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2009-07-30

親鸞会は諸行往生4

【質問】
ご親切にさらに詳しいコメントをいただき感謝いたしますm(__)m。

あの、もうすこし教えていただいてもいいでしょうか?
浄土真宗では往生のための善はやっても意味がないというふうに理解していいのでしょうか?

また、善に励むほど法鏡に照らされて真実の自己が知らされるときかされてきましたが間違いなのでしょうか?


【回答】
善導大師、法然上人は、善を捨てて、念仏を称えなさい、と仰っておられます。
親鸞聖人、蓮如上人は、善ではなく、聴聞をしなさい、と仰っておられます。

善知識方が、往生のために善をせよ、と仰っていないことを、どのように理解されますか?

『選択本願念仏集』には、

諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。
もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。
もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。
しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。
もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し
。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。
しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。


とあります。善のできるほんの一握りの善人のために建てられた本願ではないということを法然上人は仰っています。

善ができると固く信じて、18願をとても受け入れることのできない善人は、19願を実践される方がよいかもしれません。

先日の降誕会で、親鸞聖人の比叡山での御修行によって、機の深信が知らされて救われた、という話がありましたが、過去に命懸けで修行をされた方は、親鸞聖人だけではないでしょう。しかし、それらの人達が、善のできない自分であったと知らされたでしょうか。知らされていなから、浄土仏教に帰依せず、浄土仏教を非難したのではないでしょうか。

求道者の心構えについて、親鸞会でも有名な香樹院師は、以下のように教えられています。加藤智学編『香樹院講師語録』より

禅僧弘海曰く。予かつて師に問う、
私、浄土真宗の教えに帰し、
御講師に随い聴聞いたせども、
未だ心に聞え申さず、如何致すべく候や、と。
師の仰せに、
汝まづ聖教を熟覧せよ、と。

則ち命のごとく拝見候いしが、文義はわかれども、
我が出離にかけて思えば、往生一定ならず。
再び、如何せんと問い参らす。
師曰く、よく聞くべし、と。

予聞いて云わく、
よく聞くとは如何聞くべきや。
師曰く、骨折って聞くべし。

予云わく、
骨折るとは、遠路を厭わず聞き歩くことに候や、
衣食も思わず聞くことに候や。
師曰く、しかり。

予また問うて云わく、
しからば、それほどに苦行せねば聞えぬならば、
今までの禅家の求法と何の別ありや。
師呵して曰く、
汝法を求むる志なし、いかに易行の法なりとも、
よく思え、今度佛果を得る一大事なり。
しかるに切に求法の志なき者は、
これを聞き得ることをえんや、ああうつけ者かな、と。

予云わく、
しからば身命を顧みぬ志にて、聞くことなりや。
師曰く、
もっともしかり。切に求むる志なくして、
何ぞ大事を聞きえんや。
また曰く、常に絶え間なく聞くべし、と。

予問い参らするよう、
それはその志にて聴聞つかまつれども、
法縁の常になきを如何致すべきや、と。
師その時に、
何ぞ愚鈍なることを云うぞ。法話なき時は、
聞きたることを常に思うべし。
聞く間ばかり聞くとは云わぬぞ。
また曰く、
汝眼あり、常に聖教を拝見すべし、
これまた法を聞くなり。
もしまた世事にかかりあい、聞見常に縁なき時は、
口に常に名号を称すべし、これまた法を聞くなり。
汝信を得ざるは業障の故なり。
さればいよいよ志を励まし、かくの如く常に心を砕き、
よく聞けよ。信を得る御縁は聞思に限るなり、と。

予問うて云わく、
法話を聞くことと、
自ら聖教を読んで我が耳に聞くということとは、
有り難く承りぬ。ただ、念佛するを聞くと申すは、
われ称えて我が声を聞くことに候や。
師大喝して曰く、
汝何事をか云う。我が称える念佛というものいづこにありや。
称えさせる人なくして、罪悪の我が身何ぞ称うることをえん。
称えさせる人ありて称えさせ給う念佛なれば、
そもそもこの念佛は、何のために成就して、
何のためにか称えさせ給うやと、心を砕きて思えば、
即ちこれ常に称えるのが、常に聞くのなり、と。

予、この一語心肝に徹し、はっと受けたり。
心に思うよう。
我至成佛道、名聲超十方、究竟靡所聞、誓不成正覚。
また第十七の願に、我が名を諸佛にほめられんとの誓いは、
名号を信ぜさせんとの御意なり。
かつまた、常に聞くと申すことは、
ただ法話のみを聞くことと思いしは誤りなりき。

あわれ、志の薄かりしことよと恥ぢ入り、
今まで禅門において、知識より、
汝今をも知れぬ命なれば、昼夜十二時思惟して、
この公安を拈底せよ、しばらくも忘るることなかれ、
と云われしことを思い浮かべ、
聞思して遅慮するなかれ、との祖訓を、
見聞集に尽したまいしことを感悟し、
それより常に法話なき時は聖教を拝聴し、
朝夕は『大經』、『正信偈』、『和讃』、『御文』を拝読し、
また常恒に念佛を拝聴し奉るに、
われ今称うる念佛には、御主ありて称えさせ給うなり。
しかればただ称えさせるを詮としたまわず。
称えさせ給うは、助け給わんために、
一声をも称えさせて下さるることよと思えば、
それより称えることについて、
尊く称えさせてくださるる身となりしなり。
このこと今に耳にありて、忘るる能わず、
と申されけり。


聴聞の心構えについて述べられた後、日頃すべきことを
法話を思い出す、聖教の拝読、念仏を称えよとあります。諸善の勧めはありませんね。

親鸞聖人は三願転入したと仰っていますが、皆も自分と同じように三願転入せよ、とは仰っていません。蓮如上人の『御文章』のどこを読んでも、三願転入した、とか、三願転入せよ、とは書かれていません。

浄土真宗の教えを正しく学んでください。

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