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2009-08-27

善知識には無条件服従しなけらばならないのか 2

親鸞聖人の法然上人に対するお気持ちを表したとされる『歎異抄』第2章の文を挙げて、親鸞聖人も法然上人に無条件服従なされたのだから、善知識に無条件服従しなければ信心決定できない、と親鸞会では説明しています。それが


親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひと(法然上人)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生まれるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、 総じてもって存知せざるなり。
たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。



です。衝撃的な内容で、ここだけ読めば、親鸞聖人は法然上人を盲信しておられ、親鸞会の主張も一理あると錯覚する人もあるでしょう。
ただし『歎異抄』は親鸞聖人の書かれたものではありませんので、親鸞聖人のお言葉と断定はできません。そこで親鸞聖人の御著書の中から法然上人に対するお気持ちを仰ったものでは、『高僧和讃』に


曠劫多生のあいだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし



とあります。『歎異抄』の表現とはかなり違います。この御和讃と関係があるものとして、『正像末和讃』には


三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなわで流転せり



と仰っています。
親鸞聖人は、過去世から自力修善に勤められてきました。その結果、流転輪廻をされたと仰っています。それが法然上人に出遇われて「出離の強縁」を教えられ、阿弥陀仏に救われられたのです。もし、法然上人に出遇わなければ、また過去世同様に流転輪廻をしていたであろう、との親鸞聖人のお言葉です。法然上人に対する深い感謝のお気持ちを表されたものです。

ここで思い出されるのが『教行信証』化土巻の三願転入の御文です。


ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。


法然上人を通して、高僧方の御教化によって、永い間迷ってきた自力修善の仮門、19願を離れることができた、そして自力念仏の20願に回入して、果遂の誓いにより、他力念仏の18願へ転入した、とのお言葉です。ここでも、法然上人によって、自力修善の迷いから離れることができたと仰っています。修善から念仏へ導いて下された善知識方に対して、大変な感謝のお気持ちを仰った御文ともいえます。

同様のことを、存覚上人は『浄土真要鈔』の中で


釈尊・善導この法を説きあらはしたまふとも、源空・親鸞出世したまはずは、われらいかでか浄土をねがはん。たとひまた源空・親鸞世に出でたまふとも、次第相承の善知識ましまさずは、真実の信心をつたへがたし。善導和尚の『般舟讃』にいはく、「若非本師知識勧 弥陀浄土云何入」といへり。文のこころは、「もし本師知識のすすめにあらずは、弥陀の浄土にいかんしてか入らん」となり。知識のすすめなくしては、浄土に生るべからずとみえたり。また法照禅師の『五会法事讃』にいはく、「曠劫以来流浪久 随縁六道受輪廻 不遇往生善知識 誰能相勧得回帰」といへり。この文のこころは、「曠劫よりこのかた流浪せしこと久し、六道生死にめぐりてさまざまの輪廻の苦しみを受けき。往生の善知識に遇はずは、たれかよくあひすすめて弥陀の浄土に生るることを得ん」となり。


と教えられています。
いずれも、善知識に遇うことで、阿弥陀仏の本願を知ることができ、出離して、浄土往生できるのだと仰ったものであります。

以上のことを踏まえて、先程の『歎異抄』第2章を後の文章も含めて改めて読み直してみましょう。


親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひと(法然上人)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生まれるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、 総じてもって存知せざるなり。
たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。
その故は、自余の行も励みて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄に堕ちて候はばこそ、「すかされたてまつりて」といふ後悔も候はめ。



以前にも述べましたように親鸞聖人の懺悔のお言葉として「地獄に堕ちる」とありますが、これを親鸞聖人の御著書のお言葉から「流転輪廻」と読み替えると、先の『高僧和讃』や三願転入の御文と同じ内容を、表現をかえただけであることが分かります。
法然上人に騙されなくても、自力修善に勤めて流転輪廻するのですから、騙されても騙されなくても関係ないのです。「地獄に堕ちる」という強烈な言葉に迷わされて、この文章を読むと善知識だのみになってしまいます。

なお、同じ『歎異抄』で善知識の仰せに対する心構えについて書かれたものとしては、第13章に、


あるとき「唯円房は我がいふことをば信ずるか」と仰せ候ひし間、「さん候」と申し候しかば、「さらば我が言はんこと違ふまじきか」と重ねて仰の候ひし間、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば人を千人殺してんや、しからば往生は一定すべし」と仰候ひしとき、「仰にては候ども、一人もこの身の器量にては殺しつべしともおぼえず候」と申して候ひしかば、「さては親鸞がいふことを違ふまじきとは言ふぞ」と。「これにて知るべし、何事も心にまかせたることならば、往生の為に千人殺せといはんに即ち殺すべし。然れども一人にても殺すべき業縁なきによりて害せざるなり。我が心の善くて殺さぬにはあらず、また、害せじと思ふとも百人千人殺すこともあるべし」と仰の候ひしは、我等が心の善きをば「よし」と思ひ、悪しきことをば「あし」と思ひて、「本願の不思議にて助けたまふ」といふことを知らざることを仰の候ひしなり。


とあります。親鸞聖人が、「浄土往生したいのならば千人殺してきなさい」と仰っても、それに従わない唯円に対して、その心構えがおかしいとは仰っていません。

以上のことから、この『歎異抄』第2章のお言葉で、親鸞聖人が法然上人に対する無条件服従をされ、しかも自分と同じように善知識に無条件服従をせよ、という解釈は、到底導き出せません。善知識に対して尊敬や深い御恩を感じることはあっても、それと無条件服従とは全く別の事柄です。

『歎異抄』は読み間違えると非常に危険な聖教であり、そのために蓮如上人が奥書に


無宿善の機においては、左右なくこれを許すべからず


と書き加えられましたが、全くその通りであります。

蓮如上人が仰った「無宿善の機」とは、拡大解釈を繰り返して、親鸞聖人の教えをカルト教義に変貌させる人物のことではないでしょうか。
そんな人物に騙されて地獄に堕ちたならば、必ず後悔します。騙されている親鸞会会員の皆さんが、一刻も早く目を覚まされることを、心より念じ申し上げます。

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オリジナルについて

 順序が逆になりました。先に2ちゃんねるに書いてしましました。貴殿に対しいささか失礼なものいいになっています。言い方の失礼の段はお詫びします。http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1250162932/763
 貴殿のブログをときどき拝見しています。通説と異なる主張が散見されます。その説は、渡海 難の主張と類似している部分を感じます。
 渡海難は、できるだけ従来説に縛られない独自説を主張しようと研鑚しています。私は、自分の説を独占するつもりはありませんが、独自説は、その考えが通説として広く一般化するまでは、私の人格の一部と考えています。私の人格の一部と酷似する説が出所を異にしてほとんど同時的に出現しているのではないか。私には奇異に感じます。
 言論界の習慣です。もし、貴殿のオリジナルの説でないなら、その出所を併記していただきたいと思います。

Re: オリジナルについて

渡海 難 様

>  順序が逆になりました。先に2ちゃんねるに書いてしましました。貴殿に対しいささか失礼なものいいになっています。言い方の失礼の段はお詫びします。http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1250162932/763
>  貴殿のブログをときどき拝見しています。通説と異なる主張が散見されます。その説は、渡海 難の主張と類似している部分を感じます。
>  渡海難は、できるだけ従来説に縛られない独自説を主張しようと研鑚しています。私は、自分の説を独占するつもりはありませんが、独自説は、その考えが通説として広く一般化するまでは、私の人格の一部と考えています。私の人格の一部と酷似する説が出所を異にしてほとんど同時的に出現しているのではないか。私には奇異に感じます。
>  言論界の習慣です。もし、貴殿のオリジナルの説でないなら、その出所を併記していただきたいと思います。

貴殿の御意見を慎んでお受け致します。 御不快に思われましたならば、お詫び申し上げます。

当ブログは、親鸞会教義の誤りを追及することが目的であり、論文として著作権を主張するためのブログではありません。

しかしながら、貴殿のサイトを参考にしたことはただの一度もありません。もし、類似するところがあるとすれば、たまたま同じ考えを持つものであったということです。ただし、著作権というものが存在している訳ですので、類似の説を貴殿の方が先に主張されたことであれば、貴殿が著作権を主張されても結構ですが、具体的に両者を並べて仰って頂けると有難いです。
この件で、当方で確認作業をすることは考えておりません。

くどいようですが、過去も含めて、今後も、貴殿の説を参考にしたり、盗用する意図は全くございません。あくまで本願寺教学を元にして、自己の主張を展開しているつもりです。
そのように御理解頂けれ幸いです。

この後も、無条件服従についての誤りを述べていく予定ですので、貴殿が同様の内容で書かれているのであれば、類似の主張になることがあるかもしれません。

その際は、御了承下さい。

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歎異抄

 ~ 『歎異抄』は読み間違えると非常に危険な聖教であり、そのために蓮如上人が奥書に無宿善の機においては、左右なくこれを許すべからずと書き加えられましたが、全くその通りであります。

 全く同意見です。私も同じような意見を2008年05月21日ブログに書かせて貰いました。
右のこの聖教(歎異抄)は、当流の大事な聖教である。無宿善の機に簡単に見せてはならない。(蓮如)
http://www.propatent.jp/WEBLOG-NAME/cat25/

 千葉乗隆師などは、これは聖教を大切に取り扱うことを求めた言葉であると理解すべきであろうと、ほとんど無視しています。これが歎異抄全盛時代の現代の通説だろうと思っています。
 そんな中で、この奧書きに着目する人が私以外にいるとは、非常に嬉しくなりました。
 今後の二人の思想の成り行きを見守りたいと思います。

Re: 歎異抄

『歎異抄』の奥書についても、多くの方が指摘されていますので、私はそれをそのまま使わせて頂いただけです。
高森会長も、そのように昔から主張しているそうです。ここだけは、高森会長と同意見です。

No title

 現代では忘れかけられている大事な点と思います。
 
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