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2009-08-01

親鸞会は諸行往生8

前回、正しい因果の道理について書きました。それは、親鸞会で説明している因果の道理が、仏教の因果の道理ではないことを分かって頂くことが目的でした。

以前にも述べましたが、浄土仏教では、因果の道理について教えられたことろがないといっても過言ではありません。この『大無量寿経』下巻の「五悪段」についてさえも、親鸞聖人は触れられていません。そのことについては様々な学説がありますが、ここではそれを述べません。前回引用した「浄土真宗やっとかめ通信」には、そのことも書かれてありますので、興味のある方はそちらを読んでください。
「浄土真宗やっとかめ通信」『仏説無量寿経』31

親鸞聖人も因果の道理については説明しておられません。
その理由は親鸞聖人の二双四重の教判にあります。『教行信証』信巻の横超釈


横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。


と説かれました。親鸞聖人は、仏教を大きく4つに分けておられます。「横」は浄土仏教、「竪」は聖道仏教のことです。「超」は悟りをえるのがはやい、「出」は悟りをえるのが遅いということで、「竪」を「竪超」と「竪出」に、「横」を「横超」と「横出」に分けられました。
二双四重の教判は、『教行信証』化土巻や『愚禿鈔』でも、説明をなされています。
この4つを具体的に当てはめると、

竪超-華厳宗・天台宗・真言宗・禅宗
竪出-法相宗・三論宗
横超-18願
横出-19願、20願

ということです。

『尊号真像銘文』には、『大無量寿経』の「横截五悪趣悪趣自然閉」を解釈なされて、横竪と超出について説明しておられます。


「横」はよこさまといふ、よこさまといふは如来の願力を信ずるゆゑに行者のはからひにあらず、五悪趣を自然にたちすて四生をはなるるを横といふ、他力と申すなり、これを横超といふなり。
横は竪に対することばなり、超は迂に対することばなり、竪はたたさま、迂はめぐるとなり、竪と迂とは自力聖道のこころなり、横超はすなはち他力真宗の本意なり。



と教えられています。
「竪」と「横」は、文字通り全く違います。「竪」は通常の道理、「横」は通常の道理と異なるものということです。つまり、「竪」は、因果の道理に従って自力をもって修行をし、仏果に到達するという法門です。「横」は、凡夫が他力である阿弥陀仏の本願力によって、浄土往生し、仏果を賜わる法門です。ですから「横」は、「竪」の因果の道理を完全に超えた法門なのです。
したがって、因果の道理を強調するのは、「竪」の自力の法門ということになります。一方「横」の他力の法門では、因果の道理について説明されないのは当然なことです。「横」の話をするのに、「竪」の話をしていては教えが全く噛みあいません。本願寺と親鸞会の宿善論争がそれで、本願寺が呆れて親鸞会との論争を放棄した理由もお分かりになられるでしょう。基本中の基本がわかっていないのですから。

このことを的確に表わしたお言葉が『改邪鈔』にあります。


それ三経のなかにこの名言をもとむるに、『観経』に「深信因果」の文あり、もしこれをおもへるか。おほよそ祖師聖人御相承の一義は、三経ともに差別 なしといへども、『観無量寿経』は機の真実をあらはして、所説の法は定散をおもてとせり。機の真実といふは、五障の女人・悪人を本として、韋提を対機としたまへり。『大無量寿経』は深位の権機をもつて同聞衆として、所説の法は凡夫出要の不思議をあらはせり。大師聖人(親鸞)の御相承はもつぱら『大経』にあり。『観経』所説の「深信因果」のことばをとらんこと、あながち甘心すべからず。たとひかの『経』(観経)の名目をとるといふとも、義理参差せばいよいよいはれなかるべし。
そのゆゑは、かの『経』(同)の「深信因果」は、三福業の随一なり。かの三福の業はまた人天有漏の業なり。なかんづくに、深信因果の道理によらば、あに凡夫往生の望みをとげんや。まづ十悪において、「上品に犯するものは地獄道に堕し、中品に犯するものは餓鬼道に堕し、下品に犯するものは畜生道におもむく」といへり。これ大乗の性相の定むるところなり。もしいまの凡夫所犯の現因によりて当来の果を感ずべくんば、三悪道に堕在すべし。人中・天上の果報なほもつて五戒・十善まつたからずは、いかでか望みをかけんや。いかにいはんや、出過三界の無漏無生の報国・報土に生るる道理あるべからず。
しかりといへども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・ 四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。いま報土得生の機にあたへまします仏智の一念は、すなはち仏因なり。かの仏因にひかれてうるところの定聚の位、滅度に至るといふは、すなはち仏果なり。



と教えられています。
長いので、現代語訳も載せておきます。
石田瑞磨著『親鸞全集』より

 いったい、浄土三部経のうちこの表現を探すと、『観無量寿経』に「深く因果を信ずる」という文章があるが、あるいはこれを意識したものか。おおよそ祖師上人が師より受けつがれた教えは、三部経を通じて共に差異はないという立場であるけれども、いうならば『観無量寿経』は、教えを受けるひとの側の真実の姿を表わし、そこに説かれた教えは定心や散心の善を表としたものである。そしてここに教えを受けるひとの真実というのは、五障を持つ婦人と悪人とが中心で、ここでは韋提希を説法の対象としておられる。しかし『大無量樹経』は、仏・菩薩が仮に姿をあらわされたものを同じ説法の聴衆に加え、説かれた教えは、愚かなひとが迷いからぬけでるための眼目の不思議を説き表わしたものである。大師聖人がうけつがれたものは、もっぱらこの『大無量樹経』にある。
 したがって『観無量寿経』が説く「深く因果を信ずる」という言葉をとろうとすることは、けっして満足することができるものではない。たといこの経の表現をとるとしても、道理に相違するならば、ますますとる理由はないであろう。なぜならば、この経の「深く因果を信ずる」というのは、経が説く三福といわれる行為のうち、もっとも大切なものであるが、この三福の行為はまた人間界や天上界に生れるための煩悩を助長する行為であるし、なかでも「深く因果を信ずる」という道理によれば、愚かなひとが浄土に生れる望みを達することができないからである。まず十悪でいえば、これを犯してもっとも悪質なものは地獄道に堕ち、やや悪質なものは餓鬼道に堕ち、少しく悪質なものは畜生道に行く、というが、これは大乗のうち聖道門で定めるところである。もし愚かなひとが、いま現在犯した罪を因として未来の果を導くものとすれば、地獄・餓鬼・畜生の三つの悪道に堕ちるであろう。人間界や天上界の果報は、五戒や十善を完全に守るのでなければ、どうして望みをかけられようか。まして、迷いの世界を超え、煩悩や生死を超えた真実の浄土に生れる道理はあるはずがない。
 しかしそうではあっても、いつの世の仏にも見ることができない阿弥陀仏の大願は、十悪・五逆・四重・謗法などの罪を犯すひとのためであるから、阿弥陀仏の願の絶大なはたらきをもって一切の因果を断ち切られ、三つの悪道に堕ちて受ける苦の原因を永遠に断たれて、もえさかる猛火ののようにはげしい悪業の果報を受けないですむならば、それははなはだしく因果の道理に背くわけである。もし「深く因果を信ずる」ものであるためには、前世に植えた悪因が引くものは、悪果でなければならないから、たとい阿弥陀仏の本願を信ずるとしても、そのときは阿弥陀仏の誓いのはたらきも役に立たないし、念仏のひとも三つの悪道に堕ちなければならないのではないか。もしそうだとすれば、阿弥陀仏が五劫という長いあいだ熟思を重ねた末に立てられた本願も、釈尊が真実を示された金言も、所仏が誠をつくして示された証明も、無意味とならなければならないのだろうか。おおよそ他力の教えは、釈尊一代の説法に一度も例がない、通常一般の聖道門の教えとはまったく別のものであって、言語を超絶した、思惟のとどかないものである、といわれるが、それは、愚かなひとが真実の浄土に生れるということから、そういわれるのである。もし因果は相互にめぐりあうという道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が骨折られた、他力という、勝れた浄土への特別な教えも空しくなってしまうだろう。その理由は、お助けになろうとする目当てである、生をうけたすべてのものが、因果は相互にめぐりあうという道理にとじこめられて、独自の誓いによってつくられた真実の浄土に生れることができないからである。いま、真実の浄土に生れる素質をもったものにお与えになる、仏の智慧のたまものとしての信心は、すなわち仏になるための原因であり、この仏になるための原因に引かれて得るところの、浄土に生れることを約束された境界から、涅槃の境界に到るのは、すなわち仏となった結果である。



さて、因果の道理を強調する親鸞会は、「横」の他力浄土仏教でしょうか。明らかに違います。「竪」の自力聖道仏教に近いです。一方で、親鸞会は他力の話もしています。他力の話をしているから浄土仏教だと主張していますが、実際は聖道仏教の真似をした教え方をしているのです。
親鸞聖人が、そのような教え方をどこかでされていますか。覚如上人、蓮如上人が因果の道理を強調されたことがありますか。歴代の善知識方のなされていない教え方が、正しいという根拠は何でしょうか。


親鸞会では、「30年、40年聞いた位で分かるものではない」、と説明しているのも当然です。「横」と「竪」の教えが混ざっている上に、「竪」の方に重きをおけば、何万年聞いても分かる筈がありません。
正しい因果の道理もわからず、「横」と「竪」の区別もつかない親鸞会は、まさに

教に昏くして真仮の門戸を知らず
行に迷うて邪正の道路を弁うることなし

です。

外道の因果の道理を用いている親鸞会で、求めれば求めるだけ「横超」から遠ざかります。会員さんはそのことに早く気が付いて、親鸞会を見限り、「横超の直道」に入って下さい。

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阿弥陀仏の本願を信ずるか疑うかで救いを判定する信疑決判の浄土門の教えに、聖道門の善悪因果の道理を持ち込むのだから合うわけありません。
親鸞会の勧める善は人集め・金集めだから聖道仏教まがいの外道ですが。
違うというなら一円単位で会計報告してもらいたいですな。

No title

名無し 様

仰るとおりです。
会員には建前上の善を勧めながら、会長と会は、善らしきこともしていません。
会員に善を勧める目的がどこにあるのか、それだけでも分かります。

調べて頂きたいこと

親鸞会員の使っている真宗聖典にはありませんが、本願寺のインターネットで公開しているものだと頭註などが載っています。

その中で、親鸞会が善を勧める根拠として出している御和讃には頭註がありまして、書かれ方からすれば以下のようになります。


【頭註】十九願のこころ、諸行往生なり

至心発願欲生と~

臨終現前の願により~

諸善万行ことごとく~

【頭註】二十願のこころなり、自力の念仏を願じたまえり

至心廻向欲生と~


という流れです。
Http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%87%B3%E5%BF%83%E7%99%BA%E9%A1%98%E6%AC%B2%E7%94%9F
に載っていると思いますので、調べてみて下さい。

親鸞聖人が、19願は諸行往生だと仰いますから、「善をしなければ信仰は進みませんよ」とはばからない団体は諸行往生確定ですね。

Re: 調べて頂きたいこと

真偽検証 様

仰る通りです。

ただ、親鸞会は三願転入であって、19願に留まらないから諸行往生ではないというような主張をすると思われます。

もちろん屁理屈ですけれども、それを信じているのが現会員ですから、なんとかしたいですね。

現会員を目覚めさせるよい根拠なり、説明があれば、また教えて下さい。

19願だけ説くのと、18願を説いた上で19願・20願を説くのでは、19願に何か違いが出てくるのでしょうかね?
違いが出てくるのだと言うなら、それこそ珍しい教えですね。

19願だけ説いても、18願を説いた上で19願・20願をといても、19願は諸行往生ですから本願にあらず。

行学が大事だからと言いながら、私が尋ねた2人の支部長は「私はまだ進んでないからわかりません」だそうです。
正直な答えに感謝しますが、やってもない人、やれてもない人に「進めば分かります」とか答えてほしくありません。

早く親鸞会という仮(偽?)を捨てて真に入ってもらいたいと思います。

Re: タイトルなし

真偽検証 様

なるほど、おもしろいですね。
親鸞会の人は、19願がどんな本願であるのかをよく理解していないから、
「私はまだ進んでないからわかりません」
という程度の回答しかできないのでしょう。

参考になりました。また、御意見をお聞かせください。

管理人さんの仰る通り、親鸞会の会員は19願とはどんな本願かわかっていません。私も会にいたころは分かっていませんでした。

正確に意味が分からないというのと、世間事が忙しいのと、一向専念高森会長で、自分でお聖教を拝読して調べようとしないですから。

19願は化土巻に説かれていますが、
方便の願:臨終現前の願(19願)
行:修諸功徳の善
信:至心・発願・欲生の心
その結果:胎生(化土往生)
ですわね。

親鸞会の人は、いつ「自分は諸善では助からない」と知らされて、20願へ進む気なんでしょうか?

親鸞聖人は法然上人という善知識のご教化によって、19願を「出でて」「離れ」と仰っていますから、「19願は本願にあらず、直ちに18願へ直入しなさい」と教える善知識に従い19願を離れました。

ただ自力捨てやらぬ内は心は20願ですから、一旦は20願へ入ったが、それも「出でて」「離れて」18願へ入ったというのが、親鸞聖人の三願転入のお言葉です。

教行信証には三願転入しか説かれてないと言い、会員に19願の実行(正確には19願の善に見せかけた人集め・金集め)という迂回の善をさせている団体は、親鸞聖人のお名前を語った、珍しい教えを弘めている新興宗教であり、外道です。

これからもぜひ親鸞会を破邪して頂きたく思います。

Re: タイトルなし

真偽検証 様

仰る通りで、よく理解されていると思います。

また情報があれば、教えて下さい。

こちらもできるだけのことはしてみたいと思っています。


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Re: 管理人のみ閲覧できます

御助言、ありがとうございます。
使わせて頂きます。

平生業成

親鸞会では「平生業成」を説きます。そして、「平生」とは「死後、死んだ後ではない」と説明します。しかし、本当は、「平生業成」の「平生」とは、「臨終」に対する言葉です。

つまり、「平生業成」とは、「臨終業成」・「臨終来迎」に対する言葉です。ここでは、往生の業事成弁するのは、「平生」か、「臨終来迎」を要期するのかの比較がなされています。前者は18願に相当し、後者は19願に相当します。

こうみると、「親鸞会でいうところの善のすすめ」は、18願(平生業成)を求めながら、19願(臨終来迎)の行の実行をすすめるというちぐはぐなことになっていることが分かります。

会員を辞める直前に、このことに気がつきました。

平生業成2

続きです。親鸞会では、『口伝抄』の内容とは違った形ですが、よく教えられている「体失・不体失往生のじょう論」の本来の内容をみると先ほどのコメントしたことがよくわかると思います。

「善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉(法事讃・下)なれども、〈正為衆生機不同〉(同・下)なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり」

(18願)ー念仏往生ー本願 ー平生に業事成弁ー十方衆生にわたるー(報土往生)
(19願)ー諸行往生ー非本願ー臨終来迎を要期ー定散の機にかぎるー胎生辺地に生まれる(化土往生)

先のコメントで述べたように、親鸞会の教え方はちぐはぐになっていることがよくわかります。

しかし、親鸞会では「体失・不体失往生のじょう論」を、『18願の「若不生者」の生まれるは、死後生まれさせるのか、この世で生まれさせるのかの争いである』と教えますので、『口伝抄』そのものを拝読しないとこのことには気が付けません。

何事も、お聖教の通りに説くのが大事だと思います。

Re: 平生業成2

元会員 様

仰る通りです。
親鸞会は、聖教をそのまま読んで解釈せずに、独自の解釈をしているところが非常に多いです。

それゆえに、正しい解釈ができるのは高森会長一人だという主張になるのですが、逆の言い方をすれば、高森会長にしか理解できないような教え方を歴代の善知識方がされた、敢て誤解するような表現をされたということになります。

とんでもないことだと思います。

素直に読んで、素直に解釈するのが、善知識方の御心に叶うものです。

三願転入の御文

上でコメントした人も書いていることですが、19願の行と果については、親鸞会でよく話をされる「三願転入の御文」にもはっきりと示されています。

「ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。」(教行信証化土巻)

「万行諸善の仮門(19願)」でえられる結果は、「双樹林下の往生(化土往生)」です。
しかも、親鸞聖人は、善知識方のお導きで、19願を「出た」「離れた」と仰っています。

どのように導くのが善知識なのかが明らかです。「そこは方便の仮門で、化土往生ですよ、すみやかに18願に直入して報土往生遂げられる身になりなさいよ。」このように勧めるのが浄土真宗ではないでしょうか?

教行信証化土巻の要門釈も
「しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。」
と結ばれています。
こういう御文は親鸞会では教えられません。

これも辞める直前に自分でお聖教を拝読していて気が付きました。自分でお聖教を拝読させないことに親鸞会の問題があると感じます。

Re: 三願転入の御文

元会員 様

よく勉強されていると思います。

会員の方で原文を読むことが難しい方は、『教行信証』も含めて親鸞聖人の御著書は、
現代語訳されたものがありますので、そちらを参考に読まれることを御勧めしたいですね。
もちろん、原文で読まれることがベストです。

真っ直ぐな教えをとことん曲げたのが親鸞会です。

これでは誰も理解できず、会員は阿弥陀仏の救いから遠ざかる一方です。

浄土和讃

本日たびたび投稿している元会員です。

よく勉強されていると言っていただきありがとうございます。

上のコメントの人が、親鸞会で「善のすすめ」の根拠として挙げる浄土和讃について書いていましたので、それについて思うところを述べてみます。

頭註を加えて、18願和讃、19願和讃、20願和讃とその直後の一首を順番に拝読すると、

「本願のこころ、第十八の選択本願なり」

至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ
不思議の誓願あらはして 真実報土の因とする

真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる
不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ

弥陀の大悲ふかければ 仏智の不思議をあらはして
変成男子の願をたて 女人成仏ちかひたり

「十九(じゅうく)の願のこころ、諸行往生なり」

至心・発願・欲生と 十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける

臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり

諸善万行ことごとく 至心発願せるゆゑに
往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり

「二十の願のこころなり、自力の念仏を願じたまへり」

至心・回向・欲生と 十方衆生を方便し
名号の真門ひらきてぞ 不果遂者と願じける

果遂の願によりてこそ 釈迦は善本・徳本を
『弥陀経』にあらはして 一乗の機をすすめける

定散自力の称名は 果遂のちかひに帰してこそ
をしへざれども自然に 真如の門に転入する

安楽浄土をねがひつつ 他力の信をえぬひとは
仏智不思議をうたがひて 辺地・懈慢にとまるなり

(根拠は
http://labo.wikidharma.org/index.php/浄土和讃
より引用させていただきました。)

最後の御和讃で、19願、20願の「安楽浄土をねがひつつ他力の信をえぬひと」は、不了仏智で化土にとどまることを誡めていることが分かります。

そこから18願和讃に戻って拝読すれば、「真実報土の因」である真実信心一つをすすめられていることがよくわかります。

これは、教行信証全体の構造に通じていると思います。

真仮廃立こそが親鸞聖人が徹底されたことです。御和讃を1首もってきて「善のすすめ」の根拠にすることはできるかもしれないですが、親鸞聖人があらわそうとしている御心は、お聖教全体を通してくみとっていくことが大事だと思います。

一部分だけ取り出せば、どんなことでも言えてしまいますからね。。。

しかし、会員のときは、とてもこのような読み方はできませんでした。

まだ会員の皆様にも、親鸞会関係の書物ではなく、善知識方の書かれたお聖教そのものを拝読していただきたいと思うばかりです。

貴重な御意見を頂きまして有難うございました

皆様から貴重な御意見を頂きまして、有難うございました。

高森会長よりも親鸞会を辞めた会員の方がよく勉強されていることが分かります。

現会員の方も、自分で勉強されれば、高森会長の不勉強さと不誠実さがはっきりわかるでしょう。

頂いた御意見は、今後紹介させて頂くこともあると思います。

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Re: 外道親鸞会


全くもって同感です。
多くの退会者は、同じ気持ちであろうと思います。
皆でひっくり返しましょう。
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