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2009-08-20

一切衆生は必堕無間なのか9

前回、『末灯鈔』のお言葉を断章取義した親鸞会教義の誤りを指摘しましたが、全人類のことを親鸞聖人は「逆謗の屍」と言われているから、五逆罪、謗法罪を造っている一切衆生は必堕無間で間違いない、と尚も反論にならない反論を内部でしていると聞きました。今回はこの「逆謗の屍」について明らかにします。

親鸞会の公式HPには、


後生も菩提も分からず、相対の幸福しか知らず、後生の一大事と聞いても驚かず、絶対の幸福といっても、ウンともスンともこたえず何のことかい、とせせら笑っているのが私たちの本性です。

親鸞聖人は、逆謗の屍と言われました。



とあります。これは嘘です。
親鸞聖人が「逆謗の屍」とはっきり仰ったのは、『高僧和讃』曇鸞讃の


名号不思議の海水は
逆謗の屍骸もとどまらず
衆悪の万川帰しぬれば
功徳のうしほに一味なり



だけです。
これは、五逆罪、謗法罪の人でさえも阿弥陀仏の功徳に包まれたならば、一味平等の世界に入ることができる、と教えられたお言葉です。このお言葉から、全ての人の本性が「逆謗の屍」という解釈にはなりません。

また「逆謗」と書かれたのは、『教行信証』総序の


しかればすなはち浄邦縁熟して、調達(提婆達多)、闍世(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提(韋提希夫人)をして安養を選ばしめたまへり。これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。


です。ここでは、五逆、謗法、闡提の者でも救われることを仰ったものであって、全ての人のことを指している訳ではありません。

また『教行信証』行巻にも


「海」といふは、久遠よりこのかた凡聖所修の雑修・雑善の川水を転じ、逆謗闡提・恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海のごときに喩ふるなり。まことに知んぬ、『経』(『往生要集』)に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」とのたまへるがごとし。「願海」は二乗雑善の中・下の死骸を宿さず。いかにいはんや人・天の虚仮・邪偽の善業、雑毒雑心の死骸を宿さんや。


とあります。これも同じです。

『正信偈』には、


凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味


とあります。

いずれも五逆、謗法の者も含めて全ての人、という意味であって、全ての人が五逆、謗法の者ではありません。分かりやすく書けば、

全人類>逆謗の者

であって、

全人類=逆謗の者

とならないことは当たり前のことです。
ですから、私たちの本性を「逆謗の屍」と親鸞聖人が仰ったところは1つもありません。

全人類が五逆罪、謗法罪を造っているとは教えられていないことを、これまで何度か述べてきました。

一切衆生は必堕無間なのか5
一切衆生は必堕無間なのか6
一切衆生は必堕無間なのか8

これまで挙げていない根拠を挙げるなら、法然上人の『往生大要鈔』に


われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。


と仰っておられますし、また『浄土宗大意』には、


五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。


とあります。一般の人は、五逆罪を造っていないと仰っています。
また、親鸞聖人が尊敬されていた聖覚法印の『唯信鈔』には、


五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。


とか、


われら、罪業おもしというとも、五逆をばつくらず。


とあります。この『唯信鈔』は、親鸞聖人が関東の同行に何度も何度も読むように勧められている書物であり、その解説書として親鸞聖人が『唯信鈔文意』を著されているくらい重要視されたものです。
法然上人の教えを受け継がれ、聖覚法印の『唯信鈔』を自分の著書以上に勧められた親鸞聖人も、全人類が五逆罪の者と見做しておられないことは言うまでもありません。ましていわんや、謗法罪をやです。
これは前回の『末灯鈔』のお言葉からも明らかです。

但し、親鸞聖人の御著書には、「われら五逆を造らず」と書かれているところはありませんので、親鸞聖人は敢て五逆罪、そして謗法罪の人を下に見られずに、同じ目線に立たれたと言えるでしょう。親鸞は罪深い人と同じなんだということを示されたのが、肉食妻帯です。『教行信証』信巻に大乗の五逆罪を挙げられた御心もここにあるのかもしれません。

だからといって、それを逆手に取って、親鸞聖人は逆謗の者だ、といったり、全人類は逆謗の罪を造っている者だ、という理屈は成り立ちません。親鸞聖人が全人類の本性が「逆謗の屍」と仰ったから、全人類は五逆、謗法の者だ、とは、悪意に満ちた捏造であり、騙しの論法です。

このような親鸞聖人の御心を踏みにじり、親鸞聖人の教えを宗教ビジネスとして利用し、様々に搾取を繰り返して多くの人を苦しめている悪知識と取り巻きは、即刻退場して、会員をマインドコントロールから解放すべきです。また、悪知識を未だ信奉している会員には、親鸞会の御粗末な教義内容を知って、回心してほしいものです。

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質問

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ある時、御弟子が釈迦に「仏のさとりを開かれた世尊には、私達が考えるような苦しみはないと思いますが、いかがなものでしょう」とお聞きした。
それに対し釈迦は、「確かに、私にはお前達が考えるような苦しみはない。しかし、仏に苦しみがないかといえば、そうではない。ただ一つだけある。今も、私の眼には、雨が降るがごとく、多くの人達が地獄に堕ちてゆく相が見える。その人達のことを思うと、何ともいえない気持ちになる。仏の苦しみとは、このような苦しみをいうのである。」と答えられた。
この仏の苦しみこそが、仏教の原点である。
釈迦は、そのような人々の相が、仏眼に映れば映るほど、命がけで「後生の一大事」を叫ばずにはおれなかったのである。
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という文章を見たことがあるのですが、どこからの引用なのかわかりますか。また、教義として正しいのでしょうか。

Re: 質問

養木直田 様

これは山本龍音編『香樹院金言録』に、

『如来の御在世に、或る弟子が、「如来は一切智人、みなことごとく知りわきまえてござらせらるる。如来の御弟子の上には、何事でもご苦労に思召すことはござりますまい」と申し上げたれば、如来の仰せに、「我が身には外に苦労はなけれども、只一つ苦労にせねばならぬことがある。かくの如く時々刻々、縮まる我が命、近づく火車来現の迎えを受けねばならぬ身を持ちながら、何ように教えても、我が身に今、死するということを思うもののないのが、この釈迦の苦じゃ」と仰せらるる。』

とあるのをそのまま採用したものと思われます。

しかし香樹院師がこのようにいわれた根拠については、七高僧の聖教、親鸞聖人の御著書には見られません。もう少し調べてないとわかりませんが、これも出離できずに苦しんでいる衆生という意味と理解するのが正しいでしょう。

香樹院師は、死後に地獄に堕ちるといわれたり、三悪道に帰るといわれたり様々です。
化土往生についても肯定的な言い方をされています。

香樹院師の根拠はどうであれ、信心決定しなければ、全ての人は必堕無間という考えで香樹院師が言われたことではないでしょう。
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