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2009-08-01

親鸞会は諸行往生11

前回までで、獲信のための善の勧めの根本的誤りを述べました。賢明な皆さんはお分かりになられたと思います。
しかし、『本願寺なぜ答えぬ』にある親鸞聖人の御和讃を根拠として、獲信のための善の勧めがあるではないか、となおも固執する現会員さんが多くありますので、それについて解説します。

『浄土和讃』大経讃の三首


至心・発願・欲生と 十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける

臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり

諸善万行ことごとく 至心発願せるゆゑに
往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり



がその根拠となっています。

これについて元会員さんが的確なコメントをされていますので、紹介します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
頭註を加えて、18願和讃、19願和讃、20願和讃とその直後の一首を順番に拝読すると、

「本願のこころ、第十八の選択本願なり」

至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ
不思議の誓願あらはして 真実報土の因とする

真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる
不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ

弥陀の大悲ふかければ 仏智の不思議をあらはして
変成男子の願をたて 女人成仏ちかひたり

「十九(じゅうく)の願のこころ、諸行往生なり」

至心・発願・欲生と 十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける

臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり

諸善万行ことごとく 至心発願せるゆゑに
往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり

「二十の願のこころなり、自力の念仏を願じたまへり」

至心・回向・欲生と 十方衆生を方便し
名号の真門ひらきてぞ 不果遂者と願じける

果遂の願によりてこそ 釈迦は善本・徳本を
『弥陀経』にあらはして 一乗の機をすすめける

定散自力の称名は 果遂のちかひに帰してこそ
をしへざれども自然に 真如の門に転入する

安楽浄土をねがひつつ 他力の信をえぬひとは
仏智不思議をうたがひて 辺地・懈慢にとまるなり

(根拠は
http://labo.wikidharma.org/index.php/浄土和讃
より引用させていただきました。)

最後の御和讃で、19願、20願の「安楽浄土をねがひつつ他力の信をえぬひと」は、不了仏智で化土にとどまることを誡めていることが分かります。

そこから18願和讃に戻って拝読すれば、「真実報土の因」である真実信心一つをすすめられていることがよくわかります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

親鸞会で善の勧めの根拠としている御和讃は、19願のこころを説明されたということであって、勧められたのではありません。聖道仏教の学僧達と同じ発想です。

補足すれば、以前に一切衆生は必堕無間なのか3で紹介した『正像末和讃』誡疑讃も19願諸善、20願自力念仏を誡めておられます。

19願の諸善について明確に仰ったのは


自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがえば
自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける



だけで、他は20願の自力念仏についてです。


罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり



これに代表されるように、罪福(因果の道理)を信じて、念仏を自分の善根と考え、仏智不思議の本願を受け入れない人を誡められているのです。同じ様な御和讃が20以上もあります。
親鸞聖人は19願の諸善を勧められていませんので、19願の行人を誡めるまでもないのですが、法然上人の教えを受け継がれて20願は勧めておられることから、20願を取り誤っている行人に対してくどい位に誡めておられるのです。

そのことは親鸞会で重要視しています『教行信証』化土巻に明らかに書かれています。


しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
(要門釈)


ここでは、外道の人がせっかく仏教に入ったといっても、虚偽なる聖道仏教を信じている人ばかりであるから、浄土仏教へ誘い入れられるために釈尊は定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられたのだと仰ったものです。

その19願の結論として

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。(真仮分判)


とあり、19願諸善では化土往生しかできないから、19願は浄土を欣い慕わせるための願とされた善導大師の解釈が明らかであると締めくくられています。

一方20願については、


それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。
(中略)
しかればすなはち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまふ。阿弥陀如来はもと果遂の誓を発して、諸有の群生海を悲引したまへり。
(真門釈)


と最初に20願を勧めておられます。先に述べたように19願は勧めておられませんでしたので、扱いが違います。20願を勧められたのは、果遂の誓によって、18願他力念仏へ転入させるためです。

この結論として


まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。
(中略)
 悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。
(真門決釈)


とあります。しかし先に述べたように本願力回向の名号を、自分の造る善根としている行人は化土往生しかできないから、20願自力念仏に留まることを誡めておられるのです。

そしてこの次に、三願転入の文を書かれています。親鸞聖人の体験を三願に当て填められて仰ったのが、三願転入の文です。


ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。


三願転入の文を簡潔に述べれば、

七高僧方のお導きによって、今まで迷ってきた19願の方便を捨てて、20願に入ることができた。しかし、20願で留まることなく、果遂の誓であるから18願真実へ転入させて頂けた。

です。19願の方便を勧められたのではありません。法然上人は往生のための善をはっきり否定されたが故に、承元の法難が起きたのです。

親鸞聖人は聖道仏教の学僧達からの批判に対して、膨大な経論釈を引かれて巧みに反論しながら、18願の真実を開顕されました。『教行信証』化土巻から、親鸞聖人のその御心を知ることができます。

ここまで理解できれば、『本願寺なぜ答えぬ』の以下にある説明で、善の勧めを正当化させているトリックもお分かり頂けると思います。


「教・行・信・証・真仏土」の五巻に真実(真)の仏教、後の「化土」巻に方便(仮)の仏教を開顕し、"仮より真に入れよ〟が、親鸞聖人の、生命になっている。
(中略)
 誰もが、意識すると、しないとに、かかわらず、方便(仮)の道程を通らなければ、真実(真)の、絶対界には出られないのだ。
 方便(仮)を通らずに、真実(真)が、どうして、真実と、知れようか。真実を、真実と、知らすための、方便なのだから。



20願自力の念仏は勧められていてさえも誡められているのに、勧められてもいないで誡められるだけの19願、諸善をさせるのは、

1.親鸞聖人の教えを全く知らない
2.他の目的に利用している

のどちらかです。高森会長の数々の言動を見れば、1もありますが、2が主な理由でしょう。

はっきり申しましょう、会員の皆さんは嘘の善の勧めに利用されているだけです。目指す獲信は遥か遠くになります。
とにかく仮にもならない偽の親鸞会を捨てて、親鸞聖人の教えに従ってください。

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聖人の御本意

コメントを取り上げて頂き有り難うございました。

親鸞会を離れ、自分で浄土真宗の勉強をしていて分かったことの一つは、親鸞会では仏教用語がかなりメチャクチャな意味で使われているということです。

例えば、親鸞会にいる間は、「方便」ということについて、浄土真宗では「権仮方便」と「善巧方便」の二つが用いられ、意味が違うことを知りませんでした。お聖教を拝読していると、「方便」、「権仮」、「仮」、「善巧方便」などの言葉が出てきますが、これらはみな同じ「方便」というのが親鸞会時代の私の理解でした。

「権仮方便」と「善巧方便」の意味を知りたい方は、21世紀の浄土真宗を考える会のブログ
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/
で記事が複数ありますので、ブログの検索フォームに「方便」と入力して出てくる記事を読まれたらよいと思います。

親鸞会では、方便ということについて、
「教学聖典(2) 問6 仏教で方便とはどんなことか。
 答  ○我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なものを言う。」
と徹底され、管理人さんの『本願寺なぜ答えぬ』の引用のとおり、
【「教・行・信・証・真仏土」の五巻に真実(真)の仏教、後の「化土」巻に方便(仮)の仏教を開顕し、"仮より真に入れよ"が、親鸞聖人の、生命になっている。
(中略)
 誰もが、意識すると、しないとに、かかわらず、方便(仮)の道程を通らなければ、真実(真)の、絶対界には出られないのだ。
 方便(仮)を通らずに、真実(真)が、どうして、真実と、知れようか。真実を、真実と、知らすための、方便なのだから。】
という内容が、法話、教学講義などで繰り返し話されます。

だから、「親鸞会は諸行往生8」で書かれている
【簡単に解説すれば、真実の18願を受け入れることができない人を、18願へ導くために一時的に用いられる方便のことです。親鸞会で説くような外道の因果の道理を信じている人には、18願はとても受け入れられるものではありません。前回述べた通りです。そんな外道の人には聖道仏教を教え、19願、20願へ導かれて最後は、18願へ入れしめんとするものです。つまり、18願を聞いて既に知っていて、18願での救いを求めている人には、不要なものであり捨て去るべきものが、権仮方便です。】
というような説明が現在も会員のみなさんには、なかなか入っていかないのだと、最近、現役の会員さんと接していて感じました。

親鸞聖人から直接教えを聞いていた『歎異抄』の著者は、
「おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじく候ふ。」
と後序に記しています。ここでは、真実と権仮を、
○真実 ー実をとり ー真をもちいる
○権仮(権仮方便)ー権をすててー仮をさしおきて
と並べて書かれています。このことから、親鸞聖人がこのように説かれていたことが知らされます。

親鸞聖人の御本意は、「権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐる」ということなのです。

親鸞聖人が、教行信証に「化土巻」を書かれた意義を間違ってはならないと思います。

No title

高森会が使っている、真宗聖典(法蔵館)には、注はありませんね。
明治書院 の 聖典には、ありました。
ただ、疑問があります。
「本願のこころ、第十八の選択本願なり」 という注は、
「至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ
不思議の誓願あらはして 真実報土の因とする」
一歌 のみの注でないかと、

「弥陀の大悲ふかければ 仏智の不思議をあらはして
変成男子の願をたて 女人成仏ちかひたり」
には 「三十五願の意(こころ)なり」 と注があります。
わかる方教えてください。

Re: No title

世親菩薩(てんじんぼさつ) 様

親鸞聖人は真実の願は、17願、18願、11願、12願、13願の五願とされました。
一方方便の願は、19願、20願と仰っています。
この真実の五願は18願の内容を開いたものであって、五願は18願に摂まるとされています。
また18願の利益を表わす願が、33願、34願、35願となります。

ですから、35願を含めて18願のこころと考えても間違いではありません。

ここでは、浄土和讃において、18願、19願、20願の流れをいわれたかったのですから、問題ないと考えております。

世親菩薩(てんじんぼさつ)

世親菩薩(てんじんぼさつ)様

コメント欄に浄土和讃について投稿した元会員です。

以前のコメントでは、親鸞会で「善の勧め」の根拠として出される浄土和讃3首が
・「19願のこころ」を説明されたものであること
・そしてその前後の10首を拝読したとき、19願、20願にとどまることは戒められており、勧められているのは真実報土の因である真実信心であるということが分かること
を説明するために、あのような記述をしました。

質問の3首の御和讃についてですが、正確にいうと、
「至心・信楽・欲生と~」
は18願のこころ、
「真実信心うるひとは~」
は11願のこころ、
「弥陀の大悲ふかければ~」 (※「三十五の願のこころなり」の頭註がありましたが、書き漏らしてしまいました)
は35願のこころと理解しています。

浄土和讃の解説書を読むと、本願寺出版社から出ている聖典セミナー(黒田 覚忍 著 三帖和讃I 浄土和讃)では、上記のそれぞれの御和讃は、今、上に書いた願のこころを詠まれたものとして解説されていたと記憶しています(今、手元にないので確認できません、すみません)。
インターネット上で読める浄土和讃の解説は、利井鮮妙師の浄土和讃摘解があります。
http://www010.upp.so-net.ne.jp/hori-ken/kouroku/jyoudowasan-senmyou.htm
このURLにアクセスして、上の御和讃の意味を確認して頂けたらと思います。ここでも、それぞれ18願意、11願意、35願意を顕すものとして解説されています。

コメントをするときは、今後、表現には気をつけていきたいと思います。
今後とも宜しくお願いします。

No title

よくわかりました。

管理人さん、いつもの元会員さん ありがとうございます。
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