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2009-09-02

善知識には無条件服従しなければならないのか 3

これまで2回にわたって善知識への無条件服従という考え方の誤りを述べて来ました。
また最近、他のブログでも同テーマについて解説されています。

「清森問答」親鸞会教義の相対化・83
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-333.html


「苦笑の独り言」本当の善知識は無条件服従を強要せえへんのや!!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-427.html


ところが、親鸞会では未だ理解できない会員が多いようで、『御一代記聞書』に蓮如上人の仰ったこととして記されている


前々住上人へ、ある人、申され候う。開山の御時のこと申され候う。「これは、いかようの子細にて候う」と、申されければ、仰せられ候う。「われもしらぬことなり。何事も何事も、しらぬことをも、開山のめされ候うように、御沙汰候う」と、仰せられ候う。(百五十九)


は間違いなのか、という反論をしてくる人がいると聞きましたので、もう少し解説致します。

親鸞聖人は『教行信証』化土巻に『大智度論』から以下を引用されています。


『大論』(大智度論)に四依を釈して云わく、涅槃に入りなんとせし時、もろもろの比丘に語りたまわく、「今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし」と。「法に依る」とは、法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。


釈尊が涅槃入られた後、何に従っていくべきかを教えられたものです。その最初に、「法に依りて人に依らざるべし」とあり、その説明が「「法に依る」とは、法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。」です。釈尊が説かれた教えに従うのであって、教えを説く人に従うのではない、ということです。
なぜなら、どんなに素晴らしいと思える善知識であっても、仏ではありませんので、間違いを犯すことはあります。仏である釈尊から御教導頂けない時代には、仏ではない善知識に無条件服従するのは誤りであるとはっきり教えられています。
仏ではない善知識が、間違ったことを教えているのかどうか凡夫にはどうかわからないのですから、何も考えずに鵜呑みにしては、異安心に陥る危険性が大です。

そのことを『教行信証』化土巻では『涅槃経』から引用されて


また言わく、善男子、信に二種あり。一つには信、二つには求なり。かくのごときの人、また信ありといえども、推求するにあたわざる、このゆえに名づけて「信不具足」とす。信にまた二種あり、一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞より生じて、思より生ぜず、このゆえに名づけて「信不具足」とす。


と教えられています。教えられたことをただ鵜呑みにして、納得するまで推求、追及しないのは、「信不具足」、間違った信心である。また、ただ聞いているだけ、信じているだけで、納得するまで思惟しないのは、「信不具足」、間違った信心である、ということです。つまりは、善知識からいわれたことに対して、すべてのことを鵜呑みにして、納得もしない、考えることを放棄する、これが間違いを教えられるために親鸞聖人は『涅槃経』を引用されているのです。

また覚如上人は『改邪鈔』に
「一 本願寺聖人の御門弟と号する人々のなかに、知識をあがむるをもって弥陀如来に擬し、知識所居の当体をもって別願真実の報土とすという、いわれなき事。」
と題して以下のように書いておられます。


善知識において、本尊のおもいをなすべき条、渇仰の至りにおいてはその理しかるべしといえども、それは仏智を次第相承しまします願力の信心、仏智よりもよおされて、仏智に帰属するところの一味なるを仰崇の分にてこそあれ、仏身・仏智を本体とおかずして、ただちに凡形の知識をおさえて「如来の色相と眼見せよ」とすすむらんこと、聖教の指説をはなれ、祖師の口伝にそむけり。本尊をはなれて、いずくのほどより知識は出現せるぞや。荒涼なり、髣髴なり。実語をつたえて口授し、仏智をあらわして決得せしむる恩徳は、生身の如来にもあいかわらず、木像ものいわず経典くちなければ、つたえきかしむるところの恩徳をみみにたくわえん行者は、謝徳のおもいを専らにして、如来の代官と仰いであがむべきにてこそあれ、その知識のほかに別の仏なしということ、智者にわらわれ愚者をまよわすべきいいこれにあり、あさまし、あさまし。


たとえ正しい教えを説かれているとしても、知識は、阿弥陀仏ではありませんし、仏でもありません。知識を仏のように扱うのは浅ましいことであると教えられています。

このように、善知識に無条件服従するのは間違いであることが、至る所で書かれてある訳です。

そこで、最初の『御一代記聞書』を改めて検証しますと、これがそのまま全ての事柄において蓮如上人が親鸞聖人の仰った通りになされたと理解するのは無理があります。
蓮如上人は親鸞聖人の教えられたことと表面上は違うことを沢山なされています。たとえば、権力者に近付くことを誡められた親鸞聖人に対して、蓮如上人は権力者を利用されています。以前にこのブログに書いたことに関連していえば、親鸞聖人は化土往生について、かなり力を入れて説かれていますが、蓮如上人は化土往生について『御文章』には全く仰っていません。その他いくつもあります。
そのことで蓮如上人を非難する人が今日でも多いことを考えれば、ここに記されてあることは、ある特定の事柄について仰ったお言葉と考えるのが自然でしょう。実際そういった考え方が通説になっています。
前々回と前回にも述べましたが、親鸞聖人、蓮如上人の御著書以外の"お言葉"は、聞き間違い、理解の間違い、伝え間違い等があり、注意が必要です。
なお念の為申しておきますが、蓮如上人が親鸞聖人の仰った通りになされていないことが、親鸞聖人の御心に反することであったとは、私は考えておりません。そのことは、紅楳英顕著『続・浄土真宗がわかる本』(教育新潮社刊)にも詳しく書かれてありますので、興味がある方はそちらをお読み下さい。

皆さんご存知の通り、親鸞聖人も間違ったことをなされたという記録があります。飢饉で亡くなる人を浄土三部経を千回読まれて救おうとされて、それが間違いであったと述懐されたことがあると、『恵信尼消息』に記されてます。親鸞聖人でさえ、明らかな間違いをされたことがあるのです。

親鸞聖人の教えに盲信や無条件服従はありません。
ましてや、これまで散々述べてきたように、浄土真宗でも仏教でもない外道の教えを説く悪知識に、無条件服従するのは正気の沙汰とは思えません。
会員の皆さんが社会復帰するためには、まず悪知識への無条件服従をやめて下さい。第二のオウムとなってからでは手遅れです。
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2009-09-30

善知識には無条件服従しなければならないのか 4

最近親鸞会で、無条件服従(絶対服従)についての反論や無条件服従した結果どうなるのかの実例がありましたので、再度、無条件服従の誤りを明らかにします。

親鸞会講師部員の「静かな劇場」というブログに


仏門においては絶対服従などあったりまえのことだろ、それがいやなら最初から門をくぐるな。


とあります。親鸞会では、よく「あったりまえ」とか「明々白々」という言葉を使いますが、そこにはいつも根拠がありません。間違いといっている人に対して、それは当たり前のことであるといいたいのなら、根拠の1つでも挙げるべきでしょうが、それがありません。
私は、できるだけ多くの根拠を挙げて、論理的に述べているつもりです。

善知識には絶対服従しなければならないのか 1
善知識には絶対服従しなければならないのか 2
善知識には絶対服従しなければならないのか 3

しかし、親鸞会では根拠も論理展開もなく、最初から最後まで結論だけです。
この講師も根拠が挙げられないから、たとえ話を出して誤魔化しています。


自分がガンの末期となり、医者という医者から匙を投げられ途方に暮れていたところ、ある所にそのガンを治してくれる医者がいると知れば、仕事をやめてでも診察を受けにいくだろう。その時、その医師の指示に絶対従うのではないか?「手術します」と言われて、そんなの嫌です。そんな押し付けは民主主義の精神に反します、傲慢だ、とか言って治療を拒むものだろうか?
そのガンを根絶したいなら私の言ったとおりにしなさいと、医師ならば当然言うだろうし、でも、病気を治したいと思うかどうかは本人の問題である。

病の深刻さを知り、何とか治したいと思うならば、医師の指示には絶対服従が善いか、悪いか、民主主義の価値観を共有する現代に照らしていかがなものか?などという論題がいかに無意味なものか分かるだろう。



親鸞会のいつものトリックです。このたとえ話自体に問題がないと確信しているのでしょうが、ガン患者が衆生とするなら、ガンを直す医者はどなたでしょうか。普通に考えれば、阿弥陀仏ではないでしょうか。このたとえでいうならば、阿弥陀仏に無条件服従する、これは正しいことです。しかしこの講師は、善知識を医者にたとえています。高森会長の話でも、阿弥陀仏を医者にたとえているのではないですか。このたとえがおかしいと思わないところが、典型的な善知識だのみの異安心です。

ただし、『涅槃経』には、仏と菩薩に限って真実の善知識として、医者にたとえられています。それを親鸞聖人は『教行信証』化土巻に


またのたまはく(涅槃経・徳王品)、「善男子、第一真実の善知識は、いはゆる菩薩・諸仏なり。世尊、なにをもつてのゆゑに、つねに三種の善調御をもつてのゆゑなり。なんらをか三つとする。一つには畢竟軟語、二つには畢竟呵責、三つには軟語呵責なり。この義をもつてのゆゑに、菩薩・諸仏はすなはちこれ真実の善知識なり。また次に善男子、仏および菩薩を大医とするがゆゑに、善知識と名づく。なにをもつてのゆゑに、病を知りて薬を知る、病に応じて薬を授くるがゆゑに。たとへば良医の善き八種の術のごとし。まづ病相を観ず。相に三種あり。なんらをか三つとする。いはく風・熱・水なり。風病の人にはこれに蘇油を授く。熱病の人にはこれに石蜜を授く。水病の人にはこれに
薑湯を授く。病根を知るをもつて薬を授くるに、差ゆることを得。ゆゑに良医と名づく。仏および菩薩もまたまたかくのごとし。もろもろの凡夫の病を知るに三種あり。一つには貪欲、二つには瞋恚、三つには愚痴なり。貪欲の病には教へて骨相を観ぜしむ。瞋恚の病には慈悲の相を観ぜしむ。愚痴の病には十二縁相を観ぜしむ。この義をもつてのゆゑに諸仏・菩薩を善知識と名づく。善男子、たとへば船師のよく人を度するがゆゑに大船師と名づくるがごとし。諸仏・菩薩もまたまたかくのごとし。もろもろの衆生をして生死の大海を度す。この義をもつてのゆゑに善知識と名づく」と。



と著しておられます。もし善知識を医者にたとえたいのならば、その善知識は仏と菩薩に限っていうべきでしょう。
仏と菩薩が第一真実の善知識である理由について、
畢竟軟語(この上なく優しい言葉)
畢竟呵責(この上なく厳しい言葉)
軟語呵責(優しい言葉と厳しい言葉)
を用いて衆生の心を調え導くからとあります。
また、仏と菩薩をすぐれた医者にたとえる理由は、
病のことも薬のこともよく知っていて、病に応じた薬を与えることができる
とされています。
つまり、仏と菩薩は、智恵と慈悲を具えている方だからです。

では、親鸞会の会長は、仏と菩薩に準ずるような智恵と慈悲を具えているでしょうか。
高森会長の近くにいた方から以下のようにいわれています。(「さよなら親鸞会」より)


 私は毎年、お中元とお歳暮を先生に贈っていました。その度に、お礼状が届きましたが、秘書が代筆して、最後に先生の直筆の署名が書かれてある葉書です。ある時、意味の分からない歌が書かれてありました。

 無常佛 疑いぬかせ 助け切る

「無上佛」なら分かりますが、「無常佛」とはどんな御心なのだろうか。先生の署名もあるし、秘書がたとえ書き間違えたとしても、最も心にかけておられる阿弥陀仏のお名前が書き間違えられていることを見逃される筈がない。きっと何か深い御心があるに違いない、しかし、何度読んでも意味が分からない。もしかして間違っているのではないか。でも何があっても絶対服従なので、間違っていると思うこともあってはならない。悩んだ挙げ句、局長に葉書を見せると、「これは今問題になっているんだ」と言われて葉書を取り上げられてしまいました。数日後、

 無上佛 疑いぬかせ 助け切る

と訂正されて、秘書のお詫びの言葉が添えられた葉書が届きました。しかし、今回先生の署名はありませんでした。

 特専部員として任務を遂行するには、呼ばれた時にはすぐに行けるようにしておく必要がありますので、会社を辞めて独立しました。先生の御指示にはすぐに対応する、絶対服従なんだからと、常に心掛けているつもりでした。

 先生との打合せで、「Aの方針にする」と決定されれば、その通りに即実行します。その後中間報告をすると、「Bにするのが当然だろう」といわれるので、すぐにBに変更します。再度確認すると、「なぜBにするのだ、Cの方がいいだろう」、すぐさま変更します。これを延々繰り返して、最後にはAに落ち着く、よくあるパターンでした。
 なぜこんなに方針が変わるのか。理由は

 ・前回のことを忘れた。
 ・思い直して変更したが、前回の指示が間違っているとはいえないだけ。
 ・絶対服従の姿勢を試している。
 ・機嫌が悪く、単なる嫌がらせ。

が考えられますが、その時々で4つともあります。しかし、信心決定のためには、何も言わずに従わなければならない教えです。

 先生とのある打合せの前日、私の身内が亡くなり、通夜の準備をしていると上司から電話があり、「明日は先生との打合せだろう、どうして前日から来て準備をしないのだ」と一方的に叱られ、事情を説明するも聞く耳持たずでしたので、「明日の早朝から準備をして打合せに備えます」と答えて納得してもらいました。もちろん翌日の葬式を欠席し、先生との打合せに出ました。打合せ後残っていると、「早く帰らなくていいのか」と言われましたが、今更帰っても葬式の後片付けも終わっています。他にいう言葉がないのかと思いました。

 またある人のアトリエで先生と打合せの前日、「あそこは汚いから、前もって皆で掃除をしてきなさい」と上司からいわれました。他人の所を勝手に掃除するなど、そんな非常識なことはできないというと、「汚いことで先生の御機嫌が悪くなり、やり直しと言われたら大変だろう」といわれるのです。機嫌で方針がころころ変わるのことを周りの人はよく知っていたのです。

 またある日の朝、「今日の昼に先生との打合せをする」との電話を受け、当日の予定を全てキャンセルして必死の思いで、時間に間に合わせるも、約束を先生にすっぽかされました。先生を追いかけて、他の場所で打合せをするも、先生から逆ギレされて罵られる。しかし、信心決定するには絶対服従するしかないので、ただただ耐えるしかありませんでした。

 来いといわれれば、片道4時間、往復8時間をかけてでも打合せに出向き、1週間に4往復、1ヶ月に16往復をしてでも任務を果たそうと努めました。

 先生と上司からの指示には、世間の仕事を放り出してでも、何を差し置いてでも従う、これ以外に救われる方法はない。上司は自分よりも先生に従っている、まだ自分は甘いのだと反省するのですが、あれほど先生に信順している上司でも救われないのなら、自分が救われることはないのではないかと、思い始めました。

 そして昨年、大事件が起こりました。同朋の里第1期工事で、特専部員が工事の大半の設計を請け負うことになったのですが、私は当時別の任務で余り関わっておりませんでした。その設計内容が、先生の思いと大きく違うということが工事中に発覚し、しかも特専部員以外の設計担当者の意見を無視して、特専部員が勝手に決めたということになっていたのです。特専部の関係者は退部に値する大問題となりましたが、当時全く関わっていなかった私までも重大な責任を問われたのです。

 余りにも理不尽なことでしたが、皆口を噤むばかりで反論する人が誰一人ありません。仕方なく、その時の経緯を私が聞き込みをした結果、濡れ衣を着せられていたことが判明し、問題が解決したかに見えましたが、それが大きな誤りでした。一度振り上げた拳は、簡単には降ろせません。特専部への責任は軽くはなったものの、その時の設計責任者と私に今回の責任が押し付けられた格好になりました。遠方から通う交通費は全て自腹、週の半分を使う任務も無報酬で続けるしかありませんでした。そんな状態が長く続く訳もなく、仕事も収入面でも大変な無理をした結果、経済的に破綻し、大きな借金を負うことになったのです。



この方の証言から高森会長に智恵も慈悲もないことが証明されています。

しかもこの方が当ブログについて会長に反論を依頼したところ、強制的に退会させられ、他の人にそのことを知らせると除名。
高森会長に無条件服従した結末が、除名
高森会長を医者にたとえるなら、命懸けで従う末期ガンの患者の病も分からず出鱈目な薬も与え、患者をさんざん弄んで、ついには身ぐるみ剥いで放り出した医者を騙る悪徳詐欺師でしょう。
このように高森会長は愚痴と無慈悲の塊のような人物であり、もちろん当ブログに一切反論できない高森会長に教学力もないことは、「あったりまえのことだろう」で、医者にたとえる善知識の条件は何一つ具えていません。

そんな人物を無二の善知識として崇めて、無条件服従を強いることが仏門と勘違いしているお目出たい講師には、呆れるばかりです。

また、都合のいいどこかの学者の説を探し出してきて、内輪で反論しているつもりの講師もいるそうですが、おおよそ論文というものを書いたこともないのでしょうし、論理的な思考のできない小学生レベルの人では、まともな議論も成立しません。

もし親鸞聖人の教えについて語りたいのならば、カルト教義ではなく真宗教義を基本から勉強しなさい。人格が崩壊して、私利私欲のための教義を創造したカルトの教祖に無条件服従することによって、謗法罪を際限もなく造り続ければ、行き着く先が無間地獄であることは、明々白々です。
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