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2009-08-01

親鸞会は諸行往生12

これまでのところを読んで御理解頂いている方には、今回は蛇足になります。
『本願寺なぜ答えぬ』には善の勧めとして取り上げられている親鸞聖人の根拠が、あと2つありますので、念の為解説しておきます。

『本願寺なぜ答えぬ』には、

 十九・二十の方便二願は、真実、十八願に転入する、十方衆生の道程と、みておられることが、よくわかる。
 このことは『三経往生文類』にも、みえるが、いまは『愚禿鈔』の文を、あげておく。
「ひそかに観経(十九願)の三心往生を按ずれば、これすなわち、諸機自力各別の三心なり。大経(十八願)の三信に帰せんがためなり。」

「万行諸善の小路(十九願)より
 本願一実の大道(十八願)に
 帰入しぬれば涅槃の
 さとりはすなはちひらくなり」(高僧和讃)



と書いてあります。
権仮方便ということが理解されていれば、高森会長の御粗末なトリックは簡単に見破れますが、もう少し説明を加えてみましょう。
『愚禿鈔』で取り上げられた御文の前後を見ると、


おほよそ心について、二種の三心あり。
一には自利の三心、     二には利他の三信なり。
また二種の往生あり。
一には即往生、       二には便往生なり。
ひそかに『観経』の三心往生を案ずれば、これすなはち諸機自力各別の三心なり。『大経』の三信に帰せしめんがためなり、諸機を勧誘して三信に通入せしめんと欲ふなり。三信とは、これすなはち金剛の真心、不可思議の信心海なり。また「即往生」とは、これすなはち難思議往生、真の報土なり。「便往生」とは、すなはちこれ諸機各別の業因果成の土なり、胎宮・辺地・懈慢界、双樹林下往生なり、また難思往生なりと、知るべし。



となっています。
19願では化土往生しかできないから、報土往生の18願をはやく信じなさいと仰ったものです。18願の往生と19願の往生は別物で、並立するものです。
聖道仏教の学僧達から、諸善を勧める19願は本願ではないのか、と非難され、法然上人の教えを聞きながら、19願の往生を主張する人が多く現われましたので、親鸞聖人がこのように仰っておられるのです。その歴史的背景も知らねばなりません。
それで19願で往生しようと願っている人に対して、それは間違いであると誡めておられるのです。18願の難思議往生を求めている人に、19願の難思往生からスタートせよと仰ったものでないことは、少しでも古文が読める人なら分かる筈です。

なお、如何にも物知り顔で書いている『三経往生文類』についても述べますと、18願に関しては


大経往生といふは、如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力と申すなり。これすなはち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆゑに、無上涅槃のさとりをひらく。これを『大経』の宗致とす。このゆゑに大経往生と申す、また難思議往生と申すなり。


と仰っています。一方、19願に関しては


観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。これを双樹林下往生と申すなり。


とあります。18願は報土往生、19願は方便化土往生と仰っています。19願往生を誡められただけで、もちろん勧められたお言葉ではありません。
『愚禿鈔』と同じです。もちろん、前回紹介した『教行信証』化土巻と同じことを親鸞聖人は仰っているのです。

『高僧和讃』も、いうまでもなく同様の意味で、聖道仏教や19願に迷っている人に対して、18願の真実に帰入せよ、と仰ったものです。

これ以外にも『末灯鈔』にも同様のことを書き記しておられます。真偽検証さんがコメント欄で紹介されていますので、御参照下さい。

親鸞聖人は自力的要素を徹底的に排斥なされています。
紅楳英顕師の『派外からの異説について』には、


 そもそも宿善ということについては、私の論文にも述べているように、宗祖
聖人は、
  遇、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。(『教行信証』総序)
  遇、信心を獲ば遠く宿縁を慶べ。(『浄土文類聚鈔』)
と仰せられてある。宗祖聖人が宿善とは宿因等といわず、宿縁といわれている
のは、『教行信証』も『文類聚鈔』も同じであるが、これは、その直前にある
「弘誓の強縁」(他力)の「縁」の語をうけているものと考えられる。だから、
「遠く宿縁を慶べ」とは、ひとえに他力のお育てによるところであったと慶ば
れているのである。



と書かれてありますが、親鸞聖人は、宿善という言葉を使われてはいません。言葉を厳密に使い分けられた親鸞聖人ですので、宿善を敢て宿縁と仰った御心は、自力的な意味あいを無くされたかったのだと思われれます。
このことは、20願自力念仏さえも、厳しく誡めておられることからも伺われます。法然上人の教えを聞き間違えて、称える念仏を自分の善根とする人が多かったからでしょう。

前回も紹介しましたが、『教行信証』化土巻


おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。


また先ほどの『三経往生文類』で20願については、


弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。


と仰っています。
親鸞聖人が繰り返し仰っていることは、仏智疑惑の罪の深さです。
法然上人は信疑決判の教えを『選択本願念仏集』


次に「深心」とは、いはく深信の心なり。まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。


と著しておられます。法然上人の教えを継承されたのが親鸞聖人です。
ここでの疑は、浄土を願わない人も含みますが、19願の行人や20願の行人でさえも仏智疑惑によって化土往生しかできず、報土往生は叶わないのです。
そのために報土往生のために絶対に欠かせない信を問題にされたのが親鸞聖人です。行に拘っている限り、親鸞聖人の教えなど到底理解できるものではありません。

ましてや「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて」の領解文のお言葉が三願転入を表わしたもので、これが善を勧められた蓮如上人の文証というのは何ですか。『本願寺なぜ答えぬ』には、後ろめたさでもあるのか、そこがぼかして書いてあります。しかし「安心問答」にあった会員さんの以下のコメントから、会長が領解文のお言葉を善の勧めの根拠としている節があります。

「安心問答」領解文と三願転入について(maryさんのコメント)

「雑行を捨てよ」、が「まず雑行をして雑行が知らされてから捨てよ」と都合の良い解釈になっています。


全く支離滅裂です。
これだけのデタラメをよく考え出したものだと、驚嘆に値します。
親鸞会の機関誌に

まこと信心獲得した人に、唯一救いたもうた弥陀の本願を、己の名利でネジ曲げることなど、あり得ぬだろう。
 常に正しい聖人の教えを聞法し、自戒せねばなるまい。

と書いてあったそうですが、自分のことは分からないものですね。

しかしこれが親鸞聖人の正しい教えと未だに信じている人がいるのが不思議です。もし、デタラメ教義の内容をご存知ない方には、是非とも教えてあげてください。

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顕彰隠密

御開山聖人は「化身土巻」で顕彰隠密として、『観経』には顕著に説かれている教義と隠微にあらわされている教義があるとおっしゃる。 いま、「化身土巻」の十三文例の即便について少しく窺ってみよう。 下記の『観経』で、 即便往生という語についての御開山のお示しであ

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以前に「はずがない(雜行)」「はずがない(雜修)」というプリントが驚愕講義で配られ、学生は朝晩のお勤めで拝読していました。

正確ではありませんが、

・善行をやっていないものに、「雜行(善行)を捨てよ」と言われるはずがない。ないものを捨てよと言われるはずがないからである。善行をしているものに、雜行を捨てよと言われているのである。

・朝晩きちんとお勤めをし、念仏称えていないものに、「雜修(念仏)を捨てよ」と言われるはずがない。お勤めをちゃんとし、念仏称えているものに雜修を捨てよと言われ、また雜修が捨たったということがあるのである。

といった内容でした。


善導大師、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人、いずれの方々も「雜行を捨てよ」と教えられこそすれ、雜行を実行せよと勧められた方は一人もありません。

諸善と念仏を比較し、念仏の功徳がずば抜けて優れているということを示すために諸善が説かれているのはお聖教で明らかのに、どうもそれには無条件服従しないのが親鸞会です。

雜行が捨たるには、善を実行してできない自分が知らされないと捨たらないんだというなら、そう言われた根拠を示して頂きたいと思います。

三願転入の御文や御和讃、また今回の内容で挙げられた根拠では根拠にならないことは今までのブログで明らかです。

また、アニメのイダイケは制作者が意図して描かれていて、実際は定善を実行しておりませんので。観無量寿経を真宗聖典で読んでみて下さい。

縦の線まで、横の道を延々と行かなければたどり着けないという救いは、真宗の肝要である一念往生ではありませんので、現役会員さんはよく知って頂きたいと思います。

はずがない(雑行)

真偽検証さんのコメントの中にあった「はずがない(雑行)」と「はずがない(雑修)」があまりにも原文と違うので、おそらくほぼ正確な「はずがない(雑行)」をコメントします。


●はずがない(雑行)
 善行をやっていない人に、
「これだけ善をやっているのだから、死んでも悪い処へは行かないだろう」
(こんな心でやっている善行を雑行と言う)
などと言う心があるはずがない。
 そんな心のない人に
「その心(雑行)を捨てよ」
 といわれるはずもない。
 ないものを捨てよ、と言われるはずがないからである。
 善行をやっている人にのみ、雑行といわれるものがあるのである。


この文章は、浄土真宗の教義として正しいのかどうかよく考えて頂きたいと思います。

Re: はずがない(雑行)

真偽検証 様
いつもの元会員 様

コメントありがとうございます。
これまで当ブログで述べてきたことを理解して頂ければ、

はずがない

というプリントが、お笑いネタにしかならないと分かられるでしょう。
こんな出鱈目がいつまでも通用するはずがないです。

親鸞会最後の牙城である、善の勧めとは、この程度のものです。
高森会長は、親鸞聖人の御著書をほとんど読んだことがないのでしょうね。間違った教義と
知りながらも、この程度の詭弁で説得できると思ったとすれば、漫才です。

会員さんが、親鸞聖人の御著書を読まれない前提でしか通用しないことです。

真宗学を学ぶ学生よりも教学力がないです。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

Re: No title

有難うございました。
なかなかおもしろいですね。こういう人に判って欲しいですね。
今後の参考にさせて頂きます。

はずがない(雑修)

はずがない(雑修)も、ほぼ正確な文章が分かりましたのでコメントします。

●はずがない(雑修)

朝晩キチンとお勤めをし念仏称えていない人に、
「これだけ朝晩チャンとお勤めをし、これだけ念仏称えているのだから、死んでも悪い処へは行かないだろう」
(こんな心でやっている念仏を雑修という)
などと言う心があるはずがない。
こんな心のない人に
「その心(雑修)を捨てよ」
と言われるはずもない。
お勤めをチャンとし、念仏称えている人だけに雑修と言われるものがあり、また、雑修が廃ったということがあるのである。


今後の参考にして下さい。

いつもの元会員さん
正確ではなく、すみません。「はずがない」のアップありがとうございます。


現役会員さんは会長が書く縦と横の線による影響が強く、洗脳されていると私は思います。
南無阿弥陀仏を頂く一つで救いが決するのに、
「それはあくまで縦の線での事で、そこまでは横の線【要門(19願)の修善、真門(20願)の自力念仏】を通らなければ弘願(18願)の他力念仏の世界へは入れないんだ」
という具合に。

19願の定善散善をしている者は他力金剛の信心に昏く、修善は進道の資糧ともなりません。

○定散の自心に迷うて金剛の真信に昏し。(教行信証信巻)

○一。自力の修善は蓄へ難く、他力の仏智は護念の益をもって蓄へらるる事。
たとひ万行諸善の法財を修し蓄ふといふとも、進道の資糧となるべからず、故は六賊知聞して侵奪するが故に、念仏においては、既に「行者の善にあらず、行者の行にあらず」とら釈せらるれば、凡夫自力の善にあらず、全く弥陀の仏智なるが故に、諸仏護念の益によりて、六賊これを侵すに能はざるが故に、出離の資糧となり、報土の正因となるなり、しるべし。
(口伝鈔上【五・自力修善は蓄へ難く他力仏智は蓄へらるる事】)


親鸞聖人は全ての人に弘願(18願)を勧められており、要門(19願)の人に、導くために速に真門(20願)に入れとお勧めです。要門でできない自分が知らされたら真門に入れと勧めていますか?

親鸞会では、弘願(18願)によらねば助からないとは言うものの、会員に真門に入れと勧めるどころか要門を勧め、要門に押し留めてしまっています。
それも、弘願を求める人をです。

善知識方の勧めと、親鸞会の勧めが違っていることを知って下さい。
会長の深い御心(企み?)ではあっても、如来聖人の御心とは違っていますから注意しなければなりません。

続きです。

ではなぜ、親鸞会では昔から、信前の者に獲信の因縁として善を修せよとか、最近では善をしなければ信仰は進みませんよと言って、ひたすら善を勧めるのでしょうか?
善と言っても、名目上は19願の定散二善ですが、実際は違います。

学生の活動は法施(主にキャンパスで話し込みをし、最終的には会員にする。また、家族・友人を誘う)、教学、財施。
支部の活動は法施(主にチラシ撒き、文化講座に来た人に話し込みや次回の誘いやはり最終的には会員にする。また、家族・友人を誘う)、財施、教学。

親鸞会の勧める善は、大きくこの3つに集約されると思います。
長年会員だった人はよくわかると思います。

それが証拠に、この3つをより実行させるため、
○会費を多く納める人ほど前で聞ける。
○財施額が一定以上の人は恩徳報謝賞、顕正人数が一定以上の人は顕正精進賞が授与され、若くて財施・顕正共に一定以上の基準をクリアした人は遺弟会員に選ばれる。
○親鸞会発行の教学聖典や会長の話の中から出題される試験に合格すれば賞状が貰え、大導師→講師→大講師→…となるにつれ教学講義ではより前で聞ける。
○新聞・顕真などには、3つのいずれかで頑張る人が載る。
というような事が行われています。

教えが間違っていたら、その後の行も信も証も皆間違うから、まず教えを正しく聞くことが大事と言います。
そして、法施の事を破邪顕正とも言いますが、聴聞と破邪顕正は車の両輪みたいなもので、聴聞だけでは前へ進んでいかないと言います。
また、財施の事を喜捨とも言いますが、どれだけ喜捨させて頂けるかが信仰のバロメーターだとも言います。

こうしたことから親鸞会は発展し、会員数を伸ばしてきました。
ところが、最近では教えが親鸞聖人とかけ離れ、珍しい教えだということが露呈されてきました。
そういう団体ですから、教学・法施・財施をやらせる理由は誰でも想像がつくと思います。
要は、親鸞会的人間にするために教学によって親鸞会教義をたたき込み、会員を増やすために会員に法施という名の人集めをさせ、会や会の活動を支える資金を確保するために財施という名の献金をさせているということです。

教えが間違っているので、その教えに基づいている限り、目的の絶対の幸福は得られません。
善も19願の定散二善とは違いますから、化土往生すらできません。
人集めの労働力に使われ、金集めのいい鴨にされているのが、悲しいかな、会員の実態なのです。
もっと悲しいことに、会員は、自分が求めている道は正しいと信じ込んでいて、耳を貸そうとしません。
洗脳されていないようで、実は巧みに親鸞会的人間に洗脳されていたのです。

教えが間違っている証拠に、会員は私と法論をしようとしません。
破邪顕正は最高の宿善であり、破邪顕正しないと前へ進んでいかないらしいのですが、かつての仲間達は自分という邪を破って正を顕かにしようという気がないようです。
逆にこちらの方が、彼らを破邪顕正する気があるのですからおかしな話です。

早くこういう事に気付いてもらいたいばかりです。

Re:はずがない

覚醒剤を使用したことのない人に対しても、
覚醒剤に手を染めてはいけない、
と盛んに政府は言っていますよね。
もしかして、日本国民全員が覚醒剤を使用していると政府は考えて警告しているとでもいうのでしょうかね。

会長のいつもの低レベルの詭弁です。

ただし、雑行についていえば、親鸞聖人、蓮如上人当時は、諸善に励まなければならないと考えている人ばかりであったことも事実です。

また私たちの心を見てみれば、諸善を往生の足しにしようとする自力の心しかないのもまた事実です。

だからこそ、18願の世界へ出たいのならば、雑行を捨てよ、と教えられるのです。

いい加減に、「雑行を捨てよ」=「雑行をせよ」という基地外的な発想はやめてもらいたいものです。

雑行をせよと勧められた根拠を示してから、理屈を述べるべきです。

会員の方は、早く気が付いてください。

No title

誤字があります、
「本願寺なぜ答えぬ」(昭和五十九年六月五日第十版発行)には、
「大経(十八願)の三信に帰せんがためなり」(青文字の五行目)
とあります。

どうも気になって。

え~疑問があります。
「心」と「信」を使い分けて、おられますが、
どういう違いがあるのでしょうか?
わかる方教えてください。

Re: No title

世親菩薩(てんじんぼさつ) 様

御指摘有難うございました。早速修正しました。

なお、御質問につきましては本文中に引用しました『愚禿鈔』のお言葉に

おほよそ心について、二種の三心あり。
一には自利の三心、     二には利他の三信なり。

とある通りです。

利他の三信(りた の さんしん)

お返事、ありがとうございます。
自利の三心と利他の三信を理解するのに、
時間がかかりました。

自利の三心(じり の さんしん)
『観経』三心の至誠心・深心・回向発願心は、顕説(経文に顕著にあらわれた教え)の意味からいえば自力の心であるので自利の三心と名づける。

利他の三信(りた の さんしん)
『観経』の隠彰(微かにあらわされた教え)の意味からいえば阿弥陀仏の利他(他力)回向の信心であるので利他の三信と名づける。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社)より

✡利他の三信(『観経』の隠彰)とは、
至心・信楽・欲生我国の3っの信(こころ)
自利の三心(『観経』の顕説)とは、
至誠心・深心・回向発願心3っの心(こころ)ですね。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「上品上生といふは、もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず」
『仏説観無量寿経』 より

経文の上でいえば即と便は分けず「すなはち」と読むが、親鸞聖人は、「即便」という 文字によって、他力の往生を即往生、自力による往生を便往生とした。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社)

即往生(そくおうじょう)
信の一念の時、即時に正定聚の位につき定まり、真実報土の往生をとげる第十八願の他力の往生をいう。即の字に速疾(時をへだてない)の意味と正定聚の位につくという意味がある。

便往生(べんおうじょう)
化土に生ずる自力行者の往生をいう。往生即成仏の究竟の往生でないことを示す。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社)より

✡親鸞聖人は、「即便」(すなわち)という文字を、「即」と「便」に分けて、解釈なさったということですね。

便往生(べんおうじょう)とは、自利の三心
(『観経』の顕説)のこと
即往生(そくおうじょう)とは、利他の三信
(『観経』の隠彰)のこと
ですね。

便往生(べんおうじょう)を進める、高森会は
浄土真宗ではない、という結論にいたりました。

✡は、私の文章です
(文中に間違いがあれば、おしかりください)

✡天親菩薩は、往生論(浄土論)に
「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」
と述べておられます。

親鸞聖人は、三心一心問答(顕浄土真実信文類 (本))に
「至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり」
とあきらかにされています。

利他の三信(りた の さんしん)を勧められております。

Re: 利他の三信(りた の さんしん)

世親菩薩(てんじんぼさつ) 様

何が疑問であったのかよく理解しておらず、簡単な回答しかしませんでして、申し訳ありませんでした。

しかし、ご自身でよく調べられたと思います。

他人から教えられて分かったつもりになるよりも、自分で調べた方が、身につきます。
今日は、様々な媒体で調べることができますので、ご自身で納得されながら、本物の教学を学んで頂きたいと思います。
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