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2009-07-30

親鸞会は諸行往生3

【質問】
詳しいコメントありがとうございますm(__)m。

親鸞会では善を勧めるのが仏教の教えで、
善をすることをやめろとういうのは仏教ではない!
というように教えられると思いますがそのあたり、
どうなんでしょうか?


【回答】
仏教は善を勧めています。これは間違いないことです。問題は、善をすることと往生することと関係があるのかです。
往生するには善をしなければならないというのが、聖道仏教です。往生するために善をする必要がないというのが浄土仏教です。

法然上人の『選択本願念仏集』には、

故に知んぬ。諸行は機に非ず、時を失えり。念仏往生は機に当り、時を得たり。
感応あに唐捐ならんや。まさに知るべし。隨他の前には暫く定散の門を開くと
いえども、隨自の後には還って定散の門を閉づ。一たび開いて以後永く閉じざるは
ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意ここに在り、行者まさに
知るべし。


とあります。正法や像法ならばいざ知らず、末法の凡夫では善ができないから、正定の業である念仏を称えよ、といわれているのです。
あるいは、

おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための
所以なり。初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために
説く、念仏は立せんがために説く。次の義はすなはちこれ助正のために説く。
いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。後の義はすなはちこれ
傍正のために説く。いはく念仏・諸行の二門を説くといへども、念仏をもつて正
となし、諸行をもつて傍となす。ゆゑに三輩通じてみな念仏といふ。ただし
これらの三義は殿最知りがたし。請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。いまもし
善導によらば、初め(廃立)をもつて正となすのみ。


とも仰っておられます。

これは本願寺の主張も同じです。
灘本愛慈著『現代の教学問題・宿善について』には、

親鸞会は、宿善として自力諸善を積むように勧めているが、当流では他力の信心を獲るために、まず自力諸善を積まねばならないなどという説示はない

とあります。

また紅楳英顕著『派外からの異説について』には、

私が再三、もとめたところの『破邪顕正や財施を獲信のための宿善として修せよ』とある文証は、未だに何等示されていない。
私が問題にしたのは、このことなのであり、高森親鸞会が自説の根拠となる文証を明示されない限り、私への反論になっていると認めることはできないのである


とはっきり書かれています。実際、親鸞聖人も蓮如上人も、往生のために善を勧められたところはありませんので、本願寺の主張は正のです。

では善導大師、法然上人、親鸞聖人は善を勧められなかったのか、といえば往生とは関係ないところで善を勧めておられます。

たとえば法然上人の書かれた「念佛往生義」には、

念仏して往生するに不足無しといいて、悪業をも憚らず、行ずべき慈悲をも行ぜず、念仏をも励まさざらん事は、仏教の掟に相違するなり。
例えば、父母の慈悲は、良き子をも悪しき子をも育むめども、よき子をば喜び悪しき子をば嘆くが如し。
仏は一切衆生を哀れみて、良きをも悪しきをも渡し給えども、善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しみ給えるなり。
良き地に、良き種を、まくかんが如し。構えて、善人にして、しかも念仏を修すべし。これを真実に、仏教に従うものという也。


とあります。「苦笑の独り言」に意訳が載ってますので、確認してみてください。
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-376.html

仏教である限り、善を勧めるのは当然なことです。世界には多くの宗教がありますが、宗教とは善を勧めるものといっても過言ではないと思います。

往生と関係のある善とそうでない善とを同じこととして主張するのが高森会長のトリックです。

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