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2009-11-10

善知識には無条件服従しなければならないのか 8

蓮如上人は『御文章』二帖目第十一通


そもそも善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、ひとをすすむべきばかりなり。


と仰っています。
では、善知識に無条件服従せよ、といっている知識は、善知識でしょうか。これまで何度も何度も述べてきましたので、今さら説明する必要はないでしょう。阿弥陀仏に向けといいながら、自分に向かわせる卑怯な教えを説く”無二の善知識”は、もちろん悪知識です。

親鸞聖人の御著書ではありませんが、『歎異鈔』第二章には、


弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰そらごとならんや。法然の仰まことならば、親鸞が申す旨、またもって虚しかるべからず候歟。


とあります。阿弥陀仏の本願がまことであるなら、釈尊、善導大師、法然上人、親鸞聖人の教えられたことが正しいことになる。これで間違いないのです。ところが目の前の知識に無条件服従したら、その知識が”無二の善知識”で正しいから、親鸞聖人、法然上人、善導大師、釈尊の教えられたことが正しい、そして最後に阿弥陀仏の本願がまことだという結論になります。全くの逆になります。
真逆の教えですから、釈尊、善導大師、法然上人、親鸞聖人のお言葉と明らかに違うことを教えていても、釈尊、善導大師、法然上人、親鸞聖人の御心が分かるのは”無二の善知識”だけだといって、会員は平気な顔をしているのです。それは、誤解するような表現しかされなかった釈尊や歴代の善知識方をまるで悪者にしているのですから、外道の集団なのです。


また、信心決定のために善を勧める知識はどうでしょうか。
蓮如上人は『御文章』二帖目第九通に、


そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらえるそのこころはいかんぞなれば、それ、弥陀仏のちかいましますようは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなるつみふかき機なりとも、すくいたまわんといえる大願なり。
しかれば、一心一向というは、阿弥陀仏において二仏をならべざるこころなり。
このゆえに、人間においてもまず主をばひとりならではたのまぬ道理なり。
されば外典のことばにいわく、「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず」といえり。
阿弥陀如来は、三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまわざるべきや。
このいわれをもってよくよくこころうべし。
さて、南無阿弥陀仏といえる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆえに、なにの不足ありてか諸行諸善にこころをとどむべきや。
すでに南無阿弥陀仏といえる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。



『御文章』では、雑行を捨てよとばかり教えられています。諸善は雑行です。信心決定のために善をしようとすれば、それは雑行、善に向かうのですから、阿弥陀仏に向かっていません。雑行を勧めている、つまり阿弥陀仏に向かえという教えに反したことを勧めていることになります。”無二の善知識”と呼ばれる人物は、「善をしなければ善ができない自分と知らされることがなく、捨てることができない」とか、「善をしなければ信仰は進まない」とか、歴代の善知識方が全く仰ったことのない珍しき屁理屈を説いていますが、その”無二の善知識”の心は、会員に敢て阿弥陀仏に向かわせていないのです。
親鸞聖人が『教行信証』信巻


また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。


と仰っている遠回りの教えを説いているのですから、この”無二の善知識”はやはり悪知識です。

最近親鸞会では、親鸞会式因果の道理をやたら強調していますが、何のつもりでしょうか。某講師のブログ「静かな劇場」でも、散々な非難を無視して狂ったように何やら書き続けていますが、それが外道の教えと分からないところがお目出たいです。しかも、誰もいっていない非難を捏造して自問自答を繰り返しているのですから、『本願寺なぜ答えぬ』と同じ構図です。
親鸞会は、もしかしたら聖道仏教で説かれる因果の道理の真似をしようとしているのでしょうか。だとすれば浄土仏教と因果の道理の関係も知らないのでしょう。このことは他のブログで詳しく解説されていますので、すでに読まれている方も多いでしょうから、ここでの説明は省略します。
一言だけ述べれば、浄土仏教では因果の道理について皆無といっても良いほど説かれておらず、それは親鸞会が浄土仏教の聖教から根拠を一つとして挙げられないことでもお分かりになると思います。

そして、「一切衆生必堕無間」という歴代の善知識方のなされてない極度の不安を煽ることも、阿弥陀仏に向かわせない教えです。言葉を替えれば、必堕無間という自己の罪悪感に徹することと、自力無功と知らされ他力に帰することとは全く違います。
この詳しい説明は以下を読んで下さい。

「苦笑の独り言」
大昔からツッコミ入ってます→親●会における「二種深信の機の深信」と「罪悪観」との混同
安心論題「二種深信」←「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してる人は、これを読んで勉強してね。(1)
わかりやすい宗義問答「二種深信」←「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してる人は、これを読んで勉強してね。(2)


”無二の善知識”は、釈尊、善導大師、法然上人、親鸞聖人がどう教えられたかなど関係ないという姿勢ですから、どう考えても悪知識です。

どんな観点から見ても、カルト教義を唱えている”無二の善知識”は「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と反対のことを教えていますので、善知識どころか悪知識です。


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質問

では、弥陀の浄土に生まれたい、と願った韋堤希に、なぜ釈尊は定散二善を説かれたのですか?

韋堤希を弥陀の救いに値遇わせたい一杯の釈尊が、苦しむ韋堤希に対して、弥陀の本願も説かれず、念仏を称えよとも言われず、善を勧められた。

そして、仰せに従った韋堤希が、実際に阿弥陀仏に救われた。

この観経の教説を、どう頂戴するのですか。

ここをしっかり説明してもらわないと、いたずらに悪知識、悪知識、と連呼されても納得できません。

Re: 質問

一学徒 様

親鸞会の会員らしい御質問です。
親鸞会では、韋堤希のために定善散善を説かれたと教えていますが、間違いです。
釈尊は韋堤希に阿弥陀仏の浄土をお見せになりました。韋堤希は、次のように言っています。

世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき

自分は浄土を見ることができましたが、後の衆生はどうすれば浄土をみることができるのでしょうか、という韋堤希の求めに応じて説かれたのが、定善であります。
しかし定善は凡夫にはできないことですので、釈尊はこの後に、散善を説かれました。
定善と散善ができれば仏になれますので、聖道仏教と同じ教えです。

しかし定善も散善もできない私たちのために、釈尊は最後に念仏を説かれたのです。
つまり、釈尊は『観無量寿経』で、往生成仏のための方法には、定善、散善、念仏があると教えられたということです。

親鸞会では韋堤希に定善をさせてみてできないことを知らされたと教えますが、韋堤希は定善をしていませんし、しようとも試みていません。散善もしていません。
事実と異なることを教えている知識は、悪知識です。

それが本当なのかを確かめられるには、『観無量寿経』を読まれればいいでしょうし、難しければ解説書は多々出ていますので、それを読まれてもいいでしょう。

ではなぜ定善散善を説かれたのか、ということについて『選択本願念仏集』に

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

と法然上人は教えられています。

『観無量寿経』についての詳しい説明はすでに「21世紀の浄土真宗を考える会」に解説がされています。コメント欄では、一学徒様と同様の質問をされて、それに対する答えもあります。そちらを御覧頂いた方がお分かりになられると思います。

観無量寿経のこころ その1 定善
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-182.html
観無量寿経のこころ その2 散善
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-183.html
観無量寿経のこころ その3 定散二善
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-188.html
観無量寿経のこころ その3 定散二善②
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-189.html
観無量寿経のこころ その4 第19願&観経が説かれた理由
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-192.html
観無量寿経のこころ その5 釈尊の沈黙の意味

質問

すみません、本文の内容とは直接関係のないことなのですが、質問させていただきます。

ある時、ある講師の方が、昨今の本願寺の坊主の実態に関して、このように説明されました。
「『案ずるな、煩うな、計らうな、心配するな、ただのお助けじゃ、他力じゃ、無条件じゃ、あら往き易のお浄土じゃ』という不浄説法をしている。」
「これによって、どれだけ多くの門徒が地獄に送り出されていったことか」
さらには、
「ここまで堕ちた!!本願寺!!」と、実に嬉しそうに(これは個人的な見解です)言っておられました。

ところで、この『案ずるな、煩うな(以下略)』という言葉は、本願寺側の勝手な解釈と決め付けているようですが、まだ断定はできないのですが、一説によると、讃岐の庄松の言葉ではないかと言われているそうです。庄松と言えば、言わずと知れた妙好人の一人です。その言葉を信じると、地獄に堕ちてしまうのでしょうか。このことについて、どのように思われますか。

Re: 質問

> すみません、本文の内容とは直接関係のないことなのですが、質問させていただきます。
>
> ある時、ある講師の方が、昨今の本願寺の坊主の実態に関して、このように説明されました。
> 「『案ずるな、煩うな、計らうな、心配するな、ただのお助けじゃ、他力じゃ、無条件じゃ、あら往き易のお浄土じゃ』という不浄説法をしている。」
> 「これによって、どれだけ多くの門徒が地獄に送り出されていったことか」
> さらには、
> 「ここまで堕ちた!!本願寺!!」と、実に嬉しそうに(これは個人的な見解です)言っておられました。
>
> ところで、この『案ずるな、煩うな(以下略)』という言葉は、本願寺側の勝手な解釈と決め付けているようですが、まだ断定はできないのですが、一説によると、讃岐の庄松の言葉ではないかと言われているそうです。庄松と言えば、言わずと知れた妙好人の一人です。その言葉を信じると、地獄に堕ちてしまうのでしょうか。このことについて、どのように思われますか。


紅楳英顕師の『派外からの異説について』には、

 次に『本願寺の体質を問う』(144頁)には、
  所詮は、案ずるな、煩ろうな、計ろうな、心配するな、そのままじゃ、無
  条件じゃ、念仏さえ称えておれば死んだら極楽が本願寺の主張だと、従来
  より指摘し続けて来た親鸞会の批判が正しかったことを証明したにすぎな
  い。
とある。これは、先年以来、本願寺の門前等で配付している同会のビラに、本
願寺の主張として「死なねば助からぬ」とか「念仏さえ称えればよい」「念仏
はみな同じものだ」というように書きたてて、平生業成もわからず、信心ぬき
の念仏を説いているのが本願寺の主張であるかのように指摘し宣伝しているの
であるが、その指摘が正しかったことを証明した、といっているようである。
高森氏は、高岡仏教学院や竜谷大学で学ばれたそうであるが、平生業成や念仏
の自力・他力について学ばれなかったのであろうか。
 高森親鸞会のビラに対して本願寺から出されたものの中、「いつ助かるか」
について、
  今、ここで救われます。「なもあみだぶつ」のいわれを聞いて、疑いの心
  がなくなるとともに、まことの信心にめぐまれて如来の光明の中に摂取さ
  れます。やがて、この人生が終われば、浄土に往生して仏のさとりを開か
  せていただくのです。
とあり、「どうしたら助かるのか」について、」
  まことの信心ひとつであります。いちずに念仏を称えさえしたら助かると
  いうのではありません。真実の教え(本願が名号に成就されたいわれ)を聞くこと
  が大切であります。
と明示し、さらに「念仏について」には、
  まことの信心から必ず念仏が流れて出て下さいます。これを他力の念仏と
  いい、「なもあみだぶつ」を口に称えて如来の御恩を感謝します。疑いの
  心をもったまま唱える自力の念仏では真実の浄土に往生することはできな
  いのです。
と、本願寺の正しい見解が述べられている。「死なねば助からぬ」とか「念仏
さえ称えておればよい」とか「念仏はみな同じものだ」などと、本願寺の誰が
説き、どこに書いているのだろうか。書物や話の一部分だけとらえて、悪意に
解釈するならば、あるいはそのようにとれるところがあるかも知れないが、そ
れは、あまりにも片寄った見方であって、故意に曲解して本願寺を非難してい
るとしかいいようがない。


と書かれてありますが、その程度の話と受け止められては如何でしょうか。
庄松同行の言葉かどうかは、私は寡聞にして知りませんが、この言葉自体がおかしいというのもおかしいと思います。

阿弥陀仏に救われた布教師が阿弥陀仏の本願について語られたのであれば、正しいといってもよいと思います。しかし、阿弥陀仏の本願を知らない布教師が言われたのであれば、おかしな解釈をしていた布教師がいたともいえるでしょう。しかし、本願寺の見解は紅楳英顕師の仰る通りです。

この言葉を聞いたから地獄に堕ちるとか極楽に往生するとかは関係ありません。
信心を賜われば極楽、賜わらなければ極楽には往生できないと理解すべきです。
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