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2009-08-02

一切衆生は必堕無間なのか1

親鸞会では、「一切衆生必堕無間」だから、親鸞会に入って信心決定しなければならないといいます。この「一切衆生必堕無間」とは、全ての人は死んだならば、必ず無間地獄に堕ちるということです。しかし、本当に一切の衆生は必堕無間なのでしょうか。

まず「一切衆生必堕無間」と言う言葉は、経典にも、七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の著書にもありません。では高森会長の造語なのかといいますと、日蓮著『撰時抄』には、以下のようにあります。

教主釈尊の金言まことならば多宝仏の証明たがずば十方の諸仏の舌相一定ならば今日本国の一切の衆生無間地獄に堕ちん事疑うべしや

ここから拝借した可能性は大いにあります。
参考までに、親鸞会でよく使われる「絶対の幸福」「相対の幸福」は、創価学会の「絶対的幸福」「相対的幸福」を真似たのは、間違いないでしょう。

高森会長が創価学会を真似ているところは多々指摘されています。分かりやすいところでは「正本堂」という言葉は、大石寺に創価学会がかつて建設した建物の名称です。「正本堂」という言葉は歴史的にも真宗では使われたことがありません。その他、組織拡大方法も創価学会を参考にしてきたといわれています。

ですから、親鸞会の根幹をなす言葉「一切衆生必堕無間」も、創価学会を真似たものと考えるのが自然です。

このように言いますと、「必堕無間」は親鸞会以外の真宗関係団体でも使っているとの反論があるでしょう。高森会長が著作の大半を盗作したといわれている大沼法竜師の『魂のささやき』には、

三千世界の者はみな助かっても、法竜一人は助からないのだ、と往生の望みの綱が切れたとき、無間のどん底に投げ込まれたのが先か、その機のままを摂取するのだぞの勅命が届いたが先か、必堕無間が先か、十方法界唯であったの自覚が先か、明来闇去か、闇去明来か、そんなことなど考える余裕あればこそ、この極悪最下の機が極善最上の法に生かされたのだ。

とあります。また高森会長が18才で獲信体験をした時の所属団体である華光会でも、「必堕無間」という言葉は使用されています。本願寺系発行の書物にも、「必堕無間」の言葉は見られます。その元になったのが『歎異抄』の、

いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

です。『歎異抄』は親鸞聖人の書かれた書物ではありませんので、これが親鸞聖人のお言葉と断定はできませんが、親鸞聖人のお言葉であるとして、親鸞会では、「親鸞聖人でさえ、地獄しか行き場のないものであると仰っているのだから、全人類は必堕無間で間違いない」、と主張します。

しかしここに論理の飛躍があります。親鸞聖人は御自身を非常に厳しく見つめられたお方ですので、御自身を顧みられたときに、懺悔のお言葉としてこのように仰った可能性は否定できませんが、他の人も「地獄一定」とはどこにも仰っていません。またこの「地獄」も「無間地獄」と特定されていません。

親鸞聖人の書かれた『教行信証総序』には

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、かえってまた曠劫を径歴せん。

と仰っています。「曠劫を径歴」ですから、六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)を輪廻するということです。信心決定できずに死んだならば、地獄に堕ちるとも仰っていません。ましてや「必堕無間」ではありません。

曇鸞大師は『讃阿弥陀仏偈』に御自身のことを

我無始より三界に循りて、虚妄輪の為に廻転せらる。
一念一時に造る所の業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。


と仰っています。
善導大師は『観経疏』散善義に機の深信として、

自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと深信す。

と仰っています。
親鸞聖人、曇鸞大師、善導大師ともに、六道輪廻もしくは三悪道(地獄界・餓鬼界・畜生界)を経巡ると表現なされています。

親鸞聖人が地獄に堕ちると表現なされたのは御和讃では、
『浄土和讃』の

衆生有碍のさとりにて
無碍の仏智をうたがえば
曾婆羅頻陀羅地獄にて
多劫衆苦にしずむなり


と、『正像末和讃』の

念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなくうとぞときたまう


だけです。「衆生有碍のさとり」という異安心の人と、「念仏誹謗の有情」という謗法罪を造った人を限定に仰っています。「一切衆生」とは全く違います。

蓮如上人の『御文章』には

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。(一帖目第十一通)

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。(二帖目第十四通)

と地獄に堕ちる人の条件を限定されて仰っています。
親鸞会が「一切衆生必堕無間」の根拠として挙げるのが、

この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(二帖目第二通)

です。『御文章』がお手紙であることと、他では限定した人に対して「地獄に堕ちる」と蓮如上人が仰っているところからすると、ここも、異安心や邪義を称えていた人に対して仰ったお言葉であったと考える方が、理解しやすいと思います。

蓮如上人のこの一文をもって、「一切衆生必堕無間」と主張するのは、釈尊、七高僧、親鸞聖人が決してされなかった脅しでの信者獲得を目指すものであり、外道です。

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