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2009-08-01

親鸞会は諸行往生10

親鸞会が、獲信のための善を勧める根拠としているのが、七仏通誡偈と19願および『観無量寿経』の定散二善です。親鸞会では、『本願寺なぜ答えぬ』に獲信のための善を勧める根拠が余すところなく書かれてあるという迷信が未だにあります。

しかし、800年前の法然上人に対する非難について少しでも知っているならば、これが如何に噴飯ものであるかが、お分かり頂けると思います。

法然上人が阿弥陀仏の48願中18願を選択本願、王本願とされて、諸善を廃して念仏を専修すべきことを主張されたことは、これまで何度か述べてきました。これに対して、当然のごとく聖道仏教の学僧達から激しい非難が浴びせられました。
『延暦寺奏状』に

一、一向専修の輩、経に背き師に逆う事

とあり、この中に

諸悪莫作諸善奉行は寧ろ七仏通誡にあらずや。

と書かれてあります。七仏通誡偈を根拠に、諸善を廃することの誤りを指摘しようとしていることが分かります。
また『興福寺奏状』九箇条の中に、

六、浄土に暗き失。
七、念仏を誤る失。


があります。浄土と念仏という浄土仏教の根本的教義に踏み込んでの非難です。つまり、これまでの浄土仏教の教義に照らしても、法然上人の主張は間違っていると説明したものです。

「六、浄土に暗き失」には、『観無量寿経』の散善について書かれています。親鸞会の公式ホームページの「承元の法難」には、「六、浄土に暗き失」が省かれているのですが、これは意図的なものであることに間違いありません。
この内容は
「用管窺天記」の自業自得の救済論
に詳しく書かれてありますので、御参照下さい。

「七、念仏を誤る失」には、


ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。


と念仏往生の18願のみを選択された本願としているが、他の47願も本願ではないか、と法然上人の主張に異議を唱えているのです。

また明恵高弁が『摧邪輪』を著して『選択本願念仏集』を徹底的に非難しています。その中で以下のように


解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし。これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。


と具体的に19願を出しているのです。善を勧められた19願は本願ではないのかと。
これ以外にも『観無量寿経』の定散二善を解説し、菩提心等の余行を廃するという法然上人の教えは、間違っていると長々と述べているのです。

ここで『本願寺なぜ答えぬ』を見てみると


 かくて、大上段に〝修善をすすめた文証など、あろうはずがない〟と、アッと驚く、タメゴローならぬ、外道よりも、あさましい放言をなさるのである。
(中略)
 仏教で『七仏通戒偈』は、有名である。
すべての、仏教に共通した教えを、一言で喝破しているからだ。
 「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」
 〝もろもろの、悪をなすことなかれ、もろもろの、善をなして、心を浄くせよ、これが、諸仏の教えだ〟
というのである。
 本願寺サン、『七仏通戒偈』も、お忘れになったのか、と驚かされる。
 修善が獲信の障害ならば、獲信が唯一の目的である仏教に、なぜかくも、修善のすすめが説かれるものか。
(中略)
「獲信の因縁に、善をすすめる親鸞会は、間違いだ。
修善のいらぬ真宗に、善をすすめる文証など、あろうはずがない」
 耳目を疑う、本願寺の非難に、文証をあげて、親鸞会は、次のように、答えてきた。
"汝は、修善をすすめる弥陀仏の、十九の願を、お忘れか。
定散二善をすすめた観経の、釈迦の教説をしらざるや〟と。
 でなければ、本願寺サン。
"弥陀の十九願や、定散二善は、獲信の因縁として説かれたもの〟と、まだ、ご存知ない、としか考えられぬ。



とありますが、如何でしょうか。
つまり、高森会長が言っている善の勧めは、まさに法然上人を非難した聖道仏教の学僧達の主張そのままなのです。すべては聖道仏教の真似です。親鸞会が諸行往生と言われているのは、当然至極のことです。

法然上人へのこれらの非難に対して反論されたのが親鸞聖人であり、『教行信証』なのです。
『教行信証』真仏土巻


それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。


と仰っていますが、阿弥陀仏の48願の中に、真実と方便とがあるとする願海真仮釈です。方便とは、もちろん権仮方便のことです。高弁らの19願も本願ではないかとの主張に対して、18願が真実であり、19願は方便であると言い切られたのです。

『教行信証』の構成については、コメント欄で真偽検証さんが解説されていますので、紹介します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
親鸞会の会員は、教行信証の構成すらわかっていません。
私も会にいた頃はわかっていませんでした。
一番最初の【一・標挙】を見ただけでもお分りになると思います。

教巻:大無量寿経
真実の教 浄土真宗

行巻:諸仏称名の願(17願)
浄土真実の行 選択本願の行

信巻:至信信楽の願(18願)
正定聚の機

証巻:必至滅度の願(11願)
難思議往生

真仏土巻:光明無量の願(12願) 寿命無量の願(13願)

化身土巻:至心発願の願(19願) 邪定聚の機、雙樹林下往生、『無量寿仏観経』の意なり。
至心廻向の願(20願) 不定聚の機、難思往生、『阿弥陀経』の意なり。

18願を、11願・12願・13願・17願・18願に開かれて、真実の教・行・信・証・真仏・真土を明らかにされたのが真仏土巻までの内容です。

ところが、願海には真実と方便があり、方便の人は真実の世界(報土)へは往けず、方便の世界(化土)にとどまります。

そして今は方便の世界と、なぜ方便の世界にとどまるのかについて明らかにしましょう、ということで化身土巻が説かれます。

方便の行をやったからと言って真実の世界へ入れるわけではありません。

真実の世界へ入るには真実の行でなければならないのは当然で、親鸞聖人はそれを明らかにしてきました。

18願真実の世界を白、19願・20願方便の世界を黒とすると、白を際立たせるために黒を持ってきて比較するという説き方です。

方便(仮)を捨てて真実(真)に入れというのが親鸞聖人の教えですから、覚如上人は「真宗の門においては、幾度も廃立を先とせり」と教えられました。

また、方便(自力)を捨てて真実(他力)に帰せよというのが親鸞聖人の教えですから、覚如上人は「今の真宗においては、専ら自力をすてて他力に帰するをもって宗の極致とする」とも教えられました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この通りです。

なお、前々回、前回と述べてきた二双四重の教判は、高弁らの非難に対しての反論であることもお分かり頂けると思います。

高弁が拘った菩提心についても『教行信証』信巻の菩提心釈


しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。
また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。



と解説しておられます。
『観無量寿経』については、顕説の方便義が19願意の定散二善、隠彰の真実義が18願他力念仏と解釈なされました。
それが『教行信証』化土巻の三経隠顕


釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。
すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。



です。

『教行信証』は、諸善を勧める人からの非難に対して著された反論書なのです。

高森会長は、法然上人を非難し、親鸞聖人の破られた聖道仏教と同じ主張をし、それを本願寺にぶつけるというとんでもない論法をしたのです。その結果どうなるか、本願寺は呆れるより仕方がないでしょう。

親鸞会は諸行往生であると非難すれば、的外れな非難と親鸞会内部でこそこそ言っているようです。本願寺でなくとも呆れ果てます。
内部で土蔵秘事の真似事をしている暇があれば、承元の法難を真面目に勉強せよ、と言いたい。『教行信証』の理解は無理でしょうから。

会員さんには、少しだけでもいいですから浄土仏教の歴史と『教行信証』の勉強をして頂きたい。そうすれば親鸞聖人の教えとは似ても似つかない邪義と確信できるでしょう。

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最短の道

たびたび投稿させていただいております。元会員です。

高森会長の言葉に
「選び抜かれた最短の道が善知識がたの教えである」(光に向かって123のこころのタネ)
というものがあります。

会員の皆様は、「最短の道」とは何についての最短の道と理解しておられるでしょうか?

仏教の目的は、「成仏」です。これはどんな宗派でも仏教である限りこの目的は変わりません。言葉を補うと、「生死輪転を離れて、仏のさとりを開くこと」が仏教の目的です。そして、浄土門では、さとりを開くのは浄土においてですから、「往生」することが一番の問題になります。

ですから、最短の道とは、「成仏」の最短の道、「生死を離れる」最短の道であると私は理解しています。

「『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて撰集せしめるところなり。
真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。」(教行信証後序)
と親鸞聖人が仰っている『選択本願念仏集』には、
「はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」
と教えられています。このお言葉は、『選択集』の結論ともいわれるお言葉で「三選の文」と言われています。親鸞聖人は『教行信証行巻』に引文され、『尊号真像銘文』では一句一句解説されています。

高森会長も、このお言葉が重要なお言葉であることを知っているのか、アニメ第2部で『選択集』の書写をしているシーンで、親鸞聖人が書写しているのはこの「三選の文」です。しかし、親鸞会には10年以上所属していましたが、なぜか「三選の文」についての解説を一度も聞いたことはありません。

ここで注目して頂きたいのは、「三選の文」の書き出しのお言葉です。「すみやかに生死を離れんと欲う」人に、「このようにしなさい」と仰っていることが分かると思います。
「すみやかに」に注目してください。
まさに「速やかに生死を離れようとしている」人に対して、「最短の道」を示されたお言葉なのです。
法然聖人は、正助二業以外(諸善)を雑行と仰っていますが、それは「抛てよ」です。
速やかに生死を離れるためには、「諸善は抛てよ」なのです。

この法然聖人の「選択本願念仏」のご法義に対し、聖道諸宗の人々は論難を加え、法然・親鸞両聖人は流刑にあわれました。

その聖道諸宗の人々の批判に対して、法然聖人の「選択本願念仏」のご法義を守るために、親鸞聖人は教行信証6巻をあらわされました。こうして、全ての人が平等に往生即成仏できる道は守られ、今日まで脈々と受け継がれ、今、自分がそのみ教えに遇えたのだと知らされます。

しかし、今日、「善をしなければ信仰はすすめませんよ」という珍説をとなえ、「最短の道」を閉ざしてしまっているのが高森会長なのです。

法然・親鸞両聖人が命をかけて守った「最短の道」を閉ざす人は、善知識でしょうか?悪知識でしょうか?よく考えてみてください。

目的が一番大事ということは高森会長がいつも話をすることです。
では、親鸞会会員の皆様は、何を目的に仏教を求めていますか?

それが「生死を離れる」ことならば、善知識方の仰る通りにさせていただきましょう。
「選び抜かれた最短の道が善知識がたの教え」なのですから。

Re: 最短の道

元会員 様

いつもコメント楽しみにしています。

現会員の方も、元会員さんのように正しく理解されれば、正しく求めることができ、金集め、人集めという"善"の勧めで、苦しむ必要はないのでしょうに。

教義的には破綻していますので、組織的にも破綻することを願っています。

先ほどのコメントの訂正

大事なところに誤字がありました。

(誤)「善をしなければ信仰はすすめませんよ」

(正)「善をしなければ信仰はすす【み】ませんよ」

親鸞会教義では、大事なところですので訂正させて頂きます。

管理人様へ
親鸞会教義に対する鋭い指摘をこれからもよろしくお願いします。
元会員が教義の誤りを指摘することで、現役の会員の皆様が目を覚ます手助けになればと思い、これからもコメントをしてきたいと思います。宜しくお願いします。


親鸞会現役会員の皆様へ
このサイトまで辿りついた方は、様々な記事をよく内容を読んで理解して頂きたいと思います。そして、高森会長が説いている内容は、本当に親鸞聖人のみ教えそのままなのかを考えてみてください。

今まで自分が信じてきたものを検証するのは勇気のいることです。私も親鸞会教義が正しいものであってほしいと思い、1年以上かかって検証を続けました。そして、説法を聞いても、新聞を読んでも、これは浄土真宗ではないと思い、ようやく親鸞会を離れることができました。

一般会員の皆様でも特に幹部の方は、時間・お金・体力のほとんどを費やして、親鸞会での活動に打ち込んでいると思います。昔でしたら全国の御法話に毎週参詣し、今では月3回の富山の行事に毎回参詣する、そして地元でも活動をする。自分のかけたものが大きいほど、その道を捨てるのは苦しいものです。

しかし、仏教を求める目的は何でしょうか?
私にとっては、「生死を離れる」こと一つでした。
その道が親鸞聖人の教えと違っていたならば、もはやそこに所属する意味はありませんでした。直接お聖教に向き合って、親鸞聖人の教えと親鸞会教義が異なると納得できたとき、納得して親鸞会を離れることができました。

講師部、特専部、親友部で、もしこのサイトを見られている方がおられるならば、自分が人生をかけた親鸞会が本当に親鸞聖人の教えを正しく説いているのかを、思考停止せずによく考えてもらいたいと思います。講師部、特専部、親友部の方々は、親鸞聖人の教えに命をかけた方々だと私は思っています。親鸞会という組織を守ることが大事なのか、親鸞聖人の教えを守ることが大事なのか、よくよく考えてください。
そして、考えた結論が
(1)「親鸞会教義イコール親鸞聖人の教え」ならば、様々な親鸞会の教義批判に対し、堂々と反論して頂きたい。
(2)「親鸞会教義は親鸞聖人の教えと異なる」ならば、一人でも多くの会員にそれを伝え、親鸞会を離れて頂きたい。
どちらの判断をされるかは分かりませんが、(1)か(2)のようにすることが、親鸞聖人の教えを守ることになるのではないでしょうか?

以上、私見を述べさせて頂きました。

今回の内容に自分のコメントを取り上げて頂き、光栄に思います。

親鸞会は、法然上人・親鸞聖人が命がけで叫ばれた阿弥陀仏の本願をねじ曲げ、幹部は詭弁を弄して会員を邪教に閉じ込めています。

修善は往生の資助にはならんが獲信の因縁になるなど、非難をかわすためのごまかし以外の何物でもありません。


以下は、元会員さんのコメントを読んで思ったことを述べさせて頂きます。

会員はとにかく信心決定することが大事で、成仏についてはどう考えているのか、甚だ疑問です。

私は、「往生成仏は信心決定した後についてくるおまけみたいに思っていないでしょうか?」という指摘を読んで、我が身を反省させられました。(私の白道だったと思います)

往生成仏については深く考えず、とにかく信心決定、信心決定。

そうすれば、この世は絶対の幸福に生かされ、死ねば浄土なんだからと、この世の救いばかりに目が行ってはいなかったか。

後生の一大事の解決に仏法聞いてるんだと言い張っても、そう言ってる自分自身、解決しようとしてる後生は何となく暗い程度で、恐ろしいと思う心はあまりないのではないか。

後生の心配より、足が痛い、今日の帰りはどうしようか、何食べようか、明日からの仕事はどうしようか、などなど。

どう生きるかの心配ばかりして、少しも後生が苦になっていないのではないか。

やはり解決したいのはこの世の問題ばかりというのが本音ではないでしょうか。

これでは、この世の利益を得たいという人とどこが変わるのでしょうか。

現当二益を求めているつもりで、本音は現益が欲しい、現益がほしいと求めているのが実態ではありませんか。



驚愕講義で会長は、成就文に死後のことは説かれてなく、成就文は本願全ての解説だから、本願には死後のことは説かれていないと言い切りました。

若不生者の「生」も、信楽に生まれるということだという独自の解釈に固執し、阿弥陀仏の目的である成仏を18願から外しました。

当益を本願から抜いてしまったのです。

これは、親鸞会はこの世の利益を求める新興宗教だという何よりの証拠です。



会員は、信心という人参を目の前にぶら下げられて、必死にかぶりつこうとしている馬だと思わずにはいられません。

教えとしては、
悪ばかり作り続ける私達だから、死んだら必ず無間地獄に堕ちる。

この後生の一大事、助かるには善知識高森先生の話を聞くしかない。

助かるには聴聞だけではダメで、善をしなければ信仰は進まない。

善とは破邪顕正(人集め)と財施(金集め)と…であり、中でも破邪顕正は最高の宿善だ。

聴聞と破邪顕正は車の両輪で、聴聞だけではその場をぐるぐる回るだけで進んでいかない。

そうやって横の道を進んで、縦の線で阿弥陀仏の呼び声を聞と聞いた一念に救い摂られるから、そこまで進め。

こういう教えに、親鸞聖人のお言葉を塗って色つけしているだけです。

こうして走れるだけ走らされ、それでも信心が得られないと、30年40年聞いてわかるものではないと言われる。

くたくたに使い古されて、その結果は何年求めたという足取りのみで、目的の信心は得られない。

退会となれば正御本尊は貸与だから返却させられる。


親鸞会の説く所は一念の救いでもなければ、現当二益の教えでも何でもありません。

会員は鞭打たれて走らされ、生きながらにして無間地獄に堕ちているのです。

このように大衆を騙し、金集めと人集めに狂奔する沈没寸前の船は、この世の中に存在すべきではなく、速やかに爆沈すべきです。

これからも管理人さんには親鸞会を破邪し続けて下さることを切に願っております。

元会員さんのコメントの感想

会員はとにかく信心決定することが大事で、成仏についてはどう考えているのか、甚だ疑問です。
往生成仏は信心決定した後についてくるおまけみたいに思ってはいないでしょうか?

とにかく信心決定、信心決定。
そうすれば、この世は絶対の幸福に生かされ、死ねば浄土なんだからと、この世の救いばかりに目が行ってはいないか。

解決しようとしてる後生は何となく暗い程度で、本当に解決しようとする気があるのか。

後生の心配より、足が痛い、あと説法終了まで○分しかない、今日の帰りはどうしようか、何食べようか、明日からの仕事はどうしようか、などなど。どう生きるかの心配ばかりして、少しも後生が苦になっていないのではないか。

やはり解決したいのはこの世の問題ばかりというのが本音ではないでしょうか。

「聴聞だけでは求道は空回り。破邪顕正と財施、善行の実践によって横の道を進ませて頂く。そして縦の線で阿弥陀仏の呼び声を聞と聞いた一念に救い摂られるから、そこまで進め。」

こう教えられ、走れるだけ走らされ、それでも信心が得られないと、30年40年聞いてわかるものではないと言われる。
くたくたに使い古されて、その結果は何年求めたという足取りと疲労のみ。目的の信心は得られないまま…

こうなっては永劫の後悔を残します。
会員は躊躇なく退会し、別の道に進まれることを念じてやみません。

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コメント有難うございます

いくつかコメントを頂きまして、有難うございます。

親鸞会での実体験に基づいたコメントで、心に響きます。

親鸞会の会員は、会長の教義が正しい、他はすべて間違っているという大前提ですべてを判断してしまいますので、当ブログも理解するのが難しい方もあるようです。

しかし、冷静になって聖教を読まれれば、疑問が生じる筈です。その疑問を親鸞会へ尋ねるのではなく、他のところへ尋ねるなり、本等で調べて下さい。

親鸞会の解釈と如何に違っているかが分かります。そこから先は、御自身で判断されればいいでしょう。

そのお手伝いができるように、私も精進したいと思っております。

仮説による比較・検証

その通りですね。
『高森先生のみ正しい、他は皆間違い』というのが会員の前提なので、根拠を挙げて話をしても相手に素直に入らないのがもどかしい所です。

ここを読んでいる会員の方は、
一、会長が正しい
二、会長が間違い
この二つの立場から、
【会長の話】と、
【お聖教、ブログ、ブログに出てくる根拠】
を比較・検証されたらどうでしょう。
こちらのブログでは、
・一切衆生必堕無間
・善知識に無条件服従
・獲信の因縁として善を勧める
の三つに絞って話が展開されているので、まずはこの三つを検証されるとよいと思います。

ただし、後生がどうでもよいという人は検証する必要はありません。後生が気になる・真っ暗で不安だ・解決したいという方はぜひ検証してみて下さい。
検証すると分かるのですが、
一の立場では次第相承の善知識の教え勧めと会長の教え勧めが必ず矛盾します。矛盾か、仏意は?ではなく、会長が仏意を知らないから矛盾するのです。
対して二の立場では、次第相承の善知識の教え勧めが何の矛盾もなく一貫するはずです。

そして後生を助かりたいなら、其名号(南無阿弥陀仏のいわれ、仏願の生起・本末)を正しく説かれる方から聴聞し、ただ今名号と一体にさせて頂き、往生一定の身になる。これより浄土真宗はないのだと知らされます。獲信の因縁として善をせよという教えも、不必要な指示に無条件服従することもありません。

阿弥陀仏の御心はお釈迦様のような仏様しか分からないと言うような、仏意に暗い知識からは離れ、善知識を探しましょう。

末灯鈔にも定散二善の勧めはない

末灯鈔【一・有念無念の事】に他力の中の他力(選択本願)と、他力の中の自力(十九願)の違いが分かりやすくはっきり教えられています。管理人さんもご存知かと思いますが、次のブログで役立てて頂ければと思います。



又正念といふにつきて二あり、一には定心の行人の正念、二には散心の行人の正念あるべし。この二の正念は他力の中の自力の正念なり。定散の善は諸行往生の言葉に摂まるなり。この善は他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。この故に第十九の誓願に、「諸の善をして浄土に廻向して往生せんと願ふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓いたまへり。臨終をまつことと来迎往生をたのむということは、この定心・散心の行者のいふことなり。

乃至

浄土宗のなかに真あり仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗の中の至極なり。方便仮門の中にまた大小権実の教あり。


前後に真実信心の行人についても書かれていて、違いがわかりやすいです。

Re: 末灯鈔にも定散二善の勧めはない

真偽検証 様

よく勉強されています。

どこかで取り上げてみたいと思います。

またよろしくお願いいたします。

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