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2009-08-07

一切衆生は必堕無間なのか4


父殺しの五逆罪を造った阿闍世について、親鸞聖人は『教行信証』信巻に、『涅槃経』から異例といってもいい程の長さで引用されて詳しく教えておられます。ここは一見矛盾に思えるところもあり、解釈についても様々な説がありますが、親鸞聖人が力を入れて引用されているところですので、紹介しておきます。

父親を牢獄に幽閉して殺害したことから、五逆罪で無間地獄に堕ちることに怯えて慚愧の心を発した阿闍世に対して釈尊が、阿闍世の罪は無間地獄に堕ちる罪ではない、と仰っておられます。その理由をいくつも挙げて教えられるのですが、長いので以下その概要を述べます。


心と口で造る罪は軽く、身と口と心で造る罪は重い。
阿闍世は父殺しを心に思い口に言っただけで、体で行なわないからその報いは軽い。
阿闍世は、父王を殺せと口で命じたのではなく、ただ足を傷つけて幽閉せよと命じただけであるから罪にならない。
父王はいつも仏方を供養してその功徳で王位につくことができたのであり、王位につかなかったら阿闍世が国を奪うため父を殺すことはなかったのだから阿闍世が父王を殺して罪になるなら、仏方にも罪があるはずである。
仏方に罪がないのだから阿闍世に罪はない。

昔、父王が鹿狩に出かけたとき、一頭も獲物を得ることができなかったことを、仙人がいたからだとして家来に命じて仙人を殺させてしまった。
仙人が死ぬ間際に残した言葉を聞いて父王は後悔して、仙人の亡骸を供養した。
その功徳で父王は地獄に堕ちなかったのである。
まして阿闍世は殺せと命じたわけではないので地獄に堕ちるはずがない。
父王は自分の罪の報いを受けたのである。
阿闍世には父王を殺したという罪はない。
父王はこの世で王になるという善果と、殺されるという悪の果報を得た。
善悪不定であるから、父王を殺してもそれは善悪不定である。
殺したことが善悪不定だから地獄に堕ちることはない

衆生の錯乱には総じて四通りある。
貪欲によるもの、薬によるもの、呪われたことによるもの、過去の行いによるものである。
衆生が錯乱してつくった悪は地獄や餓鬼や畜生の世界に至る罪とはならない。
阿闍世が国王につきたいという心から父王を殺害したのであって、それは貪欲による錯乱からしたことであるから罪ではない。



釈尊はこのように仰って、阿闍世を導かれた訳です。父殺しの罪で無間地獄に堕ちるのは間違いない、と仰るどころか、地獄に堕ちる罪ではない、とまで仰って阿闍世を励まされています。
ここで釈尊が阿闍世に仰った地獄に堕ちない理由を読まれれればわかると思いますが、親鸞会で教えていることとまるっきり反対のことばかりです。
この部分の理解は確かに難しいところでもあります。ただ、阿闍世に対する対機説法であり、真実に導くための方便とはいいながらも、親鸞聖人は省略されずに、釈尊と阿闍世とのやりとりを敢て長々と引用されている御心を知るべきでしょう。

更に『教行信証』信巻でこの後には、


 大王、たとえば涅槃は非有・非無にしてまたこれ有なるがごとし。非有・非無にしてまたこれ有なりといえども、慚愧の人はすなわちすなわち非有とす。無慚愧の人はすなわち非無とす。果報を受くる者、これを名づけて「有」とす。空見の人は、すなわち「非有」とす。有見の人は、すなわち「非無」とす。有有見の者は、また名づけて「有」とす。何をもってのゆえに、有有見の者は果報を得るがゆえに、無有見の者はすなわち果報なし。常見の人はすなわち「非有」とす。無常見の者はすなわち「非無」とす。常常見の者は「無」とすることを得ず。何をもってのゆえに、常常見の者は「無」とすることを得ず。この義をもってのゆえに、非有非無にしてまたこれ有なりといえども、大王、それ「衆生」は出入の息に名づく、出入の息を断つがゆえに、名づけて「殺」とす。諸仏、俗に随いて、また説きて「殺」とす。


とありますが、ここも非常に難しい内容で釈尊は「空」の思想で罪を説明しておられます。「空」とは、固定的な実体がないことをいいます。罪についても、固定不変的な実体として捉えるのは間違いということです。世間的な考えに合わせて、因果の道理から罪に対する悪報を説かれますが、その真意は「空」ということでしょう。ここでは慚愧の心を発した阿闍世にとっては、父殺しの五逆罪が、そのまま無間地獄に堕ちるという固定的なものではない、と教えられています。

親鸞聖人も『正像末和讃』に


罪業もとよりかたちなし
妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
この世はまことのひとぞなき



と書いておられます。罪にはもともと形があるのではなく、妄想顛倒によって、固定的なものと捉えているだけだと仰っています。

この後、阿闍世は救われます。そして釈尊に言った言葉が、


「世尊、もし我審かによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせず。」



です。これに対して釈尊は阿闍世に以下のように仰っています。


その時に、世尊、阿闍世王を讃めたまわく、「善いかな、善いかな、もし人ありてよく菩提心を発せん。当に知るべし、この人はすなわち諸仏大衆を荘厳すとす。大王、汝昔すでに毘婆尸仏のみもとにして、初めて阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。これより已来、我が出世に至るまで、その中間において、未だかつてまた地獄に堕して苦を受けず。大王、当に知るべし、菩提の心はいましかくのごとき無量の果報あり。大王、今より已往に、常に当に菩提の心を懃修すべし。何をもってのゆえに。この因縁に従って、当に無量の悪を消滅することを得べきがゆえなり。」


阿闍世は過去世に菩提心を発したので、それ以後多生の間に地獄に堕ちたことがない。菩提心は無量の悪を消滅することができるのだから菩提心を失わないように勤めなさい。
菩提心の功徳を仰ったものですが、この菩提心を真実信心と解釈するのは間違いです。

親鸞聖人は『正像末和讃』に、


三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなわで流転せり



と仰っています。親鸞聖人も過去世に大菩提心を発したけれども流転したと仰ってますが、地獄に堕ちていたとは仰っていません。

菩提心について曇鸞大師は『浄土論註』に、


この無上菩提心とはすなわち是れ願作仏心なり。
願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。
度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。
このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。


と仰っています。仏に成りたいという「願作仏心」と衆生を済度したいという「度衆生心」の自利利他の心です。阿闍世もこの菩提心を発したのです。

五逆罪は無間業と教えられますが、その罪を造った人を、即必堕無間と結論付けるのは運命論的考え方です。五逆の罪を犯した者も救われることを明らかにされ、運命論的考え方の間違いを親鸞聖人は阿闍世を通して教えておられると理解すべきででしょう。

ましてや全ての人が五逆罪、謗法罪を犯しているから、「必堕無間」と運命的に決まっていると教える人は、親鸞聖人の御心に反するまさに「念仏誹謗の有情」ですので、その人のことを「必堕無間」ということはできるかも知れません。

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わかりやすいですね。思い起こせば、親鸞会は、何でも過大解釈してましたね。ホント針小棒大な解釈ばかりでした。

 ~ 釈尊は「空」の思想で罪を説明しておられます。「空」とは、固定的な実体がないことをいいます。罪についても、固定不変的な実体として捉えるのは間違いということです。世間的な考えに合わせて、因果の道理から罪に対する悪報を説かれますが、その真意は「空」ということでしょう。ここでは慚愧の心を発した阿闍世にとっては、父殺しの五逆罪が、そのまま無間地獄に堕ちるという固定的なものではない、と教えられています。

 全く同意見です。
 http://www.propatent.jp/WEBLOG-NAME/cat25/ 2008年06月29日

 全く同じ所を引用して、同じような考えを述べている意見を見て嬉しくなりました。これまで、この部分を罪の問題でこのように真正面から扱っている例を自分以外には寡聞にして知りませんでした。勉強になります。

 人殺しは実在するものであり、実在しないものでもある。非無であり、非有である。阿闍世王は、父を殺し、そのことを天に恥じ、地に恥じている。だから、阿闍世王には人殺しはもはや実在しない。私は、ブログにこのように書き、釈迦による無罪説の根拠を明示しています

Re: 空

これはオリジナルでもなんでもありません。
本願寺の論文を読まれれば、同様の主張はいくつもあります。

No title

 応答に感謝します。
 見解の相違という部分があるようです。
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