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2009-08-20

一切衆生は必堕無間なのか10

以下の質問を頂きました。調べるのに時間が掛りましたが、現時点で判明している範囲でお答えします。

【質問】
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ある時、御弟子が釈迦に「仏のさとりを開かれた世尊には、私達が考えるような苦しみはないと思いますが、いかがなものでしょう」とお聞きした。
それに対し釈迦は、「確かに、私にはお前達が考えるような苦しみはない。しかし、仏に苦しみがないかといえば、そうではない。ただ一つだけある。今も、私の眼には、雨が降るがごとく、多くの人達が地獄に堕ちてゆく相が見える。その人達のことを思うと、何ともいえない気持ちになる。仏の苦しみとは、このような苦しみをいうのである。」と答えられた。
この仏の苦しみこそが、仏教の原点である。
釈迦は、そのような人々の相が、仏眼に映れば映るほど、命がけで「後生の一大事」を叫ばずにはおれなかったのである。
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という文章を見たことがあるのですが、どこからの引用なのかわかりますか。また、教義として正しいのでしょうか。


【回答】
高森会長の著した『会報 第一集』に

釈尊に或る時、お弟子が「釈尊は一切智人、みなことごとく知りわきまえていられる。世尊には何事でも御苦労に思召すことはないでしょう」と尋ねた。すると釈尊は「我身には他に苦労はなけれども、只一つ苦労にせねばならぬことがある。それは時々刻々にちぢまる生命、近ずく火車来現の迎えを受けねばならぬ身を持ちながら、如何ように教えても、今死ぬということを思うものがないのが、この釈迦の苦しみじゃ」といわれたそうだが、


とあります。
これは山本龍音編『香樹院金言録』に、


如来の御在世に、或る弟子が、「如来は一切智人、みなことごとく知りわきまえてござらせらるる。如来の御弟子の上には、何事でもご苦労に思召すことはござりますまい」と申し上げたれば、如来の仰せに、「我が身には外に苦労はなけれども、只一つ苦労にせねばならぬことがある。かくの如く時々刻々、縮まる我が命、近づく火車来現の迎えを受けねばならぬ身を持ちながら、何ように教えても、我が身に今、死するということを思うもののないのが、この釈迦の苦じゃ」と仰せらるる。


とあるのをほとんどそのまま引用したものです。
香樹院師が何を根拠にしてこのように言われたのか、様々な人に聞いたりもして調べてみましたが、そっくりそのまま当てはまる釈尊のお言葉を見つけることができませんでした。
そこで現時点では『涅槃経』迦葉品に、迦葉菩薩が如来の慈悲を讃えた偈があり、それをこのような表現にしたのではないかと推測しています。
以下がその部分です。


如来受苦不覚苦 見衆生苦如己苦
雖為衆生處地獄 不生苦想及悔心
一切衆生受異苦 悉是如来一人苦



とあります。訳しますと、


如来が苦を受けても苦とは感じないが、衆生が苦しんでいるのを見ることは己がことのように苦しむ。
たとえ衆生の為に地獄に堕ちたとしても、苦しいという想いも悔い心も生じない。
一切の衆生がそれぞれ異なる苦を受けても、悉くこれは如来お一人の苦である。



となります。釈尊の直のお言葉ではありませんが、如来の慈悲を表わされたものです。

これは阿闍世が獲信後に釈尊に語った言葉と非常によく似ています。それは『涅槃経』梵行品にありますが、親鸞聖人は『教行信証』信巻にも引かれています。


世尊、もし我審かによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせず。


とあります。如来でない阿闍世も、如来の慈悲と等しいとも言える度衆生心を発した言葉です。

いずれも『香樹院金言録』の内容とは異なりますが、『涅槃経』からの引用であれば香樹院師も如来の慈悲の深さを表現されたかったのだと思います。
(もし、『香樹院金言録』の元になった根拠が別にあるのをご存知の方は、教えて頂きたく思います。)

ところが、高森会長はそれを「一切衆生必堕無間」の脅迫の道具として使った訳です。

香樹院師は、地獄を強調されている部分も多いので、高森会長が利用するには都合がよかったのでしょう。
しかし一方で香樹院師は、化土往生についても言及されています。加藤智学編『香樹院講師語録』には、


綾五郎、命終に臨んで尋ねて曰く。
私、生涯御法を聞き、
この頃は日夜に六万遍の念佛を申して日課にいたし、
本願を心にかけ居り候えども、
信心なくば、空しく三悪道へ帰ると仰せらるるを思えば、
誠に嘆かわしく候、と。

予、これに答えて云う。
念佛を多く申して佛に廻向するさえ、
佛しろしめして辺地の往生を遂げしめ給う。
まして念佛申し本願に心をかけ、
そのうえ信の得られぬことを悲しんで、
加被を待つ。これ辺地の往生疑いなし、と。

また問うて云うよう。
何ぞ本願を疑うもの、辺地に往生するや。
信を得ぬは、疑いと承り居り候。

答。
これ如來の御誓いなり。

淨土和讃の初めに、

弥陀の名號となへつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
佛恩報ずるおもひあり

との給う。これ報土往生の人なり。次に、

誓願不思議をうたがひて
御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳
むなしくすぐとぞときたまふ

とあり。これ化土往生の人なり。

なにも悲しまずに、喜びて念佛すべし。
予も老年ゆえ、追っ付け淨土にて御目にかかるなり。
化土は五百歳永きようなれども、実にわづかの間なり、
と申しければ、
さてはかかる機なれども、辺地の往生を遂げしめて、
終には弥陀の真実報土に生れさせ給う御慈悲なれば、
たとい千年万年でも如來の御はからいなり、と、
たちどころに弘願に入り、めでたく往生いたされき。

右、日々六万遍の称名は、
臨終の両三日より初めて申せしなり。
かような人は、他には一人も見ず。
これを思うに、信は宿善開発にあらざれば、
得ること能わずと見えたり。
本願を心にかけ念佛せん人、
辺地の往生を遂げしめ給う御慈悲なれば、
身心を投げ込んで聞けば、信は得ずとも念佛申す御徳にて、
悪道に堕ちぬことなれば、命限り疑いのはるるまで求めて、
聞きとげずばおくまいと、勇み励んで聞き求むべし。
このたび本願に値い、生涯法に身を入れても、
少しも損のなきは聞法の利益なり。



とあります。
また死後に三悪道に行くとして以下のようにも言われています。


年久しく聴聞いただけども、
心の同辺たるは、過去の業報つよくして、
またも三悪道にかえるしるしなりと、
釈尊の説きたまえる金言に、少しも違わぬさまにて、
まことに悲しく覚え候。
この上は、行住坐臥、念佛を事として、
御化導を、火の中をすぐる心地して、
我が心をへりくだりて、恭敬尊重の思いより、
ひとすじに聴聞申すべし。
御慈悲にて候間まことの信は得らるるなり。



「一切衆生必堕無間」という思想は、香樹院師にはありません。

『歎異抄』の「地獄は一定すみかぞかし」のお言葉が知れわたるようになってから、親鸞聖人がほとんど仰っていない地獄が強調される風潮が真宗にはありましたが、それに更に輪を掛けて脅迫のネタに使うのは、明らかに外道です。

獲信したといいながら、阿闍世の度衆生心とは、真逆の心をもった知識をどう理解すべきでしょうか。
自分は、十悪、五逆、謗法の罪を一般の人よりも多く、しかも平気な顔で造りながら、会員には命懸けの善を勧める。本当に呆れるばかりです。

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無三悪趣の願

管理人様、初めまして。いつも興味深く、拝見させて頂いております。私は今は本願寺派(西本願寺)で聴聞している者です。布教使の方に、『一切衆生必墮無間』について質問してみました。そうしたら、「阿弥陀さまは本願の一番目に何を願われているの?阿弥陀さまのお言葉と、高森さんの言葉、あなたはどちらを信じるの?」と逆に質問されました。そして、「浄土三部経」の現代語版を頂きました。調べたら「無三悪趣の願」が一番目でした。目から鱗でした。かなうなら高森会長に直接質問したいです。「高森会長、『阿弥陀仏の本願』と『一切衆生必墮無間』、あなたはどちらを信じているのですか」と。親鸞会講師部の方、または現役会員の中で、高森会長に質問できるような方は、代わりに質問して頂けないでしょうか?(ちなみに「阿弥陀仏の本願」の第一番目の願である「無三悪趣の願」は「法蔵館の真宗聖典」では25ページ目にあります。)長文失礼しました。

Re: 無三悪趣の願

元会員 様

阿弥陀仏の1願を素直に読めば、仰る通りであります。
ただ、様々な解釈がありまして、仏法を聞いて、阿弥陀仏の浄土に生れた人のことともいえまして、一筋縄ではいかないところもありますが、大慈悲の仏であらせられる阿弥陀仏ですので、お言葉通りに受けとらせて頂くべきかもしれません。
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