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2009-07-30

親鸞会は諸行往生5

親鸞会が諸行往生の邪義であるとの非難に対する反論が、親鸞会からありました。
(親鸞会のHPより)

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 諸行往生とは、「諸善をしたら助かる」ということ、これは間違いである。それでは、自力の善の積み重ねで助かることになるからだ。
「一切の自力を捨てて、他力に帰せよ」これ以外に親鸞聖人の教えはないことを、覚如上人は次のように断言されている。

「今の真宗においては、専ら自力をすてて他力に帰するをもって宗の極致とする」(改邪鈔)

 親鸞聖人の、この捨自帰他のみ教えの徹底に専心する親鸞会は、未だかつて、「諸善をすれば助かる」などと主張したことは一度もない。
 当然である。

 また諸行往生は、死ぬまで助かったということがない。
 体失不体失往生の諍論で、親鸞聖人に論破された法友・善慧房証空の主張を、法然上人はこう評されている。

「善慧房の体失して往生するよし述ぶるは、諸行往生の機なればなり」(口伝鈔)

 肉体を失わなければ(体失)助からぬという善慧房の主張は諸行往生であり、「諸行往生は本願にあらず」とまで言い切られている。

 阿弥陀仏が本心を誓われた十八願には、平生の一念にいつ死んでも極楽往生間違いない身に救い摂る、と約束されているからだ。

 だから親鸞聖人のみ教えは、平生業成、現生不退。現在ただ今、肉体あるままの不体失往生を90年間、強調されたのである。

善の勧めはなぜなのか

 高森先生もまた、この信仰の決勝点、一念の弥陀の救いを、常に黒板に縦の線で示され、親鸞聖人の平生業成のみ教えを一貫して説き続けられているのは世間周知のこと。
 その親鸞会に対する「諸行往生」の非難が、いかに的外れであるかは明らかであろう。

 では、善の勧めはなぜなのか。
 阿弥陀仏が、本心を誓われた十八願に導くために、十九の願(修諸功徳の願)で、諸善を勧めていられるからである。

 十方衆生のほとんどが、仏とも法とも知らぬのだから、まず宇宙の真理である
「善因善果、悪因悪果、自因自果」の因果の大道理から、廃悪修善の必要性を納得させ、実行を勧め、十八願の無碍の一道まで誘導するのが弥陀の目的なのだ。

 要門と言われる十九願は、善を捨てさす為のものではなく、善を実行させる為の願であることは、明々白々である。
 実践しなければ果報は来ない。 知った分かったの合点だけでは、信仰は進まないのである。
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前半は真宗の教科書通りの答えです。しかし、なぜ親鸞会が諸行往生と非難されているのかの的を敢てずらしています。

親鸞会は、平生業成と口では言っていますが、実際は平生業成になっていません。

覚如上人は『口伝抄』に


如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって、本願とせば、いのち一刹那につづまる
無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす。
そのゆえは、願成就の文には「聞其名号 信心歓喜 乃至一念 願生彼国 即得往生 住不退転」(大経)ととき、おなじき『経』の流通には、「其有得聞彼仏名号 歓喜踊躍乃至一念 当知此人 為得大利
即是具足無上功徳」とも、弥勒に付属したまえり。しかのみならず、光明寺の御釈には、「爾時聞一念 皆当得生彼」(往生礼讃)とら、みえたり。これらの文証、みな無常の根機を本とするゆえに、一念をもって往生治定の時剋とさだめて、いのちのぶれば、自然と多念におよぶ道理をあかせり。
されば、平生のとき、一念往生治定のうえの仏恩報謝の多念の称名とならうところ、文証・道理顕然なり。もし、多念をもって、本願としたまわば、多念のきわまり、いずれのときとさだむべきぞや。



と仰っておられます。親鸞会でいうまず善をして、善のできない自分が知らされてから助かる、というのは「一念」ではありません。「多念」です。「聞」の一念で阿弥陀仏に救われるというのが、平生業成です。
「まず善をして」、では「いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや」です。

高森会長は過去に何度も話をしていたことですが、「今」とは、「い」と言った時は「ま」は未来、「ま」と言った時は「い」は過去になるので、「いま」は言えない、と聞いたことのある会員は多いでしょう。救いを先延ばしにする心は、永久に助からない心とも聞いている筈です。

ならば、「まず善をして」は、永久に助からない心です。だから会員は、今助かるとは誰も思っていません。

親鸞聖人は、比叡山で20年間命懸けの御修行をして、地獄一定の自分と知らされた、と先日の降誕会で話をしていましたが、親鸞聖人が命懸けで御修行なされても20年もかかられたのなら、自分はその何倍かかるだろうかと皆思っています。仮に平均寿命まで生きておれるとしても、今生では救われないですね。

だから体失往生になり、諸行往生と非難されているのです。それを誤魔化すいつもの汚い論法です。


では、親鸞聖人の三願転入はどうなるのだ、と思われる方もあるでしょう。

『教行信証化土巻』に


ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依りて、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離れ、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入し、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。


と親鸞聖人は、御自身の体験を告白しておられます。
よく読んで頂きたいところは、「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依りて」の七高僧方によって親鸞聖人はどうのように導かれたのかです。

それは

久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離れ、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。

ですね。七高僧から19願を離れて20願に回入せよと教えられたのです。19願の諸善をせよではありません。

七高僧方の教えられたことは、難行道、聖道仏教、自力仏教を捨てて、易行道、浄土仏教、他力仏教に帰依せよです。親鸞聖人が直接お導きを受けられた法然上人は、至る所に、諸善を捨てて本願の念仏を称えよ、と仰っています。往生のために善をせよとは、どこにも仰っていません。他の高僧方も同じです。

たとえば『選択本願念仏集』には

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、
しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて
選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定を
もつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。
名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。


と教えておられます。蓮如上人も雑行(諸善)を捨てよとは仰っていますが、まず雑行(諸善)を実行して、とはどこにも仰っていません。

親鸞聖人は、御自身が三願転入したとは仰っていますが、他の人にも三願転入せよとは仰っていません。
覚如上人も、蓮如上人も三願転入について仰っていません。

だから親鸞会の反論の結論部分では

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 十方衆生のほとんどが、仏とも法とも知らぬのだから、まず宇宙の真理である
「善因善果、悪因悪果、自因自果」の因果の大道理から、廃悪修善の必要性を納得させ、実行を勧め、十八願の無碍の一道まで誘導するのが弥陀の目的なのだ。

 要門と言われる十九願は、善を捨てさす為のものではなく、善を実行させる為の願であることは、明々白々である。
 実践しなければ果報は来ない。 知った分かったの合点だけでは、信仰は進まないのである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

と自説を述べても、その「明々白々」な根拠が全く挙げられないのです。前半部分とは対照的ですね。

高森会長のいつものトリックです。

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三願転入

>他の人にも三願転入せよとは仰っていません。

 全く同意見です。
 2009/07/15(水) 12:56:57  http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1246021834/101
 現代の人に説くべき教えは、正定聚のための十八願でもなければ、邪定聚のための十九でもない。二十願の真門の教えである。
 これを三願転入と関連づけて説明しています

 未熟の機は聖道門から要門(十九願)へ、更に真門(二十願)へと導かれて最後に真実の法門である弘願他力(十八願)に帰入すると見られている。
 このような誤った主張が大学者から"http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%85%AD%E4%B8%89%E6%B3%95%E9%96%80"などで通説のようにおおっぴらに主張されている現代社会の中で、渡海説は自分だけの一人説かと思っていましたが、三願転入について同じような主張を見てうれしくなりました。

Re: 三願転入

渡海 難 様

三願転入については、本願寺でも肯定否定の意見があります。親鸞聖人と同じ道を通らなければならないとする肯定派と、聖人が誤った道を教えて下さったのだから、その誤った道を敢て進む必要はないとする否定派です。
私は後者に近い立場ですが、過去世まで遡ってみると結果的にみれば三願転入をしてきたという考えです。しかし、阿弥陀仏の本願を聞いて知っている人が、敢て19願の自力修繕の道を通らなければならないという考えは持っておりません。

No title

 主観の相違か、認識の相違か分かりません。
 ご主旨は分かりました。

化門を出でて

たしかに 化土巻に 「化門を出でて」とありますね

化門とは 「カルト高森会」や 「天台宗」のように 19願の善を勧めているもの
「出た」とは「さよなら」という事ですから

親鸞聖人は
「さよなら親鸞会」
と教えられていますね

よくわかりました

Re: 化門を出でて

> たしかに 化土巻に 「化門を出でて」とありますね
>
> 化門とは 「カルト高森会」や 「天台宗」のように 19願の善を勧めているもの
> 「出た」とは「さよなら」という事ですから
>
> 親鸞聖人は
> 「さよなら親鸞会」
> と教えられていますね
>
> よくわかりました


その通りです。

訂正

「化門」ではなく 「仮門」でした

訂正しますozu
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