--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2010-02-12

宿善とは7

ある現会員さんから以下の御意見を頂きました。

煩悩と戦って善をしていく求道が白道なんだから、それが宿善を求めていくことになるのではないですか。

とんでもない大間違いです。親鸞会では、二河白道の譬について善導大師、親鸞聖人の仰ったことと全く異なったことを平気で教えています。

『教学聖典(6)』にこんな問いと答えが記されています。

(問)
「二河白道の譬」は誰が創られたものか。
何を教えんがために説かれたものか。

(答)
○善導大師
○信心獲得するまでの求道の道程を示すため。


二河白道の譬を何も知らないのでしょうか。
善導大師は『散善義』の「回向発願心釈」の中で


いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。


と譬え話を説かれる理由を仰っています。信心守護の譬ですから、ここだけ見ても、信後のことを譬えられたことがお分かりになると思います。信心獲得するまでの求道の道程ではありません。

また

(問)
「二河白道の譬」について、次の問いに答えよ。
(1)彼岸とは
(2)此岸とは
(3)白道とは
(4)群賊悪獣とは
(5)火の河とは
(6)水の河とは
(7)西に向かって、とは

(答)
(1)弥陀の浄土
(2)娑婆世界
(3)求道心・信心
(4)求道聞法をさまたげるすべて
(5)怒りの心
(6)欲の心
(7)幸福を求めて


とありますが、これも原文を読まれれば、間違いは一目瞭然です。


次に喩へを合せば、「東の岸」といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。

「西の岸」といふは、すなはち極楽の宝国に喩ふ。「群賊・悪獣詐り親しむ」といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。「無人空迥の沢」といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。「水火二河」といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとく、瞋憎は火のごとくなるに喩ふ。「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。また「水波つねに道を湿す」といふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を染汚するに喩ふ。

また「火炎つねに道を焼く」といふは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

「東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む」といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらざれども、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ。すなはちこれを声のごとしと喩ふ。

「あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚ばひ回す」といふは、すなはち別解・別行・悪見人等妄りに見解を説きてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失するに喩ふ。

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。「須臾に西の岸に到りて善友あひ見えて喜ぶ」といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。

仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんといふに喩ふ。



とそれぞれに何を譬えられたのか解説しておられます。
この中で、親鸞会の教えていることと明確に違うところは「白道」と「西に向かふ」の2つです。

白道」について、「清浄の願往生心を生ずるに喩ふ」と仰っています。他力の信心のことです。
西に向かふ」とは、「もろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ」とあり、自力の行である諸善万行を捨てて、ただちに浄土に向かうことです。幸福を求めてなどという軽いものではありません。

高森会長の様なデタラメ解釈をする人が現れることを予想されて、親鸞聖人は「白道」について『教行信証』信巻で更に解釈しておられます。


まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。


まとめると
」=「選択摂取の白業、往相回向の浄業
」=「本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道

この反対として
」=「無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善
」=「二乗・三乗、万善諸行の小路

つまり
白道」=「能生清浄願心」=「金剛の真心を獲得する、本願力の回向の大信心海

と明言なされています。
更には『高僧和讃』


善導大師証をこひ
 定散二心をひるがへし
 貪瞋二河の譬喩をとき
 弘願の信心守護せしむ



と仰っています。
また『愚禿鈔』には


「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。


ともあります。
どこを探しても「白道」は信後の他力信心のことであって、信前の求道心の意味は全くありません。

正しい親鸞聖人の教えを明らかにせよというので、簡潔に書いておきます。
雑行である諸善、自力を捨てて他力に帰せよと親鸞聖人は教えられました。捨自帰他の真実信心を「白道」というのです。正しい「白道」を勧めるのが善知識です。往生のために諸善を修せよと「黒路」を勧める人を悪知識といいます。



『教行信証』を読んだことのない人物は、真宗学に疎いので間違えても仕方がないですが、万が一正しいことを知った上で「黒路」を「白道」と偽っているとすれば、大謗法罪です。
会員の皆さん、善導大師、親鸞聖人の教えられた通り「白道」を進むんで浄土へ往くか、悪知識に引き摺られて「黒路」を歩まされて火抗に堕ちるか。
どちらを選ぶか迷う必要がありますか。

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

高森会長も「白道」とは「本願力回向の信心」を喩えられたものであることは知っていると私は思います。

なぜならば、高森会長の著作『白道燃ゆ』のはしがきには、

「白道とは、かゝる此岸より彼岸に渡す、如来から賜った清らかな信のことである。」

とハッキリ書かれているからです。

つまり、管理人さんの記事の言葉を使うと、高森会長は正しいことを知った上で「黒路」を「白道」と偽っている大謗法罪を造っているのであり、しかも自分に従っている会員を騙しているということになります。

しかし、お聖教の上では、「白道」は「他力の信心」を喩えたものであると説かれていることを、会員でもある程度の人は知っていると思います。私も会員時代、高森会長が説く二河白道の譬が、教行信証信巻の引文と異なることは感じていました。そんな場合でも、高森先生ただお一人が善知識方の真意を明らかにされているのだ、すごいお方だと自分で自分を納得させてしまうのでした。そうなるのは、高森先生は全て正しいというところに立っていたからです。

今、振り返ると「高森先生が正しい」ということに何の根拠もなかったことがしみじみと知らされます。

親鸞会会員の多くの人は、「高森先生が正しい」ということが思考の大前提になっていると思います。この前提がどうやって築かれたのかを一人一人がよく振り返ってみて下さい。

そして、高森会長が正しいのかどうか、お聖教に基づいて判定してみて下さい。

そうすると、今回の「白道」=「求道心」もそうですが、創作教義がどんなところに多いかが見えてくると思います。

そこで、何がわかるのか。

私の結論は、「高森会長の目的は、会員を信心獲得に導くところにあるのではなく、会員に求道させるところにある」ということでした。

そして、親鸞会会員が勧められている求道の中身をみれば、誰が一番満足することになるのかは自ずと分かるでしょう。

全ては会長先生の深い御心(=深い欲望)から出ていることなのです。

いつも教えて頂き有難うございます。本当に目から鱗の連続です。


「万行諸善の小路より
本願一実の大道に
帰入しぬれば涅槃の
さとりはすなわちひらくなり」
(高僧和讃)

親鸞会ではこのご和讃を、「十九・二十の方便二願は、真実、十八願に転入する、十方衆生の道程」だという根拠として取り上げていますが、親鸞聖人の御解説を聞くと全くのデタラメであることがわかります。

白道の「道」は「路」に対する言葉で、ご和讃のお言葉で言うなら、

道…本願一実の大道
路…万行諸善の小路

ということになります。

『「道」の言は路に対する』ですから、本願一実の大道は万行諸善の小路に対する言葉です。

それを「万行諸善の小路より本願一実の大道に帰入しぬれば」と言われているからとして、十九願から進んで十八願へ転入すると教える親鸞会のトリックは、親鸞会ドグマに冒されている会員には容易に浸透するでしょう。私もそうでした。

そうではなく、万行諸善の小路という方便仮門を捨てて、本願一実の大道という大願他力に帰せよというのが親鸞聖人の御心であることが『愚禿鈔』によって分かります。すなわち、

「「直」の言は方便仮門を捨てて如来の大願他力に帰せんとなり」

のお言葉により、方便を実行して真実に入るのではなく、方便を捨てて真実に入る真仮廃立の教えが鮮明になるのです。

これで三願転入の御文、十九願和讃三首、上記の高僧和讃を根拠に「善をしなければ信仰は進みません」と珍しい教えを説く親鸞会の邪義は徹底的に打ち破られました。

それでも会長についていくなら、それは単なる盲信ですから、その結末は悲劇です。会員はそろそろ気づいて下さい。

Re: タイトルなし

いつもの元会員 様

> なぜならば、高森会長の著作『白道燃ゆ』のはしがきには、
>
> 「白道とは、かゝる此岸より彼岸に渡す、如来から賜った清らかな信のことである。」

これを如来から賜わった求道心と理解したのか、正しく理解していたのかは不明ですが、高森会長の師匠であった伊藤康善師の『仏敵』には、

「だれでもその関所を通るのです。今が、二河白道の真ん中へ出た味です。前へ進むには進まれず、後へ帰るには帰られず、じっと止まるにも止まられずという三定死の苦しいところです・・・が、今しばらくの辛抱です。この聞信の一念は、弥勒菩薩などが行われる百大劫の修行の代わりですからね・・・」

とありますので、私は、高森会長は白道を求道心と本気で信じていたのではないかと思います。
知っていたとしても、もちろん大罪を犯していますし、深い欲望で会員を引き摺り回している悪知識に間違いはないです。


淳心房 様

仰るとおり、会長についていけば結末は悲劇ですし、ついていく途中から悲劇になっています。早く、目覚めてほしいと思います。

No title

ある現会員さんから以下の御意見を頂きました。

煩悩と戦って善をしていく求道が白道なんだから、それが宿善を求めていくことになるのではないですか。

とんでもない大間違いです。親鸞会では、二河白道の譬について善導大師、親鸞聖人の仰ったことと全く異なったことを平気で教えています。

『教学聖典(6)』にこんな問いと答えが記されています。

(問)
「二河白道の譬」は誰が創られたものか。
何を教えんがために説かれたものか。

(答)
○善導大師
○信心獲得するまでの求道の道程を示すため。

二河白道の譬を何も知らないのでしょうか。
善導大師は『散善義』の「回向発願心釈」の中で


いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。


と譬え話を説かれる理由を仰っています。信心守護の譬ですから、ここだけ見ても、信後のことを譬えられたことがお分かりになると思います。信心獲得するまでの求道の道程ではありません。

※信前・信後解釈がわかれるところです。結果的に、信後においても信前においても、これを聞かれる人は
解を異にして自身の宿善にあわせて受け取られるところです。信前の人とまったく関係のないことを親鸞聖人が
説かれないでしょう。

また

(問)
「二河白道の譬」について、次の問いに答えよ。
(1)彼岸とは
(2) 此岸とは
(3)白道とは
(4)群賊悪獣とは
(5)火の河とは
(6)水の河とは
(7)西に向かって、とは

(答)
(1) 弥陀の浄土
(2)娑婆世界
(3)求道心・信心
(4)求道聞法をさまたげるすべて
(5)怒りの心
(6)欲の心
(7) 幸福を求めて


とありますが、これも原文を読まれれば、間違いは一目瞭然です。


次に喩へを合せば、「東の岸」といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。

「西 の岸」といふは、すなはち極楽の宝国に喩ふ。「群賊・悪獣詐り親しむ」といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。「無人空迥の沢」といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。「水火二河」といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとく、瞋憎は火のごとくなるに喩ふ。「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。また「水波つねに道を湿す」といふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を染汚するに喩ふ。

また「火炎つねに道を焼く」といふは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

「東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む」といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらざれども、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ。すなはちこれを声のごとしと喩ふ。

「あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚ばひ回す」といふは、すなはち別解・別行・悪見人等妄りに見解を説きてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失するに喩ふ。

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。「須臾に西の岸に到りて善友あひ見えて喜ぶ」といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。

仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんといふに喩ふ。


とそれぞれに何を譬えられたのか解説しておられます。
この中で、親鸞会の教えていることと明確に違うところは「白道」と「西に向かふ」の2つです。

「白道」について、「清浄の願往生心を生ずるに喩ふ」と仰っています。他力の信心のことです。
「西に向かふ」とは、「もろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ」とあり、自力の行である諸善万行を捨てて、ただちに浄土に向かうことです。幸福を求めてなどという軽いものではありません。

※何の問題があるのでしょうか?信後の人だけに説かれたものあるので、信前の人がどのように聞かれようとも間違いという自己矛盾もあります。

高森会長の様なデタラメ解釈をする人が現れることを予想されて、親鸞聖人は「白道」について『教行信証』信巻で更に解釈しておられます。


まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。


まとめると
「白」=「選択摂取の白業、往相回向の浄業」
「道」=「本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道」

この反対として
「黒」=「無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善」
「路」=「二乗・三乗、万善諸行の小路」

つまり
「白道」=「能生清浄願心」=「金剛の真心を獲得する、本願力の回向の大信心海」

と明言なされています。
更には『高僧和讃』に


善導大師証をこひ
 定散二心をひるがへし
 貪瞋二河の譬喩をとき
 弘願の信心守護せしむ


と仰っています。
また『愚禿鈔』には


「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。


ともあります。
どこを探しても「白道」は信後の他力信心のことであって、信前の求道心の意味は全くありません。

※信前の人と全く関係のないことを説かれてはおらず、信前の人にもわかるように説かれた現代版そのものが
高森先生が説かれる二河白道でしょう。


正しい親鸞聖人の教えを明らかにせよというので、簡潔に書いておきます。
雑行である諸善、自力を捨てて他力に帰せよと親鸞聖人は教えられました。捨自帰他の真実信心を「白道」というのです。正しい「白道」を勧めるのが善知識です。往生のために諸善を修せよと「黒路」を勧める人を悪知識といいます。

※高森先生が悪知識ではなく、善智識なことは明白です。どうして悪知識だと思われたのか理解できません。
つまるところ、救われなければわからないのは厳粛たる事実ですが。

Re: No title

これも同じですが、根拠が全くありません。私は根拠を挙げて説明しています。
あなたの妄想をいくら語られても、それが親鸞聖人の教えということにななりません。

No title

根拠はあげてます。そのためにこのサイトに書かれてある文章を引用してます。親鸞聖人、蓮如上人方がおっしゃられていることが根拠で、ここのサイトの9割以上が聞き損ないのもであると思ってます。根拠はここのサイトであげられているものすべてです。

Re: No title

> 根拠はあげてます。そのためにこのサイトに書かれてある文章を引用してます。親鸞聖人、蓮如上人方がおっしゃられていることが根拠で、ここのサイトの9割以上が聞き損ないのもであると思ってます。根拠はここのサイトであげられているものすべてです。

たとえば、白道が信前という根拠がない訳です。信前と無関係なことを説かれている筈がないというあなたの妄想は根拠にはなりません。善導大師、法然上人、親鸞聖人は、信前の意味で仰ったというお言葉が根拠になるのですが、それがないのに根拠があるといわれるのは、おかしいと思われないのでしょうか。

とにかく、高森会長が絶対に正しいと思っている大前提で話をされては、まともな会話が成り立ちませんので、よくよくお考え下さい。

聖教上の根拠を具体的に出して、ここにこのように書かれてあるという、親鸞会以外の人が見ても納得のできる内容でなければ、話にもなりません。

お分かりですか。

No title

二河白道を親鸞聖人が信前の場合を想定して説かれた書物はないと思いますが、仮にそのようにされた場合、親鸞聖人は善知識といえないだろうかということです。あくまで弥陀の願意を正確に説かれて導かれる方を善智識というのであって、私はそれだけをもって悪知識と非難するのはおかしいと思ってます。二河白道の譬えを根拠に信前に対して求道の厳しさを説かれる場合も十分にありえます。親鸞聖人が二河白道を信前として説かれた根拠は?ではなく、譬えそのものを根拠にして解釈し、善智識が信前として説くと理解できます。実際そうです。浄土真宗の以外に善智識がいない、解釈した時点で仏教ではないとの形にとらわれすぎです。親鸞聖人の御文を根拠に弥陀の誓願正確に説かれていれば、それは浄土真宗の骨格であり、真実の仏教です。

Re: No title

あなたの理論ならば、どんな解釈でも正当化される訳です。

浄土三部経を読んで、そこに書かれてあることは念仏無間とたとえ解釈しても、それをいった人が正しいのだという前提であれば、それが正しくなります。

全く同じことです。

悪知識と書いたのは、このブログで書いたこと全般から言っているのです。

聖教によらない解釈は、非常に危ういことくらいは知っておかれるべきでしょう。

◆「白道」について

愚禿鈔には、以下の御文があります。

「白道四五寸」と言うは、
白道とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白はすなわちこれ六度万行、定散なり。これすなわち自力小善の路なり。黒はすなわちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。
四五寸とは、四の言は四大毒蛇に喩うるなり。五の言は五陰悪獣に喩うるなり。

この御文の意味を教えて頂けないでしょうか。
また一念多念証文には、

願力の白道を一分二分、ようようずつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにおさめとりたまうがゆえに、かならず安楽浄土にいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚のはなに化生して、大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。

と、二河白道の譬について解説されている箇所がありますが、「ようようずつあゆみゆく」とはどういうことでしょうか。


記事を読み、「白道」ということについて気になったのでコメントさせていただきました。
もし知っておられましたら、教えていただければ幸いです。

Re: タイトルなし

通りすがり 様

「白道」は信前の求道のことだと主張されたいのだと思います。記事に書きましたところと、コメント欄を再度読んで頂ければ宜しいかと思いますが、一応まとめておきます。

『教行信証』信巻

〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。

白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。
四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。
「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。


『愚禿鈔』

「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。
「四五寸」とは、四の言は四大、毒蛇に喩ふるなり。五の言は五陰、悪獣に喩ふるなり。

「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。


ここで、『教行信証』信巻には

「白道」=清浄願往生の心=金剛の真心、本願力の回向の大信心海

となっています。「白道」は「三定死」の後に歩むものですので、他力の信心、信後の意味しかありません。
「白」、「黒」、「道」、「路」については、

「白」=選択摂取の白業、往相回向の浄業
「黒」=無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善
「道」=本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道
「路」=二乗・三乗、万善諸行の小路

となっています。

さて『愚禿鈔』の方をみてみると、

「白」=六度万行、定散、自力小善の路
「黒」=六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道

としかありません。「白」については、『教行信証』の「白」とは異なる説明になっていまして、『教行信証』の「路」の意味で書かれてあります。実際に『愚禿鈔』でも「自力小善の路」となっています。
これをもう少し分かりやすくいうと、
「白路」=六度万行、定散、自力小善
「黒道」=六趣・四生・二十五有・十二類生
ということで、つまり真(白道)・仮(白路)・偽(黒道)を明確になされているのです。
ただし、『愚禿鈔』は写本しか残されていませんので、誤写の可能性も指摘されています。

次に「四五寸」ですが、これは凡夫の貪瞋煩悩の中にある「白道」が細いことを表わされています。他力信心を獲ても、広い大道にはならないのです。

そのことを『一念多念証文』で、

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

と仰っています。

最後に

願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。

の「ようようずつあゆみゆく」は、この後に

二河のたとへに、「一分二分ゆく」といふは、一年二年すぎゆくにたとへたるなり。

とありますように、信後、一年二年と念仏の道を歩んで行くことを仰っています。『一念多念証文』のこの部分は多念について解説された部分です。

多念をひがこととおもふまじき事。
本願の文に、「乃至十念」と誓ひたまへり。すでに十念と誓ひたまへるにてしるべし、一念にかぎらずといふことを。いはんや乃至と誓ひたまへり、称名の遍数さだまらずといふことを。

ということの説明です。

いずれにしましても、「白道」=「能生清浄願心」を信前と解釈することはできません。

詳細でわかりやすい解説、ありがとうございました。

質問しましたのは、真宗聖典中の「白道」の語のうち、ハッキリと信後・他力のことだと断定できない箇所のように思われ、あくまで聖人のみ教えを知りたい一心でおたずねしました。


一念多念証文の御文については、ハッキリとわからせて頂きました。
ありがとうございます。

愚禿鈔の御文については、半分ほどわからせて頂きました。

〉「白」については、『教行信証』の「白」とは異なる説明になっていまして、『教行信証』の「路」の意味で書かれてあります。実際に『愚禿鈔』でも「自力小善の路」となっています。

ここまでは理解できたと思い、「白=路」なのかと思いましたが、
〉「白路」=六度万行、定散、自力小善

勉強不足理解力不足のためなぜここで、「白路」と出てくるのかわかりませんでした。
またそのあとの「偽」という概念も頭に?マークです。
せっかく教えて頂きましたのに、申し訳ないことですね。



また、続けざまで恐縮ではありますが、以前
「二河白道の譬は信心獲得するまでの求道の道程を示したものではないのでは」
と、先輩会員に質問したところ


「人、道の上を行いて直ちに西に向かう」というは、すなわちもろもろの行業を回して直ちに西方に向かうに喩うるなり。


この御文を挙げられ、
『「もろもろの行業を回して直ちに西方に向かう」と、「回して」つまり「回向して」とあるから、これは善のすすめだろう。』
と信前の求道の根拠として説明され、その時にはその箇所についてはハッキリと反論することができませんでした。

記事の方に
〉「西に向かふ」とは、「もろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ」とあり、自力の行である諸善万行を捨てて、ただちに浄土に向かうことです。

とありましたが、ここについてももう少し詳しく教えて頂けると幸いです。

Re: タイトルなし

通りすがり 様

まず基本的なこととして、白道は三定死の後に歩む道です。三定死の直後に獲信と親鸞会で教えていると思いますが、それならば、どう考えても信後のことにしかなりません。
『浄土文類聚鈔』にも

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。

とありますが、
「白道」=「能生清浄願心」=「凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なる」
であり、他力のことです。
「白道」を信前の自力と解釈する理由が理解できません。

次に「回して」の意味ですが、これは仰るように「回向して」という意味と「ひるがえして」という意味と両方あります。後者の意味では「回心」は「心をひるがえして」ということです。二河白道の譬えの中でいえば、「われいま回らばまた死せん。」の「回る」は戻る、つまり「ひるがえす」ということです。
「白道」を信前という前提で考えると「回向して」と解釈したくなるのでしょうが、順番が逆です。
「回して」が「回向して」だから「白道」が信前ではなく、「白道」が信後だから「回して」が「ひるがえして」になるのです。そもそもの発想が違います。
「白道」を信前と仰ったお言葉があるなら別ですが、無いにも関わらず、「回して」を「回向して」と【仮定して】話を進めるのは論理的に間違っています。同じ理屈でいうならば、「回して」を「ひるがえして」と【仮定して】の話がないのがおかしいと思われませんか。

最後に以下について説明します。

>>「白」については、『教行信証』の「白」とは異なる説明になっていまして、『教行信証』の「路」の意味で書かれてあります。実際に『愚禿鈔』でも「自力小善の路」となっています。

>ここまでは理解できたと思い、「白=路」なのかと思いましたが、
>>「白路」=六度万行、定散、自力小善

>勉強不足理解力不足のためなぜここで、「白路」と出てくるのかわかりませんでした。

「白=路」と言っているのではありません。『愚禿鈔』の「六度万行、定散、自力小善」のお言葉が「白路」に当たると言っているのです。
「白」「黒」と「道」「路」の組み合わせでは
「白道」「白路」「黒道」「黒路」が考えられます。
「白道」に関しては『教行信証』等に説明があります。これまで言いましたように他力信心、本願力回向という意味でしか親鸞聖人は仰っていません。
問題は『愚禿鈔』のお言葉ですが、これは明らかに他の「白道」とは異なった説明になっています。しかも「自力小善の路」とありますので、「路」です。「道」ではありません。したがって「六度万行、定散、自力小善」は「白路」の説明ということになります。お分かりでしょうか。

「偽」についいては説明不足でしたが、信巻に

真の仏弟子といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。

と仰っていますが、「仮」は仮の教え、方便の教えです。「偽」は「真」でも「仮」でもない外道の教えということです。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。