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2010-01-09

宿善とは3

『御一代記聞書』の中に、宿善について記された以下の箇所があります。


一 他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。(234)


ここでは、「宿善」を「信心をうる」という意味で使われています。

「宿善」は、親鸞聖人が御著書の中で使われたことのない言葉ですから、その時々の文章によって宿善の意味が異なることがあるようです。一般的には、宿世の善根という意味で使われますが、浄土真宗ではほとんどが、阿弥陀仏のお育てと理解され、自力的意味を排除されます。

このことを踏まえた上で以下を読んでください。


親鸞会で、宿善を厚くせよ、宿善を求めよ、と教えている根拠が、『教学聖典(5)』に載っています。

(問)
 「宿善に厚薄あり」と言われた蓮如上人のお言葉と、
 その根拠を示せ。
(答)
○宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり、
 弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く
 開くる人もあり。
              (御一代記聞書)


この全文は以下の通りです。


一 陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。(307)


このお言葉は蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛されました『安心決定鈔』にあるお言葉を言い換えられたものです。『御一代記聞書』には、『安心決定鈔』からの引用が多数あります。
ここの関連部分を、説明の都合上前後も含めて紹介します。

『安心決定鈔』本

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。


『安心決定鈔』のこれらの部分は、阿弥陀仏が十劫の昔に、本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについて書かれたものです。『御一代記聞書』のこの部分は『安心決定鈔』を受けられて記されたのは間違いないでしょう。内容は同じです。

『御一代記聞書』の「已今当の往生あり」のところが、『安心決定鈔』では


すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり

已・今・当の三世の往生は不同なれども



ですので、
『御一代記聞書』の「宿善も遅速あり」は、『安心決定鈔』の


仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり



に当ります。「ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に


昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり


とありますので、「宿善」とは、信心のことを指していることがお分かり頂けると思います。冒頭の『御一代記聞書』の「宿善」と共通するものです。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、


弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり



に、そのことが明確に解説されています。ですから、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

親鸞会で教えているように宿善の厚薄について教えられたものではありませんし、ましてや宿善を厚くするようにという意味はどこにもありません。
『御一代記聞書』にも『安心決定鈔』にも、善を勧められたところは皆無です。勧められていることは、


信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなり


です。前回申し上げたように聴聞を自力と理解することは、親鸞聖人、蓮如上人の御心に反します。



明らかに善を否定されているにも関わらず、これが善を勧めた蓮如上人の根拠と理解しているとすれば、何ともお目出たいことです。『御一代記聞書』と『安心決定鈔』との関係について知らないことは、仕方がないでしょう。その程度の力しかないのですから。しかし、『御一代記聞書』だけ読んでもこんな無茶苦茶な珍説になりません。

このような人物の邪説を指摘することくらい、優秀な頭脳を持った会員さんならば、さほど難しくないと思います。あとは、確かめようとする気を起こすかどうかです。

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「宿善を厚くしてこい」などと阿弥陀仏は仰っていません。
「善のできない自分を知らされてこい」とも阿弥陀仏は仰っていません。

「そのまま」救うと誓われたのが阿弥陀仏です。
「そのまま」とは、「今の私のまま」ということですから「只今」救うということです。

親鸞会教義も、親鸞会が勧める善も間違いだらけです。早くこのようなくせ法門を言う人の手から離れて、「只今」救う本願に遇って下さい。

Re: タイトルなし

淳心房 様

退会者でも、宿善を厚くせよ、という会長のトリックが抜け切らない人が意外といます。

善の勧めは、宗教だけでなく、世の中の常識ですから、これを利用した極めて巧妙な罠といます。

一度填った罠から抜け出してこそ、真実の世界が開かれることでしょう。

貴殿のブログの内容は素晴らしいです。今後も期待しています。

判った!

御一代記聞書234は、会の御一代記聞書100箇条の85番にあって、宿善まかせ、というタイトルがついてます。そのため、宿善とは信心を得ることとハッキリ書いてあってもそう読めず、信心を得るために厚くすべきことと無意識に読んでました。また、宿善も遅速ありを、いつも、宿善も厚薄ありと、頭の中で変換して読んでいたように思います。宿善が厚くなるように(厚くするというと自力になるので、阿弥陀仏に厚くして頂けるように、というおまけまで付けられて)善に励め、と操作されていたのですね。わたくし、今まで聞いてきた言葉の一つ一つからチェックしてます。このホームページは、分かりやすくて、本当に助かります。

一 「時節到来と云うこと。用心をもし、そのうえに事の出で来候うを、時節到来とは云うべし。無用心にて事の出で来候うを、時節到来とはいわぬ事なり。聴聞を心がけてのうえの、宿善・無宿善とも云う事なり。ただ、信心は、きくにきわまることなる」由、仰せの由に候う。(蓮如上人御一代記聞書)

が親鸞会の根拠では?

Re: タイトルなし

> 一 「時節到来と云うこと。用心をもし、そのうえに事の出で来候うを、時節到来とは云うべし。無用心にて事の出で来候うを、時節到来とはいわぬ事なり。聴聞を心がけてのうえの、宿善・無宿善とも云う事なり。ただ、信心は、きくにきわまることなる」由、仰せの由に候う。(蓮如上人御一代記聞書)
>
> が親鸞会の根拠では?

、「宿善・無宿善」とは、18願での救いを願うかどうかのことですから、聴聞を心掛けた上で「宿善・無宿善」ということが言えると蓮如上人が仰ったのです。
つまり、18願での救いを願う「宿善の機」ならば、聞く気持ちがありますが、18願での救いを願っていない「無宿善の機」は、親鸞聖人の教えを聞く気持ちがないことを教えられた内容です。
もちろん、親鸞会がこの根拠を出しても、全く見当違いです。

Re: No title

> 信前も阿弥陀如来に遍照光明で育てて頂いているにもかかわらず、
> 何故、他力の善(雑毒の善)ではないのでしょうか。

ここがそもそも違います。他力の善とは、阿弥陀仏の為された善のことです。真実の善です。


> 衆生が
>
> 1・阿弥陀如来のお力で
>   善(本当は雑毒の善)をさせて頂いていると知らされていない。
> 2・自分の煩悩で行っている雑毒の善と知らされていない。
>
> 1.2.のどちらかに該当すれば自力の善(本当は雑毒の善)なのですか?
> 2・を満たせば自力の善(本当は雑毒の善)なのですか?
> 1.2を知らされていても信前なら自力の善(本当は雑毒の善)なのですか?
>
>
> 3・阿弥陀如来のお力で
>   善(本当は雑毒の善)をさせて頂いていると知らされている。
> 4・自分の煩悩で行っている雑毒の善と知らされている。
> 5・信心決定後である。
>
> 3・4・5を満たせば他力の善(雑毒の善)ということで良いですか。


1は勘違いです。阿弥陀仏のお力で善をさせて頂くのではありません。
2もニュアンスが違います。善をしてもその心が煩悩に染まっていますので雑毒の善ということです。
煩悩で行っている善と言う言い方はおかしいです。

他力の善という言い方はありません。

No title

聴聞を心がけることを続ければ、
無宿善の人も宿善が厚くなって、信心決定できるということですよね。

信前の聴聞は自力の善ではないでしょうか。

故に、親鸞会は、

信心決定して欲しいと願って聴聞をすすめていれば良し。
信心決定して欲しいと願って聴聞以外をすすめていれば怪。

となると思います。

Re: No title

> こころと煩悩の違いをご教示頂ければ幸いです。
> 浅学で誠に申し訳ありません。

菩提心は煩悩ではありません。深信因果も煩悩ではありません。

Re: No title

> 2014-06-29 11:11のコメントを
> 2014-06-29 15:26 のアドバイスを受け訂正します。
>
> 信前も阿弥陀如来に遍照光明で育てて頂いているにもかかわらず、
> 何故、他力の念仏(雑毒の善)ではないのでしょうか。
> 衆生が
>
> 1・阿弥陀如来のお力で
>   念仏(雑毒の善)をさせて頂いていると知らされていない。
> 2・自分の念仏が善では無く
>   すべて雑毒の善であると知らされていない。
>
> 1.2.のどちらかに該当すれば自力の念仏(雑毒の善)なのですか?
> 2・を満たせば自力の念仏(雑毒の善)なのですか?
> 1.2を知らされていても信前なら自力の念仏(雑毒の善)なのですか?
>

自力の念仏を雑毒の善とは言いません。
行は真実ですが、信心は信罪福心なので、自力の念仏といいます。

>
> 3・阿弥陀如来のお力で
>   念仏(雑毒の善)をさせて頂いていると知らされている。
> 4・自分の念仏が善では無く
>   すべて雑毒の善であると知らされている。
> 5・信心決定後である。
>
> 3・4・5を満たせば他力の念仏(雑毒の善)ということで良いですか。
>
> (2・4の表現方法にマイクロ波でアドバイスを受けました。)

念仏は真実の行、信罪福心で称える念仏を自力の念仏とします。
本願力回向の阿弥陀仏から賜った真実の行と受け取ることを他力の念仏tといいます。

Re: No title

> 聴聞を心がけることを続ければ、
> 無宿善の人も宿善が厚くなって、信心決定できるということですよね。

違います。宿善が厚くなるということはありません。
宿善が厚くなって信心決定するのでもありません。
宿善の薄い人が薄いままで信心決定するのです。

>
> 信前の聴聞は自力の善ではないでしょうか。
>
> 故に、親鸞会は、
>
> 信心決定して欲しいと願って聴聞をすすめていれば良し。
> 信心決定して欲しいと願って聴聞以外をすすめていれば怪。
>
> となると思います。

語弊はありますが、そのように考えられてもよいかもしれません。

真実の行は、阿弥陀如来のお力でさせて頂いている行。という意味で
はないのですか?

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

Re: タイトルなし

> >菩提心は煩悩ではありません。深信因果も煩悩ではありません。
>
> てっきり生存欲、自己愛に基く信心、菩提心かと思いました。
>
> 煩悩を断ぜずして涅槃を得 (正信偈)とありますので、
> 煩悩が時折、断じられることも無いと思っています。
>
> 煩悩とこころの関係が未だにわかりません。
> どう解釈されておられるのですか?

『正信偈大意』

「不断煩悩得涅槃」といふは、願力の不思議なるがゆゑに、わが身には煩悩を断ぜざれども、仏のかたよりはつひに涅槃にいたるべき分に定まるものなり。

断じるとは、煩悩を無くすことをいいます。

菩提心、深信因果が煩悩によるものであるとするなら、煩悩を断じたら(煩悩を無くしたら)、菩提心も深信因果も無くなってしまいます。

煩悩具足の意味を、煩悩以外には何もないと解釈されているようですが、煩悩がたくさんあるの意です。

「信巻」

外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。
もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。

ここで、「三業」は、意業・口業・身業のことで、三業で善をしてもです。「安心」は信心のことですが、自力の信心は煩悩に汚されているので、「雑毒の善」だというのです。菩提心・深信因果は意業の善、それとは別に煩悩があるのです。

もし、異論があるなら、根拠を出してください。

Re: タイトルなし

> >自力の念仏を雑毒の善とは言いません。
>
> 真に知りぬ。二河の譬喩の中に、「白道四五寸」と言うは、「白道」とは、「白」の言は黒に対するなり。「白」は、すなわちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。「黒」は、すなわちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人天の雑善なり。(教行信証・信)
>
> 自力の念仏も他力の念仏も、
> 煩悩具足の身で行うのですべて雑毒の善ではないのですか?


「信巻」

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。

念仏行は、阿弥陀仏から回向された行です。


「信巻」

『経』(観経)にのたまはく、〈一者至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。 一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。
もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。{乃至}
不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。

我等の為す善を雑毒の善とし、阿弥陀仏が菩薩の行を行じて成就なされたのが念仏です。
「不善の三業」が雑毒の善をさし、「善の三業」が阿弥陀仏の回向された行である念仏を指します。

自力の念仏についても

「化土巻」

経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、

雑毒の善を「少善」とし、自力の念仏を「多善根・多功徳・多福徳因縁」とします。善と念仏とは区別しないと真宗が全く理解できません。

「行巻」

しかるに教について念仏諸善比校対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、径迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。


念仏と諸善とを対比するのが真宗です。一緒に考えるのは真宗ではありません。

Re: タイトルなし

> >宿善が厚くなるということはありません。
>
> 確かに、宿善を過去世の善業という意味と思われているならば
> 厚くなることはありえないですね。
>
> しかし、Wikipediaには「生れる前の過去世に限らず、今までに積み重ねた善根をさすこともある。」とあるので、
>
> 宿善を信心決定までの善業という意味に定義するならば、
> 厚くなると思います。

通仏教の宿善と真宗の宿善の意味は違います。
そのことを説明したのに、理解されていないようですので、エントリーを二度三度と読み直してください。


>
> >信罪福心で称える念仏を自力の念仏とします。
>
> 自分が称える念仏を善と思って
> 未来世に福が来ると信じて称えている念仏を
> 自力の念仏というならば、
>
> 2・自分の念仏が善では無く
>   すべて雑毒の善であると知らされていない。
>
> と等しいと思うのですがどう思われますか。

先のコメント通りです。


> 一度聴聞しても救われなかった人には、
> 再度聴聞をすすめると思うのですが
> 信前の人に聴聞をすすめる事は
> その人に自力の善をすすめているのではないのですか?

聴聞は自力の善ではありません。
そのこともエントリーに書いてあります。

基本的な真宗の知識が欠落していますので、まずは、基本的なところから勉強されないと、会話自体が困難になります。たとえば、聴聞を自力の善だなどと、真宗において誰が仰っていますか。聴聞とは、阿弥陀仏の勅命を聞くことであり、信心そのものです。聴聞を重ねていくことで信心を獲るのではなく、その時の聴聞で阿弥陀仏の勅命を聞いて信心を獲るのです。信心を獲ていないのは阿弥陀仏の勅命を聞いていないのであり、聴聞していないのです。

もう一度、聴聞は自力の善ではありません。あなたの主張する根拠があるなら出してください。

話はそれからです。

No title

誠に申し訳ありません。もっと詳しく書きます。

阿弥陀如来の遍照光明で育てて頂いている最中にもかかわらず、
阿弥陀如来のご勅命を聞いていない信心を自力の信心。

阿弥陀如来の遍照光明で育てて頂いている最中にもかかわらず、
阿弥陀如来のご勅命を聞かずに称える念仏を自力の念仏。

阿弥陀如来の遍照光明で育てて頂いている最中にもかかわらず、
阿弥陀如来のご勅命を聞いていない聴聞は自力の聴聞ではないのですか?

No title

あなたの創作話をいくら書かれても、全く無意味です。喩え話は、要りません。
親鸞聖人、蓮如上人があなたと同じ主張をどこかに仰っているのか尋ねているのです。

「信巻」

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

『一念多念証文』

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

これを聴聞といいます。
自力の聴聞という言葉がどこにあるのかを尋ねています。
「他力の教えをきいて他力になる」のが聴聞ですが、「他力の教えを聞きながら自力で求める」が聴聞になると誰が教えていますか。
敢えて言うなら、「他力の教えを聞きながら他力になれずにいるのを嘆いて、他力になろうと強く願う」のは、聴聞になりきれていない偽の聴聞ではありますが、いつか本物の聴聞になるでしょう。
自力の聴聞という自力を勧める邪の教えを聞いてそのまま信じていたら、本物の聴聞になることは永久にありません。

再度、いいます。

まずは、真宗の基礎から勉強してきてください。そうしないと会話が成立しません。どうしても会話したいと思われるのなら、自力の聴聞と言われた根拠を挙げてください。それなしでは、外道の人と話をしているのと同じです。

No title

「念仏行は雑毒の善」この根拠を挙げてください。
無ければ、二度と言わないようにしてください。

No title

またあるひとのいわく、「曠劫よりこのかた、乃至今日まで、十悪・五逆・四重・謗法等のもろもろのつみをつくるゆえに、三界に流転していまに生死のすもりたり。かかる身のわずかに念仏すれども、愛欲のなみとこしなえにおこりて善心をけがし、瞋恚のほむらしきりにもえて功徳をやく。よきこころにてもうす念仏は万が一なり。その余はみなけがれたる念仏なり。されば切にねがうというとも、この念仏ものになるべしともおぼえず。ひとびともまた、さるこころをなおさずは、かなうまじともうすときに、げにもとおぼえて、まよいそうろうをば、いかがしそうろうべき。」

 師のいわく、「これはさきの信心をいまだこころえず。かるがゆえに、おもいわずらいてねがうこころもゆるになるというは、回向発願心のかけたるなり。善導の御こころによるに、「釈迦のおしえにしたがい、弥陀の願力をたのみなば、愛欲・瞋恚のおこりまじわるというとも、さらにかえりみることなかれ」(散善義意)といえり。まことに本願の白道、あに、愛欲のなみにけがされんや。他力の功徳むしろ瞋恚のほむらにやくべけんや。たとい欲もおこり、はらもたつとも、しずめがたく、しのびがたくは、ただ仏たすけたまえとおもえば、かならず弥陀の大慈悲にてたすけたまうこと、本願力なるゆえに摂取決定なり。摂取決定なるがゆえに往生決定なりとおもいさだめて、いかなるひときたりていいさまたぐとも、すこしもかわらざるこころを金剛心という。しかるゆえは如来に摂取せられたてまつればなり。これを回向発願心というなり。これをよくよくこころうべし。」(後世物語聞書)

No title

『後世物語聞書』で言われていることは、念仏を称えても欲や怒りの煩悩によって汚されるのかということですが、結論は

念仏が煩悩によって汚されると思うのは、自力の念仏
念仏が煩悩によって汚されることがないと信じているのが、他力の念仏

こういうことです。
それと、諸善と念仏とは全く違う行だということを先のコメントでも述べましたが、御理解いただけたでしょうか。

諸善は、衆生から阿弥陀仏に回向する行
念仏は、阿弥陀仏から衆生に回向された行

根本的に異なるのです。衆生の煩悩によって影響を受けるようなものではありません。それを、上記のように、煩悩によって影響を受けると思っている人は自力の念仏でしかないのです。

雑毒の念仏と考えることが、自力の念仏ということです。

しかし、自力の念仏には功徳が少ないのが現実ではないかと思われるかもしれませんが、先のコメントで紹介したように

自力の念仏は多善根・多功徳・多福徳因縁です。
一方、諸善は少善根・少功徳・少福徳因縁です。

したがいまして、諸善と自力の念仏とを同じように考えること自体がおかしいのです。

難しい理屈を考えられても関係ありません。

No title

「釈迦のおしえにしたがい、弥陀の願力をたのみなば、愛欲・瞋恚のおこりまじわるというとも、さらにかえりみることなかれ」

現代語訳

釈尊の教えにしたがい、阿弥陀仏の本願のお力に身をまかせたならば、欲・怒りの心がおこり交わっても、気にかけるな

この原文

仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによつて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見て慶喜すること、なんぞ極まらんと喩ふるなり。

現代語訳

そこで、釈尊が西方浄土へ往生せよとお勧めになるのを受け、また阿弥陀仏が大いなる慈悲の心をもって浄土へ来れと招き喚ばれるのによって、今釈尊と阿弥陀仏のお心に信順し、貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、ただひとすじに念仏して阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせ、この世の命を終えて浄土に往生し、仏とお会いしてよろこびがきわまりない。このことをたとえたのである。



再々読を願います。

No title

『尊号真像銘文』

「不断煩悩得涅槃」といふは、「不断煩悩」は煩悩をたちすてずしてといふ、「得涅槃」と申すは、無上大涅槃をさとるをうるとしるべし。


『正信偈大意』

「不断煩悩得涅槃」といふは、願力の不思議なるがゆゑに、わが身には煩悩を断ぜざれども、仏のかたよりはつひに涅槃にいたるべき分に定まるものなり。

>涅槃を得ている時も煩悩を断じれていないと思うのですが・・・。

完全に間違いです。
聖道門では煩悩を断じて涅槃に至ると教えます。しかし、阿弥陀仏の本願は、煩悩を断じなくても、煩悩のあるままで涅槃に至らせて頂けることを仰ったものです。涅槃とは煩悩の火の消えた状態です。常識が無さ過ぎます。


>「黒」は、すなわちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人天の雑善なり。(教行信証・信)

>自力では、天界の神々(天人)でさえも雑善しかできないという意味ではないのでしょうか。

現代語訳は

「黒」とはすなわち、無明に汚れた行であり、また、声聞や縁覚、人間や神々の修める煩悩のまじった善であることをいう。

自力とか他力とかの以前に、諸善は皆雑毒の善になるということです。
くどいようですが、念仏は諸善には入りません。

『後世物語聞書』については前回のコメント通りです。

No title

>涅槃を得ている時も煩悩を断じれていないと思うのですが・・・。

現生正定聚を涅槃ともいうのかと思っていました。
誠に申し訳ありませんでした。

No title

>念仏が煩悩によって汚されることがないと信じているのが、他力の念仏

念仏が煩悩によって汚されても阿弥陀如来の救いにさわりがないと信じるのが、他力の念仏ではないのですか?

No title

もう一度言いますが、念仏は衆生の善でも行ではありません。阿弥陀仏の善であり行です。
したがって、衆生の煩悩によって汚されるものではありません。

『歎異抄』

念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと


『口伝鈔』第五条

一 自力の修善はたくはへがたく、他力の仏智は護念の益をもつてたくはへらるる事。
 たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。ゆゑは六賊知聞して侵奪するがゆゑに。念仏においては、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」と等釈せらるれば、凡夫自力の善にあらず。まつたう弥陀の仏智なるがゆゑに、諸仏護念の益によりて六賊これを犯すにあたはざるがゆゑに、出離の資糧となり、報土の正因となるなり。しるべし。

No title

雑毒の因、雑毒の果と勝手な命名をしないで頂きたい。
たとえもどうかとは思いますが、雑毒は煩悩によって汚される諸善に対して言われるものであり、念仏は煩悩があっても汚されないから雑毒ではありません。不適切な表現です。

念仏について雑毒の念仏・雑毒の因・雑毒の果と仰った根拠を出してください。
なければ、終わりです。

No title

根拠は、あなたがご自分で出されています。

一 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々(歎異抄)

非行とは非自力行という意味で、他力行のことですから、
念仏は、阿弥陀如来には善行因善行果となることに異存はありません。

しかし念仏は、行者には(非行非善)因(非行非善)果です。

非善なのですから、
阿弥陀如来から広大な功徳がそえられる雑毒の善(悪)だと思います。
諸善は、同じ雑毒の善でも阿弥陀如来から極微小の功徳しかそえられません。

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念仏は煩悩に汚されることは無いのではなく、
念仏は煩悩に汚されても阿弥陀如来の救いに全く碍(さわり)にならないだけだと思います。

善導の御こころによるに、「釈迦のおしえにしたがい、弥陀の願力をたのみなば、愛欲・瞋恚のおこりまじわるというとも、さらにかえりみることなかれ」(散善義意)といえり。(後世物語聞書)


※※※ あなたは、善導大師が意訳しすぎているとおっしゃられているのですか?

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※※※ 上記の2014-07-04 19:48のコメントにお答え頂ければ幸いです。

No title

私は以下のように何度か書きました。


念仏について雑毒の念仏・雑毒の因・雑毒の果と仰った根拠を出してください。


しかし、一度も根拠が出てきません。誰かが、 「雑毒の念仏」・「雑毒の因」・「雑毒の果」と仰っていなければ、貴方の造語で終わりです。
意味が理解できなければ、理解できる学生にでもお聞きください。



「釈迦のおしえにしたがい、弥陀の願力をたのみなば、愛欲・瞋恚のおこりまじわるというとも、さらにかえりみることなかれ」

現代語訳

釈尊の教えにしたがい、阿弥陀仏の本願のお力に身をまかせたならば、欲・怒りの心がおこり交わっても、気にかけるな


何が問題なのかさっぱり理解できません。善導大師が、念仏は煩悩に汚されないから煩悩があっても気にするな、の何に拘っているのか、全く理解不能です。

何れにしましても、根拠がない創作教義の方とは、話ができませんので、これで終了です。
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