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2009-07-29

お知らせ

当ブログの主旨はタイトル通りで、親鸞会教義の誤りを明らかにすることです。
その中でも、会員が特に騙されている大きな点について書いています。

読者の方から、真宗の教義を明らかにしてほしいという御要望を頂くことがありますが、以上の主旨でありますので、御理解ください。

ご存知の方も多いと思いますが、すでに真宗の教義を基本から体系的に解説されたブログがあります。「苦笑の独り言」で、その中に”やさしい浄土真宗の教え”というシリーズがあります。
正しい真宗教義を学ばれたい方はこちらをお勧めしますが、更新が頻繁で他の記事に埋もれてしまっていまして、残念ながら読まれたことのない方もあるようです。

それで、「苦笑の独り言」の管理人である苦笑氏の許可を頂きまして、このシリーズだけを独立させたブログを新たに作りました。

やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)

です。このブログの管理人は私ですが、著作権は苦笑氏にあります。言葉遣い等を多少変えてありますが、内容は変えていません。

当ブログとあわせてお読みください。

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苦笑氏の誤り

苦笑氏の断章主義をそのままコピーされているようです。

尊号真像銘文の原文は
「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」は
もし生れずはといふみことなり。
「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。
このこころは、すなはち至心信楽をえたるひと、
わが浄土にもし生れずは、仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。
この本願のやうは、『唯信抄』によくよくみえたり。

「この本願のやうは、『唯信抄』によくよくみえたり。」
この本願の解釈は唯信抄にある(一願該摂の)解釈である、
との仰せです。
教行信証は五願開示ですから、浄土往生は11願に配当されて
難思議往生は証の巻の巻頭に書かれています。
純粋な十八願には死後の往生の意味は無いんですよ。
既出です。

苦笑氏はずーと無視してますけどね。

ついでに改邪鈔の御文の解釈

善知識において、本尊のおもいをなすべき条、渇仰の至りにおいてはその理しかるべしといえども、それは仏智を次第相承しまします願力の信心、仏智よりもよおされて、仏智に帰属するところの一味なるを仰崇の分にてこそあれ、仏身・仏智を本体とおかずして、ただちに凡形の知識をおさえて「如来の色相と眼見せよ」とすすむらんこと、聖教の指説をはなれ、祖師の口伝にそむけり。本尊をはなれて、いずくのほどより知識は出現せるぞや。荒涼なり、髣髴なり。ただ実語をつたえて口授し、仏智をあらわして決得せしむる恩徳は、生身の如来にもあいかわらず、木像ものいわず経典くちなければ、つたえきかしむるところの恩徳をみみにたくわえん行者は、謝徳のおもいを専らにして、如来の代官と仰いであがむべきにてこそあれ、その知識のほかに別の仏なしということ、智者にわらわれ愚者をまよわすべきいいこれにあり、あさまし、あさまし。(改邪鈔)

どこを読んでも「善知識を仏のごとく敬ってはいけない」という所はありません。
どこをどう読めばそういう解釈になるんでしょうか?

Re: ついでに改邪鈔の御文の解釈

M野氏ではないyo 様

最初に『改邪鈔』について回答します。
私は「敬う」とは書いていません、「扱う」と書きました。「善知識には無条件服従しなければならないのか 1」を読んでいる前提で書きましたので、お分かり頂けると思っておりました。補足説明をします。

「善知識には無条件服従しなければならないのか 1」に書いた『御文章』とその説明

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
またあるひとのことばにいわく、「たとい弥陀に帰命すというとも、善知識なくは、いたずらごとなり。このゆえに、われらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と云々。これも、うつくしく当流の信心をえざるひとなりときこえたり。そもそも善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。一には宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義成就せずは、往生はかなうべからずとみえたり。されば善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよといえるつかいなり。宿善開發して、善知識にあわずは往生はかなうべからざるなり。しかれども、帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おおきなるあやまりなりとこころうべきものなり。(二帖目第十一通)


と、「善知識ばかりをたのむべし」「ただ善知識ばかりを本とすべきこと」は、大変な間違いであると仰っています。無条件服従するのは善知識ではなく、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」の阿弥陀仏であります。これが浄土真宗であり、蓮如上人の教えられたことです。
阿弥陀仏に無条件服従するためには、善知識に無条件服従せよ、とは一言も仰っていませんので、善を捨てるために善をせよ、と全く同じトリックです。

信心決定に最も大事な「阿弥陀仏に帰命(無条件服従)する」を、「善知識に無条件服従する」と無条件服従の対象をすり替えてしまっては、万劫の間求めても信心決定などできる筈がありません。向くべき方向が違うのですから。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

と同じ主旨です。「如来の代官と仰いであがむべき」を否定しているのではありません。無条件服従するのは阿弥陀仏であって、善知識ではないということです。


もうひとつの苦笑氏の文章についての御質問ですが、苦笑氏に著作権があると述べたとおりで、苦笑氏に直接質問されるのが筋であると思います。苦笑氏に直接質問されていないようですが、その意図がわかりません。

しかし、私に質問されましたので、私の意見を少しだけ述べます。

親鸞聖人は、『唯信鈔』を自ら書き写されてまで、関東の同行に送って、読むように何度も勧められた書物です。それだけでなく、その解説書、『唯信鈔文意』まで著しておられます。
更に『尊号真像銘文』には、「若不生者」の解釈については、『唯信鈔』によっていると仰っていますが、その解釈が間違いであるとは指摘されていません。

『唯信鈔』、『唯信鈔文意』、『尊号真像銘文』を読んだ人は、『尊号真像銘文』等のお言葉をそのまま素直に理解します。親鸞聖人の教えを学ぶものも、そうあるべきです。『教行信証』を読んで、理論を捏ねくりまわさないと理解できないようなものという考え方はおかしいと思います。

貴方の主張からは、親鸞聖人が”敢て”誤解されるようなことを書かれた上、その解釈を多くの人に読ませられたということになりますが、如何でしょうか。

以上のことでも納得されないのであれば、苦笑氏に直接質問して下さい。もし名聞、利養、勝他のための議論をされたいのであれば、学会で論文を発表されることをお勧めします。

参考
『唯信鈔』

つぎに、本願の文にいわく、「乃至十念 若不生者 不取正覚」といえり。
いま、この十念というにつきて、人うたがいをなしていわく、『法華』の「一念随喜」というは、ふかく非権非実の理に達するなり。
いま十念といえるも、なにのゆえか、十辺の名号とこころえんと。
このうたがいを釈せば、『観無量寿経』の下品下生の人の相をとくにいわく、「五逆十悪をつくりもろもろの不善を具せるもの、臨終のときにいたりて、はじめて善知識のすすめによりて、わずかに十辺の名号をとなえて、すなわち浄土にうまる」といえり。

『唯信鈔文意』

「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。

お返事ありがとうございます

>私は「敬う」とは書いていません、「扱う」と書きました。

あなたの書いた原文をあげてみましょう。
>たとえ正しい教えを説かれているとしても、知識は、阿弥陀仏ではあ>りませんし、仏でもありません。知識を仏のように扱うのは浅ましいこ>とであると教えられています。

この改邪鈔の御文のどこに
「知識を仏のように扱うのは浅ましいことである」と
書かれているのですか?

善知識において、本尊のおもいをなすべき条、渇仰の至りにおいてはその理しかるべしといえども、それは仏智を次第相承しまします願力の信心、仏智よりもよおされて、仏智に帰属するところの一味なるを仰崇の分にてこそあれ、仏身・仏智を本体とおかずして、ただちに凡形の知識をおさえて「如来の色相と眼見せよ」とすすむらんこと、聖教の指説をはなれ、祖師の口伝にそむけり。本尊をはなれて、いずくのほどより知識は出現せるぞや。荒涼なり、髣髴なり。ただ実語をつたえて口授し、仏智をあらわして決得せしむる恩徳は、生身の如来にもあいかわらず、木像ものいわず経典くちなければ、つたえきかしむるところの恩徳をみみにたくわえん行者は、謝徳のおもいを専らにして、如来の代官と仰いであがむべきにてこそあれ、その知識のほかに別の仏なしということ、智者にわらわれ愚者をまよわすべきいいこれにあり、あさまし、あさまし。(改邪鈔)

四依の御文

>『大論』(大智度論)に四依を釈して云わく、涅槃に入りなんとせし
>時、もろもろの比丘に語りたまわく、「今日より法に依りて人に依ら
>ざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべ>し、了義経に依りて不了義に依らざるべし」と。「法に依る」とは、
>法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。

>釈尊が涅槃入られた後、何に従っていくべきかを教えられた
>ものです。その最初に、「法に依りて人に依らざるべし」とあり、
>その説明が「「法に依る」とは、法に十二部あり。この法に随うべし、
>人に随うべからず。」です。釈尊が説かれた教えに従うので
>あって、教えを説く人に従うのではない、ということです。
>なぜなら、どんなに素晴らしいと思える善知識であっても、
>仏ではありませんので、間違いを犯すことはあります。
>仏である釈尊から御教導頂けない時代には、仏ではない
>善知識に無条件服従するのは誤りであるとはっきり教え
>られています。

「四依」の御文ですが。
たとえば皆往院によれば
「不依人というに二義を立つ
一には仏道を修行するときは善知識によらずば仕損じあり、
よりて邪義乗法のひとには依るな。外道の執計などには依るなと、
悪き師匠を選びすてる意なり。
二に自ら法を知る場合には至りては冷水を飲んで快しと知る如く
その場には自ら知るということで、一切不依という。
如此不依人というについて大乗義章に二義立ててあり、これ論の意に叶う。」と 大乗義章をあげて解説してあります。
「善知識に依って、邪義のひとによるな」という意味で
普通解釈されていると思います。
あなたのように
「釈尊が説かれた教えに従うのであって、教えを説く人に従うのではない」と解釈している学者の名前をあげて教えていただけますか。
それとも御自分独自の解釈ですか?

苦笑氏の主張を知らないでコピーしてるの?

>更に『尊号真像銘文』には、「若不生者」の解釈については、『唯信鈔』によっていると仰っていますが、その解釈が間違いであるとは指摘されていません。

一願該摂や五願開示ということについては全く御存知ないということ
で納得しました。
この違いは念仏以本と信心以本の違いです。
法然上人が念仏以本と言われたことが間違いだとは
誰もいってませんよ。
教行信証の内容を御存知ないことに問題があるのです。

「若不生者の『生』は死後、浄土に生まれることであって、現益の意味はない」と言うのが苦笑氏の主張ですから
それも知らずにコピー掲載してるなら無責任の非難は
免れないでしょうね。

訂正

念仏為本、信心為本ですね。失礼しました。

Re: お返事ありがとうございます

> >私は「敬う」とは書いていません、「扱う」と書きました。
>
> あなたの書いた原文をあげてみましょう。
> >たとえ正しい教えを説かれているとしても、知識は、阿弥陀仏ではあ>りませんし、仏でもありません。知識を仏のように扱うのは浅ましいこ>とであると教えられています。
>
> この改邪鈔の御文のどこに
> 「知識を仏のように扱うのは浅ましいことである」と
> 書かれているのですか?

『御文章』の説明と主旨は同じと書きましたので、御理解頂けたかと思いましたが、この場合の「仏」とは阿弥陀仏のことです。
何度も申しますが、無条件服従の相手は阿弥陀仏ということで知識ではない、それがここで言いたいことです。
そのように表現したつもりでしたが、そのように御理解頂けなかったということで、補足させて頂きます。

Re: 苦笑氏の主張を知らないでコピーしてるの?

> >更に『尊号真像銘文』には、「若不生者」の解釈については、『唯信鈔』によっていると仰っていますが、その解釈が間違いであるとは指摘されていません。
>
> 一願該摂や五願開示ということについては全く御存知ないということ
> で納得しました。
> この違いは念仏以本と信心以本の違いです。
> 法然上人が念仏以本と言われたことが間違いだとは
> 誰もいってませんよ。
> 教行信証の内容を御存知ないことに問題があるのです。
>
> 「若不生者の『生』は死後、浄土に生まれることであって、現益の意味はない」と言うのが苦笑氏の主張ですから
> それも知らずにコピー掲載してるなら無責任の非難は
> 免れないでしょうね。

僅かな情報で、一方的に決めつけるのが、親鸞会のいつものやり方です。
貴方もご存知の通り、五願開示も含めて様々な学説があります。五願開示は、親鸞聖人が仰ったものではありません。
学説の検証をせずに論理展開をすることは、如何なものでしょうか。
様々な解釈で、「若不生者」が現益、当益は導き出されると思っております。

苦笑氏の説を全面的に肯定するものでも否定するものでもありません。五願開示から説明しようとする貴方の説も全面的に否定するものでもありません。

従いまして、議論をされるのであれば、苦笑氏と直接されれば宜しいかと思いますし、勝他のための議論をここでするつもりはありませんので、先のコメントでそのように書きました。

苦笑氏に直接質問するのに、何か不都合なことがあるのでしょうか。

Re: 四依の御文

> >『大論』(大智度論)に四依を釈して云わく、涅槃に入りなんとせし
> >時、もろもろの比丘に語りたまわく、「今日より法に依りて人に依ら
> >ざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべ>し、了義経に依りて不了義に依らざるべし」と。「法に依る」とは、
> >法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。
>
> >釈尊が涅槃入られた後、何に従っていくべきかを教えられた
> >ものです。その最初に、「法に依りて人に依らざるべし」とあり、
> >その説明が「「法に依る」とは、法に十二部あり。この法に随うべし、
> >人に随うべからず。」です。釈尊が説かれた教えに従うので
> >あって、教えを説く人に従うのではない、ということです。
> >なぜなら、どんなに素晴らしいと思える善知識であっても、
> >仏ではありませんので、間違いを犯すことはあります。
> >仏である釈尊から御教導頂けない時代には、仏ではない
> >善知識に無条件服従するのは誤りであるとはっきり教え
> >られています。
>
> 「四依」の御文ですが。
> たとえば皆往院によれば
> 「不依人というに二義を立つ
> 一には仏道を修行するときは善知識によらずば仕損じあり、
> よりて邪義乗法のひとには依るな。外道の執計などには依るなと、
> 悪き師匠を選びすてる意なり。
> 二に自ら法を知る場合には至りては冷水を飲んで快しと知る如く
> その場には自ら知るということで、一切不依という。
> 如此不依人というについて大乗義章に二義立ててあり、これ論の意に叶う。」と 大乗義章をあげて解説してあります。
> 「善知識に依って、邪義のひとによるな」という意味で
> 普通解釈されていると思います。
> あなたのように
> 「釈尊が説かれた教えに従うのであって、教えを説く人に従うのではない」と解釈している学者の名前をあげて教えていただけますか。
> それとも御自分独自の解釈ですか?

本願寺の一般的な解釈です。
たとえば、浄土真宗教学研究所編『顕浄土真実教行証文類-現代語版-』には、

 『大智度論』に、四つの依りどころについて次のようにいわれている。
 「釈尊がまさにこの世から去ろうとなされるとき、比丘たちに仰せになった。今日からは、教えを依りどころとし、説く人に依ってはならない。
(中略)
 教えを依りどころとするとは、仏の説いた教えには十二部経があり、この教えにしたがうべきであって、説く人にしたがってはならないということである。

とあります。

山辺習学・赤沼智善著『教行信証講義』には、

第一に「法に依る」とは、教説は十二部経あるが、これ等の教説を主として、人を主としてはならぬ。教説は純一ものであるが、それを伝える人柄には欠目のあるものである。人にとらえられずして、直ちに法の真髄を会得せよ。

とあります。

ただし、他宗では「法」を真理の体現者という意味で使われることがあることも知っています。

横から失礼します

「苦笑氏の誤り」さま

>教行信証は五願開示ですから、浄土往生は11願に配当されて
>難思議往生は証の巻の巻頭に書かれています。
>純粋な十八願には死後の往生の意味は無いんですよ。


 まず、五願開示という説は、18願に5つの願の意味が収まるという意味で、「若不生者」に対応するのは11願、これは高森会長も教えているし、親鸞会の教学解説書にも載っていたことです。

 純粋な18願と言った場合は、いわゆる18願文の「若不生者」は入らない。
 五願開示という言葉を使って反論するのは不用意でしょう。

 これについては、苦笑氏も触れています。
 以下、引用しますが、「苦笑氏はずーと無視してますけどね」なんて嘘は書かないで下さい。
 この件は、苦笑氏のブログで、何回も話題になっています。


------------------------------------------------------------
 ちび丸の説によると…

    ┌至心信楽 ─ 18願 ─ 信楽を与える
18願─┼若不生者 ─ 11願 ─ 信楽の者を、浄土往生させる
    └その他

> 分相になったときには十八願は純粋に「信楽を与える」という願になって

分相の18願は、「信楽を与える」という約束
分相の11願は、「信楽の者を、浄土往生させる」という約束

だから、18願は「信楽を与える」という約束、とは一応言える。

しかし!!

分相の18願に対応するのは、「至心信楽」
分相の11願に対応するのは、「若不生者」

なので、一願該摂で「信楽を与える」に対応するのは「至心信楽」でなければならない!!!

田中氏の「不体失往生の根拠は、至心信楽だ」という主張を、全面的に認めたわけだ。


689 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 18:31:11 ID:SSHL9SRG

ちび丸も元会員を自称するからには、

五願開示で、

分相の18願→至心信楽
分相の11願→若不生者

だということは、知っているだろうな。

親鸞会の教学解説書(かなり古いものだが…)にも載っていたし、
講師試験に出たこともある。

というより、浄土真宗の常識だ。



分相の18願が「必ず信楽にさせる」と認めたということは、
  「必ず信楽にさせる根拠」は「至心信楽」だと認めたわけだ。

分相の11願が「必ず浄土往生させる」と認めたということは、
  「必ず浄土往生させる根拠」は「若不生者」だと認めたわけだ。

 チューリップの間違いと、田中氏の主張の根拠を、同時に教えてくれて有難う。

M野氏が苦笑氏に質問できない理由

【お知らせ】「辛口!真宗時評」管理人様とのやりとり終了のお知らせ
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-294.html

「苦笑の独り言」をご覧の皆様へ

先日、「辛口!真宗時評」管理人のHiroshi Makino氏からメールで質問を頂きました。

私(苦笑)とHiroshi Makino氏とは「辛口!真宗時評」のコメント覧で議論中でしたので(※)(※※)、
私への質問は「辛口!真宗時評」のコメントに書いて頂くか、
あるいは、私とHiroshi Makino氏とのメールでのやり取りを私のブログに公開するかして、
議論をあくまで公開の場で行うことを、私は強く希望しましたが、
Hiroshi Makino氏がいずれの方法も拒否されましたので、
しばらくメールで非公開のやり取りをさせて頂きました。

  ※またも「誰でもお浄土」と説く これが真宗?コメント覧
   http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/483/

  ※※ただし、苦笑の二番目からのコメントは承認されていない。

しかし、Hiroshi Makino氏は私にメールで質問しておきながら、
「初めから」「やりとりはお断り」とのことでしたので、
極めて遺憾ではありますが、メールでのやり取りも終了となりました。

皆様の中には、「辛口!真宗時評」のコメント覧での議論が中断されていることを、
不審に思っておられる方も沢山いらっしゃることと思います。
以下に、「著作権問題」に抵触しないように、
私からHiroshi Makino氏へのメールのみ公開させて頂きます。

Hiroshi Makino氏から私へのメールの内容は、
皆様のご想像にお任せいたします。

苦笑

横から失礼します

M野氏ではないyo 様


 ついでですが、貴方は下記の管理人氏の文章は間違いだと主張されています。

>なぜなら、どんなに素晴らしいと思える善知識であっても、
>仏ではありませんので、間違いを犯すことはあります。
>仏である釈尊から御教導頂けない時代には、仏ではない
>善知識に無条件服従するのは誤りであるとはっきり教え
>られています。


 上記の主張は、大きく2つの内容に分けられます。

1、善知識であっても、仏ではないから、間違いを犯すこともある。
2、「無条件服従」と言った場合は、その間違った教えにも従うことになるが、それは誤りである。

 1と2の、どちらに問題があるとお考えでしょうか?


 別の言い方で確認しますと、

a、善知識は完璧だ。間違いは絶対無い。
b、善知識が間違った事を教えても、無条件で従うべきだ。

 あなたは、aとbのどちらの意見でしょうか?



また、以下のように主張されていますが、

>「善知識に依って、邪義のひとによるな」という意味で
> 普通解釈されていると思います。

 「普通」と言った場合、学者の少なくとも半数以上の意見でなければ、言わないと思います。
 管理人氏の解釈は、「浄土真宗教学研究所」という西本願寺派の機関が出しているので、ある意味で一般的と言えると思いますが、皆往院と同じ解釈をされている学者を5、6名挙げていただけないでしょうか。

 普通の解釈なら、何の苦労もなく挙げられると思います。

今度もショウモナイ言い訳でトンズラですか(苦笑)。

今度もショウモナイ言い訳でトンズラですか(苦笑)。
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-452.html

苦笑の独り言 コメントまで捏造してんじゃね~よ!!
清森問答 投稿:「辛口!真宗時評」管理人様
 ↑
コメントの捏造が暴露されたので、
今度もショウモナイ言い訳でトンズラですか(苦笑)。
 ↓
辛口真宗時評 こういう自己流の解釈を説法と呼べるのか コメント覧 より


行信様へ 皆様へ

行信様へ

★コメント有り難うございました。
 大いに参考にさせて頂きます。

なお、ここをご覧の皆様にお知らせとお願いです。

★先日来、10月5日付けの記事に対して、余りに膨大なコメントが
送りつけられてきて、迷惑し、困惑しております。
 中には、異様な長文コピペもあれば、「よくないことが起きるぞ」と
脅迫まがいのものもあり、もちろん承認制ですから、皆様の目には触れ
ないながらも、ブログ運営に支障となっております。

 その中から、比較的穏当にご意見を頂いた「行信様」のコメントだけは、
抜き出して掲載しましたが、その他の700通を超えるコメント群は、
せっかく寄せてくだされた方には相済まないことですが、非掲載とし、
今後も、この10月5日付けの記事に対するコメントは、すべて掲載
しないこととさせて頂きます。

以上はすべて当ブログを管理運営する管理人の私の一存です。
ご異議ある方は、リンク欄に、私へのメールアドレスも記載されており
ますので、そちらへお寄せください。

★なお、当ブログそのものを継続して運営していくことは変わりません。
 今後とも、どうぞよろしくお願い致します。
管理人 2009/10/13(Tue)08:56:11




正直に「都合の悪いコメントが殺到してお手上げです」と言えばいいのに、
ショウモナイ言い訳するのが大変お見苦しいですな(苦笑)。

それにしても、2009.10.13.17:56の時点で、
Today のアクセスが274、Yesterday のアクセスが319なのに、
「700通を超えるコメント群」があったのでしょうかね~?

ブログの炎上まで見栄を張る必要はないのにね(苦笑)。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

高森会長を誹謗するM野

「若不生者」の解釈について、『会報第二集』P.33に以下のように書かれてある。

同じく、法然上人を師と仰ぎ、朝夕同じ御教化に遇っていた人々の中から、一方は
浄土他流となって体失往生を主張し、一方は聖人一流の真宗となって不体失往生、
現生不退、平生業成を高調するようになったのは一見不思議なことのように思われ
ようが、そのもとは前号で、述べたように実に阿弥陀仏の本願のなかの
「若不生者、不取正覚」の味い方の相違からである。
「若し、生れずは正覚を取らじ」とあるから、平凡に肉体の亡びた死後に於て浄土へゆき仏に
生れさせらることが出来なかったら、ワシは正覚をとらないぞというように考えられる。
これから小坂の善慧房の体失往生即ち、死なねば助からないのだという弥陀の本願観が
出て来たわけだ。
しかし、吾が親鸞聖人の味い方は全くそれらの常識を破って、「若し生れずば
正覚を取らじ」と誓いたまえるのは、「生れる」とは、死後の肉体の浄土へ生れ変るだけの
ことではなく無始より以来、流転を続け、苦より苦の綱渡り、闇から闇の旅路を重ねている
我々の魂(実機)を、若し大満足、大安心、晴天白日に生れ変えることが出来なかったら正覚をとらないぞ、
(中略)
かかる親鸞聖人の本願に対する味い方は純粋な聖人の他力信仰の体験の心眼によって
色読せられたものであり、実に、超世不共、唯信独達、不体失往生の弥陀の本願の
真意を開顕せられたものである。
-------------------------------------

会長でさえ、昔は「若不生者」の「生」を現益とするのは親鸞聖人の味わいといっていたのにね。
これなら問題ないけど、M野の以下は駄目よ。

>純粋な十八願には死後の往生の意味は無いんですよ。

これは、会長の教えまでも誹謗しているんだよ。

だから君は、

>御己証を「味わい」とはどういうこと?
>教行信証を「味わい」と言って、教えとして認めないアンチ(高森会長)は外道です。

などと発言せざるをえなくなったんだよ。

念仏誹謗の謗法罪を懺悔したらどうかね。

苦笑氏は、答えていますよ

大嘘付きのM野氏ではないyo 氏へ

苦笑氏は無視どころか、しっかり回答されてますよ。
いつもの捏造ですね。証拠は下記です。
反論するなら、「苦笑の独り言」へどうぞ。
こちらに書き込みされるなら、逃げたと判断します。


「苦笑の独り言」より
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-303.html

Q&A(9)これが「伝統と己証」と言えるのでしょうか?
Q。
いつもお世話になっております。
先日の「異安心」を認定する際のガイドラインをお示し頂きましたが、同じ日に、以下のような記事を拝見しました。

伝統と己証
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/27193249.html

_______________________________________
親鸞聖人は、伝統的に「念仏往生の願」と言われていた阿弥陀仏の王本願である十八願を

「本願三心の願」「至心信楽の願」「往相信心の願」と言われて

死後の浄土往生を十一願に配当し、

「十八願は、『信心を与える』というお約束である」と仏意を明らかにされた。

これが親鸞聖人の御己証、教行信証の五願開示の真髄である。

伝統的解釈の真意を開き、表されたから一願該摂と五願開示は開合の関係であり

伝統と親鸞聖人の御己証には全く違いはない。

「親鸞、私無し」の常の仰せのとおり。



若不生者のちかひゆゑ (わがちかいをしんぜんもの、もしうまれずは、ほとけにならじと
            ちかいたまえるなり)

信楽まことにときいたり(ねがう。こんごうのしんじんなり。このたりきこんごうのしんじんさだまる
            とき、あみだ仏のおんこころにかなうとしるべし。)

一念慶喜するひとは(しんをえてのちよろこぶとなり。)

往生かならずさだまりぬ


「若不生者」等の左訓「もしうまれずば」というは、第十八の願一願にかぎる。

余の願は「若不爾者」「若不如是者」等とあり。

「生者」とは十八の一願のみなり。

「不生者」、これ極楽に生まれずばというにはあらず、

もし信心が生ぜずばと誓いたもうことなり、故に左訓も云々。

そのちかいゆえに信楽のときいたり一念慶喜のありさまとなるなり。(相伝義書浄土和讃分科)
_______________________________________

このように、例えば『相伝義書浄土和讃分科』に基づいた見解を、
「伝統と己証」と言うことは可能なのでしょうか?



A。
だめですね(苦笑)。
「いつからの伝統やねん!」「だれの己証やねん!」と言ってやりたくなります(苦笑)。

繰り返しますが、正しい「安心」の基準となるテキストは以下の通りです。
 ↓ ↓ ↓
b)正しい「安心」の基準となるテキスト

「異安心」であることを認定するためには、
正しい「安心」がいかなるものであるかを知らなければなりません。
これらの資料が浄土真宗における正しい「信心」の判定基準になりますので、
必ず用意しましょう。

ただしこのテキストは、a)の立ち位置に応じて、
以下のように使い分けられます。

(b-1)浄土真宗内で、異安心を論じる場合は、
   「浄土三部経・七高祖・親鸞聖人」までを基準にする。
(b-2)東西本願寺派における覚如上人・蓮如上人、高田派における真慧上人など、
   浄土真宗でも、特定の派にのみ権威を認められている文献は、
   判定基準としては、参照程度の扱いであり、(b-1)に抵触しない場合のみ、
   参照することができる。
(b-3)親鸞聖人を宗祖と仰ぐ「浄土真宗」以外の、
   法然上人を宗祖と仰ぐ浄土門の教義を判定する際は、
  「浄土三部経・善導大師・法然上人」を基準とする。
    cf. 法然上人の「偏依善導一師」の立場に関しては『選択集』16章参照
 ↑ ↑ ↑


『相伝義書浄土和讃分科』を基準に、
「伝統」とか「己証」とか言えちゃうって言うなら、
自分の都合の良い資料をどっかから持ってきたりして、
結局なんでもありになっちゃいますよ(苦笑)。

というかこの方は、
自分の脳内にある「ドグマ」に都合のいい資料なら、
今まで批判していた団体の資料でも「伝統」とか「己証」で、
「ドグマ」に都合の悪い資料は、例えば存覚上人のお書きになられたものでも、
「これは違う!」と言い出す人ですから、
あんまり言うことを真剣に考える必要はないと思いますよ~。

以下の記事を最低十回ぐらい熟読するようにお伝えください。
 ↓
やさしい浄土真宗の教え §12 「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン

お礼

皆さんから、様々な御意見を頂戴しまして、有り難うございました。

学者の主張は、尊重しなければなりませんが、その理論が筋の通ったものであるのかどうかを検証した上で、その学説を使って論理を展開するのが論文です。論文を書いたことがある人ならば、基本中の基本です。

最初からその学説が正しいという前提で文章を書くのは、まことに幼い思考です。

しかしながら、どんな学説にも参考になるところが、少しはあるもので、全面否定をすることは避けています。僅かでも参考になるものを自分に吸収しながら、学んでいく姿勢を持ちたいものです。

某氏のように親鸞会関係の人には、それがありませんので、何をいっても無駄でしょうが。

あなたの改邪鈔の解釈は間違い、ということです

>『御文章』の説明と主旨は同じと書きましたので、御理解頂けたかと思いましたが、この場合の「仏」とは阿弥陀仏のことです。

「改邪鈔の御文のどこに 『知識を仏のように扱うのは浅ましいことである』と書かれているのですか? 」と2回御聞きしたのですが
お答えいただけませんでした。

どこにもそういうお言葉は無いということでよろしいですね。

御文章

>またあるひとのことばにいわく、「たとい弥陀に帰命すというとも、
>善知識なくは、いたずらごとなり。このゆえに、われらにおいては
>善知識ばかりをたのむべし」と云々。これも、うつくしく当流の
>信心をえざるひとなりときこえたり。そもそも善知識の能というは、>「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、ひとをすすむ
>べきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。一には宿善、
>二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。
>この五重の義成就せずは、往生はかなうべからずとみえたり。
>されば善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよといえるつかいなり。
>宿善開發して、善知識にあわずは往生はかなうべからざるなり。
>しかれども、帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを
>本とすべきこと、おおきなるあやまりなりとこころうべきものなり。
>(二帖目第十一通)
>と、「善知識ばかりをたのむべし」「ただ善知識ばかりを本とす
>べきこと」は、大変な間違いであると仰っています。無条件服従
>するのは善知識ではなく、「一心一向に弥陀に帰命したてまつる
>べし」の阿弥陀仏であります。これが浄土真宗であり、蓮如上人
>の教えられたことです。

>「善知識ばかりをたのむべし」「ただ善知識ばかりを本とす
>べきこと」は、大変な間違いであると仰っています。

これはお言葉の通りですから問題ありませんが
>無条件服従するのは善知識ではなく、
>「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」の阿弥陀仏であります。

とは、この御文章のどこに書いてあるのでしょうか?
「善知識ばかり」とあるのは、普通「帰するところの弥陀をすて」ること
が間違いであることを言われたお言葉とされていますが
あえて「ばかり」というお言葉をはずして解釈された根拠を
お尋ねしたい。

四依

>本願寺の一般的な解釈です。

あなたが現代語訳を読んで「一般的」だと思ったというだけ。
真宗教学として「一般的」ということを知りたいなら
真宗大系、真宗全書、真宗叢書等の全般が網羅された全集に
掲載されたものを元に発言することですね。

>浄土真宗教学研究所編『顕浄土真実教行証文類-現代語版-』
>山辺習学・赤沼智善著『教行信証講義』

現代語訳は正確さに欠けるし、山辺赤沼は標準書ではあるが
意を尽くしてはいない。
その、あなたの根拠にした学者にしても
>説く人にしたがってはならない
>それを伝える人柄には欠目のあるものである。
と、残念ながら、どちらも「善知識従うな」とは書いてない。
書けないでしょうね。そういう意味ではないのだから。
「善知識に従ってはならない」
「全因縁である善知識には欠け目がある」
と浄土真宗教学研究所や山辺先生、赤沼先生が言ったと
あなたは解釈したわけですか?
彼らにとっては迷惑な読者でしょうね。
法謗の片棒を担がされて。

「明師の、内外の律によくして、よく妨障を開除するを須ゐよ。
所聞の三昧の処において、世尊を視たてまつるがごとくにし、
嫌せず、恚せず、短・長を見ざれ。まさに肌肉を割きて、
師に供養すべし。いはんやまた余のものをや。
師に承事すること、僕の大家に奉るがごとくせよ。」の
往生要集のお言葉を知っていますか?
「師に承事すること、僕の大家に奉るがごとくせよ。」
「承事」とは「つかえる、したがう」「僕」とは「しもべ、召使い」ということです。

勉強になるお話が聞けるかと思ったのに残念でした。
「善知識には依るな」と書いてあるものがあれば教えてください。






まず最初に

色々とコメントを頂きましたが、結局、貴方は何が言いたいのでしょうか?

何度も申しているように、勝他のための議論はするつもりはありません。

それと苦笑氏の書かれたものに対するコメントは、苦笑氏に直接して下さいと言っても無視して、荒らされるのが目的と判断し、苦笑氏へのコメントは削除しました。

従いまして、もし勝他のための議論でないと言われるのであれば、ピー様のコメントを引用させて頂きますが、貴方の立場を明らかにして頂けないでしょうか?

以下のピー様の質問にお答え頂けますか?

----------------------------------------

上記の主張は、大きく2つの内容に分けられます。

1、善知識であっても、仏ではないから、間違いを犯すこともある。
2、「無条件服従」と言った場合は、その間違った教えにも従うことになるが、それは誤りである。

1と2の、どちらに問題があるとお考えでしょうか?


別の言い方で確認しますと、

a、善知識は完璧だ。間違いは絶対無い。
b、善知識が間違った事を教えても、無条件で従うべきだ。

あなたは、aとbのどちらの意見でしょうか?

Re: あなたの改邪鈔の解釈は間違い、ということです

> >『御文章』の説明と主旨は同じと書きましたので、御理解頂けたかと思いましたが、この場合の「仏」とは阿弥陀仏のことです。
>
> 「改邪鈔の御文のどこに 『知識を仏のように扱うのは浅ましいことである』と書かれているのですか? 」と2回御聞きしたのですが
> お答えいただけませんでした。
>
> どこにもそういうお言葉は無いということでよろしいですね。

すでに説明しているにも関わらず、あえて無視されているのでしょうか?
単に国語力が無くて理解できないのでしょうか。「扱う」と「敬う」の違いも分かられなかったようですから、仕方ないのかも知れません。


知識を仏(阿弥陀仏)のように扱うということは、「一向専念善知識」でも良いということですよ。同じ扱いなのですから。

この改邪鈔のお言葉の内容は要約すれば、以下の標題になります。

「一 本願寺聖人の御門弟と号する人々のなかに、知識をあがむるをもって弥陀如来に擬し、知識所居の当体をもって別願真実の報土とすという、いわれなき事。」

知識をあがむることを、弥陀如来にあがむることに擬すということは、いわれなきこと(間違い)だと教えられています。その理由を、本文では詳しく解説されています。

知識を阿弥陀仏として扱って良いのであれば、このような言動も許されるはずです。それを、覚如上人は、浅ましいことだと結んでおられます。

Re: 御文章


> >「善知識ばかりをたのむべし」「ただ善知識ばかりを本とす
> >べきこと」は、大変な間違いであると仰っています。
>
> これはお言葉の通りですから問題ありませんが
> >無条件服従するのは善知識ではなく、
> >「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」の阿弥陀仏であります。
>
> とは、この御文章のどこに書いてあるのでしょうか?
> 「善知識ばかり」とあるのは、普通「帰するところの弥陀をすて」ること
> が間違いであることを言われたお言葉とされていますが
> あえて「ばかり」というお言葉をはずして解釈された根拠を
> お尋ねしたい。


この文章では、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と説くのが、善知識の仕事であると教えられています。
「帰命」とは「その勅命に信じ順う」ということです。
だから、阿弥陀仏に無条件服従せよ、というなら理解できますし、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」という言葉に従え、というのなら分かります。

しかし、善知識に無条件服従するということは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」に反することを言っても従うということになります。無条件とは、そういうことです。これは、この文章のお言葉に反します。

親鸞聖人でさえ、間違えられることがあるのですから、人間は何を間違えるか判りません。そんな間違った教えであっても無条件で従え、などと教えられるはずが無いのです。

そういうわけで、この御文章からも、善知識に無条件服従するのは誤りであることは明らかなので、結論として「無条件服従するのは善知識ではなく、」と書いたのですが、何か問題がありますでしょうか?

Re: 四依

> 現代語訳は正確さに欠けるし、山辺赤沼は標準書ではあるが
> 意を尽くしてはいない。

あなたが、自分の都合のいい学者の説を「普通」の解釈とし、私の主張する解釈をしたものを挙げろ、と言われましたので、真宗界で本当に「普通」の解釈を紹介したのが不服ですか?

結局あなたの気に入る答えではなかったための無駄な反論ですね。

根拠とする学説の非難を始めたら、どんな主張も批判されうることになります。

貴方が根拠とする学説が絶対に正しいとする根拠は何ですか?
現代語訳を正確ではないと断ずる根拠は何ですか?
山辺赤沼両師を批判されているようですが、何を根拠に批判されているのですか?
参考までに、高森会長は山辺赤沼両師の『教行信証講義』を教学的にはほぼ完璧と評している
そうですので、敢て紹介したのですが。

こんな議論を始めたら、キリがありません。


> と、残念ながら、どちらも「善知識従うな」とは書いてない。
> 書けないでしょうね。そういう意味ではないのだから。

私の主張を、「善知識に従ってはならない」と理解されているのですか?
驚きです。

善知識の説かれる「法」には従わなければなりません。しかし、それは「法」に従うのであって、「善知識という人間」に従うのではない、ということ主張しているのです。

「善知識に従うな」ということになると、善知識の説かれる法にも従えなくなりますね。そんな誤解をする人があるとは思いませんでしたが、もしあれば表現力不足をお詫びいたします。

善知識に無条件で従うということは、法に適っていようと、法に反していようと、無条件で従うことになりますが、これが「法に依りて人に依らざるべし」という教えに合うと思われるのでしょうか?

No title

頭の悪い「M野氏ではないyo」 へ

>真宗教学として「一般的」ということを知りたいなら
>真宗大系、真宗全書、真宗叢書等の全般が網羅された全集に
>掲載されたものを元に発言することですね。

あのね、本願寺の教学は、これらを踏まえて成り立っている訳でしょ。

貴方の尊敬している高森会長は、宿善以外は本願寺の教学は完璧と随行録にあるけどさ、どうなのよ。

未だに天動説を唱えている時代錯誤の真宗マニアだね。

的を得た議論ができないのね。

日本語も理解できないようだし、どうしようもないね。

仏はこれ満足大悲の人なるがゆえに、実語なるがゆえに、仏を除きて已還は、智行未だ満たず

『教行信証』信巻に『散善義』を引かれて

また一切の行者、ただよくこの経に依って行を深信する者は、必ず衆生を誤らざるものなり。
何をもってのゆえに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆえに、実語なるがゆえに、仏を除きて已還は、智行未だ満たず。
それ学地にありて、正習の二障ありて、未だ除からざるに由って、果願未だ円ならず。
これらの凡聖は、たとい諸仏の教意を測量すれども、未だよく決了することあたわず。
平章ありといえども、かならず須らく仏証を請うて定とすべきなり。
もし仏意に称えば、すなわち印可して「如是如是」と言う。
もし仏意に可わざれば、すなわち「汝等が所説この義不如是」と言う。
印せざるは、すなわち無記・無利・無益の語に同じ。
仏の印可したまうをば、すなわち仏の正教に随順す。
もし仏の所有の言説は、すなわちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。
もしは多・もしは少、すべて菩薩・人・天等を問わず、その是非を定めんや。
もし仏の所説は、すなわちこれ「了教」なり、菩薩等の説は、ことごとく「不了教」と名づくるなり、知るべしと。
このゆえに、今の時、仰ぎて一切有縁の往生人等を勧む。
ただ仏語を深信して専注奉行すべし、菩薩等の不相応の教を信用してもって疑碍を為し、惑を抱いて自ら迷いて、往生の大益を廃失すべからざれとなり。


とありますよ。

仏以外のものは、智恵も行もまだ十分でなく、煩悩も習気もまだ除かれていないので、たとえ仏の御心を推し量っても、確かにしることがまだできない。
仏の説かれた教えは、完全な教えであり、菩薩などの説は、みな不完全な教えである。

と教えられています。
菩薩、善知識といえども不完全であるから、仏に従いなさいと教えられていますね。

四依の解釈

頭の悪い「M野氏ではないyo」 へ

四依の解釈を紹介しておきます。
きみの解釈が「普通」ではないのだよ。よく勉強したまえ、ハッタリ野郎。

石田瑞磨訳『親鸞全集 第二巻』

『大智度論』に四つの依りどころ(四依)について注釈して、
仏は入滅されようとしたとき、比丘たちに語ってこう仰せられた。
「今日よりきみたちは、教え(法)を依りどころとして、それを説く人を依りどころとしないだろう。
(中略)
教えに依るとは、その教えに十二部の類別があるが、この教えにしたがって、これを説く人にしたがわないだろうということである。


星野元豊著『講解 教行信証 化身土の巻』

竜樹菩薩は『大智度論』において修道者の依るべき教訓として四つあることを説いている。釈尊が涅槃に入ろうとされるとき、もろもろの比丘たちに語られた。お前たちは今日からはまず第一にどこまでも教法に依りどころをもとめるべきであって、人に依ってはならない。
(中略)
法に依るというのは、仏の教説は十二部に分類されているが、いずれも仏の教説に従うべきであって、その教説を説く人に随ってはならない。人ということになると、人によってその説き方なり、解釈の相違も出てくるであろうから、人に随ってはならない。

「善知識だのみの異義」引用

頭の悪い「M野氏ではないyo」 へ

以下を読んで、よく勉強しておくように。

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%96%84%E7%9F%A5%E8%AD%98


ノート:善知識
出典: 浄土真宗聖典プロジェクト『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
移動: ナビゲーション, 検索
善知識だのみの異義

五重の義

(11)

①それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。これおほきにあさましき次第なり。

②そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにいはく、「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。

③これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。

④またあるひとのことばにいはく、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。

⑤これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。

⑥これによりて五重の義をたてたり。一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。

⑦されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

  [文明六年五月二十日]


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この「御文章」は、蓮師の吉崎在住のものである。次の十四通にもあるごとく、北陸一円をはじめ、世間に浄土真宗の正義と異なる異義が流行していたようである。この異義の中で、この章では十劫安心と善知識だのみを出されている。十劫安心の異義は他に一の十三通、三の八通にもあり、帖外にも出されている。すべて吉崎在住時代のものである。

次の善知識だのみに関するものも帖外には吉崎時代のものと、山科時代のものと存する。特に帖外三十一通には、

かへすがえすく当山へなにのこころえもなきひときたり、予に対面して手をあはせおがめること、もてのほかなげきおもふところなり。さらにもてたふときすがたもなし、ただ朝夕はいたづらにねふせるばかりにて不法懈怠にして不浄きはまりなく、しばらくさき身にてありけるをおがみぬること真実真実かたはらいたき風情なり。
とあり、蓮師は自らのカリスマ的存在を厳しく戒められている。次の五十二通によると、

然れば則ちこの上には知識帰命なんと云ふ事も更に以てあるべからず、ちかごろ三河国より手作りに云い出したることなり。
とあり、この善知識だのみは三河国からきたものといわれ、自分勝手な解釈であるといわれている。蓮師の時代には浄土真宗の教義は全く地におち、対外的には西山、鎮西義の教義、さらに一遍上人の時宗との混同がみられ、対内的にも帖内帖外の「御文章」にしはしば出ているように、さまざまな異義が流布していたのである。

十劫安心というのも、現在でも、すでにたすかっていることの自覚が信心であるという領解を時々耳にすることあるが、この考え方と共通するもので、十劫の昔に阿弥陀仏が正覚成就したとき、その時、すでにたすかっているというのである。

ただ今までそれを知らなかっただけである。このような解釈は一遍上人の系統にあるようである。一遍上入の法語にある「信不信を論ぜず」という言葉を誤解すると、全く十劫安心となる。

例えば、ペニシリンの注射をすると、肺炎が治るといわれるが、これを知っているからといってそのまま肺炎の病気が治るということはない。それゆえ、蓮師は、「されば十劫正覚のはじめよりわれらが往生をさだめたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき信心のいはれをよくしらずば極楽には往生すべからざるなり」といわれるのである。

また善知識だのみは、すでに根本仏教の上でも否定されていることが明らかに知られる。多くの宗教のごとく仏教は教祖宗教ではない。カリスマ的存在を是認しないところにその特色がある。

四依の中にも、はじめに「人に依らずして法に依れ」とある。仏陀の自らの思いつきや暗示によるものでなく仏陀の存在の有無を論ずる必要なき、不生不滅の法を発見されたのである。

浄土真宗も三経一致門の上でいわれるごとく『大経」は本願を説く経なるゆえに薬にたとえられ、『観経』は機の真実をあらわす経典であるから病気にたとえ、『阿弥陀経』は機法合説証誠といわれ、六方恒沙の諸仏の証誠は医者にたとえられる。医者は病気の原因を明らかに診察して、この病気に対する薬を与え、それを服用することをすすめるのである。

それゆえ、「化身土巻」には『涅槃経』を引用され、諸仏菩薩は善知識であるといわれている。善知識の分限と領域を誤ると善知識はカリスマ的存在になり、教祖化する。それゆえ、その分限と領域を明らかにして、「善知識の能といふは一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしとひとをするばかりなり」とある。

博多の仙崖和上和上のところに石見太田の浄土真宗の住職(晃円師といわれる)が後生の一大事を聞きに行ったといわれる。その時、仙崖師は、

「貴様は南無阿弥陀仏のほかに何の不足があってここに来たか」

と、どなりつけて去ってしまった。これこそほんとうの善知識である。住職は仙崖和尚の法話をきいて後生の一大事を解決しようとしたのである。仙崖師が自らの法話と相撲をとらせず、南無阿弥陀仏と相撲をとらせたことが、ほんとうの善知識といわれるのである。

それゆえ、蓮師は「自力の心をすてて一心に弥陀をたのむ」とあり、また『歎異鈔』第二章にも「親鸞におきてはただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」とある。

次に、五重の義を出されている。五重の義を出され、「往生はかなふべからずとみえたり」の出処は先哲の上でも種々あげられているが、まず「本願成就文」、善導大師の『往生礼讃』前序、『教行信証』「行巻」両重因縁釈、覚如上人の『口伝紗』、『本願妙』、存覚上人の『浄土見聞集』等をあげられる。見聞集の文によると、

もしききえてよろこぶこころあらばこれ宿善のひとなり。善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふごころのなきはこれすなはち摂取の心光行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。
光明は智慧なり。この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり。仏智よりすすめられたてまりてくちに名号はとなへらるるなり。(真聖全、列祖部三七八頁)
とある文に宿善・善知識・光明・信心・名号と順位まで等しく出されている。この五重は、成就文の「聞其名号信心歓喜」を開いたものといわれる。

ただ「名号」を信心の後に出されているのは、蓮師のあつかいに信心の体として出されている場合と、信後の称名を名号といわれる場合が存するからである。今は信の後であるから称名を意味し、これによって信心正因称名報恩の浄土真宗の本義を明らかにされている。

(この問題は浄土真宗本願寺派では「安心論題」の一つとしてあげられているので、詳細はそれを参照していただきたい。)

『蓮如上人のことば』稲城選恵 p.42~


--------------------------------------------------------------------------------

やさしい安心論題の話

五重義相

蓮如上人当時のあやまった見解ーいわゆる「十劫安心」と「善知識だのみ」をただすために、上人は正しい信心獲得のすがたについて、その始終を「五重の義」としてお示しくださっています。その五重の義の相状をうかがうのが、この「五重義相」という論題であります。

五重の義は『御文章』二帖目第十一通(真聖全三-四四一)に示されています。

{御文章中略}

右の文の中、①総じて種々の異解があることを歎かれ、②まず十劫安心を出し、③そのあやまりをただされる。次に④善知識だのみを出し、⑤以下そのあやまりをただされる。その中の⑥に五重の義を示されているのです。

したがって、五重の義には直接には善知識だのみをただすために示されたものですが、間接的には前の十劫安心に対する意もあるものとうかがわれます。

五重の「五」とは、

(一)宿善。宿世の善根。今生において本願の法にあい、信心喜ぶ身にならせていただくのは、この宿善のおかげであるといわれる。

(二)善知識。本願の法を説いてくださる方。まさしくは釈迦仏であるが、七高僧、宗祖聖人、歴代相承の宗主、更に僧俗を間わず本願の信を勧めてくださる人は、すべて善知識であります。

(三)光明。私どもを照育し摂取してくださる阿弥陀如来の光明。

(四)信心。他力真実の信心。

(五)名号。如来の名号が到り届いて信心となるという意味で、信心の体(ものがら)は名号であると示されたものとも考えられる。しかし、今は信心のあとに出されているので、「真実信心必具名号」(真聖全ニー六八)ー真実信心は必ずあとに称名相続をともなうーという意味で、この場合の名号とは信後の称名を示されたものと見る方が適切でありましょう。

次に五重の「重」というのは、単に五つならべたというのではなく、ちょうど一つの波が次の渡をおこすように、前のものが後をおこし、後のものが前に重なってゆくことを意味します。

そのことは「往生論註』下巻の願偈大意から利行満足までの十章を「十重あり」(真聖全一-三一二)と示されているのと同様であります。

今この五重の次第によれは、「宿善」によって「善知識」にあい、「光明」のおんはたらきによって、「信心」獲得の身となる。その信心がまことであれぱ必ず「名号」が称名念仏として出てくる、という意味になります。ですから、五重の義というのは、正しい信心獲得のすがたについて、その始終をお示しくださったものとうかがわれるのであります。

「十劫安心」というのは、十劫の昔に「衆生往生せずぼわれ正覚とらじ」という誓願を成就して阿弥陀仏となられたのであるから、その時すでに私どもの往生は決定している。それを今まで知らなかっただけであるから、これを知って忘れないのが信心である、というように、信心を観念的に理解するものであります。

これに対して、蓮師はそのような理解では他力の信心を得たとはいえないと誠め、阿弥陀仏の救いの法は十劫正覚の始めにすでに成就されているけれども、私どもがその法をよくお聞かせいただいて、信心獲得しなけれぱ往生できない旨を述べられていまず。

つまり十劫安心は、五重の義として示されているような、獲信にいたるまでの過程(プロセス)や、信後のあり方などを全く無視して、理屈だけの空虚なとらえ方をしているものであります。

これは蓮如上人当時にあった誤った見解である、といって済ますことはできないと思われます。私は何もしなくても如来さまの力で、死んだら極楽浄土、こんな気楽で結構な宗旨はないと決めこんで、法座が勤まっていても知らん顔、聞法とか信心安心とかいうことは自分には関係ないとばかり、平気で過ごしている人が現にたくさんいるのではないか。思いここに到れば、蓮師のお言葉は今の私どもに、痛いほどひびいてまいります。

「善知識だのみ」は、知識掃命ともいわれます。これは阿弥陀仏に帰命するといっても、現に法を説いてくださる善知識がなけれぱ何にもならないのだから、善知識だけをたのみにすればよいのだ、と善知識に帰命すべきことを主張するものであります。

たしかに、阿弥陀如来のおこころは、生きた人間を通して私どもに伝えられるのであって、私に直接するのは善知識であります。ですから、救いの法を説いてくださる善知識を尊重し敬慕するのは当然でありましょう。しかし、阿弥陀如来をそっちのけにして、善知識を帰命(信)の対象とするならぱ、それは本末転倒といわねばなりません。

そこで、蓮師は善知識だのみの誤りを指摘せられ、善知識は「弥陀に帰命せよ」と勧める使いであって、あくまで帰命すべきは阿弥陀如来である旨を述べられ、更にこれを明らかにするために、五重の義を立てられたのです。

これによって、宿善開発して善知識にあい、その善知識の勧めによって弥陀に帰命する信心を得て、往生決定の身となる旨を示され、「帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきことを、大きなる誤りなり」と誠められています。

思うに、善知識が真の正しい善知識であれば、このような善知識だのみは生じないでありましょうし、たとい一部にそういう誤った見解が生じても、善知識がその誤をただしてくださるでありましょう。

しかし、偽り邪な善知識の場合が問題であります。現実には「帰ずるところの弥陀をすてて」とまではいかないにしても、人々を説得し心服させる才能にたけた者が指導者となり、指導される人々はその人を阿弥陀仏と同等に生き仏として無条件に帰依尊崇するということになれぼ、どのような事態になるか。実に危険きわまりないものといわねばなりません。


「この五重の義成就せずば、往生はかなうべからずとみえたり」といわれるのは、宿善から名号(称名)までの五つが往生の因であるという意味ではありません。

宿善・善知識・光明の三つは、信心獲得に到る縁由、すなわちそれらがあってはじめて信心獲得の身にならせていただくのであるといわれるのであり、第五の名号は信後の称名相続をもって信心のまことであることを示されるのであります。

したがって、信心一つが往生の正因であることに変わりはありません。この五重の義を立てて示されるのは、善知識を尊重するあまり、誤って善知識を帰命(信)の対象とする見解をただされるためであり、また獲信に到る過程や獲信以後の相状といった実態を知らない十劫安心の誤りをただされる意味であります。

「みえたり」というのは、蓮師が勝手に五重の義を立てたのではなく、承けるところがある旨をあらわされます。覚如上人の『口伝紗』「光明名号の因縁という事」(真聖全三ー三)、『執持紗』「光明名号の因縁ということあり」等(真聖全三ー四○)、『本願紗』「真実信心必具名号」等(真聖全三ー五六)、存覚師の『浄士見聞集』「この法を信ぜずばこれ無宿善のひとなり」等(真聖全三ー三七八)、更にその本は『本典』行巻の両重因縁釈(真聖全二ー三三)、『礼讃』前序の「光明名号摂化十方」等(真聖全二一九引用)、これらの文の意を承けていられるのです。

それらの文は、その示される項目の数や順序が必ずしも一様ではありません。それはそれぞれ顕わされる意味が異なるからです。宿善によって善知識にあって光明摂取の益を受けると示すときは「宿善・善知識・光明」の次第、光明の照育によって宿善が成熟すると示すときは「光明・宿善」の次第。

光明によって獲信すると示すときは「光明・信心」の次第、獲信によって光明摂取の益を得ると示すときは「信心・光明」の次第。名号が届いて信心となると示すときは「名号・信心」の次第、真実信心は必ず称名相続すると示ずときは「信心・名号」の次第。

このように、顕わされる意味によって、次第順序も異なっています。

今ここに蓮師の示された五重の義の順序は、『浄土見聞集』の釈相を承けて、一から五までの五重として示されたものであろうと思われます。

『やさしい安心論題の話』灘本愛慈 p158~

"http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%96%84%E7%9F%A5%E8%AD%98" より作成

勝他のため、とは?

>勝他のための議論はするつもりはありません。

これはどういう意味なんでしょうか?
私の書き込みは「勝他のため」であり
あなたの書き込みはそうではない、と言いたいのですか?

どういう基準で勝他が否かを判断されているのか
教えていただきたいものですね。



>a、善知識は完璧だ。間違いは絶対無い。
>b、善知識が間違った事を教えても、無条件で従うべきだ。

御聖教のどこにこういう問答があるんでしょうか?
教えていただけたら調べてお答えしますよ。


それから
「明師の、内外の律によくして、よく妨障を開除するを須ゐよ。
所聞の三昧の処において、世尊を視たてまつるがごとくにし、
嫌せず、恚せず、短・長を見ざれ。まさに肌肉を割きて、
師に供養すべし。いはんやまた余のものをや。
師に承事すること、僕の大家に奉るがごとくせよ。」の
往生要集のお言葉がa,bどちらの意味で言われているのかも
根拠を添えて教えてください。
是非、勉強してみたいと思います。

私はあなたの書いた御聖教の御文の解釈が
随分でたらめだから書いているだけです。
おわかり?

改邪鈔

>すでに説明しているにも関わらず、あえて無視されているので
>しょうか?
>単に国語力が無くて理解できないのでしょうか。「扱う」と「敬う」の違>いも分かられなかったようですから、仕方ないのかも知れません。


>> 「改邪鈔の御文のどこに 『知識を仏のように扱うのは浅ましいこと>>である』と書かれているのですか? 」と2回御聞きしたのですが

ちゃんと「扱う」と質問しておりますが。




改邪鈔に関しての返信は以下の2通です。
>Re: ついでに改邪鈔の御文の解釈
>Re: お返事ありがとうございます

どこを読んでも「改邪鈔のこの部分である」とは
書かれておりません。
したがってお答えいただいたとは言えないと思います。

「(御文章)と同じ主旨です。」
「『御文章』の説明と主旨は同じと書きました云々」では
答えになりません。
その御文章の解釈もおかしいので別に質問させていただいて
います。
御自分が出した御聖教の根拠でしょ。
標題が根拠ですか?

再度、質問いたします。
この改邪鈔の御文のどこに
「知識を仏のように扱うのは浅ましいことである」と
書かれているのですか?


善知識において、本尊のおもいをなすべき条、渇仰の至りにおいてはその理しかるべしといえども、それは仏智を次第相承しまします願力の信心、仏智よりもよおされて、仏智に帰属するところの一味なるを仰崇の分にてこそあれ、仏身・仏智を本体とおかずして、ただちに凡形の知識をおさえて「如来の色相と眼見せよ」とすすむらんこと、聖教の指説をはなれ、祖師の口伝にそむけり。本尊をはなれて、いずくのほどより知識は出現せるぞや。荒涼なり、髣髴なり。ただ実語をつたえて口授し、仏智をあらわして決得せしむる恩徳は、生身の如来にもあいかわらず、木像ものいわず経典くちなければ、つたえきかしむるところの恩徳をみみにたくわえん行者は、謝徳のおもいを専らにして、如来の代官と仰いであがむべきにてこそあれ、その知識のほかに別の仏なしということ、智者にわらわれ愚者をまよわすべきいいこれにあり、あさまし、あさまし。(改邪鈔)


全然、御存知ないようなので
少し教えてあげてもいいが
「その知識のほかに別の仏なしということ」とは
「仏は知識に宿っているから、知識が仏である。
本尊はいらない、必要ない」という異義を
秘事法門の者たちが言うのを破されたのです。
改邪鈔の御文をあげるなら改邪鈔講義ぐらい
読むことですね。

御文章

>しかし、善知識に無条件服従するということは、「一心一向に弥陀に>帰命したてまつるべし」に反することを言っても従うということに
>なります。無条件とは、そういうことです。これは、この文章の
>お言葉に反します。

あなたの理屈を聞いているのではありません。

>無条件服従するのは善知識ではなく、
>「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」の阿弥陀仏であります。
とは、この御文章のどこに書いてあるのでしょうか?

「無条件服従するのは善知識ではない」と
「ここに書いてある」とお答えいただければ結構です。

だいたい「一心帰命」というのは弥陀のひとり働きで
救われることであって
「善知識を仏のごとく扱う」とは違うことじゃないですか。

「善知識ばかりをたのむべし」は間違いとは
「善知識を信じてはいけない」ということですか?
「ただ善知識ばかりを本とすべきこと」が誤りというのは
「善知識を本とする」のはあやまりということですか?
日本語がわかる人ならそうは解釈しません。

再度申しますが
「無条件服従するのは善知識ではない」と
「ここに書いてある」とお答えいただければ結構です。

四依

>山辺赤沼両師を批判されているようですが、何を根拠に批判されているのですか?

「意を尽くしていない」と書いたのは、
教行信証講義は、あなたのような仏教のどしろうとにも
間違いなくわかるようには書かれていない、ということです。

浄土真宗教学研究所編『顕浄土真実教行証文類-現代語版-』
これも同じですね。

その証拠に
>山辺習学・赤沼智善著『教行信証講義』には、
>第一に「法に依る」とは、教説は十二部経あるが、
>これ等の教説を主として、人を主としてはならぬ。
>教説は純一ものであるが、それを伝える人柄には欠目のある
>ものである。人にとらえられずして、直ちに法の真髄を会得せよ。
>とあります。

四依の最後「了義経に依る」の解説には
「『了義経に依る』とは、円かに義理を説いた経説に依れ
というのである。
凡そ一切の智人の中、仏は第一に位する。
又、一切の書籍の中に仏法の書籍は第一位を占めるものである。
一切の道を修める人々の中で、仏法に随順している比丘僧が
第一である。
この比丘僧とは和合僧の意味で、仏法を人格の上に体現した人
すなわち万人の師表となる人をいう。
了義経とはこれらの三宝の言語をさすのである」とあります。

三宝を並べて、「了義経に依れ」と言われているのだが
あなたは「仏、法には絶対服従だが僧は違う」というわけだ。
初めの部分だけ読めば断章主義じゃないですか?
山辺先生赤沼先生を貶めているのはあなたですよ。

>善知識の説かれる「法」には従わなければなりません。
>しかし、それは「法」に従うのであって、「善知識という人間」に
>従うのではない、ということ主張しているのです。

ここら辺になると観念の遊戯ですね。
善知識に導かれないと「法」を知る事はできないのですよ。
いろんな教行信証講義を読んでみてください。
>石田瑞磨訳『親鸞全集 第二巻』
>星野元豊著『講解 教行信証 化身土の巻』
これらも「了義経に依る」まで読んでください。
違った内容が書いてあれば教えてください。
また勉強してみましょう。

教行信証徴決には
「人に依らざるとは、乃至、邪偽乗法の人に依らざれ。
『正見の人に依らざれ』というには非ず」

道隠師の「教行信証略讃」には
「人は理を行ず、非法を為す無きを『法』となり。乃至。
有法の人に依る、即ちこれ『法に依る』なり」

皆往院の講義や教行信証徴決、教行信証略讃というのは
東西本願寺を代表する教行信証講義です。
これぐらいは読んでから話してください。

「人に依らざれ」を「善知識、正見の人、有法の人に依らざれ」と
解釈している学者があれば教えてください。
また勉強してみたいと思います。

1週間ほど出張で書き込みできません。
その間にお答えいただければよろしいかと思います。
(3日ほど書き込みしないと『以後反論無し』と
でたらめな法論記録をアップする人があるので
悪しからず)

論点がずれています

どうも、議論がかみあっておりません。
私が、「善知識に無条件服従するのが間違いである」といっているのは、教えとは関係のないところまで無条件服従させることを間違いといっているのです。親鸞会を非難している人は、共通した意見です。
それを、善知識の説かれる”正しい教え”に従うことが間違いである、と私が主張しているかのようにいわれますので、議論になる訳がありません。「善知識の説かれる”正しい教え”に従う」、これを否定するつもりは全くありません。

親鸞会ではこのシリーズの一番最初に挙げた『御一代記聞書』の文章を使って、善知識から琵琶湖を埋めてこいと言われたら、はい、と従って琵琶湖を埋めにいかなければならないと教えています。親鸞会から発行されている『御一代記聞書』のこの部分には、「無条件服従」と標題が付けられています。この標題を付けたのは、高森会長と聞いていますし、無条件服従の完璧なトップダウンの組織ですから、高森会長の命名に間違いないでしょう。

また講師部員の聖則には、

一、会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
一、上司の指示は会長先生の命と心得ます。

とありますが、これも高森会長が考えたものと聞いていますし、そうでしょう。

この「会長先生のご指示に無条件で従い」が教えとは無関係なことに悪用されている例が多々あり、これが大問題なのです。

たとえば元講師部員の手記「私の白道」には、明らかに理不尽なことに対して、無条件服従をさせられていることが記されています。会長の息子が不倫をしていたという話がありましたが、その後始末は悲惨極まりないことです。世間の常識からも、仏教精神からしても、異常な後始末をして、それに無条件服従させていますが、これは完璧な間違いです。それとも、これを肯定されるのでしょうか。

また以前にも当ブログで紹介しました除名になった特専部員についてもそうです。方針がころころかわり、それに異議を唱えることもできずに、ひたすら黙って従わなければなりません。葉書の言葉1つでも、「無常佛」とあればそれを受け入れていかなければならない教えということが書かれてありましたが、こんなものが親鸞聖人の正しい教えである筈がありません。

親鸞会では、会長は完璧である、どんなことでも間違っていると思ってはならない、善知識の御心は計り難しなんだから、と徹底されています。親鸞会の幹部会員なら、誰でも知っている隠しようもない事実です。

以前に紹介した『歎異抄』の部分でいえば、千人を殺してきたら往生できる、と親鸞聖人から言われたならば、親鸞会ではそれに従わなければならないことになります。しかし、唯円は従わず、しかもそれでよいと親鸞聖人は仰っています。

正しい教えとそうでないもの、本来教えとは関係のないことを分けるのは当然なことです。

これを問題にしているのに、善知識の説かれている”正しい教え”に従うのが間違いであるかのように論点をすり替えているやり方は、親鸞会の今までの法論の歴史と全く同じです。

論点がずれた状態では、何を議論しても全くの無意味です。
それを勝他のための議論と申したのです。

おわかりでしょうか。

Re: 勝他のため、とは?

> どういう基準で勝他が否かを判断されているのか
> 教えていただきたいものですね。

貴方の考え方を示さずに、こちらの批判ばかりを目的とされているならば、勝他のためと判断されても仕方ないでしょう。

だから、貴方の考え方を示してください、と言っているのです。

貴方は、善知識は、絶対に間違ったことを言わないから、無条件で従え、と主張しているのか。

それとも、善知識が、間違ったことを言ったとしても、それに無条件で従え、と主張しているのか。

このように都合の悪いことを尋ねられると、逃げの一手で答えようとしない。


不完全な人間である、(仏以外の)善知識に無条件で従うことの誤りを、再三根拠を挙げて示してきました。

このような姿勢を貫かれるのであれば、勝他のための議論と判断せざると得ません。



なお、下記の御文は、「摩訶止観」の「九十日の行」の解説ですね。この「主人に奉つかえるように」というのは、感情面において、馬鹿にしたり、軽んじていけないという意味で、盲目的に無条件で服従せよという意味では無いでしょう。


「師に承事すること、僕の大家に奉るがごとくせよ。もし師において悪をなすときには、この三昧を求むるに、つひに得ること難し。」
(師には、下僕が主人に奉つかえるようにせよ。もし師に対して悪い感情を生じたならば、この三昧を求めても、結局は得ることが難しい。)



ところで、貴方の在籍していた親鸞会では、「九十日の行」の実践を勧めていたのですか?
もし、そうだとすれば、下記のことを実践されている親鸞会会員の皆さんは、さぞかし立派な方ばかりでしょうね。


「三月を終竟るまで、世間の想欲を念ふこと、弾指のあひだのごとくすることを得ざれ。三月終竟るまで、臥出すること弾指のあひだのごときも得ざれ。三月を終竟るまで、行じて休息することを得ざれ。坐食・左右をば除く。人のために経を説かんに、衣食を望むことを得ざれ。」
(三月を終わるまで、指を弾くほどのわずかのあいだでも世間の想いや望みを起こしてはならない。三月を終わるまで、指を弾くほどのわずかな間でも臥してはならぬ。三月を終わるまで、常に行道して、休むことがあってはならぬ。食事と用便の場合は、この限りではない。人のために経を説いても、衣食を望んではならぬ。)

※現代語訳はhttp://www.yamadera.info/より引用。

Re: 改邪鈔

> 再度、質問いたします。
> この改邪鈔の御文のどこに
> 「知識を仏のように扱うのは浅ましいことである」と
> 書かれているのですか?

私は標題を示した上で、本文を添えています。
標題だけでなく、本文は標題のようになる理由を書かれているので、当然全文が根拠となります。そのように書いたつもりですが。

善知識に無条件服従なら、善知識が最高無上ですから、善知識が仏であり、本尊であるという考え方と一緒ですね。
親鸞会では、高森会長の部屋が六字名号の真上にあると聞いたことがありますが、現実的な本尊は高森会長なのでしょう。実際に親鸞会では、「一向専念無量寿仏」になるには、「一向専念高森先生」にならなければならないと教えているようですから。

Re: 御文章

> 「無条件服従するのは善知識ではない」と
> 「ここに書いてある」とお答えいただければ結構です。

このような意味になることは、何度も説明させて頂いた通りです。
無条件服従という言葉で書いてあるところを出せというのであれば、そんな言葉は出てこないでしょう。

貴方の主張する、「無条件服従するのは善知識だ」と書かれている聖教がありますか?
「ここに書いてある」とお答えいただければ結構です。

Re: 四依

> 三宝を並べて、「了義経に依れ」と言われているのだが
> あなたは「仏、法には絶対服従だが僧は違う」というわけだ。
> 初めの部分だけ読めば断章主義じゃないですか?
> 山辺先生赤沼先生を貶めているのはあなたですよ。

先に述べた通りです。
僧に従って良いのは、三宝が一致するという条件を満たしたときに限ることが、この御文からも明らかになりましたね。

「一切衆生必堕無間」というとんでもない邪義や、琵琶湖の湖を埋めるというエピソードを出して、どんな理不尽な指示でも無条件で従えと教えている親鸞会の誤りが、ますますハッキリしました。


> ここら辺になると観念の遊戯ですね。
> 善知識に導かれないと「法」を知る事はできないのですよ。

当たり前のことです。
善知識に導かれることと、無条件服従することは違います。先に書いた通りです。

古い論文にいつまでこだわっているの

頭の悪い「M野氏ではないyo」 へ

前にも書きましたが、現代の本願寺教学は、過去の論文を踏まえているのです。当たり前のことでしょう。

ここ30年程の本願寺学者の論文を読めば、あなたのいう論文は網羅されているのが理解できないのでしょうかね。

物理学において、ニュートンの論文を読んでいないのか、と非難しているようなものです。現代の物理学はニュートン理論を踏まえて、間違った所を新たな理論を打ち立てて成り立っているのです。

オレはニュートンの論文を読んでいるだ、と自慢することの愚かさを知りなさい。

無条件服従はカルト

頭の悪い「M野氏ではないyo」 へ

管理人さんがいわれているように、論点のすり替えが行なわれていますね。
全てのことにおいて無条件服従せよ、これが親鸞会の教えの根幹です。私もこれに苦しめられました。様々な理不尽なことが、教えとどのように関係があるのかと講師部員に尋ねても、会長のいうことは絶対に正しいのだから、心の底よりハイと信順したときに救われるのだ、と聞かされ続けました。

今考えれば、完全に狂ったカルトの教えなのですが、会にいるときは、これが正しい親鸞聖人の教えなのだと思い込まされていました。

それが、このブログを読んで初めて間違いであることに気が付き、退会できたのです。

あなたは、親鸞会のカルトの教えが明らかに間違っていることを知りながら、擁護するのはなぜですか。

保身のためなのでしょうが、論点をすり替えて、都合のいい過去の論文を探し出してきて、会員を騙そうという考えが明白です。

謗法罪を造ることを、どう思っているのですか。いい加減にしておきなさい。

善知識も間違いを犯します

善知識も人ですから、間違いを犯します。
親鸞聖人しかりです。

その根拠として「法に依りて人に依らざるべし」さんが挙げられた『散善義』のお言葉を読んだのですか?

下らない理屈をかく暇があれば、本願寺教学を勉強せよ。

四依について

M野氏ではないyo へ

あなたの意見、

「善知識に依って、邪義のひとによるな」という意味で
普通解釈されていると思います。
あなたのように
「釈尊が説かれた教えに従うのであって、教えを説く人に従うのではない」と解釈している学者の名前をあげて教えていただけますか。
それとも御自分独自の解釈ですか?

とあるのに対して、管理人さんと、元幹部会員さんが

浄土真宗教学研究所編『顕浄土真実教行証文類-現代語版-』

 『大智度論』に、四つの依りどころについて次のようにいわれている。
 「釈尊がまさにこの世から去ろうとなされるとき、比丘たちに仰せになった。今日からは、教えを依りどころとし、説く人に依ってはならない。
(中略)
 教えを依りどころとするとは、仏の説いた教えには十二部経があり、この教えにしたがうべきであって、説く人にしたがってはならないということである。


山辺習学・赤沼智善著『教行信証講義』

第一に「法に依る」とは、教説は十二部経あるが、これ等の教説を主として、人を主としてはならぬ。教説は純一ものであるが、
それを伝える人柄には欠目のあるものである。人にとらえられずして、直ちに法の真髄を会得せよ。


石田瑞磨訳『親鸞全集 第二巻』

『大智度論』に四つの依りどころ(四依)について注釈して、
仏は入滅されようとしたとき、比丘たちに語ってこう仰せられた。
「今日よりきみたちは、教え(法)を依りどころとして、それを説く人を依りどころとしないだろう。
(中略)
教えに依るとは、その教えに十二部の類別があるが、この教えにしたがって、これを説く人にしたがわないだろうということである。


星野元豊著『講解 教行信証 化身土の巻』

竜樹菩薩は『大智度論』において修道者の依るべき教訓として四つあることを説いている。釈尊が涅槃に入ろうとされるとき、
もろもろの比丘たちに語られた。お前たちは今日からはまず第一にどこまでも教法に依りどころをもとめるべきであって、
人に依ってはならない。
(中略)
法に依るというのは、仏の教説は十二部に分類されているが、いずれも仏の教説に従うべきであって、その教説を説く人に
随ってはならない。人ということになると、人によってその説き方なり、解釈の相違も出てくるであろうから、人に随ってはならない。


と明確な反証を出されたのです。それをそういう意味ではないだのなんだかんだと屁理屈を付けているのは、極めてみっともないですね。
これをまず認めた上での反論でしょう。
後の部分と直接関係していないことは、日本語の分かる人なら理解できるでしょう。

管理人さんから勝他のための議論といわれていますが、まさにその通りです。

このブログは、親鸞会教義の誤りを指摘したものですから、親鸞会教義が正しいという前提であなたが主張されるのならば、その根拠を挙げるべきでしょうね。ひょっとしてそれが『往生要集』でしたか。

ドシロウトの根拠で、とんだお笑いですね。

親鸞会が無条件服従を肯定している根拠

「21世紀の浄土真宗を考える会」に関連することが書かれてあります。

知識帰命説に関する梯師の論文紹介+α
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-201.html#comment308

以下抜粋
----------------------------
「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで
 ~本願寺と類するものの批難に答える~
 (16)無条件服従について(親鸞会への大きな誤解3)より
 善知識の言葉(仏説)に無条件に「ハイ」と従ったときが、弥陀の本願を聞いて助かったときです。ここが決勝点であり、ゴールです。
(中略)
 求道とは、本当の仏教を説く善知識の言葉を「ハイ」と聞かせて頂くところまで進む道程です。
----------------------------

これに対するコメントがピーさんからありました。

----------------------------
この文章は、最初は以下のように書かれていました。

(ここから)

 善知識の言葉に無条件に「ハイ」と従ったときが、弥陀の本願を聞いて助かったときです。ここが決勝点であり、ゴールです。
 この決勝点を教えられたのが、蓮如上人の次のお言葉です。

○善知識の仰なりとも「成るまじき」なんど思うは大なる浅間しき事なり。然れば「道宗、近江の湖を一人して埋めよ」と仰せ候とも「畏まりたる」と申すべく候。(蓮如上人『御一代記聞書』)

 善知識が「近江の湖(琵琶湖)を一人で埋めよ」と言われたら、「ハイ、かしこまりました」と言うべきである、と教えられています。善知識の言葉を「ハイ」と聞いたときが、救われたときです。


 だから、親鸞会でも、その通り教えられているのです。

(ここまで)

 ところが2chで以下のように批判され、こっそり修正したのです。
 参照…http://seaglet.sakura.ne.jp/2ch/1180483117.html

(ここから)

 これ、蓮如上人のお言葉でないだろ。実悟法師の言葉のはず。
「近江の湖を一人して…」は道宗自身の言葉。
 この文章に、蓮如上人のお言葉は一つもない。

 善知識の言葉を「ハイ」と聞いたときが、救われたとき、と教えるのが親鸞会。
 阿弥陀仏の呼び声を「ハイ」と聞いたときが、救われたとき、と教えるのが浄土真宗。

 善知識だのみの異安心確定。

(ここまで)


[2009/10/20 20:02] URL | ピー
----------------------------

親鸞会の間違いを明らかにしてください

M野さんへ

私は、以前にM野さんの2chでの書き込みをみて、親鸞会の間違いに気が付き、退会した者です。

M野さんのコメントは素晴らしいです。親鸞会を擁護するふりをして、親鸞会の間違いを明らかにされているとは。ソイフルさんも凄いけど、M野さんはもっと凄いです。

四依の解釈では、教えが間違っているから、高森会長に依ってはならないと間接的にいわれているのですね。全く同感です。

改邪鈔の解釈では、会長が、自分と阿弥陀仏が一直線上にあると会員に思うように仕向けていることを批判されたのですね。明快です。

五重の義の御文章の解釈は、教え以外のところまで無条件服従させる会長のおかしな思想を炙り出しているのですね。軍隊で嫌な思いをしたことを自分が会員にさせているといいたいのですね。流石です。

ソイフルさんに、もっとはっきり説明させるための作戦とは、なかなか気が付きませんでした。お見事です。

私も善知識への無条件服従が最後まで、理解できなかったところでした。善知識の正しい教えに従うのは当然ですが、思いつきでいろいろのことを従わされて振り回されるのが、本当に求道なのかと疑問を持っていましたが、教えとそうでない部分を切り離せばよく理解できます。

教えと何等関係のないことまで無条件服従させて、軍隊ごっこに付きあわされていたことが、M野さんのコメントでよくわかりました。

これでマインドコントロールから、また少し解放された気がします。

これからも頑張って親鸞会の邪を正して下さい。

善知識への無条件服従が正しい筈がない

M野氏ではないyo さんへ

もう少しまともな議論をして下さい。
完璧どころか思いつきの高森会長に、無条件服従することと、阿弥陀仏との救いとどんな関係があるのでしょうか。

貴殿のいわれることは、ころころ変わるし、へんてこな理屈を付けて駄々をこねてばかりで、貴殿と高森会長が重なって見えます。

ソイフルさんが言われているように、善知識の正しい教えに従うのは正しいことです。しかし、欠け目のある人間は間違うことがありますので、人に従ってはならないのは、当然なことでしょう。

阿弥陀仏と善知識を同じに見ることも、誰が見ても間違いです。もし、それが正しいというのであれば、その根拠を示すべきです。絶対に示せないでしょう、ないのだから。

>a、善知識は完璧だ。間違いは絶対無い。
>b、善知識が間違った事を教えても、無条件で従うべきだ。

どちらも間違いであると根拠があげられています。
貴殿がどんな詭弁を弄しようが、共に間違いであることを認めなさい。
その上での議論でしょう。

ソイフルさんも、いつまでも相手にしないで下さい。
時間と労力の無駄です。アクセス禁止にするか、コメントを削除してください。

善知識は完璧ではない

M野氏ではないyo様

基本的なことが分かっていないようですね。

阿弥陀仏       完璧          帰命せよ
仏           完璧         従いなさい
(仏でない)善知識 正しい教え      従いなさい
             間違った教え     尋ねなさい
             教えと無関係なこと 従う必要はない

こういうことでしょ。

親鸞会では、

善知識高森会長  正しい教え      従いなさい
            間違った教え     ある筈がないから従いなさい
            教えと無関係なこと 思考停止して従いなさい

善知識に無条件服従せよ、ということは、間違った教え、教えとは無関係なことも、すべて正しいと信じて思考停止して服従せよ、になりますよ。そんなことを貴方は主張するのですか。
それとも、善知識は仏と同じで完璧だと思っているのでしょうか。
善知識が完璧でない根拠は、いくつか挙げられていますよ。

だから、

【四依】
法に依りて人に依らざるべし

【改邪鈔】
知識をあがむるをもって弥陀如来に擬し、知識所居の当体をもって別願真実の報土とすという、いわれなき事。

【御文章】
「たとい弥陀に帰命すというとも、善知識なくは、いたずらごとなり。このゆえに、われらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と云々。これも、うつくしく当流の信心をえざるひとなりときこえたり。

は、管理人さんの解釈で全く矛盾しないのです。
それを、訳の分からない理屈を書き並べて、なんとか管理人さんの負けを引きだそうと必至になっている、それが勝他の議論というのですよ。

教行信証信巻に涅槃経を引文されて、

「またこの六部の経を受け已りて、論議のためのゆえに、勝他のためのゆえに、利養のためのゆえに、諸有のためのゆえに、持読誦説せん。このゆえに名づけて「聞不具足」とす、とのたまえり。」

とありますが、これは貴方のことですよ。

M野さんにお伝え下さい

M野氏ではないyo さんへ

M野さんに以下のことをお伝え下さい。

「苦笑の独り言」より
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/

【お知らせ】Hiroshi Makino氏が淀川コナン氏からトンズラしました。

「苦笑の独り言」をご覧の皆様へ

Hiroshi Makino氏が、今度は淀川コナン氏からトンズラしました。

以下、淀川コナン氏からの投稿です。
 ↓ ↓ ↓

管理人様へ。
宣言通りコメントします。
管理人様が噂通りのMさんならば残念です。
Mさんには大変お世話になり、尊敬をしておりました。
私とのやり取り(改変されていますが)を削除されたので、このコメントも不掲載にせざるを得ないでしょう。
管理人様から頂いた質問には以下のブログに回答しました。

「苦笑の独り言」
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/

その中の10月13日の記事
「今度もショウモナイ言い訳でトンズラですか(苦笑)」

のコメント欄10月14日「淀川コナン」で回答しております。
是非とも返答お願い致します。(苦笑氏のコメント欄で結構です)
HNは「TAXI」でも「ちび丸」でも、なんでも構いません。
お忙しいでしょうから一週間以内(10月24日AM8:00まで)にご返答願います。
もしもご返答なければ、このコメントを公表します。

以上の内容を「辛口!真宗時評」に10月16日夜にコメントしましたが、管理人からは返答がありません。
予告通り公表します。

淀川コナン。

改邪鈔

改邪鈔のお言葉を、管理人さんは標題を使って、知識を阿弥陀仏に見立てて崇めることの間違いを説明されたのです。
それをM野氏が、本来はそういう背景で仰ったのではないとかみ付いただけのことですね。

だから何なの?

M野氏は、趣旨から外れたことを盛んに言い続けて、勝他のための議論を展開しているだけでしょ。
管理人さんがいわれたいことは、親鸞会のように知識を阿弥陀仏と同一視して無条件服従させていることの問題を明らかにされたのであって、背景がどうだと言う問題ではないです。
覚如上人の仰りたかったところを管理人さんはこのように表現されただけです。
管理人さんも背景については当然知ってらしたのでしょうから、M野氏の質問に直接答えずに、標題を元に本文の理由を付けたと説明されたのでしょうね。

とにかくM野氏は下らないことをいつまで続けるつもりなのでしょうかね。1週間と言わずに、永久に戻って来ないことを願います。

もし戻って来ても、管理人さんは相手にしないでください。親鸞会教義の誤りをどんどん明らかにしてください。

No title

M野氏ではないyo さん

結局、学者の説を振り翳しているだけで、ブログの趣旨と外れたことを延々書いて、自分の間違いを指摘されると、すぐに説明を修正するの繰り返しで、中身が伴っていませんね。

7年前の講師部粛清合宿で、魂を抜かれてしまったのでしょうが、あれを本気で正当化しようと思われているのでしょうか。あの会長の指示に従って獲信できると本気で思っているのでしょうか。

だとすれば、終わっていますね。何を言っても無駄でしょう。

ピーさん、ソイフルさんや他の方が仰っているように、以下の質問に答えて下さい。

1、善知識であっても、仏ではないから、間違いを犯すこともある。
2、「無条件服従」と言った場合は、その間違った教えにも従うことになるが、それは誤りである。

 1と2の、どちらに問題があるとお考えでしょうか?


 別の言い方で確認しますと、

a、善知識は完璧だ。間違いは絶対無い。
b、善知識が間違った事を教えても、無条件で従うべきだ。

 あなたは、aとbのどちらの意見でしょうか?

ここから外れた話をいくらしても、ナンセンスです。
答えられない、答える気がないのならば、荒らさないで下さい。

M野氏ではないyo さん、答えて下さい

M野氏ではないyo さんへ

皆さんが尋ねられている以下の問いに答えて下さい。
答えにくいでしょうから、具体例を追加しておきました。

1、善知識であっても、仏ではないから、間違いを犯すこともある。
2、「無条件服従」と言った場合は、その間違った教えにも従うことになるが、それは誤りである。

 1と2の、どちらに問題があるとお考えでしょうか?


 別の言い方で確認しますと、

a、善知識は完璧だ。間違いは絶対無い。
b、善知識が間違った事を教えても、無条件で従うべきだ。

 あなたは、aとbのどちらの意見でしょうか?

具体例
礼状に、「無上佛」とすべきところを「無常佛」と秘書が書いていたものに署名をした会長について

イ)会長は完璧だ。「無常佛」で間違いないのを、秘書が訂正の葉書を出したのはけしからんことだ。
ロ)会長が「無常佛」と間違えたとしても、それをそのまま受け取るべきで、これを問題視した局長も、訂正した秘書も、尋ねた特専部員も姿勢が狂っている。

 あなたは、イとロのどちらの意見でしょうか?

法に依りて人に依らざるべし

頭の悪い「M野氏ではないyo」はよく読むように

某巨大掲示板より

高森親鸞会の会員の方へ

高森顕徹氏を「生きる目的」を告げる唯一無二の善知識と仰ぐのならば善知識という言葉の概念くらいは学ぼうよ。
阿難は偉大なる善知識であるブッダに常随していたが為に、ブッダの生存中に悟りを開けなかったといわれている。

http://wikidharma.org/4ae4736da2f7d
無量寿経にも仏弟子の最後に阿難が記されているけど、阿難が釈尊存命中に悟りを得る事が出来なかったという事は初期仏教教団の共通認識だ。

なぜ阿難が善知識であるブッダに常随しながら悟り(真宗では信心獲得)を得られなかったのかといえば、阿難はブッダの説く言葉を見るだけで、ブッダをブッダたらしめている、ブッダの法を見なかったのだな。

善知識頼みの怖さは、高森顕徹という人間の異常な人格に押されてしまって、彼の説く異常な教義に疑問を持たなくなるという事だろう。

仏教には「人惑を受けるな」という言葉があるが、法を見ずに人を見ている人への警告なのだろうな。
「人を見るな、人を超えて法を見よ」。これを仏教では「法によって人によらず」というのだが、高森親鸞会の人には理解不能かもな。

これも読んでおけ

頭の悪い「M野氏ではないyo」 へ

これも読んでおけ。

法を見るものはわれを見る
http://www.hongwan.net/index.php/%E6%B3%95%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%82%8B

出典: Book
移動: ナビゲーション, 検索
 『如是語経』の第九二経、『和合衣』と題せられるものは、ほんの短文にすぎぬが、これもわたしにとっては、もっとも感銘ふかい経の一つである。それは、何処で、何人に対して説かれたものであるかも知られないが、その全文は、つぎのごとくである。

「比丘たちよ、たとい比丘が、わたしの和合衣の裳(もすそ)を執り、後より随行して、わたしの足跡を踏もうとも、もし彼が、はげしい欲望をいだき、欲望のために、激情を抱き、瞋恚をいだき、邪(よこし)まの思惟にかられ、放逸にして知解なく、いつまでも惑うてあるならば、彼はわたしから遠く離れてあり、またわたしは彼から遠く離れてあるのである。そのゆえんは何であろうか。比丘たちよ、かの比丘は法を見ず、法を見ざる者はわたしを見ないからである」
 それは、静かな、おだやかな調子で語られている。だが、そのおだやかなことばの内容は、じっと味わってみると、妥協いやしくもせざる厳しさにあふれている。「法を見ざる者は、われを見ざるなり」釈尊の道にしたがうものにとって、これほど厳しいことばはない。わたしどもは、時に寺に詣ずることをもって、仏教者であると称することを得るであろうか。このことばのまえに立つものは、断じて「否」と答えなければならぬ。またわたしどもは、時に看経(かんきん)するのゆえをもって、仏の道をゆくものと称することを得るであろうか。このことばの厳しさにふれることを得たものは、即座に「然らず」と答うるの外はない。さらにまたわたしどもは、しばしば仏前に合掌するのゆえをもって、われは仏弟子なりと称することもできぬであろう。なんとなれば、たとい釈尊その人の和合衣のもすそを執って随行しようとも、よく法を見ることなきものはわれを見ざる者であると誡(いまし)めているからである。

 ではわたしどもは、いかにすることによって、よく真の仏弟子となり、よくまことの仏教者たりうるのであろうか。そのことにつき、この経における釈尊のことばは、つぎのように語りつがれている。

「また比丘たちよ、たとい比丘が、わたしを去ること百由旬(由旬 yojana とは距離の単位、四十里または三十里、あるいは十六里にあたるという)のかなたに住すとも、もし彼が、はげしい欲望をいだかず、欲望のために激情をいだくこともなく、瞋恚をいだくこともなく、よこしまの思惟にかられることもなく、不放逸にしてよく知解し、道心堅固にして、よく一境に心をとどむることをうるならば、則ち彼は、わたしの近くにあるのであり、またわたしは、彼の近くにいるのである。そのゆえんは何であろうか。比丘たちよ、かの比丘は法を見るものであり、法を見るものはわたしを見るからである」
 これはまた、わたしどもにとっては、まことに心の暖まる師のことばであると申すことができよう。わたしどもは、時も処も、師の釈尊を去ることはなはだ遠い。時はすでに、釈尊とわたしどもの間には二千幾百年をへだて、処としては、わたしどもは縁うすくして、仏跡の一つをもいまだに拝したことはない。だが、この経においては、師は「たとい互いに隔たること遠くとも、よく法を見るものは、わたしのすぐ傍にいるのである」と説いている。それはわたしどもにとって、まことに嬉しいことばである。わたしどもは、たとい時処において隔たること幾千年、幾千里であろうとも、よく師の教法を解し、よく師の教法に随順することによって、師はわたしどものすぐ傍にいるのである。「法を見る者は、われを見るのであり、われを見る者は、法を見るのである」そこにわたしどもは、心あたたまる仏教的情緒の存することを、ふかく味わってみるべきである。

増谷文雄著『仏陀』角川選書二七五頁

"http://www.hongwan.net/index.php/%E6%B3%95%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%82%8B" より作成

1週間ぶりに来てみましたが

>議論がかみあっておりません。

そう思います。全然質問に答えてもらっておりません。
私は「絶対服従がよい」とか「悪い」とか全然言っておりません。
御聖教の御文の解釈がどうしてそういう解釈になるのか
御聞きしているのです。

あなたの書いた文章です。
「たとえ正しい教えを説かれているとしても、知識は、阿弥陀仏ではありませんし、仏でもありません。知識を仏のように扱うのは浅ましいことであると『教えられています。』」


「改邪鈔に『教えられています』」と書かれているので
「どこに書かれているのですか」とお尋ねしても
「全体である」というお答えでした。
>当然全文が根拠となります。そのように書いたつもりですが。
ですから、間違いないですよね。


あいにく私はこの御文を「知識を仏のように扱うのは浅ましいことである」と解釈した学者を知りません。
新しい説だと思いますので全文を解釈して
「知識を仏のように扱うのは浅ましいことである」と改邪鈔に
書いてあると、明らかにしていただけますか。

学者の解釈があればそれをあげていただいてもいいですよ。




御文章

>このような意味になることは、何度も説明させて頂いた通りです。

あなたがされた「説明」とはこれですか?

>この文章では、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と
>説くのが、善知識の仕事であると教えられています。
>「帰命」とは「その勅命に信じ順う」ということです。
>だから、阿弥陀仏に無条件服従せよ、というなら理解できますし、>「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」という言葉に従え、
>というのなら分かります。
>しかし、善知識に無条件服従するということは、
>「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」に反することを
>言っても従うということになります。無条件とは、そういうことです。
>これは、この文章のお言葉に反します。

随分、矛盾したことを書かれていますが。

>「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と説くのが、善知識の仕事であると教えられています。
>しかし、善知識に無条件服従するということは、
>「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」に反することを
>言っても従うということになります。

「『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』に反することを言う」人は
善知識なんでしょうか。
御文章にはどう書いてあるんですか?

四依

>僧に従って良いのは、三宝が一致するという条件を満たしたときに限ることが、この御文からも明らかになりましたね。

四依の御文のどこの箇所をさして
言われているのでしょうか?

>先に述べた通りです。

どこに書いてあるのかコピペで結構ですから
示してください。

善のすすめ

>ところで、貴方の在籍していた親鸞会では、「九十日の行」の実践を勧めていたのですか?

随分昔のことなので、今は知りませんがそういうお話は
御聞きしたことがありません。
諸行は応病与薬ですから。
往生要集の善の勧めが、阿弥陀仏の本願に反するわけは
ありませんから、実践されればいいんじゃないでしょうか。

>諸善は、実行させるために説かれたのではなく、捨てるために説かれた、と善知識方が繰り返し仰っておられるのに

これもひどい間違いですね。
自力他力をさしおいて「諸行を捨てて正行をせよ」というのは
真宗の教えではない、との改邪鈔に教えられていますよ。
学者の説明が必要ならそれもあげましょう。
あなたのように「全体が根拠」なんてことは言いません。


しかるをいま風聞の説のごとくんば、「三経一論について文証をたづねあきらむるにおよばず、ただ自由の妄義をたてて信心の沙汰をさしおきて、起行の篇をもつて、「まづ雑行をさしおきて正行を修すべし」とすすむ」と[云々]。
これをもつて一流の至要とするにや。この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。(改邪鈔)

このやりとりは全部保存しています。
終わったらアップするつもりですから悪しからず。

追加

>私が、「善知識に無条件服従するのが間違いである」といっているのは、教えとは関係のないところまで無条件服従させることを間違いといっているのです。

そういうことが、改邪鈔の御文のどこに
書かれているのか、御聞きしたいために
全文の解釈をお願いしております。
「根拠は全文」と言われたのはあなたです。
解釈もできないのに根拠にあげられたわけでも
ありますまい。

勝他のための議論は致しません

繰り返し述べましたように私の立場は、善知識(皮肉も含まれる)が正しい教えを説かれていればその教えに従うのは当然なことでありますが、他の方もコメントされているように人間である以上間違いを犯します。その間違いや教えとは無関係なことまで無条件に服従させることが間違いと主張するものです。これまでの主張は、何等矛盾ところはありません。

一方で、賢明な読者の方ならお分かりと思いますが、「M野氏ではないyo」氏は、批判のための批判に終始しています。これを勝他の議論と申しました。「無条件服従が正しいのだ。根拠はこれだ。」と主張するならばまだしも、「無条件服従という教えは無い」という結論には反論できないようで、何のために書き込んでいるかさえ不明です。

これは荒らし行為としか解釈できませんので、これ以上の返答は無意味と判断いたします。悪しからずご了承ください。
また、駄々をこねる小学生のような発言を続ける「M野氏ではないyo」氏の書き込みは、他の読者の迷惑になりますので、今後お断りさせて頂きます。

私の主張と読者の主張は、コメントを読まれればお分かり頂けると思いますので、そのまま保存しておきます。既に申し上げましたように、「M野氏ではないyo」氏が書き込まれました当ブログと関係のない苦笑氏へのコメントは削除しておりますが、それ以外については今後も、どこかのブログ管理人のように改竄、削除するという卑怯なことは致しません。

なお、新たな話題として善の勧めについて書かれていましたが、正直意味が分かりません。一言だけ申しますと、「M野氏ではないyo」氏は、権仮方便ということが全く分かっていないのでしょう。賢明な読者は参考までに下記を読まれることをお勧めします。

「21世紀の浄土真宗を考える会」
方便
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-121.html
「化身土文類」の意味 補足説明
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-226.html

「用管窺天記」
自業自得の救済論
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2009/10/29/%e8%87%aa%e6%a5%ad%e8%87%aa%e5%be%97%e3%81%ae%e6%95%91%e6%b8%88%e8%ab%96/

頭の悪い「M野氏ではないyo」へ 四依の解釈

頭の悪い「M野氏ではないyo」へ

四依の御文をよく読んでおけ。

『大論』(大智度論)に四依を釈して云わく、涅槃に入りなんとせし時、もろもろの比丘に語りたまわく、「今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし」と。「法に依る」とは、法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。「義に依る」とは、義の中に好悪・罪福・虚実を諍うことなし。かるがゆえに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人、指をもって月を指う、もって我を示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人、語りて言わん、「我指をもって月を指う、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるや」と。これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもってのゆえに、語に依るべからず。「依智」とは、智はよく善悪を籌量し分別す。識は常に楽を求む、正要に入らず、このゆえに「不応依識」と言えり。「依了義経」とは、一切智人います、仏第一なり。一切諸経書の中に仏法第一なり。一切衆の中に比丘僧第一なり。無仏世の衆生を、仏、これを重罪としたまえり、見仏の善根を種えざる人なり、と。


この解説を星野元豊著『講釈 教行信証』では、

 竜樹菩薩は『大智度論』において修行者の依るべき教訓として四つあることを説いている。釈尊が涅槃に入ろうとされるとき、もろもろの比丘たちに語られた。お前たちは今日からはまず第一にどこまでも教法に依りどころを求めるべきであって、人に依ってはならない。第二に教法の意味道理によるべきであって、単なる表面上の語句に依ってはならない。第三には、智慧に依るべきであって情識に依るべきではない。「識」には「シルニ」の左訓がなされている。理性的概念的な知識の意味であろう。仏教における真実の智慧と単なる概念的知識とは本質的に異なっている。更に智慧は感情とも異なっている。ここは智慧に依るべきで概念や感情に左右されるなといわれているのである。第四には了義経(教の義理を完全にあらわしている経典)によるべきであって、不了義経(不完全な経典)によってはならない。
 法に依るというのは、仏の教説は十二部に分類されているが、いずれにしても仏の教説に従うべきであって、その教説を説く人に従ってはならない。人ということになると、人によってその説き方なり、解釈の相違も出てくるであろうから、人に随ってはならない。
 義に依れということはどういうことかといえば、そもそも意味・論理の中に好きとか嫌いとか、罪悪とか福徳とか、虚偽とか真実とかをあらそうことはない。意味・論理にはそのような争いの対立はない。言語というものはすでに意味・論理というものを表わすことを目指したものである。意味・論理はそのまま即言語ではない。たとえば人が指で月を指して私に教えるばあい、指だけを視て月をみないならばその人はいうであろう。わたしは指で月を指してあなたに教えているのに、あなたはどうして指を見て肝心の月をみようとしないのですかと。いまそれと同じで、言葉というものは、その意味を指す指のようなものである。言葉は意味ではない。だから言葉にとらわれてはならないのである。
 第三に智に依るというのは、智慧はよくものの善悪をはかって分別するものである。それに対して心情的なものは常にただ楽しみのみを求めるものである。それで生死を出離するという正しい肝心なことに気付かぬのである。それであるから識(心情的なもの)によるべからず、智慧に依らねばならぬといっているのである。
 了義経に依るということは、完全な教を説いた経典に依れということであるが、その次の「一切智人います仏第一なり。…」とどのように続くのであろうか。おそらくいろいろな智者といわれる人はいるが、それらの中で仏は第一である。だから仏の説いた了義経は第一にすぐれた完全なものであるという意味であろう。それだからまた経典といわれているものは多いが、仏法の経典は第一位に位するものである。いろいろな人のいるなかで無仏の世の人たちを仏は重罪の者でるとされた。何故ならそれらは仏を身たてまつるという善根を植えない人たちであるからである。この無仏の世の人たちについての文は理解しにくいが、親鸞の意をくんで解してみよう。無仏の世は末世であり、そこに生を享けた人は不幸な人たちといわねばならない。見仏の善根のないいわゆる無宿善の機である。無仏の世はこのような仏をみる機会がない。仏を見ない者は真実を見ない者である。真実を知らないから、自己の真実がいかなるものであるかも知らない。自己を知らないから自己が仏によって在らしめられていることを知らない、あくまでも自主独立的に在ると思っている。それは全く仏に背いた者として重罪といわれるに値するであろう。いまここでは、第一の智人たる仏と衆生中の第一の比丘僧と重罪無宿善の者の三者があげられている。文章の上からいえば、「了義経とは…」とあるから、了義経の説明といわねばならない。とすれば、了義経の第一は一切智人のうちの第一の仏の説いた経であり、仏法第一であるから、仏法の説かれている仏教経典が了義経であることを示したものであるといえよう。そしてこの了義経によって修道する比丘僧は衆生中の第一であり、仏について知らない者、換言すれば了義経を知らない者は重罪の者であるということである。
 それであるから末代の出家や在家の人たちはよくこの四依を知って、心して道を求め法を修すべきである、と結ばれている。


とある。
「M野氏ではないyo」は、「義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし」の反対のことをやっているのが分からないのだろうね。

指を見て月をみていない、まさに「M野氏ではないyo」のことだよ。

下らないことにこだわって、いつまでもみっともないことを続けているんじゃないよ。

頭の悪い「M野氏ではないyo」へ 善のすすめ?

頭の悪い「M野氏ではないyo」へ

『改邪鈔』のお言葉で、善のすすめがあるって!!
驚きです。
信心が大事という話でしょ。
断章取義なのか、単に読解力がないだけなのか。
現代語訳を付けておいたから、よく読め。

(原文)
 一 一向専修の名言をさきとして、仏智の不思議をもって報土往生をとぐるいわれをば、その沙汰におよばざる、いわれなき事。

 それ本願の三信心と云うは、至心・信楽・欲生これなり。まさしく願成就したまうには、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」とらとけり。この文について、凡夫往生の得否は乃至一念発起の時分なり。このとき願力をもって往生決得すと云うは、すなわち摂取不捨のときなり。もし『観経義』によらば、「安心定得」といえる御釈、これなり。また『小経』によらば、「一心不乱」ととける、これなり。しかれば、祖師聖人御相承弘通の一流の肝要、これにあり。ここをしらざるをもって他門とし、これを知れるをもって御門弟のしるしとす。そのほか、かならずしも外相において、一向専修行者のしるしをあらわすべきゆえなし。しかるをいま風聞の説のごとくんば、三経一論について文証をたずねあきらむるにおよばず、ただ自由の妄義をたてて信心の沙汰をさしおきて、起行の篇をもって、まず雑行をさきおきて正行を修すべしとすすむと云。 これをもって一流の至要とするにや。この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。正行五種のうちに、第四の称名をもって正定業とすぐりとり、余の四種をば助業といえり。正定業たる称名念仏をもって往生浄土の正因とはからいつのるすら、なおもて凡夫自力のくわだてなれば、報土往生はかなうべからずと云々。そのゆえは、願力の不思議をしらざるによりてなり。当教の肝要、凡夫のはからいをやめて、ただ摂取不捨の大益をあおぐものなり。起行をもって一向専修の名言をたつというとも、他力の安心、決得せずんば、祖師の御己証を相続するにあらざるべし。宿善もし開発の機ならば、いかなる卑劣の輩も願力の信心をたくわえつべし。しるべし。



現代語訳

 一 「一向専修」という名称を重んじて、思惟を超えた仏の智慧の不思議なはたらきによって、真実の浄土に生れることができるという道理に留意しないことは、理由がないということ。

 いったい、本願に誓われた三つの信心というのは、至心・信楽・欲生のこの三つである。願を成就されたことを示す箇所には、正しく「そのみ名を聞いて信心の喜びにあふれ、ないしはただの一声でも念仏を称えるならば、」などと説かれている。この文について、愚かなひとが浄土に生れることができるかできないかは、一声の念仏を称えようとする信心を起す、その時に決定するのであって、この時、仏のお誓いののはたらきによって浄土に生れることが決定するというのは、それがとりもなおさず、仏が救いとってお放しにならない時だからである。もし『観経疏』によれば、「心がきまれば、かならず浄土に生れる」というご解釈が、すなわちこれに当る。また『阿弥陀経』によれば、「一心不乱」と説いているものが、これである。したがって祖師聖人が師よりあい伝え、そして弟子に説き広められた教えの眼目はここにあるのである。ここの所を知らないのを他宗とし、これを知っていることでもってご門弟のしるしとする。このほかにかならずしも外見のすがたによって一向専修の念仏者であるというしるしを表さなければならない理由はない。それなのに、いま風のたよりに聞く言葉のとおりとすれば、「これを浄土の三部経と『浄土論』にてらして証拠の文を探し求め、これを明らかにする必要はない。ただ自由気ままに妄説を立ててよいので、信心についてとかくの論議をすることはあとにし、起行のことだけを取り上げて、まず浄土に生まれるための念仏だけを修め、念仏以外のさまざまな行はやめなければならないと勧める」ということであるが、これをもってその流派の肝要とするのであろうか。このことは、広くは真宗の、一を立て他を廃する説に背き、狭くは祖師聖人の遺訓にさからっている。すなわち五種の正行のうちから、第四の称名念仏をもって正定業として選びとり、そのほかの四種をば助業というが、しかし正定業である称名念仏をもって浄土に生れる直接の原因であると考え、その思いがこうずることさえ、なお愚かなひとの自力のくわだてなのであるから、真実の浄土に生れることは許されるはずがない、と言われる。その理由は、わたしたちの思惟を超えた、仏の誓いのはたらきを知らないからである。わが浄土教の肝要は、愚かなひとの才覚をやめて、ただ救いとって見放されないという、仏の大きな恵みを仰ぐものである。起行によって「一向専修」の名称を立てると言う。しかし他力の安心が確立しないならば、祖師聖人の内心のご領解を相続するものではないであろう。前世の善がいまひらけようとしているひとならば、どのような卑劣なひとたちでも誓いのはたらきによる信心をたくわえたことであろう。このことをよく知らなければならない。

高森会長をあがむるをもって弥陀如来に擬し

『改邪鈔』
一 本願寺聖人の御門弟と号する人々のなかに、知識をあがむるをもって弥陀如来に擬し、知識所居の当体をもって別願真実の報土とすという、いわれなき事。

(中略)
 善知識において、本尊のおもいをなすべき条、渇仰の至りにおいてはその理しかるべしといえども、それは仏智を次第相承しまします願力の信心、仏智よりもよおされて、仏智に帰属するところの一味なるを仰崇の分にてこそあれ、仏身・仏智を本体とおかずして、ただちに凡形の知識をおさえて「如来の色相と眼見せよ」とすすむらんこと、聖教の指説をはなれ、祖師の口伝にそむけり。本尊をはなれて、いずくのほどより知識は出現せるぞや。荒涼なり、髣髴なり。実語をつたえて口授し、仏智をあらわして決得せしむる恩徳は、生身の如来にもあいかわらず、木像ものいわず経典くちなければ、つたえきかしむるところの恩徳をみみにたくわえん行者は、謝徳のおもいを専らにして、如来の代官と仰いであがむべきにてこそあれ、その知識のほかに別の仏なしということ、智者にわらわれ愚者をまよわすべきいいこれにあり、あさまし、あさまし。



【石田瑞磨著『親鸞全集』より現代語訳】

一 本願寺の聖人の門弟と名のるひとびとの中に、師を崇めて阿弥陀如来になぞらえ、師の住む住居を阿弥陀仏がとくに誓いを立ててつくられた真実の浄土とするということは、理由がないということ。

(中略)
 師を本尊のように思わなければならないということは、心底より尊敬を捧げる分には理として当然であるけれども、それは、仏の智慧を承けつがれた阿弥陀仏の誓いによって与えられた信心が、仏の智慧に導かれて、仏の智慧に帰属し、それと一体となる辺を尊崇する分際でなくてはならない。仏の身体・仏の智慧を本体と立てないで、ただちに愚かなひとと変わらない師をおさえて、「いまここに拝する師を如来のお姿と見よ」と勧めるらしいが、それは聖教の説く所を離れ、祖師聖人が親しく伝えられた教えにも背くものである。大尊を離れて、どこからあらわれて来たのであるか。口からでまかせで、支離滅裂の説である。ただ師が真実の言葉を承けてそれを親しく授け、仏の智慧を明らかにして正否の判断を与えられた恩徳は、生身の仏から受けるものと少しも変わらない。木像は物を言わないし、経典には口がないから、これに代わって教えを伝え聞かせるお徳を耳に蓄えた念仏者は、ひとえに徳を謝する思いに住し、如来の「代官」と仰いで、崇めるのであるが、しかしこの師のほかに別に仏はないというならば、智者に笑われ、愚者を迷わすにちがいないといわれるであろうが、その理由もまたここにあるのである。誠に浅ましいことである。

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『改邪鈔』のこの部分は、親鸞会そのままです。
長年幹部会員をしている人なら分かりますが、親鸞会には建て前と本音の二重構造があるのです。阿弥陀仏と高森会長との関係もそうです。
建て前では、阿弥陀仏一仏に向かえ、と教えています。
しかし、本音である実際の教えは、高森会長によって地獄も極楽も決まるかのように教えています。
高森会長の指示は絶対で、高森会長から背いたり、離れたら絶対に助からない、と徹底されています。その実例は退会者の体験談でいくつも挙げられていますが、元講師部員の「私の白道」であったり、「さよなら親鸞会」の除名になった特専部員の手記であります。
高森会長から離れたら助からない、というのならば、高森会長が除名にした人は絶対に助からないことになります。しかし、助けるのは阿弥陀仏のお仕事であって、高森会長ではありません。実質的に、「高森会長のほかに別の仏なし」です。
正本堂において、会長関係の施設だけで、4~5億円費やしたといわれています。建設費だけですから、備品や装飾品も併せればもっとかかっているでしょう。それに対して、阿弥陀仏を安置している仏間は2億円くらいと聞いています。
高森会長のための食事は、巨大な2つの厨房で専用の料理人を何人も付けて作っていますが、阿弥陀仏のお仏飯は、常住者の小さな古い厨房で常住者が交代で作っています。
高森会長の側近が高森会長にどのように接しているかを見れば、高森会長に深々と礼をして最大限に気を遣っています。阿弥陀仏よりも気を遣っているのは明らかです。

口では、一向専念無量寿仏ですが、実際は一向専念高森会長です。

「M野氏ではないyo」氏は、一般的な善知識だのみとは、ここは違う意味だから、管理人さんの解釈はおかしいといいたいのでしょう。しかし、親鸞会の本当の姿を知っている人からいえば、『改邪鈔』で仰っている邪義は、親鸞会そのままです。
このブログは、その名の通り、親鸞会教義の誤りを指摘することにあります。管理人さんは、親鸞会の実体を踏まえられてこの御文を根拠とされたのですから、建て前論で押し通そうとする「M野氏ではないyo」氏と話があう訳がありません。

親鸞会の会員と号する人々のなかに、高森会長をあがむるをもって弥陀如来に擬し、高森会長所居の当体をもって別願真実の報土とすという、いわれなき事

これが親鸞会の真実です。

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