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2010-01-03

宿善とは2

前回、親鸞会が断章取義している『唯信鈔』の、


宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。


について書きました。
これと同じことを書かれたものが、『口伝鈔』第4章にあります。


宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。


ここでは宿善と宿悪というお言葉で表現なされています。
これは『口伝鈔』第4章全体を読まれれば、ここで聖覚法印と覚如上人の仰りたいことがよく分かると思います。全文は少し長いので以下に抜粋します。


一 善悪二業の事。
(中略)
しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ。
 ここをもつて光明寺の大師(善導)、「言弘願者 如大経説 一切善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁也」(玄義分)とのたまへり。文のこころは、「弘願といふは、『大経』の説のごとし。一切善悪凡夫の生るることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗りて増上縁とせざるはなし」となり。されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。
(中略)
善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし。



これでお分かりと思いますが、覚如上人は、

宿善あつきひと=善人
宿悪おおきもの=悪人

という意味で使っておられます。

悪もおそろしからずともいひ善もほしからず
かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからず
善もたすけとならず、悪もさはりとならず


つまり、阿弥陀仏の本願は、善人悪人関係なく救うということをここで教えておられるのです。もちろん善をせよという意味もありません。
これを踏まえて『唯信鈔』のお言葉を読まれれば、やはり同じことを教えられているとご理解頂けると思います。

『唯信鈔』ならば

宿善あつきもの=善人
宿善すくなきもの=悪人

ということです。

親鸞会で教えているように、宿善薄い人は厚くなるようにしなければならないというのは、悪人は善人にならなければ救われないといっているのと同じことになるのです。
親鸞聖人が『教行信証』信巻で、五逆罪を犯した阿闍世でも救われることを『教行信証』全体の1割も費やして教えられた御心を根底から覆すことになります。
そのことは
一切衆生は必堕無間なのか4
一切衆生は必堕無間なのか5
一切衆生は必堕無間なのか6
に書きましたので、時間のある方は読んで頂けるとより理解しやすくなります。

また『歎異抄』第1条


弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々。


の意味もまるっきり分かっていないのが親鸞会です。

このように書けば、親鸞会では善人になれといっているのではない、と反論があるでしょうが、『唯信鈔』のお言葉を用いて、宿善を厚くせよと言っている時点で、善人にならなければ救われないと主張していることなのです。
私たちのやった善は、獲信とよい関係になるのだ、と更に聖道仏教的な屁理屈をいうでしょうから、その邪義についても、覚如上人は次の第5章で完璧に破邪しておられます。


一 自力の修善はたくはへがたく、他力の仏智は護念の益をもつてたくはへらるる事。

 たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。ゆゑは六賊知聞して侵奪するがゆゑに。念仏においては、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」と等釈せらるれば、凡夫自力の善にあらず。まつたう弥陀の仏智なるがゆゑに、諸仏護念の益によりて六賊これを犯すにあたはざるがゆゑに、出離の資糧となり、報土の正因となるなり。しるべし。



親鸞会に当て填めれば、どれだけ法施、財施をしようとも、宿善として蓄えられて、獲信のもといとならないのです。それに対して念仏は、凡夫自力の善ではなく、すべて阿弥陀仏のお力ですから、報土の正因となるのです。自力の入り込む余地の全くないのが、他力です。この念仏はもちろん他力念仏のことです。
親鸞会では聴聞も宿善になると理解しているようですが、自分が聴聞したことで獲信できるとはとんでもない間違いです。
自力と他力の理解が根本的に狂っているのです。

『教学聖典(5)』には、

(問)
 「宿善」とはどんなことか、二通りの読み方を示せ。
 また宿善が厚くなる順から三つあげよ。
(答)
○「宿世の善根」とか「善が宿る」とも読む。
  (1)熱心な聞法
  (2)五正行の実践
  (3)六度万行の実践


とありますが、真宗とは全く無縁の論外な問答です。
これは以前に書いた親鸞会は諸行往生4で紹介しました、加藤智学編『香樹院講師語録』をもとにして、六度万行の実践を加えたものです。香樹院師は宿善を厚くする行為として教えられていませんし、もちろん善知識方の教えでもありません。ですから、この根拠を示すことは絶対にできません。高森会長の創作教義です。

親鸞会が、浄土真宗とか、親鸞聖人のお名前を使わなければ、単なる新興宗教と扱うだけですが、本当の親鸞聖人のみ教えを伝えている団体と大嘘を公言していることは絶対に許せません。


ネットでいわれているように、もし他人の著書を盗作したり、最高幹部の不倫を容認したり、偽装勧誘を指示するような十悪ばかりか、親鸞聖人の教えをねじ曲げる謗法罪を平気で造っているとすれば、「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」です。「宿悪おおきもの」の人物に、「宿善のあつきもの」になるよう、誰か勧めてあげてください。

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おそらく会員の頭には縦と横の線と人形の図があって、横の線を進まないと縦の線まで辿り着けないと考えているのではないでしょうか。
(稚拙ですが、以下のような図です)

  │
  │       ♀
  │       ∩
  ├────────
  │
  │
  │

実は、あの黒板の図こそが迷いの根本であり、会長のトリックなのです。

ここを読んでいる方は、聴聞をしたら、お勤めをしたら、善を実行したら、縦の線まで近づくように思っていませんか?

全く違うんです。ブログにも掲載されていましたが、覚如上人の次のお言葉を読んで下さい。

「一。自力の修善は蓄へ難く、他力の仏智は護念の益をもって蓄へらるる事。
たとひ万行諸善の法財を修し蓄ふといふとも、進道の資糧となるべからず、故は六賊知聞して侵奪するが故に、念仏においては、既に「行者の善にあらず、行者の行にあらず」とら釈せらるれば、凡夫自力の善にあらず、全く弥陀の仏智なるが故に、諸仏護念の益によりて、六賊これを侵すに能はざるが故に、出離の資糧となり、報土の正因となるなり、しるべし。」(口伝鈔)

あの図から言うと、私達がどれだけ励もうとも一歩も黒板の左へは行けないのです。

「たとひ万行諸善の法財を修し蓄ふといふとも、進道の資糧となるべからず」ですから。

あの図が頭にある限り、救いは未来のこととしか思えず、「只今、必ず救う」という18願に反しているのです。


このままでは、せっかく親鸞聖人の教えに遇いながら、また空しく流転を重ねて苦しみ続けなければなりません。

どうか会員の皆さん、親鸞会教義の誤りを正見して、悪知識の元から離れ、正意の安心に基づいて報土往生を遂げられる身になって下さい。

今のままで臨終を迎えなければならないとなったら、どうするんですか。

会長は助けてくれますか?親鸞会は何とかしてくれますか?

「この私」を救うことのできる御方は、阿弥陀仏ただ一仏です。

その阿弥陀仏が選択本願に誓われたことを誤り、疎かにし、方便願ばかり力を入れて説かれるようでは、助かるものも助かりません。

会員の皆さんが一日も早く本願に救われ、如来広大の恩徳を知らされて頂きたいと切に念じています。

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