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2010-01-14

宿善とは4

これまでの3回にわたって、宿善の厚薄について、親鸞会が如何におかしな解釈をしているか述べてきました。宿善という言葉を、覚如上人、蓮如上人は、他のところでも使っておられますので、それと併せて、宿善の意味をみてみたいと思います。

『口伝鈔』には、前々回挙げた第4章の、


宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。


とは別の意味で、第2章に宿善について書かれています。


十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。


ここでの宿善は、第4章とは意味が異なっています。第4章では、過去世に行ってきた善、宿世の善根という意味で使われていますが、この第2章では宿善のある人を、「浄土教を信受する機」、つまり阿弥陀仏の18願を信じられる人としています。この2つは同じと親鸞会では考えているようですが、違います。
今生に善をこのみ悪をおそる」という「宿善あつきひと」であっても、「この教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし」の人は、「宿福なきもの」になります。その逆で、「今生に悪をこのみ善にうとし」の人でも、「今生にこの教にあうてまさに信楽す」人は「過去の宿善あつきもの」になります。
具体的にいえば、法然上人を激しく攻撃した聖道仏教の学僧達は、「今生に善をこのみ悪をおそる」人達の代表といえるでしょう。いい加減な者もいたかもしれませんが、多くは真面目に修善に励んできたなればこそ、善を否定された法然上人を許すことができなかったのです。彼らは、過去、そして今生でも六度万行等の善を我々よりも遥かにしてきたと思われますが、阿弥陀仏の18願を信じることは到底できませんでした。彼らは宿世の善根は厚くても「宿福なきもの」になります。その反対で、五逆を犯した阿闍世は、「今生に悪をこのみ善にうとし」ですが、救われていますので、「過去の宿善あつきもの」です。

ですからこの第2章でいわれている宿善は、あくまで阿弥陀仏のお育てによって、18願を信じられる機であるかどうかという意味であり、それを覚如上人は宿善の有無として仰っているのです。

蓮如上人のお言葉については、親鸞会では『教学聖典』等にも『御文章』からいくつか挙げられています。

一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。2帖目第11通


それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。
3帖目第12通


されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。
しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。
4帖目第1通


あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。4帖目第15通


これ以外にも宿善という言葉を使った箇所はまだありますが、どれも宿善の有無について問題にされたものです。18願を信じられる人と信じられない人との違いが問題であって、親鸞会でいう宿善の厚薄を問題にされたところはありません。
『口伝鈔』第2章も、『御文章』も、18願を信じられない人は、たとえ宿世の善根が厚くとも、誹謗するだけで謗法罪を造ることになりますから、そんな無宿善の人には話をしてはいけないと仰っています。

この無宿善の人のために説かれた教えが、権仮方便なのです。無宿善の人が多いから、釈尊は聖道仏教を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられたのです。
ですから18願を信じて求める宿善のある人に、善を勧める必要はないのです。宿善の薄い人は、宿善を厚くしてからでないと真実に入れないなどとは、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の仰せと全く違うことがお分かり頂けるでしょう。

これは単に解釈の違いで済まされることではないのです。学問上のことを論じているのではありません。宿善のある人が、信心決定できない最大の障碍が、宿善の厚薄を問題にして善を勧める邪義です。
親鸞会の会員が、なぜ信心決定できないのか。それは善を勧めて阿弥陀仏一仏に向かわせないように仕向けている高森会長が、18願を誰も救われない絵に描いた餅にしてしまったからです。だから、30年、40年聞いたくらいでわかるものではないという高森会長の発言は筋が通ります。

『親鸞聖人御消息』に、


弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまゐらせて、仏恩を報じまゐらせんとこそおぼしめすべきに、念仏をとどめらるることに沙汰しなされて候ふらんこそ、かへすがへすこころえず候ふ。あさましきことに候ふ。ひとびとのひがざまに御こころえどもの候ふゆゑ、あるべくもなきことどもきこえ候ふ。申すばかりなく候ふ。ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。


と書いておられます。親鸞聖人は関東の同行に宛てたお手紙の中で、
「遇いがたい阿弥陀仏の本願に遇わせせて頂き、仏恩に報いようと思わなければならないのに、念仏を妨げようとすることは、全く理解できないことであり、浅ましいことです。間違って理解している人達がいますので、あってはならないことが聞こえてくるのです。念仏の人といいながら、間違ったことを教えている人こそが、地獄に堕ち、天魔になるのです。すべての念仏者の罪になるのではないと思います。」
と仰っています。


親鸞聖人が"地獄に堕ちる"と仰っているのは、誰のことでしょうか。お前たちは一人残らず無間地獄に堕ちると説き、獲信のための善を勧めて念仏を妨げている人物のことです。会員さんのことではありません。

当ブログ読者の皆さんは、阿弥陀仏の18願を信じて求めている宿善のある方です。天魔の教えに迷われることなく、親鸞聖人の正しい教えを正しく聞いて下さい。そうすれば必ず信心決定できるのです。
もし、これだけいっても御理解頂けず、天魔を信じられるのであれば、残念ですが無宿善の人と言わざるをえません。

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高森顕徹著『顕正』より

昭和33年発行の高森顕徹著『顕正』(132-133頁)に以下のような話があります。

『或る同行が、ある和上に「自力の念仏は一方では、不果遂者の誓願があるから称えて居れば信心が獲られるという人もあれば、又一方では自力念仏は、如来聖人さまがおきらいなれば江戸ウタを謡うよりも悪いという人もあるが、何れがよろしいか」と尋ねた時、和上は「破れ茶碗は捨てもので、それを合わせてみるのは未だ使ってみるつもにがあるからじゃ、お前は自力念仏の間に合うか、合わぬかを尋ねるのは間に合わす気であろう」と喝破せられたという。』

「修善が往生の資助になるとは説いていない。修善が獲信の因縁(宿善)になると説いているのだ。」と親鸞会はいうでしょう。

しかし、「獲信の因縁(宿善)として諸善を修せよ」、「善をしなければ信仰はすすみませんよ」と聞いた人はどうなるでしょうか?

どうしても「自力諸善を間に合わせよう」という心になってしまうでしょう。
「間に合わないぞ」と説かれても「間に合わせよう」という心が離れず苦しむのに、そんな説き方をしていては、「間に合わせよう」という心を助長して、本願に向かうのを妨げている以外の何者でもありません。
結果として、18願の救いから遠ざけさせていることになるのです。

そのことを分かっていたのでしょう。『顕正』(124-125頁)には、
『然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも。始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
 勿論、機には未熟の者もあるから、いくら信心正因、称名報恩、信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧めても、直ちにその通りになれない人もあろうけれども、それは機の過失であって法門は常に信因称報の仏意を説き示さなければならない。』
と書かれています。

「18願一つを説けよ」の勧めです。

そして、昔の説き方と今の説き方は大きく違うことが分かります。

会員だったころ、教学講義で19願の話が強調されているとき、ふと『顕正』を読み、昔と今と違うなと感じました。その後、「私の白道」を読み、やはりそうだったのかと思いました。


親鸞会ブログポータル
http://親鸞会.com/?p=10004&cpage=1#comment-142
の「1月10日のテレビ座談会」のコメント欄に、
『内容が「宿善」の解説になるとは思っていませんでした。』
とのコメントがありました。
このブログで「宿善」が取り上げられた影響でしょうか?


会長の昔の著作を読むだけでも、
「獲信の因縁(宿善)として諸善を修せよ」
「善をしなければ信仰はすすみませんよ」
のおかしさが分かるはずです。


会員のみなさまに、会の教義のおかしさに早く気が付いてもらいたいと思うばかりです。

Re: 高森顕徹著『顕正』より

いつもの元会員 様

> 親鸞会ブログポータル
> http://親鸞会.com/?p=10004&cpage=1#comment-142
> の「1月10日のテレビ座談会」のコメント欄に、
> 『内容が「宿善」の解説になるとは思っていませんでした。』
> とのコメントがありました。
> このブログで「宿善」が取り上げられた影響でしょうか?

貴重な情報ありがとうございます。
高森会長も危機感をもって、対処しようと必至なのでしょう。しかし、根拠に基づかない珍説は珍説でしかありません。

> 会長の昔の著作を読むだけでも、
> 「獲信の因縁(宿善)として諸善を修せよ」
> 「善をしなければ信仰はすすみませんよ」
> のおかしさが分かるはずです。

昔の著書を読まれれば、教え自体が変わってきていることを知ることができるでしょう。
なぜ教えが変わってきたかは、高森会長の目的が、「皆々信心決定あれかしと朝夕おもいはんべり」とは違うからでしょう。

No title

管理人様
いつもお世話になります。
このようなS会側からの反論サイトを見つけました。一会員のかたが個人的に作ったサイトのようです。
内容としては取るに足らないものですが、会長も講師も何も反論しない(できない)情けない体たらくの中、顔も名前も出して反論しようとした事は勇気ある行為と思います。
このような方にこそ本当の教えを知ってもらいたいです。

http://mittifx.qee.jp/

Re: No title

Rudel 様

情報有難うございます。実は別の方から教えて頂いて、以前から知っていました。

呆れて相手にされなかった本願寺に対しては、あれほど威勢のよかった会長も、最近の教義批判にはなす術もなしで、逃げの一手です。

その中で果敢にも反論に挑まれる会員さんがあり、会長や講師とは対象的です。

ずっと更新されていないところを見ますと、すでに目覚められたのかも知れないと期待しているところです。

もし、未だ迷われているならば、当ブログを読まれるだけでも理解が違って来ると思います。

教えてあげてください。
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