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2009-08-11

一切衆生は必堕無間なのか5

阿闍世を通して、五逆罪を犯した者でも救われることを明らかにされた後、『教行信証』信巻では五逆罪と謗法罪について教えておられます。
『大無量寿経』では阿弥陀仏の18願で


唯除五逆誹謗正法


と五逆罪、謗法罪のものは阿弥陀仏の本願から除くと教えられ、『観無量寿経』では、五逆、十悪の「下品下生」の者が、


「下品下生」とは、あるいは衆生ありて不善業を作り、五逆・十悪、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもってのゆえに悪道に堕し、多劫を経歴して受苦無窮なるべし。かくのごときの愚人、命終の時に臨み、善知識の種々安慰してために妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。この人苦に逼められて念仏するに遑あらず、善友告げて言わく、「汝もし念ずること能わずば応に無量寿仏を称すべし」と。
かくのごとく至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せん。仏名を称するがゆえに念々の中において八十億劫の生死の罪を除き、命終の時、金蓮華の猶し日輪のごとくしてその人の前に住するを見ん。一念の頃のごとくにすなわち極楽世界に往生することを得。蓮華の中において十二大劫を満ち蓮華方に開く。観世音・大勢至大悲の音声をもってそれがために広く諸法実相・除滅罪の法を説かん、聞き已りて歓喜し、時に応じてすなわち菩提の心を発さん。



と、救われることを教えておられます。この二経の相違についてどう理解すべきなのか、親鸞聖人は、曇鸞大師と善導大師の解釈を引用されています。

原文は長いので、それをまとめたものが、
「清森問答」の親鸞会教義の相対化・28
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-94.html

に分かりやすく書かれてあり、以下それを引用します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2-1曇鸞大師の解釈

★曇鸞大師の解釈

曇鸞大師は、この問題を『往生論註』八番問答で、

1)五逆罪と正法を誹謗する罪の、二つの重い罪を犯したものは往生できない。
2)五逆罪のみを犯しても、正法を誹謗する罪を犯していないものは往生できる。
3)正法を誹謗する罪はすごく重いので、五逆罪を犯してなくても往生できない。

というように、「正法を誹謗しなければ極楽浄土に往生できる」と解釈しています。


★「正法を謗る」とは?
また曇鸞大師は、

問う。「正法を謗る」というのは、具体的にどのようなことか?

答える。もしも、
「仏はいない!」「仏の説いた法はない!」
「菩薩はいない!」「菩薩の実践する法はない!」
というようなことを言って、このような見解を、自ら抱き、あるいは他の人から教えられて持って、その誤った見解に、心が定まってしまうことを、「正法を謗る」というのである。


というように、

「正法を謗る」というのは、単に「けなす」とか「ののしる」というのではなく、仏や仏の説いた法や、その法に従って実践する存在を、根底から否定することを意味しています。


★闇を照らす光の譬え

その上で、

たとえば、千年間も光が入らない闇室に、一瞬でも光が入れば、たちまち明るくなるようなものである。
闇は千年間も室の中にあったのだから、光が入っても去らない、ということがありえようか。(いやありえない)

という譬えでもって、五逆の罪がどれほど重くても、阿弥陀仏の名号を十回称える無上の信心があれば、全ての罪が除かれると解釈しておられます。

つまり、
1)釈尊や阿弥陀仏という仏の存在。
2)阿弥陀仏の本願を信じてお念仏申すことによって、極楽浄土に往生することができる。
という、お念仏の教えそのものの存在。

これらを否定することなく、信じてその通りにお念仏を申すならば、「正法を謗る」ことにはならず、最も重い罪を犯していないので、たとえ五逆罪を犯していたとしても、千年の闇を一瞬で光が照らすように、全ての罪が除かれ、極楽浄土に往生することができる。

ということになります。


2-2善導大師の解釈

問う。
『無量寿経』の四十八願の第十八願には、「ただ五逆と正法を誹謗するものを除く」とあって、これらの者の往生を許さないが、いまこの『観経』の下品下生のところでは、正法を誹謗するものをえらび除いて、五逆のものをおさめ取って、往生できるとしているのは、いったいどういう意図があるのか?

答える。
 このことについては、仏意を仰ぎおしはかって、抑えとどめる教えの上で解釈する。
 四十八願の中で、法を誹謗するものと五逆とを除いているのは、実にこの二つの悪業はその障りが非常に重く、衆生がもし犯したならば、ただちに阿鼻地獄におちて、途方もなく長いあいだ苦しみもがいて、ついに出る道がないから、ただ如来はこの二つの罪過を犯すことを恐れて、たくみなてだてとして制止し、往生できないと説かれのであって、これもまた、おさめとらぬというのではない。

 また下品下生の文の中で、五逆はおさめとって、正法を誹謗するものを除いているのは、五逆はすでに犯してしまっており、このまま見捨てて、迷いの世界に流転させることはできないから、かえって大悲をおこして、これをおさめとって往生させるのであるが、法を誹謗する罪はまだ犯していないから、これを制止して、もし法を誹謗するならば往生はできない、と説かれるのである。

 これはまだ悪業をつくっていない点について解釈するのであって、もし罪を犯したならば、かえってこれをおさめとって往生させるのである。


というように、


★「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」(『無量寿経』)という記述は、
まだ五逆罪と正法を誹謗する罪を犯していない者に対して、「もしこのような罪を犯したならば往生はできない!」と戒めて、おさえとどめるための教え
⇒抑止門(おくしもん)であると解釈されます。

★「五逆罪を犯したものでさえ、まごころをこめて、お念仏を申せば救われる」(『観経』)という記述は、すでに五逆罪を犯してしまった者であっても、阿弥陀仏は見捨てることなく、大悲をもって救い取って往生させることを示すための教え
⇒摂取門(せっしゅもん)であると解釈されます。


 つまり、最終的には『観経』の記述のように、五逆の罪を犯したものであっても救い取るのですが、人々がそのことに甘んじて罪を造ってしまうことを未然に防ぐために、『無量寿経』では、人々を巧みに導くために、「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」と述べておられる。

そのように解釈されています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

曇鸞大師は、仏法を求めている人は、謗法のものではないと仰り、善導大師は五逆と謗法を抑止するために本願で除かれたのだと仰っていますので、これは五逆罪と謗法罪を未だ造っていない人がいる前提でのことです。已に造ってしまっている人しか存在しなければ、未造の人への抑止は不要です。

阿闍世からの話の流れから、阿闍世のような五逆罪を造ったものでも、救われるのだから、一般の人が救われる教えが、阿弥陀仏の本願であることを強調されているのです。つまり、阿闍世のことを最下のものの代表として見られているのです。
曇鸞大師、善導大師のお言葉を素直に読めば、仏法を求めている人は謗法罪を造っていないし、親を殺していない人は五逆罪を造っていない人ですから、そういった未造の人に対して、恐ろしい悪を造らないように仰っていることがわかります。
しかし、已造の人に対しても阿闍世と同様に救われると教えられ、善導大師は『法事讃』に


すなわち悲智の心を起こして、広く四十八願を弘めしめたまいしに由ってなり。仏願力をもって、五逆と十悪と、罪滅し生を得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く


と、往生できないという謗法罪を犯した者も、成仏することができないという闡提の者でも、回心懺悔すれば救われるのだと仰ったのです。
それを親鸞聖人は『尊号真像銘文』に


「唯除五逆 誹謗正法」というは、唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切のみなもれず往生すべし、としらせんとなり。


と仰り、また『唯信鈔文意』には


「汝若不能念」(観経)というは、五逆十悪の罪人、不浄説法のもの、やもうのくるしみにとじられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ、くちに南無阿弥陀仏ととなえよとすすめたまえる御のりなり。これは、称名を本願とちかいたまえることをあらわさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのたまえるは、このこころなり。「応称」は、となうべしとなり。「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念念中 除八十億劫 生死之罪」(観経)というは、五逆の罪人は、そのみにつみをもてること、と八十億劫のつみをもてるゆえに、十念南無阿弥陀仏ととなうべしと、すすめたまえる御のりなり。一念にと八十億劫のつみをけすまじきにはあらねども、五逆のつみのおもきほどをしらせんがためなり。「十念」というは、ただくちに十辺をとなうべしとなり。しかれば、選択本願には、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」(往生礼讃)ともうすは、弥陀の本願は、とこえまでの衆生、みな往生すとしらせんとおぼして、十声とのたまえるなり。念と声は、ひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし。声をはなれたる念なしとなり。


と、五逆の者でも念仏の功徳によって救われるのだから、念仏を称えなさいと仰ったのです。

このようにすべての人が救われることを繰り返し仰っています。仏教はプラス方向で教えられていて、マイナス方向では教えられていません。前回述べました釈尊が阿闍世に仰っていることも、菩提心についてもみなプラス方向です。抑止のために悪報を説かれるのも、プラスに向けさせるためです。恐怖心を煽るのは明らかにマイナス方向です。

地獄絵で有名な源信僧都の『往生要集』も、地獄界ばかりを描かれていると誤解されていますが、極楽と六界が描かれて、その1つの世界として地獄界が取り上げられているのです。大半は往生極楽について詳しく著された書物です。また『往生要集』を解説なされた法然上人は、地獄の描写については敢て触れておられません。

「一切衆生必堕無間」を殊更に強調して、恐怖心を原動力として求めよというのは、プラス思考の仏教とは方向性が全く違うといえます。
そんな団体が仏教や浄土真宗を名乗るのは如何なものでしょうか?

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