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2010-01-03

宿善とは1

親鸞会教義の根本的な誤りは、経典と善知識方の聖教を素直に拝読すれば、誰にでもわかることです。

ただし善については、しないよりはした方がよいに決まっているという思いが誰にでもあります。そこに付け込んで、宿善という名目で善をすることが獲信とよい関係にあると親鸞会は会員に理解させているのです。この考えこそが自力で捨てよと教えられているものですが、高森会長は巧妙なトリックで邪義を説いているのです。

宿善については、紅楳英顕師の『派外からの異説について』を先入観を廃して読まれれば、親鸞会の間違いが分かるのですが、理解できない人も多いようですので、宿善について少し述べたいと思います。

まず、宿善ということについて親鸞聖人がどのように考えられていたのかを知るために、法然上人関係の文書から宿善について見てみます。

法然上人の「十二箇条問答」に


ある時には、我が身の、宿善を、喜ぶべし。賢き、卑しきも、人、多しと、言えども、仏法を信じ、浄土を、願う者は、希なり。信ずるまでこそ、かたからめ、謗り、憎みて、悪道の因をのみ、作る、しかるに、これを信じ、これを貴びて、仏をたのみ、往生を志す、これ偏に宿善の、しからしむる也。只今生の、励みに有らず、往生すべき、期の至れる也と、頼もしく、喜ぶべし。斯様のことを、折に従い、事によりて、思うべき也。


とあります。信じがたい浄土を願い往生を志すことができたのは、偏に宿善によるものと法然上人が教えられていたことを示しています。

また『法然上人絵伝』第二十七巻には、


武蔵国の御家人、熊谷の次郎直實は、平家追討のとき、所々の合戦に忠をいたし、名をあげしかば、武勇の道ならびなかりき。しかるに宿善のうちにもよをしけるにや、幕下将軍をうらみ申事ありて、心ををこし、出家して、蓮生と申けるが、聖覚法印の房にたづねゆきて、後生菩提の事をたづね申けるに、さようの事は法然上人に、たづね申ベしと申されければ、上人の御庵室に参じにけり。



とあり、熊谷次郎直實は、宿善があって後生菩提を尋ねる心をおこして、法然上人のところへ参ったと記されています。
これらは、『大無量寿経』の往覲偈にある


もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。
清浄に戒を有てるもの、いまし正法を聞くことを獲。
むかし世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、
謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。
驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。
宿世に諸仏を見たてまつりしものは、楽んでかくのごときの教を聴かん。



『観無量寿経疏 定善義』


もし人浄土の法門を説くを聞き、聞きてすなはち悲喜交はり流れ、身の毛為竪つものは、まさに知るべし、この人は過去にすでにかつてこの法を修習して、いまかさねて聞くことを得てすなはち歓喜を生じ、正念に修行してかならず生ずることを得。


を受けられて、宿善がある人が阿弥陀仏の本願を聞けるのであって、そんな人は稀であることを法然上人が教えられていたことが分かります。

更には親鸞聖人が尊敬されていた聖覚法印の『唯信鈔』には、


つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。



と教えられています。ここで言われていることは次の通りです。

宿善の薄い人と厚い人があるが、それは今生で善悪をしている有様でわかる。自分は善いことを行おうという心がなく宿善が薄いが、五逆罪を犯しておらず、阿弥陀仏の本願を深く信じさせて頂いている。五逆罪の者の十回の念仏が宿善によるものであって、我々の一生の念仏をもって宿善の浅いこととどうして思うのか。その考えが往生の妨げになっている。

つまり宿善の厚薄を問題にすることが間違いであると言われているのです。

この詳しい内容につきましては

「21世紀の浄土真宗を考える会」
宿善の厚薄 唯信鈔の言葉


に、分かりやすい解説がなされていますので、御参照下さい。

ところが驚くことに、この『唯信鈔』のお言葉を断章取義して、真逆の意味で利用しているのが親鸞会です。

親鸞会で使われている『教学聖典(5)』なるものには以下の問いと答えが載っています。

(問)
 宿善の厚き人と、薄き人との違いを教えられた『唯信鈔』の御文を示せ。

(答)
 宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。
 宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず


『教学聖典(5)』にある他の問いと答えから、このお言葉が、宿善の薄い者は、宿善を厚くするように勧められたかのような誤解を生じさせる悪質な設問です。


親鸞会は諸行往生12のところでも述べましたように、親鸞聖人は宿善という言葉を御著書の中では1度も使っておられません。親鸞聖人は、経典や善導大師、法然上人、聖覚法印のお言葉を踏まえられた上で、宿善を宿縁と敢て言い換えておられます。自力的な要素を徹底的に排斥されたのが親鸞聖人ということも述べてきました。

法然上人の教えを受け継がれ、『唯信鈔』を同行に読むように勧められた親鸞聖人が泣いておられるでしょう。


最近、当ブログの読者から、獲信の報告を頂きました。大変喜ばしいことです。獲信とは捨自帰他です。阿弥陀仏に救われた人は、これ以外にないことをこの方も含めて皆語られます。当然なことです。なぜならすべてが阿弥陀仏のお力によるものだからです。

たとえどんな理由を付けようとも獲信のために修善に励むことは、阿弥陀仏の本願に反する行為です。雑行を捨てるためには、雑行に励まなければならないなどという考えが、阿弥陀仏の救いから遠ざけているのです。
『唯信鈔』のお言葉で言えば、「小智は菩提のさまたげといへる」なのです。
親鸞会会員の獲信を妨げている最大の原因が、善の勧めでしょう。


宿善という言葉を悪用して、獲信のために諸善を勧めることは、謗法罪です。獲信するために修善を勧めている人は、捨自帰他を体験していない異安心であるか、あるいは他人に獲信してもらっては困る理由があるかのどちらかです。

獲信された方数人が、一年前に親鸞会から除名処分になったと聞いています。その理由は、明らかでしょう。

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何を聞くのか?

管理人様:新たな記事ありがとうございます。

教学聖典(5)には、こんな問題もあります。

問28

(問)
「宿善」とはどんなことか、二通りの読み方を示せ。
また宿善が厚くなる順から三つあげよ。

(答)
○「宿世の善根」とか、「善が宿る」とも読む。
(1)熱心な聞法
(2)五正行の実践
(3)六度万行の実践

この問題には、『「熱心な聞法」が一番、「五正行の実践」が二番、「六度万行の実践」が三番という順番で「宿善が厚くなる」ということを善知識方は、どこに仰っているのか?』とか、『「獲信の因縁(宿善)として」上のようなことを実践せよということを善知識方は教えられているのか?』という根本的な疑問がありますが、それは今回は置いておくとして、「熱心な聞法」ということについて少し考えてみたいと思います。

親鸞会では、「熱心な」聞法とか、「真剣な」聞法とか、「火の海かき分けても聞かねばならぬ」などと聞法の「形」が大変強調されて教えられます。

しかし、大事なのは『「何を」聞くのか?』ということです。『蓮如上人御一代記聞書(51)』には、

「法敬申され候ふ。讃嘆のときなにもおなじやうにきかで、聴聞はかどをきけと申され候ふ。詮あるところをきけとなり。」

と教えられています。

では、「かど」とは何なのでしょうか?

真実の教である『大無量寿経』の流通分には、

「たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。」

と説かれています。「この経法を聞きて」とありますように、「大経の教え」を聞くのが大事だと分かります。その大経には何が教えられているのかということを、親鸞聖人は、『教行信証教巻』に簡潔に、

「如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり」

と示されています。このお言葉から、「如来の本願」、「仏の名号(南無阿弥陀仏)のいわれ」を聞くことが大事だということが分かります。ですから、先ほどの大無量寿経のお言葉を、親鸞聖人は

「たとひ大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなふなり」

と『浄土和讃』に示され、「仏の御名(南無阿弥陀仏)」をきくのだとハッキリと説かれました。

そもそも、釈尊は、

「聞其名号信心歓喜」

と18願成就文に説かれ、親鸞聖人はそのこころを教行信証信巻では、

「しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」

と教えられています。そして、蓮如上人も、

「願成就の文(大経・下)には「聞其名号信心歓喜」と説かれたり。この文のこころは、「その名号をききて信心歓喜す」といへり。「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。」(御文章3帖目6通)

と明らかにされています。

これらの善知識方の教えで明らかなように「かどをきけ」の「かど」とは、
「18願」のことであり、
「南無阿弥陀仏の六字のいわれ」であり、
「仏願の生起本末」です。

(なお、「かどをきけ」ということについては、「こんなことが知りたい」の中でも教えられています。)

真剣に聞法しても、熱心に聞法しても、『「何を」聞くのか?』が間違ってしまっていては大変です。

今日は12月31日です。
親鸞会現役会員の方も、今年1年間の聞法で何を聞いたのかを振り返ってみるのがよいのではないでしょうか?

「信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。」(御文章5帖目5通)

Re: 何を聞くのか?

いつもの元会員 様

コメント有難うございます。

教学聖典(5) 問28については、次回取り上げる予定でしたが、先に問題提起されてしまいました。

また来年も宜しくお願いたします。

謹賀新年

昨年は大変お世話になり、有難うございました。
何の宿縁でか、信を獲させて頂いた者の1人でございます。
今年もよろしくお願いします。


親鸞会では、宿善(主に財施と破邪顕正)を未来の救いに向けて修せよという事ですから大間違いです。

彼らからしたら、未来とは「今から死ぬまでの今生のいつか」でしょう。

その時点で既に只今の救いではなくなっているのに、気付かないんですね。

会員は誰かの受け売りで、決まって「後生の一大事ということがわからんからだぁ」と言ってきます。

「そっちこそ分かっているのか」と問いたくなります。

死ぬ時が今日、あと一時間先ということがある。

死を先延ばしにしているから「善をしなければ信仰は進みませんよ」と悠長に構えていられるのです。

こんな罪悪深重・無常迅速の機である私達は、一念往生を淵源とする十八願の救いに直入するしかないでしょう。

これが分からず十九願から始めなければならないとMCされている会員ばかりです。何とかわかってもらいたいんですが…

Re: タイトルなし

淳心房 様

謹賀新年

昨年は人生最高の年であったと思います。
貴ブログも頻繁に更新されているようで、頼もしい限りです。

大悲伝普化に精進しましょう。

本年もよろしくお願いいたします。

合掌
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