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2009-10-30

善知識には無条件服従しなければならないのか 5

善知識への無条件服従が間違っていることは、多くの方に理解して頂いていると思いまして、これ以上このことで書くつもりはありませんでした。しかし、ある変わった方からおもしろい意見を言われましたので、他の方から頂いた御意見も交えながらもう少し書いてみます。


説明するまでもありませんが、人間は完璧ではありません。それは知識でも同じですから、間違いを犯すことはあります。知識の説かれる正しい教えに従うのは、当たり前ですが、間違った教えと教えとは無関係なことに従う必要はありません。

具体例として、除名になった特専部員のことが出ていましたが、高森会長からの礼状に

「無常佛 疑いぬかせ 助け切る」

とあったそうです。親鸞会の無条件服従の教えでは、高森会長の言うことに間違いはないし、どんなことでもハイと信順する、つまりこれをこのまま正しいものとして受け取るべきと教えています。

親鸞会講師部員聖則
一、会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
一、上司の指示は会長先生の命と心得ます。

しかし、それが正しいことでしょうか。明らかに間違っていることは、理性の残っている人なら分かる筈です。
それで、この礼状を代筆した秘書も、相談を受けた局長も間違いと流石に認識して訂正しています。その時の態度がどうであったかはともかくとして、高森会長の誤りを訂正したのは正しいことです。しかし、無条件服従という教えからいえば間違った行為となりますので、ここに矛盾があります。本来はこの歌で正しいと押し通したかったのでしょうが、余りにも明らかな、しかも最も心をかけるべき無上仏に対しての問題ですから、誤魔化すこともできず、渋々訂正せざるを得なかったというところでしょうか。

大体、不完全な人間を完全なものと考えよということ自体がおかしなことです。そんな教えがどこにありますか。そういえば『往生要集』を根拠にされた奇特な方もありましたがお笑いです。

では何に依るべきか。それについて教えられたのが四依です。『教行信証』化土巻にあるお言葉と、その解説をした書物がありますのでそれを読んでみて下さい。


『教行信証』化土巻

『大論』(大智度論)に四依を釈して云わく、涅槃に入りなんとせし時、もろもろの比丘に語りたまわく、「今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし」と。「法に依る」とは、法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。「義に依る」とは、義の中に好悪・罪福・虚実を諍うことなし。かるがゆえに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人、指をもって月を指う、もって我を示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人、語りて言わん、「我指をもって月を指う、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるや」と。これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもってのゆえに、語に依るべからず。「依智」とは、智はよく善悪を籌量し分別す。識は常に楽を求む、正要に入らず、このゆえに「不応依識」と言えり。「依了義経」とは、一切智人います、仏第一なり。一切諸経書の中に仏法第一なり。一切衆の中に比丘僧第一なり。無仏世の衆生を、仏、これを重罪としたまえり、見仏の善根を種えざる人なり、と。
 しかれば末代の道俗、善く四依を知りて法を修すべきなりと。
 


存覚上人著『六要鈔』

次に『大論』の文、四依の釈なり。その意は顕著なり。委しく述ぶるに能わず。「依義」の下、「如人」等とは、指を以て語に譬え、月を以て義に喩う。玄悟の賓は直爾〈すぐ〉に月を看て指を見ざるなり。「依了義」の下、「有一」等とは、了・不了の義は諸経の異説。諸宗の所談、領解まちまちなれども、今教の宗はただ仏説を以て了義経とす。この論灼然なり。『大経』の下に云わく「如来の智慧海は深広にして涯底なし。二乗の測る所にあらず。ただ仏のみ独り明了なり」已上。弥陀の五智深奥の理は、三乗・五乗はその境界にあらず。この故に今、菩薩等の説は信用に足らざることを談ず。この義を以ての故に、了義経の名は仏説に被らしむるなり。深心の釈(散善義)に云わく「仏を除きて已還は、智行未だ満たせず。その学地に在り。正習ありて、二障未だ除こらず、果願未だ円かならざるに由りて、これらの凡聖は、たとい諸仏の教の意を測量すれども、未だ決了すること能わず。平章することありと雖も、かならず須く仏証を請して定とすべきなり」已上。「一切衆中比丘」等とは、問う、仏を除きて已還はみな所信にあらず。今の釈の如きは、これを用うべきや。答う、信用する所の仏自口説・了義経とは、所説の理に約す。「今比丘僧第一」等とは、無仏世の時、その形体に約してこれを判ずる所なり。


星野元豊著『講釈 教行信証』

 竜樹菩薩は『大智度論』において修行者の依るべき教訓として四つあることを説いている。釈尊が涅槃に入ろうとされるとき、もろもろの比丘たちに語られた。お前たちは今日からはまず第一にどこまでも教法に依りどころを求めるべきであって、人に依ってはならない。第二に教法の意味道理によるべきであって、単なる表面上の語句に依ってはならない。第三には、智慧に依るべきであって情識に依るべきではない。「識」には「シルニ」の左訓がなされている。理性的概念的な知識の意味であろう。仏教における真実の智慧と単なる概念的知識とは本質的に異なっている。更に智慧は感情とも異なっている。ここは智慧に依るべきで概念や感情に左右されるなといわれているのである。第四には了義経(教の義理を完全にあらわしている経典)によるべきであって、不了義経(不完全な経典)によってはならない。
 法に依るというのは、仏の教説は十二部に分類されているが、いずれにしても仏の教説に従うべきであって、その教説を説く人に従ってはならない。人ということになると、人によってその説き方なり、解釈の相違も出てくるであろうから、人に随ってはならない。
 義に依れということはどういうことかといえば、そもそも意味・論理の中に好きとか嫌いとか、罪悪とか福徳とか、虚偽とか真実とかをあらそうことはない。意味・論理にはそのような争いの対立はない。言語というものはすでに意味・論理というものを表わすことを目指したものである。意味・論理はそのまま即言語ではない。たとえば人が指で月を指して私に教えるばあい、指だけを視て月をみないならばその人はいうであろう。わたしは指で月を指してあなたに教えているのに、あなたはどうして指を見て肝心の月をみようとしないのですかと。いまそれと同じで、言葉というものは、その意味を指す指のようなものである。言葉は意味ではない。だから言葉にとらわれてはならないのである。
 第三に智に依るというのは、智慧はよくものの善悪をはかって分別するものである。それに対して心情的なものは常にただ楽しみのみを求めるものである。それで生死を出離するという正しい肝心なことに気付かぬのである。それであるから識(心情的なもの)によるべからず、智慧に依らねばならぬといっているのである。
 了義経に依るということは、完全な教を説いた経典に依れということであるが、その次の「一切智人います仏第一なり。…」とどのように続くのであろうか。おそらくいろいろな智者といわれる人はいるが、それらの中で仏は第一である。だから仏の説いた了義経は第一にすぐれた完全なものであるという意味であろう。それだからまた経典といわれているものは多いが、仏法の経典は第一位に位するものである。いろいろな人のいるなかで無仏の世の人たちを仏は重罪の者であるとされた。何故ならそれらは仏を身たてまつるという善根を植えない人たちであるからである。この無仏の世の人たちについての文は理解しにくいが、親鸞の意をくんで解してみよう。無仏の世は末世であり、そこに生を享けた人は不幸な人たちといわねばならない。見仏の善根のないいわゆる無宿善の機である。無仏の世はこのような仏をみる機会がない。仏を見ない者は真実を見ない者である。真実を知らないから、自己の真実がいかなるものであるかも知らない。自己を知らないから自己が仏によって在らしめられていることを知らない、あくまでも自主独立的に在ると思っている。それは全く仏に背いた者として重罪といわれるに値するであろう。いまここでは、第一の智人たる仏と衆生中の第一の比丘僧と重罪無宿善の者の三者があげられている。文章の上からいえば、「了義経とは…」とあるから、了義経の説明といわねばならない。とすれば、了義経の第一は一切智人のうちの第一の仏の説いた経であり、仏法第一であるから、仏法の説かれている仏教経典が了義経であることを示したものであるといえよう。そしてこの了義経によって修道する比丘僧は衆生中の第一であり、仏について知らない者、換言すれば了義経を知らない者は重罪の者であるということである。
 それであるから末代の出家や在家の人たちはよくこの四依を知って、心して道を求め法を修すべきである、と結ばれている。

 『大論』に釈してとあるが、ここの引文は『大智度論』そのままではなく、取捨があり、書き加えたところもあるが、一々吟味する必要はなかろう。ここはむしろ親鸞の文として、そのまま解すべきである。それにしても「了義経とは……」の文は極めて理解しにくいため、先輩はいろいろとこれについて論じているが、いまはわずらわしくそれを紹介するほどのことでもないので、止めたいと思う。それよりもここで肝心なことは「了義経に依れ」ということである。そして了義経とは仏、仏法、比丘僧を完備して説かれている経をいうのである。また無仏世の衆生とは、末世のわれわれのことをいっているのである。心をひそめて読むならば、末世の衆生は了義経によれという意図を理解することができるのであろう。
 親鸞は「しかれば末代の道俗よく四依を知って法を修すべきなり。」と結んでいる。わたくしは親鸞の浄土真宗の末学はなによりもこの句を肝に銘じて忘れてはならないと思う。
 仏はいよいよ涅槃に入ろうとした時、こういっている。「法に依って、人に依らざるべし」と。これは言葉を換えていえば、私が云ったから尊いのであり、真実であるのではなくして、法なるが故に真実なのであり、尊重すべきなのだと。しかもそれをわざわざ説明して、法に依れとは、法はその説き方に十二の説き方があるけれども、その説き方にまどうことなく、それを説く人に随うことなく、その説かれた教法の真髄をつかむべきだと。ここでは前文の仏説なるが故に信用すべきだということと矛盾するようであるが、しかしむしろここでこそ、前文の本当の意味するところが理解されるであろう。仏説の仏とは人間釈尊その人をいうのではなくして、仏となった仏釈尊そのもの、仏そのものをいうのである。そこでは人間釈尊が説いているのではなくして、法と一体の仏それ自身、あるいはもっと適切には法としての仏が説いているのだといえよう。仏とは生きた法そのものである。従って大乗が釈尊金言口の説法でなくとも、そのことによって大乗仏教としての浄土三部経の価値は微塵も損ぜられない。たとえ人間釈尊より時代が隔たって説かれたものであっても、依然として仏説なのである。前文の仏説は「法に依って人に依らざるべし」という、ここの文を根底においてこそ正しく理解されうるといえよう。



浄土真宗教学研究所編『顕浄土真実教行証文類-現代語版-』

 『大智度論』に、四つの依りどころについて次のようにいわれている。
 「釈尊がまさにこの世から去ろうとなされるとき、比丘たちに仰せになった。<今日からは、教えを依りどころとし、説く人に依ってはならない。教えの内容を依りどころとし、言葉に依ってはならない。真実の智慧を依りどころとし、人間の分別によってはならない。仏のおこころが完全に説き示された経典を依りどころとし、仏のおこころが十分に説き示されていない経典に依ってはならない。
 教えを依りどころとするとは、仏の説いた教えには十二部経があり、この教えにしたがうべきであって、説く人にしたがってはならないということである。教えの内容を依りどころとするとは、教えの内容に、よいと悪い、罪と功徳、嘘とまことなどの違いをいうことなく、だから言葉は教えの内容を表わしているものであって、教えの内容が言葉そのものなのではない。言葉に依って教えの内容に依らないのは、人が月を指さして教えようとするときに、指ばかりを見て月を見ないようなものである。その人は、《わたしは月を指さして、あなたに月を知ってもらおうとしたのに、あなたはどうして指を見て月を見ないのか》というであろう。これと同じである。言葉は教えの内容を指し示すものであって、言葉そのものが教えの内容であるわけではない。このようなわけで、言葉に依ってはならないのである。真実の智慧を依りどころとするとは、真実の智慧に依れば善と悪とをよく考えてその違いを知ることができるが、人間の分別は常に楽しみを求め、さとりへ向かう正しい道に入ることができないということである。だから、人間の分別に依ってはならないといったのである。真実を完全に説き示した経典を依りどころとするとは、智慧あるものすべての中で仏を第一とし、教えを受けるものすべての中で出家のものを第一とするということである>と。
 仏のおられない世の衆生を、仏は罪が重いとされた。これは仏を見たてまつる功徳を積まなかった人なのである」
 このようなわけであるから、末法の時代の出家のものも在家のものもこの四つの依りどころをよく知って仏法を修めなければならない。



さて、皆さんはどのように理解されましたでしょうか。

古い学者の説を押しつけようとしているのは、「指を見て月を見ていない」人でしょう。解釈は学者によって異なって当然です。
また存覚上人が引用された『大無量寿経』と『散善義』のお言葉をどのように解釈しているのでしょうか。
星野氏が「人ということになると、人によってその説き方なり、解釈の相違も出てくるであろうから、人に随ってはならない。」と書かれたことをよく考えてみるべきです。

しかし、言葉に囚われて、指を見て月を見ていないといわれてている本人は、それが自分のことという自覚がないので理解できず、下らないことをいつまでも言い続けるのでしょう。
御苦労なことです。

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