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2009-08-01

親鸞会は諸行往生6

カルト宗教の特徴はいくつかありますが、代表的なものが、

1.地獄へ堕ちる等の極度の不安を煽る。
2.指導者に無条件服従させる。
3.異常な献金と不法な勧誘を信者にさせる。

でしょう。親鸞会の場合は、

1.一切衆生必堕無間
2.善知識への無条件服従
3.善の勧めという名目の財施、法施

です。
それで、この3つに焦点を絞って、これらが浄土仏教、親鸞聖人の教えと如何に異なるのかを説明してきました。
これ以外にも、問題点は山ほどありますが、この3つで現会員の方はもちろん、元会員の方も苦しんでいると聞きますので、それ以外のことについては敢て触れていません。

当ブログを読まれた現会員、元会員の方から、
1.一切衆生必堕無間
2.善知識への無条件服従
この2つに関しては、よく理解できたと言われることが多いです。
それでも一部の奇特な方は、「善知識への無条件服従」で挙げた根拠に拘っているようですが、根拠の解釈は否定しても、内容についての反論はありません。

しかし、最後まで迷う教義が「善の勧め」です。聖教を読まれれば、阿弥陀仏の救いに善は無関係であることは明らかなのですが、「善をしなければ信仰が進まない」、と親鸞会で擦り込まれるとなぜか納得してしまうのでしょう。
それは宗教とは善を勧めたものであるからです。他の宗教でも、善いことをすれば善い報いを受け、悪いことをすれば悪の報いを受けるといいます。親鸞会では最近、教義批判をかわすために、因果の道理について重点的に説いているようですが、それは他宗教と同レベルの教えです。嘘だと思われる方は、他の宗教を調べてみてみるといいでしょう。
親鸞会で説く因果の道理とは、仏教ではなく、他宗教の教えです。
因果の道理については、

「清森問答」
質疑応答183
質疑応答184
質疑応答185
質疑応答186
質疑応答187
質疑応答188
質疑応答189
質疑応答190

「21世紀の浄土真宗を考える会」
浄土門の因果の道理
宿業 宿善 因果の道理
因果についてちょっと思ったこと

「苦笑の独り言」
ものすごく納得がいく、スマナサーラ長老の因果論

でも最近取り上げられていますので、そちらを御覧下さい。

親鸞聖人の教えに善の勧めがある筈と信じてしまうのは、私たちの迷いの深さを表しています。だからこそ、釈尊は聖道仏教を説かれなければならなかったのであり、阿弥陀仏が19願を建てられねばならなかったのです。
諸善は、実行させるために説かれたのではなく、捨てるために説かれた、と善知識方が繰り返し仰っておられるのに、それには”無条件服従”しないのが親鸞会です。善をしなければ信仰は進みませんよ、という珍しき教えを説き続けて、金集め、人集めを正当化させているのです。

親鸞会の善の勧めの誤りについても、以下で解説されています。

「21世紀浄土真宗を考える会」
生因三願の「十方衆生」についての考察
観無量寿経のこころ その1 定善
観無量寿経のこころ その2 散善
不可解な言葉に関する考察 その1「善をしなければ 信仰は進みませんよ」
不可解な言葉に関する考察 その1「善をしなければ 信仰は進みませんよ」②
観無量寿経のこころ その3 定散二善
観無量寿経のこころ その3 定散二善②
観無量寿経のこころ その4 第19願&観経が説かれた理由

「清森問答」
質疑応答181
質疑応答182

阿弥陀仏の救いのために、善が勧められているのかどうか、善知識方のお言葉を素直に読んで考えてみて下さい。


「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、
遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、
仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

善導大師『観無量寿経疏』散善義


善根なければ、此の念仏を修して、無上の功徳を得んとす。
余の善根多くば、たとひ念仏せずとも、頼む方も有るべし。
しかれば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、
本願をたのみ、念仏せよと、勧め給ヘリ。
経に、一たび名号を称ふるに、大利を得とす。
又すなわち、無上の功徳を得と、とせり。
いかにいわんや、念々相続せんをや。
しかれば善根なければとて、念仏往生を疑うべからず。

(法然上人『念仏往生義』)


酬因感果の理を、大慈大悲の御心のうちに思惟して、
年序そらにつもりて、星霜五劫におよべり。
しかるに善巧方便を巡らして、思惟し給えり。
しかも、我別願をもて浄土に居して、
薄地低下の、衆生を引導すべし。
その衆生の業力によりて生まるるといわば、かたかるべし。
我、すべからく、衆生のために永劫の修行をおくり、
僧祇の苦行を巡らして、万行万善の果徳円満し、
自覚覚他の覚行窮満して、その成就せんところの、
万徳無漏の一切の功徳をもて、我が名号として、衆生に称えしめん。
衆生もしこれにおいて、信をいたして称念せば、
我が願にこたえて、生まるる事を得べし。

(法然上人『勅伝』)


釈迦も、世に出で給ふ事は、弥陀の本願を、説かんと思しめす御心にて候へども、
衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、
これ随機の法なり。佛の、自らの御心の底には候はず。
されば、念仏は、弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。
余の種々の行には、似ず候うなり。

(法然上人『津戸三郎へつかはす御返事』)


 念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。
持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、
極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、
もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、
さも仕りそうろう。
 またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、
ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、
え生まれそうらわぬ亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、
但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。
善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、
それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
 また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。
また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。
されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、
堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。
孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。

(法然上人『熊谷入道へ遣わす御返事』)


諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。
もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。
もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。
しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。
もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。
自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。
しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。

法然上人『選択本願念仏集』


おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための
所以なり。初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために
説く、念仏は立せんがために説く。次の義はすなはちこれ助正のために説く。
いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。後の義はすなはちこれ
傍正のために説く。いはく念仏・諸行の二門を説くといへども、念仏をもつて正
となし、諸行をもつて傍となす。ゆゑに三輩通じてみな念仏といふ。ただし
これらの三義は殿最知りがたし。請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。いまもし
善導によらば、初め(廃立)をもつて正となすのみ。

法然上人『選択本願念仏集』


故に知んぬ。諸行は機に非ず、時を失えり。念仏往生は機に当り、時を得たり。
感応あに唐捐ならんや。まさに知るべし。隨他の前には暫く定散の門を開くと
いえども、隨自の後には還って定散の門を閉づ。一たび開いて以後永く閉じざるは
ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意ここに在り、行者まさに
知るべし。

法然上人『選択本願念仏集』


それ速やかに生死を離れんと思わば、二種の勝法の中に、
しばらく聖道門を閣きて、選びて、淨土門に入れ。
浄土門に入らんと思わば、正雑二行の中に、
しばらく諸々の雑行を抛てて、選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと思わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、
選びて正定を專にすべし。
正定の業というは、すなはち、これ佛の御名を称するなり。
名を称すれば必ず生まるることを得。
佛の本願によるが故に。

法然上人『選択本願念仏集』


また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
親鸞聖人『教行信証』信巻


おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、
難行道といへり。
この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、
竪出・竪超あり。
すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。
この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、
雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。
雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。
これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

親鸞聖人『教行信証』化土巻


そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、
すでに雑行となづけてきらえるそのこころはいかんぞなれば、それ、
弥陀仏のちかいましますようは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、
いかなるつみふかき機なりとも、すくいたまわんといえる大願なり。
しかれば、一心一向というは、阿弥陀仏において二仏をならべざるこころなり。
このゆえに、人間においてもまず主をばひとりならではたのまぬ道理なり。
されば外典のことばにいわく、
「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず」といえり。
阿弥陀如来は、三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、
いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまわざるべきや。
このいわれをもってよくよくこころうべし。
さて、南無阿弥陀仏といえる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、
そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆえに、なにの不足ありてか
諸行諸善にこころをとどむべきや。
すでに南無阿弥陀仏といえる名号は、万善万行の総体なれば、
いよいよたのもしきなり。

蓮如上人『御文章』二帖目第九通



これ以外にもたくさんありますが、どこに善をしなければ信仰は進まないと説かれていますか。
親鸞聖人の仰る「迂回の善(遠回りの善の教え)」を勧めているのではないですか。
まさか「七仏通誡偈」が親鸞聖人が善を勧められた根拠というのではないでしょうね。

参照:「21世紀の浄土真宗を考える会」歎異抄第2章を読む その2

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