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2010-02-28

宿善とは8

前回二河白道の譬喩について述べましたが、思ったよりも反響がありまして、もう少し詳しく知りたいとの御要望も頂きました。

二河白道の譬喩は、『教行信証』信巻ほか、『浄土文類聚鈔』『愚禿鈔』にも書かれていますし、『一念多念文意』『高僧和讃』『御消息集』にも話題にされるほど、親鸞聖人が重要視なされたものです。

詳しい解説を聞くよりも、皆さんが原文を実際に読まれて、どういう意味かを理解することが大事だと思います。私の解釈と高森会長の解釈の違いと単に片付けられて終わってしまっては残念ですので、皆さんが確認してみて下さい。

以下に喩え話の部分を『教行信証』信巻に引かれたものと、その現代語訳を載せます。

たとへば人ありて、西に向かひて行かんとするに、百千の里ならん。忽然として中路に見れば二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りてこの人を殺さんとす。死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言すらく、〈この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死せんこと疑はず。まさしく到り回らんと欲へば、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せんことを〉と。時にあたりて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。

この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。

この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。




現代語訳(浄土真宗教学研究所編『顕浄土真実教行証文類-現代語版-』より)


ここに一人の人がいて、百千里の遠い道のりを西に向かって行こうとしている。その途中に、突然二つの河が現れる。一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河と火の河の問に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。
この道の東の岸から西の岸までの長さも、また百歩である。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり少しも止むことがない。

この人が果てしない広野にさしかかった時、他にはまったく人影はなかった。そこに盗賊や恐ろしい獣がたくさん現れ、この人がただ一人でいるのを見て、われ先にと襲ってきて殺そうとした。
そこで、この人は死をおそれて、すぐに走って西に向かったのであるが、突然現れたこの大河を見て次のように思った。『この河は南北に果てしなく、まん中に一すじの白い道が見えるが、それはきわめて狭い。東西両岸の間は近いけれども、どうして渡ることができよう。わたしは今日死んでしまうに違いない。東に引き返そうとすれば、盗賊や恐ろしい獣が次第にせまってくる。南や北へ逃げ去ろうとすれば、恐ろしい獣や毒虫が先を争ってわたしに向かってくる。西に向かって道をたどって行こうとすれば、また恐らくこの水と火の河に落ちるであろう』と。こう思って、とても言葉にいい表すことができないほど、恐れおののいた。そこで、次のように考えた。『わたしは今、引き返しても死ぬ、とどまっても死ぬ、進んでも死ぬ。どうしても死を免れないのなら、むしろこの道をたどって前に進もう。すでにこの道があるのだから、必ず渡れるに違いない』と。

こう考えた時、にわかに東の岸に、《そなたは、ためらうことなく、ただこの道をたどって行け。決して死ぬことはないであろう。もし、そのままそこにいるなら必ず死ぬであろう》と人の勧める声が聞えた。また、西の岸に人がいて、《そなたは一心にためらうことなくまっすぐに来るがよい。わたしがそなたを護ろう。水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな》と喚ぶ声がする。

この人は、もはや、こちらの岸から《行け》と勧められ、向こうの岸から少しも疑ったり恐れたり、またしりごみしたりもしないで、ためらうことなく、道をたどってまっすぐ西へ進んだ。そして少し行った時、東の岸から、盗賊などが、〈おい、戻ってこい。その道は危険だ。とても向こうの岸までは行けない。間違いなく死んでしまうだろう。俺たちは何もお前を殺そうとしているわけではない〉と呼ぶ。しかしこの人は、その呼び声を聞いてもふり返らず、わき目もふらずにその道を信じて進み、間もなく西の岸にたどり着いて、永久にさまざまなわざわいを離れ、善き友と会って、喜びも楽しみも尽きることがなかった。



如何でしょうか。

ポイントをピックアップしてみましょう。

二河おのおの闊さ百歩
二つの岸あひ去ること近し


東の岸と西の岸は、僅かに百歩で、近いことを示されています。中国の長江のように向こう岸が見えない河ではありません。
ちなみに

南北辺なし

を東の岸から西の岸が見えないと勘違いしているのでしょう。方角が違います。

われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、

これは所謂三定死と呼ばれる部分です。親鸞会では白道の中間でこの心境になると教えていますが、原文では東の岸にいる時です。

高森会長の師匠であった伊藤康善師の『仏敵』には、


だれでもその関所を通るのです。今が、二河白道の真ん中へ出た味です。前へ進むには進まれず、後へ帰るには帰られず、じっと止まるにも止まられずという三定死の苦しいところです・・・が、今しばらくの辛抱です。この聞信の一念は、弥勒菩薩などが行われる百大劫の修行の代わりですからね・・・


とありますので、高森会長はこれをそのまま信用して今の話を創り上げたのだろうと思われます。

前回述べたように、白道は他力の信心ですので、

われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし

と心が定まって白道に乗った時が捨自帰他です。

しかし白道に乗っても、四五寸の白道は巾が広くなる訳でもなく、

その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

という状態も変わっていません。東の岸にいる時と白道を進んでいる時とは、表面的にはほとんど変わっていないのです。つまり信心決定しても、劇的な変化があるものではないということです。

親鸞会でも有名な『一念多念文意』のお言葉


「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。


は、信後の人のことを説明されたものですので、救われても臨終まで煩悩は何も変わらないのです。

信前信後の違いは、白道に対して「すでにこの道あり、かならず可度すべし」と決定して乗ったか乗らないかの違いであり、自力を捨てて他力に帰したかどうかの違いです。驚天動地の神秘的な体験の有無の違いではありません。

高森会長の獲信体験には


はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。


とありますが、二河白道の喩と矛盾しないものです。現在、高森会長が主張しているような一念覚知的な安心とは異なっています。

なお、当然のことですが、東の岸で善を修するような内容は全く書かれていません。

最近、善の勧めの非難に対する内輪向けの反論が、


善を捨てよということは、善をしてそれで助かろうとする自力の心を捨てよということだ

と繰り返し言っています。親鸞会が怯えていることが感じられますが、

法施も財施も、獲信とは何の関係もないので、善をして信仰が進むことはありませんし、宿善の厚薄は全く問題になりません

と言わないところが、大問題です。


次回の法話の演題が「二河白道」と聞きました。

会員も、そして高森会長も予習になりましたでしょうか。
単なる揚げ足とりをしているのではありません。
喩え話が変わることで、善についての解釈がまるっきり違ってきますので、大変重要なところです。
当ブログを高森会長が読んでいると言われていますが、昔から知っていたような顔をして珍しき喩え話が修正されるのか、はたまた間違ったまま話をするのか、後日報告をお願いします。

『仏敵』が根本聖典の善知識様。

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文底秘沈?

十数年前、学生だったころ、会員でした。
その頃の部会では、教行信証信巻で二河譬が引用されている箇所をさらりと紹介され
「ここの記述と御説法の内容とは、いくつか異なる部分があります。
高森先生は、親鸞聖人のみ心をより明らかにするため、あえて異なった説かれ方をなされているのです。」
というような説明がなされていました。
そんな説明で納得してしまっていたのです。
現在も同じ話をして、同じ言い逃れをする可能性は充分にありますね。
そして結局、何も変わらない・・・。

いつも教えて頂き有難うございます。

私もあげ足取りをしているつもりはないのですが、あげ足取りのように会員に受け取られることがあります。

しかし、経典やお聖教は御文に忠実に教え、何を意味しているか正確に伝えねば善知識方の真意がわからなくなってしまいます。

二河白道の譬は独自の解釈に加え、何を顕すためかということも間違っています。


また、話はそれますが、韋提希が定善を実行しているように『なぜ生きる』に書き、アニメにも描いて説法しているのも、観経を歪曲した独自の解釈です。

間違いは細かい点を挙げるとキリがありません。私は調べるほどに親鸞会や高森会長への信頼を失っていきました。

会員の皆さんには、ぜひとも自分で教えの真偽を確かめてもらいたいと願わずにいられません。

No title

「二河白道の真ん中へ出た『味』」
たとえ話が違ってしまっているのは、よくないことだと思いますが、あくまで伊藤さんの『味』わいであるなら、なんとか聞けることとも思います。
しかし、高森さんの場合は、伊藤さんのをそのまま使っていることが原因でしょうが、火と水の河との格闘(求道)させるには、たとえ話を間違ったまま使う必要があったのだと思います。
改心して欲しいものです。

そのとおり

>なお、当然のことですが、東の岸で善を修するような内容は全く書かれていません。

その通りです。

しかし、白道とは六度万行です。

そう親鸞会に言われたらどう答えればいいですか?

Re: そのとおり

Morris 様

> しかし、白道とは六度万行です。
>
> そう親鸞会に言われたらどう答えればいいですか?

前回書いたものを読んで下さい。

『愚禿鈔』のことを言われているのだと思いますが、「白道とは六度万行」とは書かれていません。敢て言うなら「白路とは六度万行」となるのでしょうが、この部分は『教行信証』と違う内容で、諸説があります。
『愚禿鈔』は、写本しか残されておりませんので、誤写と考えるのが『教行信証』その他の御著書と整合性のとれる解釈です。

親鸞会でも、解釈は御本典によるべきと教えていますので、それで問題ないと思います。

No title

どう書けばいいか長い上にわかりにくいかもしれません。(私のコメントは※の部分)

二河白道の譬喩は、『教行信証』信巻ほか、『浄土文類聚鈔』『愚禿鈔』にも書かれていますし、『一念多念文意』『高僧和讃』『御消息集』にも話題にされるほど、親鸞聖人が重要視なされたものです。

詳しい解説を聞くよりも、皆さんが原文を実際に読まれて、どういう意味かを理解することが大事だと思います。私の解釈と高森会長の解釈の違いと単に片付けられて終わってしまっては残念ですので、皆さんが確認してみて下さい。

※比較検討されるのは大いに結構なことだと思います。

※原文と現代語訳はカットします。概ね問題ないと思われます。

如何でしょうか。

ポイントをピックアップしてみましょう。

二河おのおの闊さ百歩
二つの岸あひ去ること近し

東の岸と西の岸は、僅かに百歩で、近いことを示されています。中国の長江のように向こう岸が見えない河ではありません。
ちなみに

南北辺なし

を東の岸から西の岸が見えないと勘違いしているのでしょう。方角が違います。

※この文から広い河とは勘違いはしていないと思います。対岸まで広さ「百歩」とあり近くにあるけれども、心理的には遥かに遠く困難に感じる。
譬えとして心の道程を表現するものであれば、大河として説くことも譬えの趣旨として問題ないです。


われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、

これは所謂三定死と呼ばれる部分です。親鸞会では白道の中間でこの心境になると教えていますが、原文では東の岸にいる時です。

※信前・信後では解釈が当然異なるところだと思います。
煩悩に河に落ちて自分が死んでしまうことを畏れていることも明白なので、
群賊や悪獣のいうことにも真実はないという三定死は、白道上と表現することも可能で趣旨として問題ないです。


高森会長の師匠であった伊藤康善師の『仏敵』には、


だれでもその関所を通るのです。今が、二河白道の真ん中へ出た味です。前へ進むには進まれず、後へ帰るには帰られず、じっと止まるにも止まられずという三定死の苦しいところです・・・が、今しばらくの辛抱です。この聞信の一念は、弥勒菩薩などが行われる百大劫の修行の代わりですからね・・・

とありますので、高森会長はこれをそのまま信用して今の話を創り上げたのだろうと思われます。

※参考にされたことと趣旨が全然違う改ざんとは全く違い、今回は前者です。

前回述べたように、白道は他力の信心ですので、

われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし

と心が定まって白道に乗った時が捨自帰他です。

しかし白道に乗っても、四五寸の白道は巾が広くなる訳でもなく、

その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

という状態も変わっていません。東の岸にいる時と白道を進んでいる時とは、表面的にはほとんど変わっていないのです。つまり信心決定しても、劇的な変化があるものではないということです。

※信後=白道というのは、信後においてはそのとおりです。
煩悩によって自分が死んでしまうのではないかと畏れます。
真実の他力の信心を獲得してもそうです。

親鸞会でも有名な『一念多念文意』のお言葉


「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。


は、 信後の人のことを説明されたものですので、救われても臨終まで煩悩は何も変わらないのです。

信前信後の違いは、白道に対して「すでにこの道あり、かならず可度すべし」と決定して乗ったか乗らないかの違いであり、自力を捨てて他力に帰したかどうかの違いです。驚天動地の神秘的な体験の有無の違いではありません。

高森会長の獲信体験には


はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。


とありますが、二河白道の喩と矛盾しないものです。現在、高森会長が主張しているような一念覚知安心とは異なっています。

※一念覚知安心は教義上一念というのは極速であるというのを強調して説かれたものと思われます。
人間の認識には全く乗らない一念であるため、次第にという高森先生の獲信体験とも矛盾しません。

なお、当然のことですが、東の岸で善を修するような内容は全く書かれていません。

※これは二河白道のたとえとそもそも関係ありません。仏教そのものが善を勧めています。

最近、善の勧めの非難に対する内輪向けの反論が、

善を捨てよということは、善をしてそれで助かろうとする自力の心を捨てよということだ

と繰り返し言っています。親鸞会が怯えていることが感じられますが、

法施も財施も、獲信とは何の関係もないので、善をして信仰が進むことはありませんし、宿善の厚薄は全く問題になりません

と言わないところが、騙しの悪意を込めたカルトのカルトたる所以でしょう。

※法施も財施も、獲信とは何の関係もないとは信心のことをいったのであり、
後生の一大事解決をするには(その人の気持ち次第ですが)必ずその人の仏縁になることです。

救われている人であればこのような論争ですら本質がわかるはずです。

Re: No title

コメントを読みましたが、私の書いたものが全く理解されていないという印象です。

あなたの意見には、どれも根拠がありません。

白道を信前と解釈したいという願望であって、信前のことという根拠が全くありません。

根拠のない高森宗の教えについて書かれても、浄土真宗とは全く関係のないことです。

もし、浄土真宗を名乗られるのであれば、少なくとも、親鸞聖人、蓮如上人の御著書を元にして、話をしてください。

No title


法論の前段階の話で申し訳ないですが、
真実の仏教を正しく説かれる方を善智識というのであって、仏教を後で書物にした釈尊のお弟子たち、それを漢文に訳され、解釈しそれぞれ自著の書物とされた七高僧、またその御文を解釈され真実の仏教を明らかにしようとした親鸞聖人、その教行信証などのこされた書物から御文章を書かれた蓮如上人・・・・と教条的・原理的に意味だけ考えれば、解釈をしている以上どれも仏教といえなくなるでしょう。問題は解釈が悪いのではなく、真実の仏教を説かれているかどうかで、それを信前の人が理解していたら善智識にあうこともおしうることもまたかたしなどと親鸞聖人もいわれません。解釈すなわち新宗教で、仏教とはいえないとはなりません。これは親鸞会を非難している人のほとんどが勘違いされているところです。

Re: No title

> 法論の前段階の話で申し訳ないですが、

あなたは学生さんでしょうか。

あなたの言われていることが、法論以前の話です。議論にもなっていません。実に幼い思考です。

お分かり頂けないとは思いますが、親鸞会の発想は、常識的な発想ではありません。あなたの発想は、高森会長が正しい、という大前提でしか話をされていません。その大前提を問題にしているのですから、議論とかいうような水準にも達していません。

学生さんならば、大学の教授に、あなたの思考が正しいものであるかどうかお尋ねになって下さい。

No title

既に破邪したのでこれ以上は他にも書きませんが、
親鸞会の教義が正しいという思い込みや前提で私がいっていることが支えられているものではないことは他に読まれている方がいればお気づきだと思います。常識的な発想と仏教の信心とはそもそも全く別ですから、常識的ではなかろうが仏法上関係はありません。世間上非難されるものであって、親鸞聖人も肉食妻帯や三大じょう論などは明らかに世間的に見ればおかしいと非難され、仏教ではないといわれたでしょう。

Re: No title

論理的な思考のことをいっているのですが、お分かりになられないのでしょう。
根拠とは、『教行信証』信巻にこのようなお言葉があるから、白道は信前であるということなどをいうのですが、それも御理解頂けないようでは、会話として成立しませんので、致し方ないでしょう。

高森会長が善知識という大前提でお話をされていることは、あなたは自覚がないのかもしれません。それは、神や預言者が正しいという大前提で話をされている他宗教の方と全く同じです。

御自身を見つめるためにも、他の宗教と比較されることもお勧めします。

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No title

元親鸞会会員です。

記事興味深く読ませて頂きました。

少し管理人様に質問しても宜しいですか?

管理人様は信心決定されてますか?
あと、親鸞会の言うような人生の目的はあると思いますか?

ご返信お待ちしてます。

Re: No title

おーたむ 様

コメント読ませて頂きました。
私は信心決定しております。
仏教では人生の目的という表現は使いません。
祖師方の御著書には、往生というお言葉が多数ありますので、今生で信心決定、正定聚となって、
順次生で往生することを人生の目的と考えることは、よいのではないかと思います。

No title

ご返信ありがとうございます。

やはり聴聞で信心決定されたのでしょうか?
私も高森さんではなく、本当の善知識がいらっしゃれば
一度お話を聞いてみたいと思うのですが…

あと、今生で信心決定しなければ、
後生はやはり一大事なのでしょうか?

Re: No title

おーたむ 様

もちろん聴聞は大事ですが、何何をして信心決定した、というのは間違いです。
すべて、阿弥陀仏から賜わるものです。

高森会長の話は、完璧に近いぐらい間違っています。教学的に完璧な人はありませんが、
要を外した話は、聞けば聞くほど悪いものです。

本願寺の勧学である梯師、親鸞会との論争の相手であった紅楳師をはじめ、本願寺でも
正しい教えを説かれる方は何人もあります。
親鸞会の元講師でも、信心があり正しく話をされる方ならば、話を聞かれるのがよいと思います。

布教師でも間違ったことをいう人がいるのも事実ですが、私がこのブログで書いたことから
逸脱しない話をされるかどうかで、その方を判断されては如何でしょう。

親鸞会を辞めたら、親鸞聖人の教えを聞くこともやめる、では余りにも短絡的ですので、
貴方に合う善知識を探されて、往生一定となって頂きたいと思います。

No title

以前から記事を拝見しておりますが、とても勉強になります。
私も親鸞会以外でお話を聞いてみたいと思っているのですが、どなたのお話を聞けばいいのかよくわかりません。
要を外した話は聞けば聞くほど悪いとありますが、要とはどのようなことでしょうか。


それと、もう一つ質問なのですが、

>自力を捨てて他力に帰したかどうかの違いです。驚天動地の神秘的な体験の有無の違いではありません。

私は数年ほど親鸞会で聴聞しておりましたが、一念の救いを「驚天動地の神秘的な体験」とは聞いたことがありませんでした。
阿弥陀仏の救いはとても早いという意味で一念の救いと言っているのであって、「驚天動地の神秘的な体験」とは言っていないように思うのですが…。
とは言いましても、それほど長い期間親鸞会で聞いてきたわけではありませんので、もしかしたら以前はそう言われていたのかもしれませんが。

「驚天動地の神秘的な体験の有無の違いではありません」というのは、阿弥陀仏の救いは自覚できないという意味なのでしょうか。

Re: No title

三橋 様

> 私も親鸞会以外でお話を聞いてみたいと思っているのですが、どなたのお話を聞けばいいのかよくわかりません。
> 要を外した話は聞けば聞くほど悪いとありますが、要とはどのようなことでしょうか。

要とは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」です。これに反することを教えている人の話を聞いても聴聞とはいいません。具体的な悪い例として私は3つのことを当ブログで述べてきました。

「一切衆生必堕無間」と説けば、心は地獄に向かうばかりで、阿弥陀仏、浄土に向いません。
「善知識に無条件服従せよ」と説けば、善知識に向って、阿弥陀仏に向いません。善知識を通して阿弥陀仏に向かうなど、詭弁です。
「19願に誓われた諸善をせよ」と説くことは、「一向」ではないから諸善を捨てよと善知識方が厳しく誡められた教えに反します。

上記のことを踏まえられた上で、本願寺の布教師や親鸞会元講師の話を聞かれることをお勧めします。浄土宗でも、法然上人の教えに戻って、法然上人に忠実に話をされる布教師もおられます。あなたに合う善知識から聞かれればよいです。ブログやサイトがありますので、それらを読まれた上で、連絡されればよいでしょう。もし直接連絡しにくければ、私が仲介しても構いません。

> それと、もう一つ質問なのですが、
>
> >自力を捨てて他力に帰したかどうかの違いです。驚天動地の神秘的な体験の有無の違いではありません。
>
> 私は数年ほど親鸞会で聴聞しておりましたが、一念の救いを「驚天動地の神秘的な体験」とは聞いたことがありませんでした。
> 阿弥陀仏の救いはとても早いという意味で一念の救いと言っているのであって、「驚天動地の神秘的な体験」とは言っていないように思うのですが…。
> とは言いましても、それほど長い期間親鸞会で聞いてきたわけではありませんので、もしかしたら以前はそう言われていたのかもしれませんが。

『会報 第二集』には

一念とは疑晴れて大満足の境地に開発したひとおもいをいい盲者の開眼の一刹那地獄一定が極楽一定と転じた瞬間、煩悩具足が至徳具足と転じた一念、明来闇去闇去明来の一刹那、いままで閉塞していた心中が開発して信楽と晴れ亘った一念言説や思惟の及ぶところでない驚天動地、六種振動の一刹那をいう。

とあります。

> 「驚天動地の神秘的な体験の有無の違いではありません」というのは、阿弥陀仏の救いは自覚できないという意味なのでしょうか。

もちろん自覚はできますが、高森会長が言っているような、ものすごい体験があるのではありません。そこを間違われないようにしてください。

何かお手伝いできることがあれば、いつでもコメントしてください。
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