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2010-01-29

宿善とは6

『教学聖典(5)』にある、

(問)
 「宿善」とはどんなことか、二通りの読み方を示せ。
 また宿善が厚くなる順から三つあげよ。
(答)
○「宿世の善根」とか「善が宿る」とも読む。
  (1)熱心な聞法
  (2)五正行の実践
  (3)六度万行の実践



が根本的におかしいことは、宿善とは2にも書きました。
真宗では信心決定するには、聴聞に極まるとは確かに教えられます。親鸞会の現会員、元会員の方ならば、その根拠もご存知のことと思いますが、この聴聞が最高の宿善になると考えるのは、とんでもない間違いです。

そのことを紅楳英顕師の『派外からの異説について』では、


 そもそも、真宗の「聞」とは、第十八願成就文の「聞其名号信心歓喜」の如
実の「聞」でなければならない。これは、第二十願の「聞我名号係念我国」の
「聞」とも峻別される他力の「聞」なのである。高森親鸞会の主張のように、
破邪顕正や財施等の自力の行と同列に扱うこと自体が、そもそも問題なのであ
る。この意味から、存覚上人は、
  聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たも
  ちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おも
  ひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりば
  かりもよりつかざるなり。
(『浄土見聞集』)
と述べられているのである。


とすでに指摘されています。
『教行信証』信巻には


しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。


とあります。
また『一念多念文意』には、


「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。


蓮如上人は『御文章』1帖目第15通


されば『経』(大経・下)には、「聞其名号信心歓喜」と説けり。「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。


と仰っています。
「聞」とは、疑いなくきいたことをいうのであり、それが信心なのです。「本願力回向の信心」には、自力の入り込む余地の全くないものですから、聴聞が宿善になるかどうかという次元の問題ではないのです。

では何を聞くのか。「仏願の生起本末」「本願の名号」ですから、18願を聞くのです。20願ではありません。ましてや19願である筈がないのです。
このことは前回紹介した『顕正』に書いてある通りで、「虎の説法」を聞くのです。「猫の説法」でも「鼠の説法」でもありません。念の為説明しておきますと、「虎」とは18願他力念仏のことです。「猫」は20願自力念仏です。私が「鼠」と加えたのは19願自力修善のことです。

『教行信証』行巻には、他力念仏について経典と七高僧方のお言葉を詳しく紹介なされていることはもちろんですが、多くの諸師方の著書からも引いておられます。


法相の祖師、法位のいはく(大経義疏)、「諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること決定して疑なし。称名往生これなんの惑ひかあらんや」と。


名号を称えることが仏の徳を讃えることになりますので、名号を称することで正定聚に至ることができるということです。


慈雲 遵式なり の讃にいはく(元照観経義疏)、「了義のなかの了義なり。円頓のなかの円頓なり」と。以上
大智 元照律師なり 唱へていはく(同)、「円頓一乗なり。純一にして雑なし」と。以上
律宗の戒度 元照の弟子なり のいはく(正観記)、「仏名はすなはちこれ劫を積んで薫修し、その万徳を攬る。すべて四字に彰る。このゆゑにこれを称するに益を獲ること、浅きにあらず」と。以上
律宗の用欽 元照の弟子なり のいはく、「いまもしわが心口をもつて一仏の嘉号を称念すれば、すなはち因より果に至るまで、無量の功徳具足せざることなし」と。以上



このように念仏の功徳を称えられた根拠を多く出されているのです。もちろんこの念仏は他力念仏のことです。修善については、捨てよとしか仰っていません。ですから、修善の勧めは獲信にとって何の役にも立ちません。
正しい教えと比較するために、間違った教えを紹介されたのが化土巻です。『教行信証』を要約された『浄土文類聚鈔』には、化土巻の内容がありません。そんな重要な教えを省略したとでも高森会長は説明しているのでしょうか。

最近高森会長はこんなことをいっているそうです。


親鸞会の説が間違いだと言うのなら、正しい親鸞聖人の教えを明示すればよいではないか


非難に対して執ようなまでに反撃した『顕正』を書いていた頃とは大違い、というよりも別人です。正しい親鸞聖人の教えを明示せよというのであれば、18願1つです。自分で書いていたではないですか、


教家は常に虎の説法をしなければならないのである。


と。これが正しい親鸞聖人の教えです。


「飛雲」というブログにこんなことが書かれてありました。


親鸞会で長年求めていながら、なぜ信心決定する人が現れないのか。会長の身内も、華光会時代に母親が信心決定したと言われているだけで、他の人は未信。次期会長の長男でさえも、以前に今年こそ信心決定しますと皆の前で決意発表をしながら、未だに信心決定したという報告を聞いたこともない。


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親鸞会幹部の詭弁は巧みです。

聴聞と諸善は別物なのに、聴聞は聞法善と言って親鸞会独自の宿善理論に適合しようとするのです。これにハマっている会員が大多数だと思います。

朝晩のお勤めにしても、聴聞のご縁であり、仏徳の讃嘆であり、報謝の行であります。これも親鸞会は宿善が厚くなる行だとしてしまうのです。

更に、「お勤めをするには朝早く起きないとできないだろう。早起きは善だ。また早起きするためには、夜更かししていてはできないだろう。早く寝るのも善だ。…」と言った具合に生活面での善と絡めて話をしてきます。

このように聞くと、親鸞会教義が頭にこびりついている人は「やはり親鸞聖人の教えには(獲信の因縁としての)善の勧めがあるのだな。やらねば信仰は進まないし、善果も報うてはこないんだ」と落ち着いてしまうのです。


18願を聴聞に、19願を諸善に、20願をお勤めに当てはめて宿善が厚くなる順に3つとしているのでしょうが、会長のトリックと幹部の詭弁を破らねば会員は思考停止したままです。

早く鼠の説法になっている現状を知り、親鸞会的宿善の理解を捨て去って、18願真実のこころを聞いて頂きたいと思います。

No title

『教学聖典(5)』にある、

(問)
 「宿善」とはどんなことか、二通りの読み方を示せ。
 また宿善が厚くなる順から三つあげよ。
(答)
○「宿世の善根」とか「善が宿る」とも読む。
  (1)熱心な聞法
  (2)五正行の実践
  (3)六度万行の実践


が根本的におかしいことは、宿善とは2にも書きました。
真宗では信心決定するには、聴聞に極まるとは確かに教えられます。親鸞会の現会員、元会員の方ならば、その根拠もご存知のことと思いますが、この聴聞が最高の宿善になると考えるのは、とんでもない間違いです。

そのことを紅楳英顕師の『派外からの異説について』では、


 そもそも、真宗の「聞」とは、第十八願成就文の「聞其名号信心歓喜」の如
実の「聞」でなければならない。これは、第二十願の「聞我名号係念我国」の
「聞」とも峻別される他力の「聞」なのである。高森親鸞会の主張のように、
破邪顕正や財施等の自力の行と同列に扱うこと自体が、そもそも問題なのであ
る。この意味から、存覚上人は、
  聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たも
  ちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おも
  ひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりば
  かりもよりつかざるなり。(『浄土見聞集』)
と述べられているのである。


とすでに指摘されています。
『教行信証』信巻には


しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。


とあります。
また『一念多念文意』には、


「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。


蓮如上人は『御文章』1帖目第15通に


されば『経』(大経・下)には、「聞其名号信心歓喜」と説けり。「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。


と仰っています。
「聞」とは、疑いなくきいたことをいうのであり、それが信心なのです。「本願力回向の信心」には、自力の入り込む余地の全くないものですから、聴聞が宿善になるかどうかという次元の問題ではないのです。

※ 聴と聞の違いについて高森先生が峻別されているところはご存知のことだと思われます。


では何を聞くのか。「仏願の生起本末」「本願の名号」ですから、18願を聞くのです。20願ではありません。ましてや19願である筈がないのです。
このことは前回紹介した『顕正』に書いてある通りで、「虎の説法」を聞くのです。「猫の説法」でも「鼠の説法」でもありません。念の為説明しておきますと、「虎」とは18願他力念仏のことです。「猫」は20願自力念仏です。私が「鼠」と加えたのは19願自力修善のことです。

『教行信証』行巻には、他力念仏について経典と七高僧方のお言葉を詳しく紹介なされていることはもちろんですが、多くの諸師方の著書からも引いておられます。


法相の祖師、法位のいはく(大経義疏)、「諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること決定して疑なし。称名往生これなんの惑ひかあらんや」と。


名号を称えることが仏の徳を讃えることになりますので、名号を称することで正定聚に至ることができるということです。


慈雲 遵式なり の讃にいはく(元照観経義疏)、「了義のなかの了義なり。円頓のなかの円頓なり」と。以上
大智 元照律師なり 唱へていはく(同)、「円頓一乗なり。純一にして雑なし」と。以上
律宗の戒度 元照の弟子なり のいはく(正観記)、「仏名はすなはちこれ劫を積んで薫修し、その万徳を攬る。すべて四字に彰る。このゆゑにこれを称するに益を獲ること、浅きにあらず」と。以上
律宗の用欽 元照の弟子なり のいはく、「いまもしわが心口をもつて一仏の嘉号を称念すれば、すなはち因より果に至るまで、無量の功徳具足せざることなし」と。以上


このように念仏の功徳を称えられた根拠を多く出されているのです。もちろんこの念仏は他力念仏のことです。修善については、捨てよとしか仰っていません。ですから、修善の勧めは獲信にとって何の役にも立ちません。
正しい教えと比較するために、間違った教えを紹介されたのが化土巻です。『教行信証』を要約された『浄土文類聚鈔』には、化土巻の内容がありません。そんな重要な教えを省略したとでも高森会長は説明しているのでしょうか。

最近高森会長はこんなことをいっているそうです。


親鸞会の説が間違いだと言うのなら、正しい親鸞聖人の教えを明示すればよいではないか


非難に対して執ようなまでに反撃した『顕正』を書いていた頃とは大違い、というよりも別人です。正しい親鸞聖人の教えを明示せよというのであれば、18願1つです。自分で書いていたではないですか、


教家は常に虎の説法をしなければならないのである。


と。 これが正しい親鸞聖人の教えです。

※親鸞会の教義そのものです

「飛雲」というブログにこんなことが書かれてありました。


親鸞会で長年求めていながら、なぜ信心決定する人が現れないのか。会長の身内も、華光会時代に母親が信心決定したと言われているだけで、他の人は未信。次期会長の長男でさえも、以前に今年こそ信心決定しますと皆の前で決意発表をしながら、未だに信心決定したという報告を聞いたこともない。

※私は親鸞会とのご縁もすべて貴重なかけがえのない宿善だったと救われています。
論争自体が聞き誤りのとるにたらないもので、よくよく聴聞されて正しく合点され救われることを念ずるしかありません

Re: No title

よくよく聖教を読んで、親鸞聖人の教えられたことを勉強して頂くより仕方がありません。

はっきり申しますと、高森会長の教えていることには、聖教上の根拠はありません。

あなたは高森宗の概念を払拭しない限り、親鸞聖人のお言葉は理解できないのでしょう。

No title

仏意はつまるところ、方便でしか説くことはできません。
根拠がわからないのと根拠がないことは違います。仮に根拠を挙げても自分で解釈している以上、常にそれは根拠として採用できない反証可能性をもってます。真実の仏教、弥陀の願意を正確に説かれる方を善智識というのであって、教学をすべて完全記憶していたり、学士の人をいうのではありません。わかるでしょうか。根拠が本当になければ仏教ではないでしょうが、根拠を挙げても必ずしも仏教とはいえないことです。救われた体験をもとに方便として教学を基に指導される方が善智識です。親鸞聖人や蓮如上人、高森先生以外に善智識はいないとでも思っているのでしょうか?観念の遊戯で救われた体験がない人には、善智識が誰かも自らの計らいで思い込み、仮に善智識から教えを聞いても聞き損うことしかできない自分の姿しかありません。ここのサイトの根底にあるのは法論以前の問題であると思います。

Re: No title

先ほども申しましたが、高森会長が善知識であるという大前提でしか話ができなければ、議論以前のことです。
私は救われた体験をもとにして教学的なことを書いております。
私の救われた体験が疑わしいと言われるでしょうが、ならば高森会長の救われた体験が正しいという根拠はどこにあるのでしょうか。

あなたも子供ではないのですから、もう少し論理的に物事を考えることが必要でしょう。
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