の体質を問う』では、こうした私の見解に対する反論非難が行われ
ているのであるが、これについても、前の宿善論と同様、宗祖聖人や蓮如上人
の上ではっきりした文証を挙げての反論ではないから、私は反論とは認められ
ないと考えている。
 「後生」とは、文字通りの意味は「今生」に対する「後生」であろうから、
必ずしも往生の意味だけではない。しかし、論文や、高森親鸞会に対する返信
(八月三日)で述べたように『大経』に、
  後生無量寿仏国
とあって、後生の一大事の「後生」という語は、この「後に無量寿仏国に生れ
る」が出拠と考えられる。蓮如上人も、
  されば、死出の山路のすえ三塗の大河を唯一人こそ行きなんずれ、これに
  よりて、ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。

  (『御文章』1の11)
  しかれば阿弥陀如来を何とようにたのみ、後生をばねがふべきぞというに
  ……
(『御文章』5の10)
等と教示されているように「後生」を往生浄土の意味で語られているのである。
 また「一大事」についてであるが、「一大事」とか「大事」とかは、本来「転
迷開悟」「出離生死」についていわれるものである。したがって『法華経』出
世本懐の文には、
  一大事因縁(『大正大蔵経』第9・7a)
とあり『称讃浄土経』には、
  利益安楽の大事因縁
とある。また、法然上人は、
  往生程の大事をはげみて念仏申さん身をば、いかにもいかにもはぐくみた
  すくべし。
(『和語灯録』)
といわれ、宗祖聖人は、
  往生極楽の大事(『拾遺真蹟御消息』)
と仰せられており、さらに覚如上人も、
  往生ほどの一大事をば如来にまかせたてまつり……(『口伝抄』)
  往生ほどの一大事凡夫のはからうべきことにはあらず……(『執持抄』)
等と述べられている。いずれも「一大事(大事)」を往生にかけて語られている。
 さらに蓮如上人も、
  もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(『御文章』1の
  11)
  この他力の信心ということをくはしくしらずば、今度の一大事の往生極楽
  はまことにもてかなふべからず。
(『御文章』2の10)
  いそぎてもいそぎてもねがうべきものは後生善所の一大事にすぎたるはな
  し。
(『帖外御文章』50)
等と示されている。往生にかけて「一大事」を語っておられるのである。
 高森親鸞会は、後に至って、後生の一大事に二つがあるといいだし、信後の
後生の一大事は「往生浄土(極楽)の一大事」のことであるが、信前の後生の一
大事は「必ず無間地獄に堕ちる」ということであると、あくまでも自説に固執
するのである。
 だが後生の一大事に二義ありとは、恐らく高森親鸞会だけでいうことであろ
う。同会のいうように、後生の一大事を往生の一大事と釈すことが、信後の人
だけについてのことならば、先に挙げた「往生の一大事」を述べた文、特に
『御文章』は、当然、信前の人に信を勧め、往生を勧めたものと思われるが、
これらは信後の人に対して出されたとでもいうつもりなのであろうか。
 同会は、信前の後生の一大事の文証として『本願寺の体質を問う』(178頁)に、
宗祖聖人の
  若しまた、此のたび疑網に多覆蔽せられなば、かえりてまた曠劫を逕歴せん。
                            (『教行信証』総序)
の文や、蓮如上人の
  この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきも
  のなり。
(『御文章』2の2)
  命のうちに不審もよく晴れられ候はでは定めて後悔のみにて候はんずるぞ、
  御心得あるべく候。
(『御文章』1の6)
等の文を挙げている。
 私は、無論これらの文の意味を否定するのではない。だから、後生の一大事
を「往生浄土の一大事」という意味だけに限定せず「往生浄土できるかどうか
の一大事」まで含めて定義としたのである。本願を信受すれば往生浄土できる
し、信受しなければ地獄に堕ちることは自明である。
 しかしながら「必ず無間地獄に堕ちる」ことが後生の一大事であるとする、
以前の高森親鸞会の主張は、片寄った見解といわねばならない。同会の引用し
た文には「大事」とも「一大事」ともいう語はないのであるから、それらの文は、
後生の一大事ということが「必ず無間地獄に堕ちる」ということであるという
文証にはならないし、また、後生の一大事に二義ありという文証にもならない。
 それから、宿善論の問題の場合と同様であるが、今の問題についても『本願
寺の体質を問う』(184頁)には、
  本願寺は、この身このままこの様なりで死にさえすれば極楽往生、弥陀同
  体、何時とはなしに法の尊さを知らされて念仏称えていれば、みんな信後
  の者と思っているのが、そもそもの誤りなのである。「まことにもって坊
  主分の人に限りて、信心のすがた一向無沙汰なりと聞こえたり。以てのほ
  かの歎かしき次第なり」(『御文章』四帖七通)。このように圧倒的に多い信前の後
  生の一大事を夢にも知らない本願寺の現状を見れば、特に坊主に信心決定
  している者がいないことを深く歎かれたことがよく首肯される。

といって、本願寺が、平生業成・信心正因や、念仏の自力・他力の分別もなく、
地獄一定も知らない無信心・無安心の集団であるかのように非難するのである。
しかし、前にも述べたように、これは、問題のすりかえにほかならない。
 以上のように、高森親鸞会の所論は、適確な文証もなく、真実開顕どころか、
独善的一方的議論の繰り返しに過ぎないのであって、残念ながら私の呈した疑
問に対する反論にはなっていないのである。




 派外からの異説について
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                 発 行 日   昭和57年12月20日
                 再版発行  昭和60年2月15日
                 著   者   紅 楳 英 顕
                 発   行   浄土真宗本願寺派出版部
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2010-01-03

宿善とは1

親鸞会教義の根本的な誤りは、経典と善知識方の聖教を素直に拝読すれば、誰にでもわかることです。

ただし善については、しないよりはした方がよいに決まっているという思いが誰にでもあります。そこに付け込んで、宿善という名目で善をすることが獲信とよい関係にあると親鸞会は会員に理解させているのです。この考えこそが自力で捨てよと教えられているものですが、高森会長は巧妙なトリックで邪義を説いているのです。

宿善については、紅楳英顕師の『派外からの異説について』を先入観を廃して読まれれば、親鸞会の間違いが分かるのですが、理解できない人も多いようですので、宿善について少し述べたいと思います。

まず、宿善ということについて親鸞聖人がどのように考えられていたのかを知るために、法然上人関係の文書から宿善について見てみます。

法然上人の「十二箇条問答」に


ある時には、我が身の、宿善を、喜ぶべし。賢き、卑しきも、人、多しと、言えども、仏法を信じ、浄土を、願う者は、希なり。信ずるまでこそ、かたからめ、謗り、憎みて、悪道の因をのみ、作る、しかるに、これを信じ、これを貴びて、仏をたのみ、往生を志す、これ偏に宿善の、しからしむる也。只今生の、励みに有らず、往生すべき、期の至れる也と、頼もしく、喜ぶべし。斯様のことを、折に従い、事によりて、思うべき也。


とあります。信じがたい浄土を願い往生を志すことができたのは、偏に宿善によるものと法然上人が教えられていたことを示しています。

また『法然上人絵伝』第二十七巻には、


武蔵国の御家人、熊谷の次郎直實は、平家追討のとき、所々の合戦に忠をいたし、名をあげしかば、武勇の道ならびなかりき。しかるに宿善のうちにもよをしけるにや、幕下将軍をうらみ申事ありて、心ををこし、出家して、蓮生と申けるが、聖覚法印の房にたづねゆきて、後生菩提の事をたづね申けるに、さようの事は法然上人に、たづね申ベしと申されければ、上人の御庵室に参じにけり。



とあり、熊谷次郎直實は、宿善があって後生菩提を尋ねる心をおこして、法然上人のところへ参ったと記されています。
これらは、『大無量寿経』の往覲偈にある


もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。
清浄に戒を有てるもの、いまし正法を聞くことを獲。
むかし世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、
謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。
驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。
宿世に諸仏を見たてまつりしものは、楽んでかくのごときの教を聴かん。



『観無量寿経疏 定善義』


もし人浄土の法門を説くを聞き、聞きてすなはち悲喜交はり流れ、身の毛為竪つものは、まさに知るべし、この人は過去にすでにかつてこの法を修習して、いまかさねて聞くことを得てすなはち歓喜を生じ、正念に修行してかならず生ずることを得。


を受けられて、宿善がある人が阿弥陀仏の本願を聞けるのであって、そんな人は稀であることを法然上人が教えられていたことが分かります。

更には親鸞聖人が尊敬されていた聖覚法印の『唯信鈔』には、


つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。



と教えられています。ここで言われていることは次の通りです。

宿善の薄い人と厚い人があるが、それは今生で善悪をしている有様でわかる。自分は善いことを行おうという心がなく宿善が薄いが、五逆罪を犯しておらず、阿弥陀仏の本願を深く信じさせて頂いている。五逆罪の者の十回の念仏が宿善によるものであって、我々の一生の念仏をもって宿善の浅いこととどうして思うのか。その考えが往生の妨げになっている。

つまり宿善の厚薄を問題にすることが間違いであると言われているのです。

この詳しい内容につきましては

「21世紀の浄土真宗を考える会」
宿善の厚薄 唯信鈔の言葉


に、分かりやすい解説がなされていますので、御参照下さい。

ところが驚くことに、この『唯信鈔』のお言葉を断章取義して、真逆の意味で利用しているのが親鸞会です。

親鸞会で使われている『教学聖典(5)』なるものには以下の問いと答えが載っています。

(問)
 宿善の厚き人と、薄き人との違いを教えられた『唯信鈔』の御文を示せ。

(答)
 宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。
 宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず


『教学聖典(5)』にある他の問いと答えから、このお言葉が、宿善の薄い者は、宿善を厚くするように勧められたかのような誤解を生じさせる悪質な設問です。


親鸞会は諸行往生12のところでも述べましたように、親鸞聖人は宿善という言葉を御著書の中では1度も使っておられません。親鸞聖人は、経典や善導大師、法然上人、聖覚法印のお言葉を踏まえられた上で、宿善を宿縁と敢て言い換えておられます。自力的な要素を徹底的に排斥されたのが親鸞聖人ということも述べてきました。

法然上人の教えを受け継がれ、『唯信鈔』を同行に読むように勧められた親鸞聖人が泣いておられるでしょう。


最近、当ブログの読者から、獲信の報告を頂きました。大変喜ばしいことです。獲信とは捨自帰他です。阿弥陀仏に救われた人は、これ以外にないことをこの方も含めて皆語られます。当然なことです。なぜならすべてが阿弥陀仏のお力によるものだからです。

たとえどんな理由を付けようとも獲信のために修善に励むことは、阿弥陀仏の本願に反する行為です。雑行を捨てるためには、雑行に励まなければならないなどという考えが、阿弥陀仏の救いから遠ざけているのです。
『唯信鈔』のお言葉で言えば、「小智は菩提のさまたげといへる」なのです。
親鸞会会員の獲信を妨げている最大の原因が、善の勧めでしょう。


宿善という言葉を悪用して、獲信のために諸善を勧めることは、謗法罪です。獲信するために修善を勧めている人は、捨自帰他を体験していない異安心であるか、あるいは他人に獲信してもらっては困る理由があるかのどちらかです。

獲信された方数人が、一年前に親鸞会から除名処分になったと聞いています。その理由は、明らかでしょう。

2010-01-03

宿善とは2

前回、親鸞会が断章取義している『唯信鈔』の、


宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。


について書きました。
これと同じことを書かれたものが、『口伝鈔』第4章にあります。


宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。


ここでは宿善と宿悪というお言葉で表現なされています。
これは『口伝鈔』第4章全体を読まれれば、ここで聖覚法印と覚如上人の仰りたいことがよく分かると思います。全文は少し長いので以下に抜粋します。


一 善悪二業の事。
(中略)
しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ。
 ここをもつて光明寺の大師(善導)、「言弘願者 如大経説 一切善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁也」(玄義分)とのたまへり。文のこころは、「弘願といふは、『大経』の説のごとし。一切善悪凡夫の生るることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗りて増上縁とせざるはなし」となり。されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。
(中略)
善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし。



これでお分かりと思いますが、覚如上人は、

宿善あつきひと=善人
宿悪おおきもの=悪人

という意味で使っておられます。

悪もおそろしからずともいひ善もほしからず
かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからず
善もたすけとならず、悪もさはりとならず


つまり、阿弥陀仏の本願は、善人悪人関係なく救うということをここで教えておられるのです。もちろん善をせよという意味もありません。
これを踏まえて『唯信鈔』のお言葉を読まれれば、やはり同じことを教えられているとご理解頂けると思います。

『唯信鈔』ならば

宿善あつきもの=善人
宿善すくなきもの=悪人

ということです。

親鸞会で教えているように、宿善薄い人は厚くなるようにしなければならないというのは、悪人は善人にならなければ救われないといっているのと同じことになるのです。
親鸞聖人が『教行信証』信巻で、五逆罪を犯した阿闍世でも救われることを『教行信証』全体の1割も費やして教えられた御心を根底から覆すことになります。
そのことは
一切衆生は必堕無間なのか4
一切衆生は必堕無間なのか5
一切衆生は必堕無間なのか6
に書きましたので、時間のある方は読んで頂けるとより理解しやすくなります。

また『歎異抄』第1条


弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々。


の意味もまるっきり分かっていないのが親鸞会です。

このように書けば、親鸞会では善人になれといっているのではない、と反論があるでしょうが、『唯信鈔』のお言葉を用いて、宿善を厚くせよと言っている時点で、善人にならなければ救われないと主張していることなのです。
私たちのやった善は、獲信とよい関係になるのだ、と更に聖道仏教的な屁理屈をいうでしょうから、その邪義についても、覚如上人は次の第5章で完璧に破邪しておられます。


一 自力の修善はたくはへがたく、他力の仏智は護念の益をもつてたくはへらるる事。

 たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。ゆゑは六賊知聞して侵奪するがゆゑに。念仏においては、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」と等釈せらるれば、凡夫自力の善にあらず。まつたう弥陀の仏智なるがゆゑに、諸仏護念の益によりて六賊これを犯すにあたはざるがゆゑに、出離の資糧となり、報土の正因となるなり。しるべし。



親鸞会に当て填めれば、どれだけ法施、財施をしようとも、宿善として蓄えられて、獲信のもといとならないのです。それに対して念仏は、凡夫自力の善ではなく、すべて阿弥陀仏のお力ですから、報土の正因となるのです。自力の入り込む余地の全くないのが、他力です。この念仏はもちろん他力念仏のことです。
親鸞会では聴聞も宿善になると理解しているようですが、自分が聴聞したことで獲信できるとはとんでもない間違いです。
自力と他力の理解が根本的に狂っているのです。

『教学聖典(5)』には、

(問)
 「宿善」とはどんなことか、二通りの読み方を示せ。
 また宿善が厚くなる順から三つあげよ。
(答)
○「宿世の善根」とか「善が宿る」とも読む。
  (1)熱心な聞法
  (2)五正行の実践
  (3)六度万行の実践


とありますが、真宗とは全く無縁の論外な問答です。
これは以前に書いた親鸞会は諸行往生4で紹介しました、加藤智学編『香樹院講師語録』をもとにして、六度万行の実践を加えたものです。香樹院師は宿善を厚くする行為として教えられていませんし、もちろん善知識方の教えでもありません。ですから、この根拠を示すことは絶対にできません。高森会長の創作教義です。

親鸞会が、浄土真宗とか、親鸞聖人のお名前を使わなければ、単なる新興宗教と扱うだけですが、本当の親鸞聖人のみ教えを伝えている団体と大嘘を公言していることは絶対に許せません。


ネットでいわれているように、もし他人の著書を盗作したり、最高幹部の不倫を容認したり、偽装勧誘を指示するような十悪ばかりか、親鸞聖人の教えをねじ曲げる謗法罪を平気で造っているとすれば、「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」です。「宿悪おおきもの」の人物に、「宿善のあつきもの」になるよう、誰か勧めてあげてください。

2010-01-09

宿善とは3

『御一代記聞書』の中に、宿善について記された以下の箇所があります。


一 他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。(234)


ここでは、「宿善」を「信心をうる」という意味で使われています。

「宿善」は、親鸞聖人が御著書の中で使われたことのない言葉ですから、その時々の文章によって宿善の意味が異なることがあるようです。一般的には、宿世の善根という意味で使われますが、浄土真宗ではほとんどが、阿弥陀仏のお育てと理解され、自力的意味を排除されます。

このことを踏まえた上で以下を読んでください。


親鸞会で、宿善を厚くせよ、宿善を求めよ、と教えている根拠が、『教学聖典(5)』に載っています。

(問)
 「宿善に厚薄あり」と言われた蓮如上人のお言葉と、
 その根拠を示せ。
(答)
○宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり、
 弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く
 開くる人もあり。
              (御一代記聞書)


この全文は以下の通りです。


一 陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。(307)


このお言葉は蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛されました『安心決定鈔』にあるお言葉を言い換えられたものです。『御一代記聞書』には、『安心決定鈔』からの引用が多数あります。
ここの関連部分を、説明の都合上前後も含めて紹介します。

『安心決定鈔』本

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。


『安心決定鈔』のこれらの部分は、阿弥陀仏が十劫の昔に、本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについて書かれたものです。『御一代記聞書』のこの部分は『安心決定鈔』を受けられて記されたのは間違いないでしょう。内容は同じです。

『御一代記聞書』の「已今当の往生あり」のところが、『安心決定鈔』では


すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり

已・今・当の三世の往生は不同なれども



ですので、
『御一代記聞書』の「宿善も遅速あり」は、『安心決定鈔』の


仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり



に当ります。「ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に


昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり


とありますので、「宿善」とは、信心のことを指していることがお分かり頂けると思います。冒頭の『御一代記聞書』の「宿善」と共通するものです。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、


弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり



に、そのことが明確に解説されています。ですから、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

親鸞会で教えているように宿善の厚薄について教えられたものではありませんし、ましてや宿善を厚くするようにという意味はどこにもありません。
『御一代記聞書』にも『安心決定鈔』にも、善を勧められたところは皆無です。勧められていることは、


信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなり


です。前回申し上げたように聴聞を自力と理解することは、親鸞聖人、蓮如上人の御心に反します。



明らかに善を否定されているにも関わらず、これが善を勧めた蓮如上人の根拠と理解しているとすれば、何ともお目出たいことです。『御一代記聞書』と『安心決定鈔』との関係について知らないことは、仕方がないでしょう。その程度の力しかないのですから。しかし、『御一代記聞書』だけ読んでもこんな無茶苦茶な珍説になりません。

このような人物の邪説を指摘することくらい、優秀な頭脳を持った会員さんならば、さほど難しくないと思います。あとは、確かめようとする気を起こすかどうかです。

2010-01-14

宿善とは4

これまでの3回にわたって、宿善の厚薄について、親鸞会が如何におかしな解釈をしているか述べてきました。宿善という言葉を、覚如上人、蓮如上人は、他のところでも使っておられますので、それと併せて、宿善の意味をみてみたいと思います。

『口伝鈔』には、前々回挙げた第4章の、


宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。


とは別の意味で、第2章に宿善について書かれています。


十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。


ここでの宿善は、第4章とは意味が異なっています。第4章では、過去世に行ってきた善、宿世の善根という意味で使われていますが、この第2章では宿善のある人を、「浄土教を信受する機」、つまり阿弥陀仏の18願を信じられる人としています。この2つは同じと親鸞会では考えているようですが、違います。
今生に善をこのみ悪をおそる」という「宿善あつきひと」であっても、「この教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし」の人は、「宿福なきもの」になります。その逆で、「今生に悪をこのみ善にうとし」の人でも、「今生にこの教にあうてまさに信楽す」人は「過去の宿善あつきもの」になります。
具体的にいえば、法然上人を激しく攻撃した聖道仏教の学僧達は、「今生に善をこのみ悪をおそる」人達の代表といえるでしょう。いい加減な者もいたかもしれませんが、多くは真面目に修善に励んできたなればこそ、善を否定された法然上人を許すことができなかったのです。彼らは、過去、そして今生でも六度万行等の善を我々よりも遥かにしてきたと思われますが、阿弥陀仏の18願を信じることは到底できませんでした。彼らは宿世の善根は厚くても「宿福なきもの」になります。その反対で、五逆を犯した阿闍世は、「今生に悪をこのみ善にうとし」ですが、救われていますので、「過去の宿善あつきもの」です。

ですからこの第2章でいわれている宿善は、あくまで阿弥陀仏のお育てによって、18願を信じられる機であるかどうかという意味であり、それを覚如上人は宿善の有無として仰っているのです。

蓮如上人のお言葉については、親鸞会では『教学聖典』等にも『御文章』からいくつか挙げられています。

一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。2帖目第11通


それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。
3帖目第12通


されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。
しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。
4帖目第1通


あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。4帖目第15通


これ以外にも宿善という言葉を使った箇所はまだありますが、どれも宿善の有無について問題にされたものです。18願を信じられる人と信じられない人との違いが問題であって、親鸞会でいう宿善の厚薄を問題にされたところはありません。
『口伝鈔』第2章も、『御文章』も、18願を信じられない人は、たとえ宿世の善根が厚くとも、誹謗するだけで謗法罪を造ることになりますから、そんな無宿善の人には話をしてはいけないと仰っています。

この無宿善の人のために説かれた教えが、権仮方便なのです。無宿善の人が多いから、釈尊は聖道仏教を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられたのです。
ですから18願を信じて求める宿善のある人に、善を勧める必要はないのです。宿善の薄い人は、宿善を厚くしてからでないと真実に入れないなどとは、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の仰せと全く違うことがお分かり頂けるでしょう。

これは単に解釈の違いで済まされることではないのです。学問上のことを論じているのではありません。宿善のある人が、信心決定できない最大の障碍が、宿善の厚薄を問題にして善を勧める邪義です。
親鸞会の会員が、なぜ信心決定できないのか。それは善を勧めて阿弥陀仏一仏に向かわせないように仕向けている高森会長が、18願を誰も救われない絵に描いた餅にしてしまったからです。だから、30年、40年聞いたくらいでわかるものではないという高森会長の発言は筋が通ります。

『親鸞聖人御消息』に、


弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまゐらせて、仏恩を報じまゐらせんとこそおぼしめすべきに、念仏をとどめらるることに沙汰しなされて候ふらんこそ、かへすがへすこころえず候ふ。あさましきことに候ふ。ひとびとのひがざまに御こころえどもの候ふゆゑ、あるべくもなきことどもきこえ候ふ。申すばかりなく候ふ。ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。


と書いておられます。親鸞聖人は関東の同行に宛てたお手紙の中で、
「遇いがたい阿弥陀仏の本願に遇わせせて頂き、仏恩に報いようと思わなければならないのに、念仏を妨げようとすることは、全く理解できないことであり、浅ましいことです。間違って理解している人達がいますので、あってはならないことが聞こえてくるのです。念仏の人といいながら、間違ったことを教えている人こそが、地獄に堕ち、天魔になるのです。すべての念仏者の罪になるのではないと思います。」
と仰っています。


親鸞聖人が"地獄に堕ちる"と仰っているのは、誰のことでしょうか。お前たちは一人残らず無間地獄に堕ちると説き、獲信のための善を勧めて念仏を妨げている人物のことです。会員さんのことではありません。

当ブログ読者の皆さんは、阿弥陀仏の18願を信じて求めている宿善のある方です。天魔の教えに迷われることなく、親鸞聖人の正しい教えを正しく聞いて下さい。そうすれば必ず信心決定できるのです。
もし、これだけいっても御理解頂けず、天魔を信じられるのであれば、残念ですが無宿善の人と言わざるをえません。
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