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2010-02-12

宿善とは7

ある現会員さんから以下の御意見を頂きました。

煩悩と戦って善をしていく求道が白道なんだから、それが宿善を求めていくことになるのではないですか。

とんでもない大間違いです。親鸞会では、二河白道の譬について善導大師、親鸞聖人の仰ったことと全く異なったことを平気で教えています。

『教学聖典(6)』にこんな問いと答えが記されています。

(問)
「二河白道の譬」は誰が創られたものか。
何を教えんがために説かれたものか。

(答)
○善導大師
○信心獲得するまでの求道の道程を示すため。


二河白道の譬を何も知らないのでしょうか。
善導大師は『散善義』の「回向発願心釈」の中で


いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。


と譬え話を説かれる理由を仰っています。信心守護の譬ですから、ここだけ見ても、信後のことを譬えられたことがお分かりになると思います。信心獲得するまでの求道の道程ではありません。

また

(問)
「二河白道の譬」について、次の問いに答えよ。
(1)彼岸とは
(2)此岸とは
(3)白道とは
(4)群賊悪獣とは
(5)火の河とは
(6)水の河とは
(7)西に向かって、とは

(答)
(1)弥陀の浄土
(2)娑婆世界
(3)求道心・信心
(4)求道聞法をさまたげるすべて
(5)怒りの心
(6)欲の心
(7)幸福を求めて


とありますが、これも原文を読まれれば、間違いは一目瞭然です。


次に喩へを合せば、「東の岸」といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。

「西の岸」といふは、すなはち極楽の宝国に喩ふ。「群賊・悪獣詐り親しむ」といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。「無人空迥の沢」といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。「水火二河」といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとく、瞋憎は火のごとくなるに喩ふ。「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。また「水波つねに道を湿す」といふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を染汚するに喩ふ。

また「火炎つねに道を焼く」といふは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

「東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む」といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらざれども、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ。すなはちこれを声のごとしと喩ふ。

「あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚ばひ回す」といふは、すなはち別解・別行・悪見人等妄りに見解を説きてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失するに喩ふ。

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。「須臾に西の岸に到りて善友あひ見えて喜ぶ」といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。

仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんといふに喩ふ。



とそれぞれに何を譬えられたのか解説しておられます。
この中で、親鸞会の教えていることと明確に違うところは「白道」と「西に向かふ」の2つです。

白道」について、「清浄の願往生心を生ずるに喩ふ」と仰っています。他力の信心のことです。
西に向かふ」とは、「もろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ」とあり、自力の行である諸善万行を捨てて、ただちに浄土に向かうことです。幸福を求めてなどという軽いものではありません。

高森会長の様なデタラメ解釈をする人が現れることを予想されて、親鸞聖人は「白道」について『教行信証』信巻で更に解釈しておられます。


まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。


まとめると
」=「選択摂取の白業、往相回向の浄業
」=「本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道

この反対として
」=「無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善
」=「二乗・三乗、万善諸行の小路

つまり
白道」=「能生清浄願心」=「金剛の真心を獲得する、本願力の回向の大信心海

と明言なされています。
更には『高僧和讃』


善導大師証をこひ
 定散二心をひるがへし
 貪瞋二河の譬喩をとき
 弘願の信心守護せしむ



と仰っています。
また『愚禿鈔』には


「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。


ともあります。
どこを探しても「白道」は信後の他力信心のことであって、信前の求道心の意味は全くありません。

正しい親鸞聖人の教えを明らかにせよというので、簡潔に書いておきます。
雑行である諸善、自力を捨てて他力に帰せよと親鸞聖人は教えられました。捨自帰他の真実信心を「白道」というのです。正しい「白道」を勧めるのが善知識です。往生のために諸善を修せよと「黒路」を勧める人を悪知識といいます。



『教行信証』を読んだことのない人物は、真宗学に疎いので間違えても仕方がないですが、万が一正しいことを知った上で「黒路」を「白道」と偽っているとすれば、大謗法罪です。
会員の皆さん、善導大師、親鸞聖人の教えられた通り「白道」を進むんで浄土へ往くか、悪知識に引き摺られて「黒路」を歩まされて火抗に堕ちるか。
どちらを選ぶか迷う必要がありますか。
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2010-02-28

宿善とは8

前回二河白道の譬喩について述べましたが、思ったよりも反響がありまして、もう少し詳しく知りたいとの御要望も頂きました。

二河白道の譬喩は、『教行信証』信巻ほか、『浄土文類聚鈔』『愚禿鈔』にも書かれていますし、『一念多念文意』『高僧和讃』『御消息集』にも話題にされるほど、親鸞聖人が重要視なされたものです。

詳しい解説を聞くよりも、皆さんが原文を実際に読まれて、どういう意味かを理解することが大事だと思います。私の解釈と高森会長の解釈の違いと単に片付けられて終わってしまっては残念ですので、皆さんが確認してみて下さい。

以下に喩え話の部分を『教行信証』信巻に引かれたものと、その現代語訳を載せます。

たとへば人ありて、西に向かひて行かんとするに、百千の里ならん。忽然として中路に見れば二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りてこの人を殺さんとす。死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言すらく、〈この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死せんこと疑はず。まさしく到り回らんと欲へば、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せんことを〉と。時にあたりて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。

この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。

この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。




現代語訳(浄土真宗教学研究所編『顕浄土真実教行証文類-現代語版-』より)


ここに一人の人がいて、百千里の遠い道のりを西に向かって行こうとしている。その途中に、突然二つの河が現れる。一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河と火の河の問に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。
この道の東の岸から西の岸までの長さも、また百歩である。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり少しも止むことがない。

この人が果てしない広野にさしかかった時、他にはまったく人影はなかった。そこに盗賊や恐ろしい獣がたくさん現れ、この人がただ一人でいるのを見て、われ先にと襲ってきて殺そうとした。
そこで、この人は死をおそれて、すぐに走って西に向かったのであるが、突然現れたこの大河を見て次のように思った。『この河は南北に果てしなく、まん中に一すじの白い道が見えるが、それはきわめて狭い。東西両岸の間は近いけれども、どうして渡ることができよう。わたしは今日死んでしまうに違いない。東に引き返そうとすれば、盗賊や恐ろしい獣が次第にせまってくる。南や北へ逃げ去ろうとすれば、恐ろしい獣や毒虫が先を争ってわたしに向かってくる。西に向かって道をたどって行こうとすれば、また恐らくこの水と火の河に落ちるであろう』と。こう思って、とても言葉にいい表すことができないほど、恐れおののいた。そこで、次のように考えた。『わたしは今、引き返しても死ぬ、とどまっても死ぬ、進んでも死ぬ。どうしても死を免れないのなら、むしろこの道をたどって前に進もう。すでにこの道があるのだから、必ず渡れるに違いない』と。

こう考えた時、にわかに東の岸に、《そなたは、ためらうことなく、ただこの道をたどって行け。決して死ぬことはないであろう。もし、そのままそこにいるなら必ず死ぬであろう》と人の勧める声が聞えた。また、西の岸に人がいて、《そなたは一心にためらうことなくまっすぐに来るがよい。わたしがそなたを護ろう。水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな》と喚ぶ声がする。

この人は、もはや、こちらの岸から《行け》と勧められ、向こうの岸から少しも疑ったり恐れたり、またしりごみしたりもしないで、ためらうことなく、道をたどってまっすぐ西へ進んだ。そして少し行った時、東の岸から、盗賊などが、〈おい、戻ってこい。その道は危険だ。とても向こうの岸までは行けない。間違いなく死んでしまうだろう。俺たちは何もお前を殺そうとしているわけではない〉と呼ぶ。しかしこの人は、その呼び声を聞いてもふり返らず、わき目もふらずにその道を信じて進み、間もなく西の岸にたどり着いて、永久にさまざまなわざわいを離れ、善き友と会って、喜びも楽しみも尽きることがなかった。



如何でしょうか。

ポイントをピックアップしてみましょう。

二河おのおの闊さ百歩
二つの岸あひ去ること近し


東の岸と西の岸は、僅かに百歩で、近いことを示されています。中国の長江のように向こう岸が見えない河ではありません。
ちなみに

南北辺なし

を東の岸から西の岸が見えないと勘違いしているのでしょう。方角が違います。

われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、

これは所謂三定死と呼ばれる部分です。親鸞会では白道の中間でこの心境になると教えていますが、原文では東の岸にいる時です。

高森会長の師匠であった伊藤康善師の『仏敵』には、


だれでもその関所を通るのです。今が、二河白道の真ん中へ出た味です。前へ進むには進まれず、後へ帰るには帰られず、じっと止まるにも止まられずという三定死の苦しいところです・・・が、今しばらくの辛抱です。この聞信の一念は、弥勒菩薩などが行われる百大劫の修行の代わりですからね・・・


とありますので、高森会長はこれをそのまま信用して今の話を創り上げたのだろうと思われます。

前回述べたように、白道は他力の信心ですので、

われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし

と心が定まって白道に乗った時が捨自帰他です。

しかし白道に乗っても、四五寸の白道は巾が広くなる訳でもなく、

その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

という状態も変わっていません。東の岸にいる時と白道を進んでいる時とは、表面的にはほとんど変わっていないのです。つまり信心決定しても、劇的な変化があるものではないということです。

親鸞会でも有名な『一念多念文意』のお言葉


「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。


は、信後の人のことを説明されたものですので、救われても臨終まで煩悩は何も変わらないのです。

信前信後の違いは、白道に対して「すでにこの道あり、かならず可度すべし」と決定して乗ったか乗らないかの違いであり、自力を捨てて他力に帰したかどうかの違いです。驚天動地の神秘的な体験の有無の違いではありません。

高森会長の獲信体験には


はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。


とありますが、二河白道の喩と矛盾しないものです。現在、高森会長が主張しているような一念覚知的な安心とは異なっています。

なお、当然のことですが、東の岸で善を修するような内容は全く書かれていません。

最近、善の勧めの非難に対する内輪向けの反論が、


善を捨てよということは、善をしてそれで助かろうとする自力の心を捨てよということだ

と繰り返し言っています。親鸞会が怯えていることが感じられますが、

法施も財施も、獲信とは何の関係もないので、善をして信仰が進むことはありませんし、宿善の厚薄は全く問題になりません

と言わないところが、大問題です。


次回の法話の演題が「二河白道」と聞きました。

会員も、そして高森会長も予習になりましたでしょうか。
単なる揚げ足とりをしているのではありません。
喩え話が変わることで、善についての解釈がまるっきり違ってきますので、大変重要なところです。
当ブログを高森会長が読んでいると言われていますが、昔から知っていたような顔をして珍しき喩え話が修正されるのか、はたまた間違ったまま話をするのか、後日報告をお願いします。

『仏敵』が根本聖典の善知識様。
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