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2010-01-03

宿善とは1

親鸞会教義の根本的な誤りは、経典と善知識方の聖教を素直に拝読すれば、誰にでもわかることです。

ただし善については、しないよりはした方がよいに決まっているという思いが誰にでもあります。そこに付け込んで、宿善という名目で善をすることが獲信とよい関係にあると親鸞会は会員に理解させているのです。この考えこそが自力で捨てよと教えられているものですが、高森会長は巧妙なトリックで邪義を説いているのです。

宿善については、紅楳英顕師の『派外からの異説について』を先入観を廃して読まれれば、親鸞会の間違いが分かるのですが、理解できない人も多いようですので、宿善について少し述べたいと思います。

まず、宿善ということについて親鸞聖人がどのように考えられていたのかを知るために、法然上人関係の文書から宿善について見てみます。

法然上人の「十二箇条問答」に


ある時には、我が身の、宿善を、喜ぶべし。賢き、卑しきも、人、多しと、言えども、仏法を信じ、浄土を、願う者は、希なり。信ずるまでこそ、かたからめ、謗り、憎みて、悪道の因をのみ、作る、しかるに、これを信じ、これを貴びて、仏をたのみ、往生を志す、これ偏に宿善の、しからしむる也。只今生の、励みに有らず、往生すべき、期の至れる也と、頼もしく、喜ぶべし。斯様のことを、折に従い、事によりて、思うべき也。


とあります。信じがたい浄土を願い往生を志すことができたのは、偏に宿善によるものと法然上人が教えられていたことを示しています。

また『法然上人絵伝』第二十七巻には、


武蔵国の御家人、熊谷の次郎直實は、平家追討のとき、所々の合戦に忠をいたし、名をあげしかば、武勇の道ならびなかりき。しかるに宿善のうちにもよをしけるにや、幕下将軍をうらみ申事ありて、心ををこし、出家して、蓮生と申けるが、聖覚法印の房にたづねゆきて、後生菩提の事をたづね申けるに、さようの事は法然上人に、たづね申ベしと申されければ、上人の御庵室に参じにけり。



とあり、熊谷次郎直實は、宿善があって後生菩提を尋ねる心をおこして、法然上人のところへ参ったと記されています。
これらは、『大無量寿経』の往覲偈にある


もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。
清浄に戒を有てるもの、いまし正法を聞くことを獲。
むかし世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、
謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。
驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。
宿世に諸仏を見たてまつりしものは、楽んでかくのごときの教を聴かん。



『観無量寿経疏 定善義』


もし人浄土の法門を説くを聞き、聞きてすなはち悲喜交はり流れ、身の毛為竪つものは、まさに知るべし、この人は過去にすでにかつてこの法を修習して、いまかさねて聞くことを得てすなはち歓喜を生じ、正念に修行してかならず生ずることを得。


を受けられて、宿善がある人が阿弥陀仏の本願を聞けるのであって、そんな人は稀であることを法然上人が教えられていたことが分かります。

更には親鸞聖人が尊敬されていた聖覚法印の『唯信鈔』には、


つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。



と教えられています。ここで言われていることは次の通りです。

宿善の薄い人と厚い人があるが、それは今生で善悪をしている有様でわかる。自分は善いことを行おうという心がなく宿善が薄いが、五逆罪を犯しておらず、阿弥陀仏の本願を深く信じさせて頂いている。五逆罪の者の十回の念仏が宿善によるものであって、我々の一生の念仏をもって宿善の浅いこととどうして思うのか。その考えが往生の妨げになっている。

つまり宿善の厚薄を問題にすることが間違いであると言われているのです。

この詳しい内容につきましては

「21世紀の浄土真宗を考える会」
宿善の厚薄 唯信鈔の言葉


に、分かりやすい解説がなされていますので、御参照下さい。

ところが驚くことに、この『唯信鈔』のお言葉を断章取義して、真逆の意味で利用しているのが親鸞会です。

親鸞会で使われている『教学聖典(5)』なるものには以下の問いと答えが載っています。

(問)
 宿善の厚き人と、薄き人との違いを教えられた『唯信鈔』の御文を示せ。

(答)
 宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。
 宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず


『教学聖典(5)』にある他の問いと答えから、このお言葉が、宿善の薄い者は、宿善を厚くするように勧められたかのような誤解を生じさせる悪質な設問です。


親鸞会は諸行往生12のところでも述べましたように、親鸞聖人は宿善という言葉を御著書の中では1度も使っておられません。親鸞聖人は、経典や善導大師、法然上人、聖覚法印のお言葉を踏まえられた上で、宿善を宿縁と敢て言い換えておられます。自力的な要素を徹底的に排斥されたのが親鸞聖人ということも述べてきました。

法然上人の教えを受け継がれ、『唯信鈔』を同行に読むように勧められた親鸞聖人が泣いておられるでしょう。


最近、当ブログの読者から、獲信の報告を頂きました。大変喜ばしいことです。獲信とは捨自帰他です。阿弥陀仏に救われた人は、これ以外にないことをこの方も含めて皆語られます。当然なことです。なぜならすべてが阿弥陀仏のお力によるものだからです。

たとえどんな理由を付けようとも獲信のために修善に励むことは、阿弥陀仏の本願に反する行為です。雑行を捨てるためには、雑行に励まなければならないなどという考えが、阿弥陀仏の救いから遠ざけているのです。
『唯信鈔』のお言葉で言えば、「小智は菩提のさまたげといへる」なのです。
親鸞会会員の獲信を妨げている最大の原因が、善の勧めでしょう。


宿善という言葉を悪用して、獲信のために諸善を勧めることは、謗法罪です。獲信するために修善を勧めている人は、捨自帰他を体験していない異安心であるか、あるいは他人に獲信してもらっては困る理由があるかのどちらかです。

獲信された方数人が、一年前に親鸞会から除名処分になったと聞いています。その理由は、明らかでしょう。
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2010-01-03

宿善とは2

前回、親鸞会が断章取義している『唯信鈔』の、


宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。


について書きました。
これと同じことを書かれたものが、『口伝鈔』第4章にあります。


宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。


ここでは宿善と宿悪というお言葉で表現なされています。
これは『口伝鈔』第4章全体を読まれれば、ここで聖覚法印と覚如上人の仰りたいことがよく分かると思います。全文は少し長いので以下に抜粋します。


一 善悪二業の事。
(中略)
しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ。
 ここをもつて光明寺の大師(善導)、「言弘願者 如大経説 一切善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁也」(玄義分)とのたまへり。文のこころは、「弘願といふは、『大経』の説のごとし。一切善悪凡夫の生るることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗りて増上縁とせざるはなし」となり。されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。
(中略)
善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし。



これでお分かりと思いますが、覚如上人は、

宿善あつきひと=善人
宿悪おおきもの=悪人

という意味で使っておられます。

悪もおそろしからずともいひ善もほしからず
かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからず
善もたすけとならず、悪もさはりとならず


つまり、阿弥陀仏の本願は、善人悪人関係なく救うということをここで教えておられるのです。もちろん善をせよという意味もありません。
これを踏まえて『唯信鈔』のお言葉を読まれれば、やはり同じことを教えられているとご理解頂けると思います。

『唯信鈔』ならば

宿善あつきもの=善人
宿善すくなきもの=悪人

ということです。

親鸞会で教えているように、宿善薄い人は厚くなるようにしなければならないというのは、悪人は善人にならなければ救われないといっているのと同じことになるのです。
親鸞聖人が『教行信証』信巻で、五逆罪を犯した阿闍世でも救われることを『教行信証』全体の1割も費やして教えられた御心を根底から覆すことになります。
そのことは
一切衆生は必堕無間なのか4
一切衆生は必堕無間なのか5
一切衆生は必堕無間なのか6
に書きましたので、時間のある方は読んで頂けるとより理解しやすくなります。

また『歎異抄』第1条


弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々。


の意味もまるっきり分かっていないのが親鸞会です。

このように書けば、親鸞会では善人になれといっているのではない、と反論があるでしょうが、『唯信鈔』のお言葉を用いて、宿善を厚くせよと言っている時点で、善人にならなければ救われないと主張していることなのです。
私たちのやった善は、獲信とよい関係になるのだ、と更に聖道仏教的な屁理屈をいうでしょうから、その邪義についても、覚如上人は次の第5章で完璧に破邪しておられます。


一 自力の修善はたくはへがたく、他力の仏智は護念の益をもつてたくはへらるる事。

 たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。ゆゑは六賊知聞して侵奪するがゆゑに。念仏においては、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」と等釈せらるれば、凡夫自力の善にあらず。まつたう弥陀の仏智なるがゆゑに、諸仏護念の益によりて六賊これを犯すにあたはざるがゆゑに、出離の資糧となり、報土の正因となるなり。しるべし。



親鸞会に当て填めれば、どれだけ法施、財施をしようとも、宿善として蓄えられて、獲信のもといとならないのです。それに対して念仏は、凡夫自力の善ではなく、すべて阿弥陀仏のお力ですから、報土の正因となるのです。自力の入り込む余地の全くないのが、他力です。この念仏はもちろん他力念仏のことです。
親鸞会では聴聞も宿善になると理解しているようですが、自分が聴聞したことで獲信できるとはとんでもない間違いです。
自力と他力の理解が根本的に狂っているのです。

『教学聖典(5)』には、

(問)
 「宿善」とはどんなことか、二通りの読み方を示せ。
 また宿善が厚くなる順から三つあげよ。
(答)
○「宿世の善根」とか「善が宿る」とも読む。
  (1)熱心な聞法
  (2)五正行の実践
  (3)六度万行の実践


とありますが、真宗とは全く無縁の論外な問答です。
これは以前に書いた親鸞会は諸行往生4で紹介しました、加藤智学編『香樹院講師語録』をもとにして、六度万行の実践を加えたものです。香樹院師は宿善を厚くする行為として教えられていませんし、もちろん善知識方の教えでもありません。ですから、この根拠を示すことは絶対にできません。高森会長の創作教義です。

親鸞会が、浄土真宗とか、親鸞聖人のお名前を使わなければ、単なる新興宗教と扱うだけですが、本当の親鸞聖人のみ教えを伝えている団体と大嘘を公言していることは絶対に許せません。


ネットでいわれているように、もし他人の著書を盗作したり、最高幹部の不倫を容認したり、偽装勧誘を指示するような十悪ばかりか、親鸞聖人の教えをねじ曲げる謗法罪を平気で造っているとすれば、「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」です。「宿悪おおきもの」の人物に、「宿善のあつきもの」になるよう、誰か勧めてあげてください。

2010-01-09

宿善とは3

『御一代記聞書』の中に、宿善について記された以下の箇所があります。


一 他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。(234)


ここでは、「宿善」を「信心をうる」という意味で使われています。

「宿善」は、親鸞聖人が御著書の中で使われたことのない言葉ですから、その時々の文章によって宿善の意味が異なることがあるようです。一般的には、宿世の善根という意味で使われますが、浄土真宗ではほとんどが、阿弥陀仏のお育てと理解され、自力的意味を排除されます。

このことを踏まえた上で以下を読んでください。


親鸞会で、宿善を厚くせよ、宿善を求めよ、と教えている根拠が、『教学聖典(5)』に載っています。

(問)
 「宿善に厚薄あり」と言われた蓮如上人のお言葉と、
 その根拠を示せ。
(答)
○宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり、
 弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く
 開くる人もあり。
              (御一代記聞書)


この全文は以下の通りです。


一 陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。(307)


このお言葉は蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛されました『安心決定鈔』にあるお言葉を言い換えられたものです。『御一代記聞書』には、『安心決定鈔』からの引用が多数あります。
ここの関連部分を、説明の都合上前後も含めて紹介します。

『安心決定鈔』本

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。


『安心決定鈔』のこれらの部分は、阿弥陀仏が十劫の昔に、本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについて書かれたものです。『御一代記聞書』のこの部分は『安心決定鈔』を受けられて記されたのは間違いないでしょう。内容は同じです。

『御一代記聞書』の「已今当の往生あり」のところが、『安心決定鈔』では


すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり

已・今・当の三世の往生は不同なれども



ですので、
『御一代記聞書』の「宿善も遅速あり」は、『安心決定鈔』の


仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり



に当ります。「ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に


昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり


とありますので、「宿善」とは、信心のことを指していることがお分かり頂けると思います。冒頭の『御一代記聞書』の「宿善」と共通するものです。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、


弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり



に、そのことが明確に解説されています。ですから、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

親鸞会で教えているように宿善の厚薄について教えられたものではありませんし、ましてや宿善を厚くするようにという意味はどこにもありません。
『御一代記聞書』にも『安心決定鈔』にも、善を勧められたところは皆無です。勧められていることは、


信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなり


です。前回申し上げたように聴聞を自力と理解することは、親鸞聖人、蓮如上人の御心に反します。



明らかに善を否定されているにも関わらず、これが善を勧めた蓮如上人の根拠と理解しているとすれば、何ともお目出たいことです。『御一代記聞書』と『安心決定鈔』との関係について知らないことは、仕方がないでしょう。その程度の力しかないのですから。しかし、『御一代記聞書』だけ読んでもこんな無茶苦茶な珍説になりません。

このような人物の邪説を指摘することくらい、優秀な頭脳を持った会員さんならば、さほど難しくないと思います。あとは、確かめようとする気を起こすかどうかです。

2010-01-14

宿善とは4

これまでの3回にわたって、宿善の厚薄について、親鸞会が如何におかしな解釈をしているか述べてきました。宿善という言葉を、覚如上人、蓮如上人は、他のところでも使っておられますので、それと併せて、宿善の意味をみてみたいと思います。

『口伝鈔』には、前々回挙げた第4章の、


宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。


とは別の意味で、第2章に宿善について書かれています。


十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。


ここでの宿善は、第4章とは意味が異なっています。第4章では、過去世に行ってきた善、宿世の善根という意味で使われていますが、この第2章では宿善のある人を、「浄土教を信受する機」、つまり阿弥陀仏の18願を信じられる人としています。この2つは同じと親鸞会では考えているようですが、違います。
今生に善をこのみ悪をおそる」という「宿善あつきひと」であっても、「この教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし」の人は、「宿福なきもの」になります。その逆で、「今生に悪をこのみ善にうとし」の人でも、「今生にこの教にあうてまさに信楽す」人は「過去の宿善あつきもの」になります。
具体的にいえば、法然上人を激しく攻撃した聖道仏教の学僧達は、「今生に善をこのみ悪をおそる」人達の代表といえるでしょう。いい加減な者もいたかもしれませんが、多くは真面目に修善に励んできたなればこそ、善を否定された法然上人を許すことができなかったのです。彼らは、過去、そして今生でも六度万行等の善を我々よりも遥かにしてきたと思われますが、阿弥陀仏の18願を信じることは到底できませんでした。彼らは宿世の善根は厚くても「宿福なきもの」になります。その反対で、五逆を犯した阿闍世は、「今生に悪をこのみ善にうとし」ですが、救われていますので、「過去の宿善あつきもの」です。

ですからこの第2章でいわれている宿善は、あくまで阿弥陀仏のお育てによって、18願を信じられる機であるかどうかという意味であり、それを覚如上人は宿善の有無として仰っているのです。

蓮如上人のお言葉については、親鸞会では『教学聖典』等にも『御文章』からいくつか挙げられています。

一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。2帖目第11通


それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。
3帖目第12通


されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。
しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。
4帖目第1通


あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。4帖目第15通


これ以外にも宿善という言葉を使った箇所はまだありますが、どれも宿善の有無について問題にされたものです。18願を信じられる人と信じられない人との違いが問題であって、親鸞会でいう宿善の厚薄を問題にされたところはありません。
『口伝鈔』第2章も、『御文章』も、18願を信じられない人は、たとえ宿世の善根が厚くとも、誹謗するだけで謗法罪を造ることになりますから、そんな無宿善の人には話をしてはいけないと仰っています。

この無宿善の人のために説かれた教えが、権仮方便なのです。無宿善の人が多いから、釈尊は聖道仏教を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられたのです。
ですから18願を信じて求める宿善のある人に、善を勧める必要はないのです。宿善の薄い人は、宿善を厚くしてからでないと真実に入れないなどとは、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の仰せと全く違うことがお分かり頂けるでしょう。

これは単に解釈の違いで済まされることではないのです。学問上のことを論じているのではありません。宿善のある人が、信心決定できない最大の障碍が、宿善の厚薄を問題にして善を勧める邪義です。
親鸞会の会員が、なぜ信心決定できないのか。それは善を勧めて阿弥陀仏一仏に向かわせないように仕向けている高森会長が、18願を誰も救われない絵に描いた餅にしてしまったからです。だから、30年、40年聞いたくらいでわかるものではないという高森会長の発言は筋が通ります。

『親鸞聖人御消息』に、


弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまゐらせて、仏恩を報じまゐらせんとこそおぼしめすべきに、念仏をとどめらるることに沙汰しなされて候ふらんこそ、かへすがへすこころえず候ふ。あさましきことに候ふ。ひとびとのひがざまに御こころえどもの候ふゆゑ、あるべくもなきことどもきこえ候ふ。申すばかりなく候ふ。ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。


と書いておられます。親鸞聖人は関東の同行に宛てたお手紙の中で、
「遇いがたい阿弥陀仏の本願に遇わせせて頂き、仏恩に報いようと思わなければならないのに、念仏を妨げようとすることは、全く理解できないことであり、浅ましいことです。間違って理解している人達がいますので、あってはならないことが聞こえてくるのです。念仏の人といいながら、間違ったことを教えている人こそが、地獄に堕ち、天魔になるのです。すべての念仏者の罪になるのではないと思います。」
と仰っています。


親鸞聖人が"地獄に堕ちる"と仰っているのは、誰のことでしょうか。お前たちは一人残らず無間地獄に堕ちると説き、獲信のための善を勧めて念仏を妨げている人物のことです。会員さんのことではありません。

当ブログ読者の皆さんは、阿弥陀仏の18願を信じて求めている宿善のある方です。天魔の教えに迷われることなく、親鸞聖人の正しい教えを正しく聞いて下さい。そうすれば必ず信心決定できるのです。
もし、これだけいっても御理解頂けず、天魔を信じられるのであれば、残念ですが無宿善の人と言わざるをえません。

2010-01-21

宿善とは5

当ブログは、一般会員さんと退会された方向けでもありますが、本心は無二の善知識に向けて書いています。
私の気持ちを高森会長は察してくれたようです。

いつもの元会員さんが、コメント欄で教えて下さいました。

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親鸞会ブログポータル
http://親鸞会.com/?p=10004&cpage=1#comment-142
の「1月10日のテレビ座談会」のコメント欄に、
『内容が「宿善」の解説になるとは思っていませんでした。』
とのコメントがありました。
このブログで「宿善」が取り上げられた影響でしょうか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

1月15日号の『顕正新聞』の「大喝」に以下のことが書いてあったそうです。


弥陀の本願を批判する者

「”善をしなければ信仰は進まない”と、なぜ『諸行往生』と誤解されやすいことを言うのか」 と非難する輩がいる。諸行往生とは”善をすれば助かる”という善慧房の主張である。それは体失不体失往生の諍論で、親鸞聖人が徹底破邪されたことである。本会をその諸行往生よばわりするのだからアキレるが、そんな者たちにはこう反問すればよい。「弥陀が十九願を建てられたのが、誤解されやすい元凶なのか」と。
十九願は修諸功徳の願といわれ、善のお勧めだ。目的は”唯除逆謗”と知らせ”若不生者”と救い摂る、十八願へ導くためのご方便であると聖人は教えられている。
「諸善万行ことごとく 至心発願せるゆえに
 往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり」
諸善を「間違いやすいから説くな」の非難は、「誤解されやすい本願を建てるな」と弥陀に楯突き、文句を言っているのだ。それだけではない。十九の願意を開かれ修善を勧められた釈迦一代の教えを”誤解の元凶”と謗法し、仏教を否定する暴言でもある。外道と言われて当然であろう。



当ブログの読者の皆さんには、このトリックがお分かりと思います。ここで再度説明しなくてもこれを書いた本人が、自分の間違いを指摘しています。
これも、いつもの会員さんが教えて下さいました昭和33年発行の高森顕徹著『顕正』には、



 然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
 勿論、機には未熟の者もあるから、いくら信心正因、称名報恩、信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧めても、直にその通りになれない人もあろうけれども、それは機の過失であって法門は常に信因称報の仏意を説き示さなければならない。
 喩えば、虎の手本をみて虎を描こうと思っても、どうしても最初の間は虎ではなく猫の絵になってしまうが、たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに本当の虎の絵がかけるようになるように、手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或は定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
 或る画家が弟子に虎を描かす為に虎の手本を渡した。ところが弟子のかいたものは、どうみても虎ではなく、猫の絵であった。画家は再三描かせてみたが、やはり猫しか書けなかった。そこで師匠は虎をかゝせることをあきらめて猫の手本をわたした。その弟子は一生猫より描くことが出来なくなったという。
 未熟な人に合せて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて信心を得る方法には称名せよなどと教えればあたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。故に教家は常に虎の説法をしなければならないのである。


とあります。
自分の教えていることの辻褄くらいあわせてほしいものです。これは主に20願について会長が言っていることです。半世紀前の会長には
「弥陀が二十願を建てられたのが、誤解されやすい元凶なのか」
と反問すればよいことを「大喝」では言っています。

20願でさえこうですから、その前の19願については尚更です。

昭和33年といえば親鸞会を設立した年です。半世紀という時間が、かつての自分を


諸善を「間違いやすいから説くな」の非難は、「誤解されやすい本願を建てるな」と弥陀に楯突き、文句を言っているのだ。それだけではない。十九の願意を聞かれ修善を勧められた釈迦一代の教えを”誤解の元凶”と謗法し、仏教を否定する暴言でもある。外道と言われて当然であろう。


と、外道とまで言い切ってしまうまでに変化させたのです。時代にあわせて教えが変わるのは当然だ、とは高森会長でもまさか言わないでしょう。


前回書いた内容で言えば、蓮如上人が「まず宿善・無宿善の機を沙汰すべき」と仰っていますが、半世紀前の高森会長は「宿善の機」と思えますが、現在は「無宿善の機」です。
「宿善の機」には、「常に虎の説法をしなければならない」と蓮如上人は教えておられます。もちろん親鸞聖人も、「常に虎の説法」しかしておられません。

虎を描きたいと弟子入りした人に、猫どころか鼠の手本をわたしてどうするつもりでしょうか。

これについての弁明を、また「大喝」にでも書いて下さい。お待ちしています、無二の善知識様。
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