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2009-08-21

一切衆生は必堕無間なのか11(化土往生について)

飛雲」というブログで、親鸞会教義の誤りが次々と明らかにされています。親鸞会も相当に焦っている様子です。親鸞会の痛いところを的確に突いているからです。

私のブログでは、親鸞会教義の誤りの中でも重要な3つの項目に絞って述べてきました。大筋は述べてきたつもりですので、細かい点は「飛雲」を御覧頂くのがよいと思って更新を敢てしてきませんでした。

過去に書いたことも踏まえて、少し補足したいと思います。

飛雲」には、化土についての豊富な根拠が紹介されていますので、別の根拠をだします。

『歎異抄』第11条


 誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまゐらせて生死を出づべしと信じて、念仏の申さるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆゑに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらに異なることなきなり。つぎにみづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて申すところの念仏をも自行になすなり。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢・疑城胎宮にも往生して、果遂の願(第二十願)のゆゑに、つひに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなはち、誓願不思議のゆゑなれば、ただひとつなるべし。

現代語訳を示せば

阿弥陀仏は、 誓願の不可思議なはたらきにより、 たもちやすく称えやすい南無阿弥陀仏の名号を考え出してくださり、 この名号を称えるものを浄土に迎えとろうと約束されているのです。 だから、 まず一つには、 大いなる慈悲の心でおこされた誓願の不可思議なはたらきにお救いいただいて、 この迷いの世界を離れることができると信じ、 念仏を称えるのも阿弥陀仏のおはからいであることを思うと、 そこにはまったく自分のはからいがまじらないのですから、 そのまま本願にかなって、 真実の浄土に往生するのです。
これは、 誓願の不可思議なはたらきをひとすじに信じれば、 名号の不可思議なはたらきもそこにそなわっているのであり、 誓願と名号の不可思議なはたらきは一つであって、 決して異なったものではないということです。
次に、 自分の勝手なはからいから、 善と悪とについて、 善が往生の助けとなり、 悪が往生のさまたげとなると区別して考えるのは、 誓願の不可思議なはたらきを信じないで、 自分のはからいで浄土に往生しようと努め、 称える念仏をも自分の力でする行とみなしてしまうことです。 このような人は、 名号の不可思議なはたらきも信じていないのです。 しかし、 信じてはいないけれども、 念仏すれば辺地・懈慢界・疑城胎宮などといわれる方便の浄土に往生して、 果遂の願により、 ついには真実の浄土に生れることができます。 それは名号の不可思議なはたらきなのです。 このことはそのまま誓願の不可思議なはたらきによるのですから、 この二つはまったく一つのものなのです。



となります。

第17条には、


信心かけたる行者は、本願を疑ふによりて、辺地に生じて疑の罪をつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまはり候へ。信心の行者すくなきゆゑに、化土におほくすすめいれられ候ふを、つひにむなしくなるべしと候ふなるこそ、如来に虚妄を申しつけまゐらせられ候ふなれ。

現代語訳は

信心の欠けた念仏者は、 阿弥陀仏の本願を疑うことにより、 方便の浄土に往生し、 その疑いの罪をつぐなった後、 真実の浄土においてさとりを開くとうかがっております。
本願を信じて念仏するものが少ないので、 仮に方便の浄土に多くのものを往生させておられるのです。 それが結局意味のないことであるようにいうのは、 それこそ浄土の教えをお説きくださった釈尊が嘘いつわりをいわれたと申しあげておられることになるのです。



また後序には


かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。

現代語訳は

幸いにも念仏する身となりながら、 ただちに真実の報土へ往生しないで、 方便の浄土にとどまるのは、 何と悲しいことでしょう。 同じ念仏の行者の中で、 信心の異なることがないように、 涙にくれながら筆をとり、 これを書いたのです。 「歎異抄」 と名づけておきます。


このように、『歎異抄』には、化土について何回も書かれています。それどころか、自力念仏者が多く、化土往生の者が多いことを嘆いて著したのが『歎異抄』だといわれているのです。『歎異抄』と化土とは切っても切り離せない関係があるのです。

ところが化土往生を説く『歎異抄』は、親鸞会にとっては許し難い”邪義”の書である筈ですが、なぜか『歎異抄をひらく』という書物には、化土往生の”邪義”について全く触れていません。一切衆生必堕無間を根底から覆す”邪義”である筈なのに、それを正さないのはどういうことであるのか、答えは簡単です。
親鸞聖人も自力念仏者の化土往生について至る所で仰っているからです。化土往生を否定したら、親鸞聖人の仰せを否定することになるからです。かとって化土往生を認める訳にもいかないので、触れないという結論に至ったのだと分かります。

親鸞会のブログを見ると、極重の悪人は念仏を称えることができないとびっくりするようなことを書いていますが、阿弥陀仏、釈尊、七高僧方が難行である諸善ではなく、易行の念仏を極重の悪人に勧められているのも知らないとは、ただただ絶句です。その念仏を称えている人にも、20願自力念仏の人と18願他力念仏の人がいると親鸞聖人が特別に力を入れられて峻別せられたのではありませんか。

20願自力念仏の人は、真実信心が欠けているから化土往生になるので、真実信心を獲て18願他力念仏者になって報土往生をしてくれよ

そればかり御著書に書かれてあるといっても過言ではないでしょう。自力念仏者がいないのならば、親鸞聖人が明らかにされた信心正因称名報恩の教えも理解できません。だから、信心正因称名報恩を否定した信楽教授の論文を引っ張り出してきても何とも思わないのです。

念仏を称えることが我々にはできないと言い出したら、浄土仏教でも聖道仏教でもありません。聖道仏教でも称名念仏を教え勧めています。

以前にも紹介しました加藤智学編『香樹院講師語録』には、


綾五郎、命終に臨んで尋ねて曰く。
私、生涯御法を聞き、
この頃は日夜に六万遍の念佛を申して日課にいたし、
本願を心にかけ居り候えども、
信心なくば、空しく三悪道へ帰ると仰せらるるを思えば、
誠に嘆かわしく候、と。

予、これに答えて云う。
念佛を多く申して佛に廻向するさえ、
佛しろしめして辺地の往生を遂げしめ給う。
まして念佛申し本願に心をかけ、
そのうえ信の得られぬことを悲しんで、
加被を待つ。これ辺地の往生疑いなし、と。

また問うて云うよう。
何ぞ本願を疑うもの、辺地に往生するや。
信を得ぬは、疑いと承り居り候。

答。
これ如來の御誓いなり。

淨土和讃の初めに、

弥陀の名號となへつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
佛恩報ずるおもひあり

との給う。これ報土往生の人なり。次に、

誓願不思議をうたがひて
御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳
むなしくすぐとぞときたまふ

とあり。これ化土往生の人なり。

なにも悲しまずに、喜びて念佛すべし。
予も老年ゆえ、追っ付け淨土にて御目にかかるなり。
化土は五百歳永きようなれども、実にわづかの間なり、
と申しければ、
さてはかかる機なれども、辺地の往生を遂げしめて、
終には弥陀の真実報土に生れさせ給う御慈悲なれば、
たとい千年万年でも如來の御はからいなり、と、
たちどころに弘願に入り、めでたく往生いたされき。

右、日々六万遍の称名は、
臨終の両三日より初めて申せしなり。
かような人は、他には一人も見ず。
これを思うに、信は宿善開発にあらざれば、
得ること能わずと見えたり。
本願を心にかけ念佛せん人、
辺地の往生を遂げしめ給う御慈悲なれば、
身心を投げ込んで聞けば、信は得ずとも念佛申す御徳にて、
悪道に堕ちぬことなれば、命限り疑いのはるるまで求めて、
聞きとげずばおくまいと、勇み励んで聞き求むべし。
このたび本願に値い、生涯法に身を入れても、
少しも損のなきは聞法の利益なり。



とあります。親鸞会の好きな香樹院師も自力念仏者の化土往生を言われています。
当たり前のことであって、このことで香樹院師を親鸞会が非難したと言うことも聞いたことがありません。

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