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2009-11-03

善知識には無条件服従しなければならないのか 7

くどいと思われる方には申し訳ありませんが、思考力の衰えた人には未だ理解できないようですので、”無二の善知識”への無条件服従が間違いであることの補足説明を再度致します。

四依について、これまで二回解説をしてきました。
善知識には無条件服従しなければならないのか 3
善知識には無条件服従しなければならないのか 5

四依について解説なされた存覚上人が『六要鈔』の中で、根拠を2つ挙げておられました。その理由については、原文を読まれればお分かりになると思います。

1つ目が、『大無量寿経』下巻の往覲偈のお言葉です。現代語訳とサンスクリット本の和訳も載せておきます。

『大無量寿経』下巻

声聞あるいは菩薩、よく聖心を究むることなし。たとへば生れてより盲ひたるものの、行いて人を開導せんと欲はんがごとし。如来の智慧海は、深広にして涯底なし。二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり。たとひ一切の人、具足してみな道を得、浄慧、本空を知り、億劫に仏智を思ひ、力を窮め、講説を極めて、寿を尽すとも、なほ知らじ。


浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会 編『浄土三部経(現代語版)』

声聞や菩薩でさえも、仏の心を知りきわめることはできない。まるで生れながらに目が見えない人が、人を導こうとするようなものである。如来の智慧の大海は、とても深く広く果てしなく、声聞や菩薩でさえも思いはかることはできない。ただ仏だけがお知りになることができる。たとえすべての人々が、残らずみな道をきわめて、清らかな智慧ですべては空であると知り、限りなく長い時をかけて仏の智慧を思いはかり、力の限り説き明かし、寿命の限りを尽したとしても、仏の智慧は限りなく、このように清らかであることを、やはり知ることができない。


梵文和訳(中村 元・ 紀野 一義・ 早島 鏡正訳 『浄土三部経 (上) 無量寿経』)

たとえば、実に眼のない人が闇の中で、道を知らないようなもの。ましてや(他の人々に)道を教えられようか。<教えを聞いて修行する人々>は、仏の智慧について、みな、この通り、知ることが無い。いかにいわんや、他の人々のいてをや。ただ仏のみが、仏の功徳を明らかに知る。神々・竜・アスラ(阿修羅)・ヤクシャ(夜叉)や、教えを聞くのみの修行者たちは、(知ら)ない。仏の智が説き明かされても、独居する修行者たちは、これを知るいかなる道があるであろうか。たとえ一切の生ける者どもが幸せとなり、清浄な智識を得て、最高の真理を熟知する者となったとしても、かれらが億劫の間、あるいはそれ以上にわたっても、一人の仏のすぐれた徳性を語るとしても。多くの幾億劫の間、説明しつつ、その間にかれらはその身失[う]せるであろうとしても、しかも、〔その〕仏の智の量は、(知り)得ない。


これは仏と、声聞・菩薩との違いを明確にされたものです。

もう1つが、『散善義』の深心釈ですが、親鸞聖人は『教行信証』信巻に引いておられますので、現代語訳とあわせてそちらを挙げます。

『教行信証』信巻

仏はこれ満足大悲の人なるがゆえに、実語なるがゆえに、仏を除きて已還は、智行未だ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありて、未だ除からざるに由って、果願未だ円ならず。これらの凡聖は、たとい諸仏の教意を測量すれども、未だよく決了することあたわず。平章ありといえども、かならず須らく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称えば、すなわち印可して「如是如是」と言う。もし仏意に可わざれば、すなわち「汝等が所説この義不如是」と言う。印せざるは、すなわち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまうをば、すなわち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなわちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多・もしは少、すべて菩薩・人・天等を問わず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなわちこれ「了教」なり、菩薩等の説は、ことごとく「不了教」と名づくるなり、知るべしと。このゆえに、今の時、仰ぎて一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし、菩薩等の不相応の教を信用してもって疑碍を為し、惑を抱いて自ら迷いて、往生の大益を廃失すべからざれとなり。


浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会 編『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』

仏は大いなる慈悲をまどかにそなえた方だからであり、その説かれた言葉はまことだからである。仏以外のものは、智慧も行もまだ十分でなく、それを学ぶ位にあり、煩悩も習気もまだすべては除かれていないので、さとりを求める願いも、まだまどかに成就していない。したがって、これらのものは、たとえ仏のおこころを推しはかっても、確かに知ることはまだできないのである。物事の道理を正しく明らかに理解することがあったとしても、必ず仏にその証明をお願いして、当否を定めるべきである。もし、仏のおこころにかなえば、仏はこれを認められて<その通り>といわれる。もし、仏のおこころにかなわなければ、<あなたがたのいうこの理解は正しくない>といわれるのである。仏がお認めにならない説は、仏の正しい教えにかなうものなのである。仏のお言葉はすべて、正しい教えであり、正しい義であり、正しい行であり、正しい領解であり、正しい行業であり、正しい智慧なのである。多数のものでも少数のものでも、菩薩であっても人間であっても神々であっても、その説の善し悪しを定めることなどできない。仏の説かれた教えは、完全な教えであり、菩薩などの説は、すべてみな不完全な教えというのである。よく知るがよい。だから、今この時、往生を願うすべての人々に勧める。ただ深く仏のお言葉を信じて、ひとすじに行を修めるがよい。菩薩などの説く、仏のお心にかなっていない教えを信じて、疑いをおこし、惑いをいただいて、自ら往生という大いなる利益を失ってはならない。


『愚禿鈔』でも同様のことを書いておられます。

第六に「この『経』(観経)によりて深信する」について、六即・三印・三無・六正・二了あり。
六即とは、
一には、「もし仏意に称へば、即ち印可して〈如是如是〉とのたまふ」と。
二には、「もし仏意に可はざれば、即ち〈なんぢらが説くところ、この義不如是〉とのたまふ」と。
三には、「印せざるは、即ち無記・無利・無益の語に同じ」と。
四には、「仏の印可したまふは、即ち仏の正教に随順するなり」と。
五には、「もし仏の所有の言説は、即ちこれ正教なり」と。
六には、「もし仏の所説は、即ちこれ了教なり」となり。
三印とは、
一には即印可、
二には不印、
三には仏印可なり。[三印は上の六即の文のなかにあり。]
三無とは、
一には無記、
二には無利、
三には無益なり。[三無は六即の文のなかにあり。]
六正とは、
一には正教、
二には正義、
三には正行、
四には正解、
五には正業、
六には正智なり。
二了とは、
一には、「もし仏の所説は、即ちこれ了教なり」と。
二には、「菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり」と、知るべし。



仏は完璧な方ですので「了教」ですが、菩薩でさえも仏の真の御心がわからないので「不了教」といわれます。四依のお言葉でいえば、仏の説かれたものは「了義経」ですが、それ以外のものは「不了義経」です。「法に依りて人に依らざるべし」でいえば、仏の御心の通りに説いたものが「法」ですが、間違いを犯す菩薩以下の人間は「人」になりますので、その人が説くことを依りどころとしてはならないということです。
ましてや、仏の御心に叶わない教えに従うことも、もちろん仏の御心と明らかに違うことを説いている人物に従うことも、完全に間違いであります。弁解の余地はありません。

たとえば釈尊も、釈尊の御心の通りに説かれた歴代の善知識方も仰ったことのない、

・「一切衆生必堕無間」
・18願の「若不生者」に当益の意味は全くない
・善をしなければ信仰は進まない

等の邪説を、これこそが真実の教えであり、これが分かるのは自分だけと”無二の善知識”を名乗る人物に従うことが「法に依る」ことだと主張するのは、一体どんな明晰な頭脳をしているのでしょうか。

幹部会員であった方から聞くところによれば、仏間に空調を入れることはおかしいといいながら、自分の部屋はICU並の完璧な空調にしたり、阿弥陀仏を安置する宮殿須弥壇は何十年も使い続けて新調したことがないのに、自分の住居は各会館に次々と建設させたり、一度履いた靴下は二度と履かないとか、その”無二の善知識”は、我こそは生き仏であり、本師本仏と錯覚しているのではないですか。

釈尊、歴代の善知識方の仰った通りに教えている知識に従うことを「法に依る」というのなら、まだ理解できますが、阿弥陀仏を粗末にし、釈尊を頭がおかしくなったと誹謗し、親鸞聖人を盗作の大家と呼ばせている大悪知識に、無条件服従せよとは、それこそ、「貴方、頭がおかしくなったのではないですか」と言いたくなります。

外道邪教の親玉には何も期待していませんが、ここまでしつこく言っても、講師には、理解できないのでしょうか。ただし、親鸞会に所属してそれを正しいと人に伝えることが、念仏誹謗になることだけは、知っておくべきでしょう。
無間業を畏れる気持ちが少しでもあるならば、賢明な会員さんはまずは外道から仏教へ入られることを切に願うばかりです。
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2009-11-10

善知識には無条件服従しなければならないのか 8

蓮如上人は『御文章』二帖目第十一通


そもそも善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、ひとをすすむべきばかりなり。


と仰っています。
では、善知識に無条件服従せよ、といっている知識は、善知識でしょうか。これまで何度も何度も述べてきましたので、今さら説明する必要はないでしょう。阿弥陀仏に向けといいながら、自分に向かわせる卑怯な教えを説く”無二の善知識”は、もちろん悪知識です。

親鸞聖人の御著書ではありませんが、『歎異鈔』第二章には、


弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰そらごとならんや。法然の仰まことならば、親鸞が申す旨、またもって虚しかるべからず候歟。


とあります。阿弥陀仏の本願がまことであるなら、釈尊、善導大師、法然上人、親鸞聖人の教えられたことが正しいことになる。これで間違いないのです。ところが目の前の知識に無条件服従したら、その知識が”無二の善知識”で正しいから、親鸞聖人、法然上人、善導大師、釈尊の教えられたことが正しい、そして最後に阿弥陀仏の本願がまことだという結論になります。全くの逆になります。
真逆の教えですから、釈尊、善導大師、法然上人、親鸞聖人のお言葉と明らかに違うことを教えていても、釈尊、善導大師、法然上人、親鸞聖人の御心が分かるのは”無二の善知識”だけだといって、会員は平気な顔をしているのです。それは、誤解するような表現しかされなかった釈尊や歴代の善知識方をまるで悪者にしているのですから、外道の集団なのです。


また、信心決定のために善を勧める知識はどうでしょうか。
蓮如上人は『御文章』二帖目第九通に、


そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらえるそのこころはいかんぞなれば、それ、弥陀仏のちかいましますようは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなるつみふかき機なりとも、すくいたまわんといえる大願なり。
しかれば、一心一向というは、阿弥陀仏において二仏をならべざるこころなり。
このゆえに、人間においてもまず主をばひとりならではたのまぬ道理なり。
されば外典のことばにいわく、「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず」といえり。
阿弥陀如来は、三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまわざるべきや。
このいわれをもってよくよくこころうべし。
さて、南無阿弥陀仏といえる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆえに、なにの不足ありてか諸行諸善にこころをとどむべきや。
すでに南無阿弥陀仏といえる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。



『御文章』では、雑行を捨てよとばかり教えられています。諸善は雑行です。信心決定のために善をしようとすれば、それは雑行、善に向かうのですから、阿弥陀仏に向かっていません。雑行を勧めている、つまり阿弥陀仏に向かえという教えに反したことを勧めていることになります。”無二の善知識”と呼ばれる人物は、「善をしなければ善ができない自分と知らされることがなく、捨てることができない」とか、「善をしなければ信仰は進まない」とか、歴代の善知識方が全く仰ったことのない珍しき屁理屈を説いていますが、その”無二の善知識”の心は、会員に敢て阿弥陀仏に向かわせていないのです。
親鸞聖人が『教行信証』信巻


また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。


と仰っている遠回りの教えを説いているのですから、この”無二の善知識”はやはり悪知識です。

最近親鸞会では、親鸞会式因果の道理をやたら強調していますが、何のつもりでしょうか。某講師のブログ「静かな劇場」でも、散々な非難を無視して狂ったように何やら書き続けていますが、それが外道の教えと分からないところがお目出たいです。しかも、誰もいっていない非難を捏造して自問自答を繰り返しているのですから、『本願寺なぜ答えぬ』と同じ構図です。
親鸞会は、もしかしたら聖道仏教で説かれる因果の道理の真似をしようとしているのでしょうか。だとすれば浄土仏教と因果の道理の関係も知らないのでしょう。このことは他のブログで詳しく解説されていますので、すでに読まれている方も多いでしょうから、ここでの説明は省略します。
一言だけ述べれば、浄土仏教では因果の道理について皆無といっても良いほど説かれておらず、それは親鸞会が浄土仏教の聖教から根拠を一つとして挙げられないことでもお分かりになると思います。

そして、「一切衆生必堕無間」という歴代の善知識方のなされてない極度の不安を煽ることも、阿弥陀仏に向かわせない教えです。言葉を替えれば、必堕無間という自己の罪悪感に徹することと、自力無功と知らされ他力に帰することとは全く違います。
この詳しい説明は以下を読んで下さい。

「苦笑の独り言」
大昔からツッコミ入ってます→親●会における「二種深信の機の深信」と「罪悪観」との混同
安心論題「二種深信」←「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してる人は、これを読んで勉強してね。(1)
わかりやすい宗義問答「二種深信」←「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してる人は、これを読んで勉強してね。(2)


”無二の善知識”は、釈尊、善導大師、法然上人、親鸞聖人がどう教えられたかなど関係ないという姿勢ですから、どう考えても悪知識です。

どんな観点から見ても、カルト教義を唱えている”無二の善知識”は「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と反対のことを教えていますので、善知識どころか悪知識です。


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