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2009-08-01

親鸞会は諸行往生6

カルト宗教の特徴はいくつかありますが、代表的なものが、

1.地獄へ堕ちる等の極度の不安を煽る。
2.指導者に無条件服従させる。
3.異常な献金と不法な勧誘を信者にさせる。

でしょう。親鸞会の場合は、

1.一切衆生必堕無間
2.善知識への無条件服従
3.善の勧めという名目の財施、法施

です。
それで、この3つに焦点を絞って、これらが浄土仏教、親鸞聖人の教えと如何に異なるのかを説明してきました。
これ以外にも、問題点は山ほどありますが、この3つで現会員の方はもちろん、元会員の方も苦しんでいると聞きますので、それ以外のことについては敢て触れていません。

当ブログを読まれた現会員、元会員の方から、
1.一切衆生必堕無間
2.善知識への無条件服従
この2つに関しては、よく理解できたと言われることが多いです。
それでも一部の奇特な方は、「善知識への無条件服従」で挙げた根拠に拘っているようですが、根拠の解釈は否定しても、内容についての反論はありません。

しかし、最後まで迷う教義が「善の勧め」です。聖教を読まれれば、阿弥陀仏の救いに善は無関係であることは明らかなのですが、「善をしなければ信仰が進まない」、と親鸞会で擦り込まれるとなぜか納得してしまうのでしょう。
それは宗教とは善を勧めたものであるからです。他の宗教でも、善いことをすれば善い報いを受け、悪いことをすれば悪の報いを受けるといいます。親鸞会では最近、教義批判をかわすために、因果の道理について重点的に説いているようですが、それは他宗教と同レベルの教えです。嘘だと思われる方は、他の宗教を調べてみてみるといいでしょう。
親鸞会で説く因果の道理とは、仏教ではなく、他宗教の教えです。
因果の道理については、

「清森問答」
質疑応答183
質疑応答184
質疑応答185
質疑応答186
質疑応答187
質疑応答188
質疑応答189
質疑応答190

「21世紀の浄土真宗を考える会」
浄土門の因果の道理
宿業 宿善 因果の道理
因果についてちょっと思ったこと

「苦笑の独り言」
ものすごく納得がいく、スマナサーラ長老の因果論

でも最近取り上げられていますので、そちらを御覧下さい。

親鸞聖人の教えに善の勧めがある筈と信じてしまうのは、私たちの迷いの深さを表しています。だからこそ、釈尊は聖道仏教を説かれなければならなかったのであり、阿弥陀仏が19願を建てられねばならなかったのです。
諸善は、実行させるために説かれたのではなく、捨てるために説かれた、と善知識方が繰り返し仰っておられるのに、それには”無条件服従”しないのが親鸞会です。善をしなければ信仰は進みませんよ、という珍しき教えを説き続けて、金集め、人集めを正当化させているのです。

親鸞会の善の勧めの誤りについても、以下で解説されています。

「21世紀浄土真宗を考える会」
生因三願の「十方衆生」についての考察
観無量寿経のこころ その1 定善
観無量寿経のこころ その2 散善
不可解な言葉に関する考察 その1「善をしなければ 信仰は進みませんよ」
不可解な言葉に関する考察 その1「善をしなければ 信仰は進みませんよ」②
観無量寿経のこころ その3 定散二善
観無量寿経のこころ その3 定散二善②
観無量寿経のこころ その4 第19願&観経が説かれた理由

「清森問答」
質疑応答181
質疑応答182

阿弥陀仏の救いのために、善が勧められているのかどうか、善知識方のお言葉を素直に読んで考えてみて下さい。


「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、
遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、
仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

善導大師『観無量寿経疏』散善義


善根なければ、此の念仏を修して、無上の功徳を得んとす。
余の善根多くば、たとひ念仏せずとも、頼む方も有るべし。
しかれば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、
本願をたのみ、念仏せよと、勧め給ヘリ。
経に、一たび名号を称ふるに、大利を得とす。
又すなわち、無上の功徳を得と、とせり。
いかにいわんや、念々相続せんをや。
しかれば善根なければとて、念仏往生を疑うべからず。

(法然上人『念仏往生義』)


酬因感果の理を、大慈大悲の御心のうちに思惟して、
年序そらにつもりて、星霜五劫におよべり。
しかるに善巧方便を巡らして、思惟し給えり。
しかも、我別願をもて浄土に居して、
薄地低下の、衆生を引導すべし。
その衆生の業力によりて生まるるといわば、かたかるべし。
我、すべからく、衆生のために永劫の修行をおくり、
僧祇の苦行を巡らして、万行万善の果徳円満し、
自覚覚他の覚行窮満して、その成就せんところの、
万徳無漏の一切の功徳をもて、我が名号として、衆生に称えしめん。
衆生もしこれにおいて、信をいたして称念せば、
我が願にこたえて、生まるる事を得べし。

(法然上人『勅伝』)


釈迦も、世に出で給ふ事は、弥陀の本願を、説かんと思しめす御心にて候へども、
衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、
これ随機の法なり。佛の、自らの御心の底には候はず。
されば、念仏は、弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。
余の種々の行には、似ず候うなり。

(法然上人『津戸三郎へつかはす御返事』)


 念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。
持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、
極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、
もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、
さも仕りそうろう。
 またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、
ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、
え生まれそうらわぬ亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、
但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。
善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、
それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
 また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。
また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。
されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、
堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。
孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。

(法然上人『熊谷入道へ遣わす御返事』)


諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。
もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。
もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。
しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。
もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。
自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。
しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。

法然上人『選択本願念仏集』


おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための
所以なり。初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために
説く、念仏は立せんがために説く。次の義はすなはちこれ助正のために説く。
いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。後の義はすなはちこれ
傍正のために説く。いはく念仏・諸行の二門を説くといへども、念仏をもつて正
となし、諸行をもつて傍となす。ゆゑに三輩通じてみな念仏といふ。ただし
これらの三義は殿最知りがたし。請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。いまもし
善導によらば、初め(廃立)をもつて正となすのみ。

法然上人『選択本願念仏集』


故に知んぬ。諸行は機に非ず、時を失えり。念仏往生は機に当り、時を得たり。
感応あに唐捐ならんや。まさに知るべし。隨他の前には暫く定散の門を開くと
いえども、隨自の後には還って定散の門を閉づ。一たび開いて以後永く閉じざるは
ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意ここに在り、行者まさに
知るべし。

法然上人『選択本願念仏集』


それ速やかに生死を離れんと思わば、二種の勝法の中に、
しばらく聖道門を閣きて、選びて、淨土門に入れ。
浄土門に入らんと思わば、正雑二行の中に、
しばらく諸々の雑行を抛てて、選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと思わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、
選びて正定を專にすべし。
正定の業というは、すなはち、これ佛の御名を称するなり。
名を称すれば必ず生まるることを得。
佛の本願によるが故に。

法然上人『選択本願念仏集』


また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
親鸞聖人『教行信証』信巻


おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、
難行道といへり。
この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、
竪出・竪超あり。
すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。
この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、
雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。
雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。
これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

親鸞聖人『教行信証』化土巻


そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、
すでに雑行となづけてきらえるそのこころはいかんぞなれば、それ、
弥陀仏のちかいましますようは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、
いかなるつみふかき機なりとも、すくいたまわんといえる大願なり。
しかれば、一心一向というは、阿弥陀仏において二仏をならべざるこころなり。
このゆえに、人間においてもまず主をばひとりならではたのまぬ道理なり。
されば外典のことばにいわく、
「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず」といえり。
阿弥陀如来は、三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、
いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまわざるべきや。
このいわれをもってよくよくこころうべし。
さて、南無阿弥陀仏といえる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、
そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆえに、なにの不足ありてか
諸行諸善にこころをとどむべきや。
すでに南無阿弥陀仏といえる名号は、万善万行の総体なれば、
いよいよたのもしきなり。

蓮如上人『御文章』二帖目第九通



これ以外にもたくさんありますが、どこに善をしなければ信仰は進まないと説かれていますか。
親鸞聖人の仰る「迂回の善(遠回りの善の教え)」を勧めているのではないですか。
まさか「七仏通誡偈」が親鸞聖人が善を勧められた根拠というのではないでしょうね。

参照:「21世紀の浄土真宗を考える会」歎異抄第2章を読む その2

2009-08-01

親鸞会は諸行往生7

本願寺と親鸞会とでは、因果の道理と諸善についての理解に雲泥の差があります。「静かな劇場」というブログを読んでいると、明らかに外道の教えです。ひいき目に見ても、聖道仏教紛いです。

少し長いですが、以下を読まれれば、正しい浄土真宗においての因果の道理と諸善の解釈がどうであるのかの一端がお判りになると思います。
外道もしくは聖道仏教紛いの単純で浅薄な教えを、大宇宙の真理と宣言している親鸞会と、浄土真宗という土俵で論争すること自体、恥ずかしくなります。

浄土真宗やっとかめ通信(東海教区仏教青年連盟)より
『大無量寿経』下巻「五悪段」の解説部分

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
◆ 六因五果四縁について

註釈版
 仏、弥勒[みろく]に告げたまはく、「われなんぢらに語りしごとく、この世の五悪、勤苦[ごんく]かくのごとし。五痛[ごつう]・五焼[ごしょう]、展転[てんでん]してあひ生ず。ただ衆悪[しゅあく]をなして善本[ぜんぽん]を修[しゅ]せざれば、みなことごとく自然[じねん]にもろもろの悪趣[あくしゅ]に入[い]る。あるいはそれ今世[こんぜ]にまづ殃病[おうびょう]を被[こうぶ]りて、死を求むるに得ず。生を求むるに得ず。罪悪の招くところ衆に示してこれを見せしむ。身死して行に随[したご]うて三悪道[さんまくどう]に入りて、苦毒無量[くどくむりょう]にしてみづからあひショウ燃[しょうねん]す。その久[ひさ]しくして後に至りて〔再び人間界に生じ〕ともに怨結[おんけつ]をなし、小微[しょうみ]より起りてつひに大悪となる。みな財色[ざいしき]に貪着[とんじゃく]して施恵[せえ]することあたはざるによりてなり。痴欲[ちよく]に迫[せ]められて心に随うて思想す。煩悩結縛[ぼんのうけつばく]して解けやむことあることなし。おのれを厚[あつ]くし利を諍[あらそ]ひて省録[しょうろく]するところなし。富貴[ふき]・栄華、時に当りて意を快くして忍辱[にんにく]することあたはず。つとめて善を修せざれば、威勢[いせい]いくばくもなくして、随ひてもつて磨滅[まめつ]す。身坐[しんとど]まりて労苦[ろうく]す。久しくして後大[のちおお]きに劇[はげ]し。天道、施張[しちょう]して自然に糺挙[くこ]し、綱紀[こうき]の羅網[らもう]、上下相応[じょうげそうおう]す。煢々シュ々[けいげいしゅじゅ]として、まさにそのなかに入るべし。古今[ここん]にこれあり。痛ましきかな、傷[いた]むべし」と。

現代語版
 続けて釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「今わたしがそなたたちに語ったように、世の人々はこの五悪のために苦しんでいるのであって、その五悪から次々に五痛・五焼の報いが生れるのである。いろいろな悪ばかりを犯して功徳を積まないなら、みなおのずからさまざまな苦しみの世界に生れる。あるものはこの世で難病をわずらい、死にたいと思っても死ぬことができず、生きたいと思っても生きることができないで、罪の報いを世の人々の前にさらすのである。そして命が終われば、その行いに応じて地獄や餓鬼や畜生の世界に沈み、はかり知れない苦しみにその身を焼き焦がして苦しむのである。
 長い時を経てふたたび人間界に生れても、また互いに憎みあって、小さな悪から始まりやがて大きな悪を犯すようになる。これはすべて、財欲や色欲をむさぼって人に恵みを施すことができないからである。人々は愚かな欲望に追い回されて、わがままな考えをいだき、いつまでも煩悩に縛られたままで、自分の利益ばかりを考えて他人と争い、悪い行いを反省してすすんで善い行いをしようとはしない。たまたま裕福になり繁栄しても、一時の快楽にふけり、耐え忍ぶことがなく、すすんで善い行いをしようとしないために、その勢いも長続きしないですぐに落ちぶれてしまう。身に受ける苦しみは尽きることなく、後の世になるほどその激しさを増すのである。
 因果の道理はちょうど網を広げたように世界中をおおい、一つの罪も見逃すことなく数えあげ、その張りめぐらされた網にすべてのものは捕えられて、逃れることができない。ただひとりおののきながら、その網にかかって報いを受けるのである。これは今も昔も変ることがない。まことに痛ましい限りではないか」



{浄穢欣厭}の三毒段から五善五悪の全体を通し、一貫して主題となっていますのが「善悪の道よく知るものなし」とも「天道、施張[しちょう]して自然に糺挙[くこ]し、綱紀[こうき]の羅網[らもう]、上下相応[じょうげそうおう]す」とも説かれている「因果の道理」です。仏教は世の中すべての現象を因果関係によって理解し、因果の道理に基づいて修行し、智慧と徳を成就させる宗教なのでありますが、これこそが正しい世界観であり、確実に人生を成就させる道なのです。因果を離れた無為法といえども、それは有為と別にあるのではありません(このことは後に説明します)。

 しかし中には、「善いことをしたのに全く善い結果が現れなかった」とか「悪いことをした奴等も処罰されなかったり、莫大な利益を得て大きな顔をしているではないか」と反論される方もあるでしょう。「因果の道理はちょうど網を広げたように世界中をおおい、一つの罪も見逃すことなく数えあげ、その張りめぐらされた網にすべてのものは捕えられて、逃れることができない」というほど因果の道理は世界中を網羅しているのでしょうか。

 実は仏教における因果の道理は「善いことをすれば善い結果が現れる。悪いことをすれば悪い結果が現れる」というだけの単純な認識ではありません。「六因[ろくいん]・五果[ごか]・四縁[しえん]」としてまとめられ、人生における全ての因果関係を分類しているのです。これは仏教を学ぶ上で基本となりますので、簡単におさえておきたいと思います。

◎ 六因(倶舎宗で説く六因)
因は、結果(果)を引き起こすための直接の内的原因。倶舎宗では、能作因[のうさいん]・倶有因[くういん]・相応因[そうおういん]・同類因[どうるいいん]・遍行因[へんぎょういん]・異熟因[いじゅくいん]の六因を説く。

能作因[のうさいん]
果たる法以外の一切の有為法[ういほう]は、その法を生ずるために或いは積極的に力を与え(有力能作因)、或いは消極的にその法を生ずるのにさまたげをしないから(無力能作因)、すべてその法に対する因(能作因)と考えられる。これは広義における因(因縁)である。
【編集註:「能」は「主体・行じるもの自身」で、「所」は「客体・行じる目的や対象」。「法」や「ダルマ」は「ある性質や本性をもった一切の存在」をいう。また「有為法」は、因縁和合によって造作された現象的存在であり、無常であって常に転じ移り変わる(有為転変[ういてんぺん])。「有為法」は因果的関係によって成り立っていて、因(事)より生じるため「有事」といい、必ず果を有しているため「有果」ともいう。有為法は最後には捨離されて涅槃に至るべきもので、これを「有離」という。「有為法」に対し「無為法」は生滅変化を離れた永久不変、常住絶対の法である】

倶有因[くういん]
二個以上の法が同時に依存しあって存在する時、それらの所法は相互に倶有因であるという。これに同一果(同じく果を一にする)と相為果(互いに果となる)との二つの解釈がある。
【※編集註:二つ以上のものごとの関係(因果関係等)が極めて密接ということ】

相応因[そうおういん]
倶有因の中で、特に心と心所(心のはたらき)との間の関係を相互に相応因であるという。
【※編集註:二つ以上のものごとの関係(因果関係等)が相互にあい和し(和合)離れないこと】

同類因[どうるいいん]
同類の法が連続して生ずる時、先の法を後の法の同類因という。時間的に先のものと後のものとが因果の関係をもって結ばれていて、しかも二つが同じ性質をもっているとき、先のものを同類因もしくは遍行因といい、後のものを等流果という。

遍行因[へんぎょういん]
同類因の中で、特に力の強い煩悩即ち遍行惑について別立したもの。すべてに通じる因。特に遍行の煩悩とよばれる強力な煩悩が、同類の煩悩や煩悩に類する法をひき起こす場合に、その原因を遍行因、結果を等流果とよぶ。

異熟因[いじゅくいん]
不善業と有漏[うろ]の善業とが因となって無記[むき]の果を引く時、これを異熟因という。
【※編集註:一般的にいう善悪の因(善にも煩悩が含まれている)がそのまま善悪の果とならず、無記(善でも悪でもない)の結果(たとえば苦や楽)をうみ出すこと】

◎ 五果
因 即ち原因によって生じた結果をいう。有部宗や唯識宗では、等流果[とうるか]・異熟果[いじゅくか]・士用果[じゆうか]・増上果[ぞうじょうか]・離繋果[りげか]の五果に分類する。

等流果[とうるか]
善因から生じた善果、悪因から生じた悪果のように、因と同じ性質(等しき流類)の果で、六因中では同類因と遍行因から生じた果。また習果ともいう。
【※編集註:時間的に先のものと後のものとが因果の関係をもって結ばれていて、しかも二つが同じ性質をもっているとき、先のものを同類因もしくは遍行因といい、後のものを等流果という。またあるものがその性質をかえないで等しい種類のものとして持続することを、等流相続という】

異熟果[いじゅくか]
善・不善の業因(異熟因)から生じた無記(非善非不善)の果。因と性質が異なって成熟した果の意。また報果ともいう。天台宗では習果と報果を合わせて二果ともいう。
【※編集註:たとえば、善業を行うことが原因で、心が晴れて楽しくなるという結果を得たり、皆から褒められるという結果を生むこと。楽しいことや褒められることは善でも悪でもない】

士用果[じゆうか]
倶有因・相応因の果であり、因の強い勢力を男子(士夫[じぶ])の動作(用[ゆう])に喩えて士用といい、士用ある因によって生じた果の意。同時の因果である。
【※編集註:ある行動を積極的に起こす際、類は友を呼ぶように、他の様々な要因をともなって展開し結果があらわれること】

増上果[ぞうじょうか]
それみずからを除いた他のすべての有為法[ういほう]を能作因といい、この能作因に対する果である。果に対して力を与えて強くする因の力によって生じた果という意。主因を助ける助因を増上縁といい、これによる結果を増上果という。業を助ける付随的・補助的な力(増上力)によって生じた結果のこと。すなわち業の余勢によって現われた結果のこと。たとえば、眼根に対して眼識はその増上果である。

以上四つの果は有為法であるから有為果[ういか]という。これに対して離繋果は無為法[むいほう]である。

離繋果[りげか]
離繋とは、煩悩[ぼんのう]の束縛を離れたことで、離繋果とは択滅[ちゃくめつ]すなわち涅槃[ねはん]のさとりを指す。択滅は無為法[むいほう]であって因をもたないから、不生不滅である。従って離繋果は道の因によって生じた果ではないが、道は択滅をうるための得(離繋得)を生じる因となり、同時に択滅は道によって証されるから、択滅を離繋界という。これをまた果果ともいう。修行の果である菩提によって涅槃を証るからである。

◎ 九果
以上の五果に以下の四果を加えて九果という。

安立果[あんりゅうか]
他に依止して建立された果。ある基礎の上に安立された果をいう。たとえば家屋・草木・人畜などを大地の安立果という。

加行果[かぎょうか]
行の実践によって得られた果。

和合果[わごうか]
諸因の和合によって生じた果。

修習果[しゅじゅうか]
聖道の修習によって生じた果。四静慮を修習して変化心を得るような場合がこれに当る。
なお、仏の十力・四無所畏[しむしょい]・十八不共法[じゅうはちふぐうほう]・自在神力などは修行の成果としての仏力であるから果力と呼ばれる。大乗における仏果、小乗における阿羅漢果[あらかんか]は究極の果であるから極果[ごくか]という。

◎ 四縁
狭義では、結果(果)を引き起こすための直接的原因を因(内因)というのに対して、これを外から助ける間接的原因を縁(外縁[げえん])というが、広義では両方合わせて因とも縁ともいう。広義の縁は四縁(因縁・等無間縁[とうむけんねん]・所縁縁・増上縁)に分類される。心と心所(個別的な心のはたらき)とが対境に向かってはたらき、そのすがた(相)を取ることを「縁ずる」(縁慮、攀縁[はんえん]の義)という。心識はよく縁ずるものであるから能縁といわれ、対境は心識によって縁ぜられるものであるから所縁という。
【※編集註:主観が能縁、客観が所縁】

因縁[いんねん]
因なる縁。因すなわち縁の意。果を生む直接的内的な原因。狭義における因、広義における因縁の意となり、一切有為法が因縁とよばれる。何らかの意味でつながりのある一切のものをいう。六因のうち能作因[のうさいん]を除いた他の五因をひっくるめていう。

等無間縁[とうむけんねん]
前の刹那[せつな]の心・心所[しんじょ]が後の刹那の心・心所の生ずるための原因(場所をあけて導き入れる。即ち開避と引導)となるのをいう。連続せる心において、後の心・心作用は、先の心・心作用を継承するとともに、自らもまた因となって、さらに次の心・心作用を生起させる。その場合には前の瞬間の心・心作用が善であって、次の瞬間のそれが悪であるということもありうる。この場合に、原因となっているものを等無間縁とよび、結果たるものを増上果という。等無間とは間をおかぬ、直後という意。したがって、等無間縁とは直後に生ずるダルマのために縁となること。直後の縁。すでに生じた心・心作用がしりぞいて、直後の心・心作用を生じさせる際、前の心と後の心との間に隔てるものがなく、既に生じたダルマが直ちに次に続くダルマの生ずる縁となること。また次第縁ともいう。

所縁縁[しょえんねん](縁縁)
所縁すなわち外境が心の生ずるための縁となるのをいう。対象としての縁。所縁とは、心・心作用の対象をいう。心・心作用の対象が原因となって、心・心作用という結果が生ずる場合に、心・心作用の対象を所縁縁、心・心作用を増上果という。唯識宗ではこれを疎所縁縁(所縁の相分を引き起こす本質[ほんぜつ]が、同時に見分の所縁となるのをいう)と親所縁縁(所縁を縁ずる見分と離れない相分をいう)とに分ける。

増上縁[ぞうじょうえん]
勝れた強い力を増上力といい、他のもののはたらきを増勝にする縁を増上縁という。一切の法が果である一法に対してすべて縁となるのをいう。これは六因中の能作因に同じ。力すぐれた縁。ありとあらゆるものは他のものが生ずることに対して助力し(有力)、または少なくともその生ずることをさまたげない(無力)。それゆえ、あらゆるものはその一つのものの生ずることに影響、支配を及ぼしているから、いかなるものも増上縁となる。すべての現象が果である一つの法に対して縁(間接原因)となることで、他の法の生ずることを妨害しない縁をも含めていう。たとえば、米粒を稲にするものとしての業・水・土・暖かさなど。また浄土教では阿弥陀仏の本願は凡夫が浄土に往生するための増上縁となるという。この場合の増上縁は果に対してはたらく強い力の意。
(参考資料:法蔵館『総合佛教大辞典』、東京書籍『佛教語大辞典』)


 このように仏教では人生上の現象を六因五果四縁で分析し網羅しているのですが、私たちに特に関わりの深い因果の道理は「等流[とうる]の因果」、「士用[しゆう]の因果」、「異熟[いじゅく]の因果」、「増上[ぞうじょう]の因果」、そして「無因の離繋果[りげか]」でありましょう。

「等流[とうる]の因果」はいわゆる「善因善果、悪因悪果」で、善いことをすれば善い心を引き起こし、悪いことをすれば悪い心を引き起こすという因果関係です。善はさらなる善をよんで善行がしやすくなり、悪はさらなる悪をよんで〝毒を食らわば皿まで〟と悪行が留まりません。すると時間が経過すればするほど善悪の差が開き、人生を本当に謳歌できる人と、どんどん閉塞[へいそく]的な生き方になってしまう人に分かれていきます。このように等流は因果の基調であり根本ですが、人生はこうした因果関係のみで成り立っているわけではありません。

「士用[しゆう]の因果」は、強い積極的な因が起きると類は友を呼ぶように他の要因が集まってくることをいいます。実際に善を為そうとすればそのために計画を練らねばならず、その際に次々と善い考えが出てきますし、悪を為そうとすれば悪知恵が次々とわき、嘘をつき通そうとすればさらに嘘を考え出さねばならなくなるようなものです。

「異熟[いじゅく]の因果」は「善因楽果、悪因苦果」で、因と異なった果が熟すことを言います。ただ、異なって熟すといっても、善を為せば気持ちが晴れて楽しくなりますので〝次も善を為そう〟という心が生まれやすくなりますし、悪を為せば気持ちが暗くなり苦痛を感じますので〝次は悪を為すまい〟との心が生まれたり、かえって悪を為す快感を得たりします。さらには、善を為し続けていれば態度も穏やかになり顔つきも善人顔になりますが、悪を為し続けていれば態度は粗暴になり顔つきも嫌味が出てきます。これも異熟の因果と言えるでしょう。私たちは、見聞きし、考え、話し、行動したこと全てが、時に直接に、時に別の形となって実を結んでゆくのです。

「増上[ぞうじょう]の因果」は少し解りづらいのですが、原因から見てというより〝結果から見て〟と考えれば理解しやすいでしょう。ある結果が出たとき、〝考えてみれば様々な要因がからんでこの結果を生んでくれたんだなあ〟と思い起こすわけです。すると、たとえば善果を得たら善因はもちろんありますが、善を為す時間があった、体力があった、意志が強かった、粘り強かった、金銭的にも余裕があった、友人が助けてくれた等々、様々なの助力がはたらいていたり(有力)、忙しかったが何とか時間を見つけて行えた、病気になったが大病ではなかったからできた、意志は弱かったが何とか奮い起こすことができた、飽きやすい性格だったが何とか続けられた、金銭的に余裕はなかったが何とか工面できた、友人は助けてくれなかったが邪魔はしなかった等々、様々な悪条件も結果を妨げるほどのものではなかった(無力)、という様々な因(能作因[のうさいん])によって結果を生む、これを「増上[ぞうじょう]の因果」というのです。この因果の際に縁となるのは、等無間縁[とうむけんねん](前の心が連続して直後の心を生む)、所縁縁[しょえんねん](周囲の影響で心を生む)、増上縁[ぞうじょうえん](他の物事が結果的に助力、もしくは妨げなかった)の三縁で、因縁果でまとめると、「能作因」→「増上縁・等無間縁・所縁縁」→「増上果」という流れになります。

「無因の離繋果[りげか]」というのは、離繋果は煩悩の束縛を離れた涅槃のさとりでありますが、〝何かを為したから離繋果を得る〟というものではありません。因なくして果があるのです。因果関係によって成り立っている法は有為法[ういほう]といい、無常であり、常に転じ移り変わる(有為転変[ういてんぺん])恐れがありますので、いずれ有為法を離れて涅槃に至るべきであると仏教は説きます。たとえば、善を為そうしても、等無間縁で心変りがあってあっという間に悪心を生じたり、所縁縁で悪い仲間や悪思想に染まって悪心を生じたり、増上縁が悪縁となる場合もあるのです。人間は善も悪も徹底することができず、様々な要因が煩悩に反応して恩ある人たちに仇なしたり、最後は自分自身さえ裏切ってしまうこともあるのです。ですから因縁に左右されない無為法(生滅変化を離れた永久不変、常住絶対の法)を依りどころとして生きることを勧めるのです。
 ところで、有為法と無為法の関係ですが、有為法と全く別に無為法が存在しているのではありません。有為法を有為法であると覚らしめることが無為法なのであり、無為法のはたらき場所も有為法をおいて他にはありません。有為転変で〝自分の因果はどう転ぶか解らない〟と覚り、覚らしめた無為法を依りどころとし、この法をまた有為法において実践させていただくのです。この『仏説無量寿経』で言えば、仏願の生起本末の因果こそ有為転変の私たちに常住絶対の無為法のはたらきとその主体が示されたものであり、これを聞いて疑いなく受領することを聞法とも信心とも言うのです。本願が私の因を待たず私にふり向けられたものですから「本願力回向の信心」とも「本願他力の信心」ともいうのです。
 ところで離繋果を得るのは菩提心[ぼだいしん]によりますから必ず菩提心を発こすことが必要なのですが、浄土真宗では、これも私の因を待たず私にふり向けられたものですから「他力の菩提心」とも「横超の菩提心」ともいい、仏と同じ発菩提心を尊ぶのです。(参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?})


◆ 他力本願の陥りやすい弊害を戒めて

註釈版
仏、弥勒に語りたまはく、「世間かくのごとし。仏みなこれを哀れみたまひて、威神力[いじんりき]をもつて衆悪を摧滅[さいめつ]してことごとく善に就[つ]かしめたまふ。所思[しょし]を棄捐[きえん]し、経戒[きょうかい]を奉持[ぶじ]し、道法[どうほう]を受行[じゅぎょう]して違失[いしつ]するところなくは、つひに度世[どせ]・泥オン[ないおん]の道[どう]を得ん」と。仏のたまはく、「なんぢいまの諸天・人民[にんみん]、および後世[ごせ]の人、仏の経語[きょうご]を得て、まさにつらつらこれを思ひて、よくそのなかにおいて心を端[ただ]しくし行ひを正しくすべし。主上[しゅじょう]善をなして、その下[しも]を率化[そつげ]してうたたあひ勅令[ちょくりょう]し、おのおのみづから端[ただ]しく守り、聖〔者〕を尊び、善〔人〕を敬ひ、仁慈博愛[にんじはくあい]にして、仏語の教誨[きょうけ]あへて虧負[きぶ]することなかれ。まさに度世[どせ]を求めて生死衆悪[しょうじしゅあく]の本[もと]を抜断[ばつだん]すべし。まさに三塗[さんず]の無量の憂畏苦痛[ういくつう]の道[どう]を離るべし。なんぢらここにおいて広く徳本[とくほん]を植ゑて、恩を布[し]き恵[え]を施して、道禁[どうきん]を犯すことなかれ。忍辱[にんにく]・精進[しょうじん]・一心・智慧[ちえ]をもつてうたたあひ教化し、徳をなし善を立てよ。心を正しくし意を正しくして、斎戒清浄[さいかいしょうじょう]なること一日一夜すれば、無量寿国にありて善をなすこと百歳せんに勝れたり。ゆゑはいかん。かの仏国土は無為自然[むいじねん]にして、みな衆善[しゅぜん]を積んで毛髪[もうはつ]の悪もなければなり。ここにして善を修すること十日十夜[じゅうにちじゅうや]すれば、他方の諸仏国土[しょぶつこくど]にして善をなすこと千歳[せんざい]するに勝[すぐ]れたり。ゆゑはいかん。他方の仏国は、善をなすものは多く悪をなすものは少なし。福徳自然[ふくとくじねん]にして造悪[ぞうあく]の地[ところ]なければなり。ただこのあひだのみ悪多くして、自然なることあることなし。勤苦[ごんく]して欲を求め、うたたあひ欺紿[ごだい]し、心労[しんろう]し形困[くる]しみて、苦を飲み毒を食らふ。かくのごとく怱務[そうむ]して、いまだかつて寧息[にょうそく]せず。われなんぢら天・人の類[るい]を哀[あわ]れみて、ねんごろに誨喩[けゆ]し、教へて善を修せしむ。器[うつわ]に随ひて開導[かいどう]し、経法[きょうぼう]を授与[じゅよ]するに承用[じょうよう]せざることなし。意[こころ]の所願[しょがん]にありてみな道を得しむ。

現代語版
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「世の人々がこういうありさまであるから、仏がたはみなこれを哀れみ、すぐれた神通力によりさまざまな悪を砕き、すべてのものを善い行いに向かわせてくださるのである。誤った思いを捨てて仏の戒めを守り、教えを受けて修行し、途中で教えに背いたりやめたりしないなら、必ず迷いの世界を離れてさとりを得ることができるであろう」
 さらに釈尊が仰せになる。
「そなたをはじめとして、この世の天人や人々および後の世のものは、仏の教えを聞いてよく思いをめぐらし、この迷いの世界にあっても、心も行いも正しくするがよい。上に立つものは善い行いをして下のものを導き、次々と仏の戒めを伝えていくがよい。各自がその戒めを守って、聖者を尊び善人を敬い、ひろく人々に愛情をそそぎ慈悲の心を垂れて、決して仏の教えに背くことがあってはならない。そしてさとりの世界を求めて、迷いの世界にとどまる原因を断ち、さまざまな悪をその根本から抜き去り、地獄や餓鬼や畜生などのはかり知れない苦悩の世界から離れよ。
 そなたたちはこの世界でひろく功徳を積み、恵みを施し、仏の戒めを破ってはならない。よく耐え忍んで努め励み、心を静めて智慧をみがき、次々と互いに導きあって、すすんで徳を積み善い行いをするがよい。心を正しくして仏の戒めをわずか一昼夜でも清らかにたもつなら、それは無量寿仏の国で百年間善い行いに励むよりもまさっているといえる。なぜなら、無量寿仏の国はさとりにかなった世界であって、だれでも多くの善い行いをすることができ、まったく悪のないところだからである。またこの世界で昼夜十日間善い行いに励んだなら、他のさまざまな仏がたの国で千年間善い行いに励むよりも、さらにまさっているといえる。なぜなら他の仏がたの国は、善い行いをするものが多く悪い行いをするものが少なく、功徳がおのずからそなわり、悪を犯すことのない世界だからである。ただこの娑婆世界だけが悪が多くて、功徳がおのずからそなわることなどなく、苦労して欲望を満たそうとし、互いに欺きあって身も心も疲れはて、苦を飲み毒を食らって暮しているようなありさまで、いつもあくせくとして、これまで少しの間も安らいだことがない。
 わたしは、そなたたち天人や人々を哀れみ、懇切丁寧に教え諭して功徳を積ませ、相手に応じた導き方で教えを授けるのであるから、これを信じて修めないものはない。すべてのものは願いのままにさとりを得るのである。



 この節の要めは「心を正しくし意を正しくして、斎戒清浄[さいかいしょうじょう]なること一日一夜すれば、無量寿国にありて善をなすこと百歳せんに勝れたり」(心を正しくして仏の戒めをわずか一昼夜でも清らかにたもつなら、それは無量寿仏の国で百年間善い行いに励むよりもまさっているといえる)にあります。これは念仏者にとってよくよく考えねばならぬ重要な示唆でありましょう。

 念仏者はややもすると、〝五濁悪世において善は為しにくいから、浄土において純粋なる善を為そう〟と考えがちなのですが、これは経典の真意に反していることがわかります。確かに無量寿仏の国はさとりにかなった世界で、まったく悪のない、だれでも多くの善い行いをすることができるのですが、そうした努力の要らない善を百年間励むよりも、欲望や嘘や苦毒に満ちた善を為しにくいこの娑婆で、たった一昼夜でいいから心を正しくして仏の戒めを清らかにたもつなら、後者の方が勝っているというのです。その理由として「かの仏国土は無為自然[むいじねん]にして、みな衆善[しゅぜん]を積んで毛髪[もうはつ]の悪もなければなり」(無量寿仏の国はさとりにかなった世界であって、だれでも多くの善い行いをすることができ、まったく悪のないところだからである)と、善行が容易に行えることを挙げています。

 誤解があってはなりませんが、自然に善い行いができる環境というのは、歴史的な土徳としてはもちろん尊いわけです。限りない功徳が満ち足りた国というのは、その国の評判を聞き、国の名を聞いて称[たた]えただけで、称えた身に功徳がふり向けられます。まして阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願うことは本当に菩提心を得るということであり、娑婆の毒に染まっていることに比べたら限りなく尊いのです。
 しかし、極楽浄土に往生し切って善を為すことは浄土建立の本意ではなく、善を為しにくいこの娑婆世界でこそ善を為してほしい、五濁悪世においてこそ菩提心を発して励んでほしい、というところに経の本意があるのです。

 このことはたとえば『仏説阿弥陀経』においても、釈尊は「舎利弗[しゃりほつ]まさに知るべし、われ五濁悪世[ごじょくあくせ]においてこの難事[なんじ]を行じて、阿耨多羅三藐三菩提[あのくたらさんみゃくさんぼだい]を得て、一切世間のために、この難信の法を説く。これを甚難[じんなん]とす」と語り、釈尊ほどの方でも五濁悪世において善を為すのは難かしい事であり、難しいからこそ娑婆で菩提心を得て法を説く意味があったことを述懐してみえます。

(中略)


◆ 五戒を遵守する意味をあらためて考える

註釈版
仏のたまはく、「われなんぢら諸天・人民[にんみん]を哀愍[あいみん]すること、父母[ぶも]の子を念[おも]ふよりもはなはだし。いまわれこの世間において仏となり、五悪を降化[ごうけ]し、五痛[ごつう]を消除[しょうじょ]し、五焼[ごしょう]を絶滅[ぜつめつ]して、善をもつて悪を攻め、生死の苦を抜いて五徳を獲[え]しめ、無為[むい]の安きに昇[のぼ]らしむ。われ世を去りて後、経道[きょうどう]やうやく滅し、人民諂偽[にんみんてんぎ]にしてまた衆悪をなし、五痛・五焼還[かえ]りて前[さき]の法のごとく、久しくして後にうたた劇[はげ]しからんこと、ことごとく説くべからず。われただなんぢがために略[りゃく]してこれをいふのみ」と。仏、弥勒[みろく]に語りたまはく、「なんぢらおのおのよくこれを思ひ、うたたあひ教誡[きょうかい]し、仏の経法のごとくして犯すこと得ることなかれ」と。ここにおいて弥勒菩薩、合掌してまうさく、「仏の所説[しょせつ]、はなはだねんごろなり。世人[せにん]まことにしかなり。如来あまねく慈[いつく]しみて哀愍[あいみん]し、ことごとく度脱[どだつ]せしめたまふ。仏の重誨[じゅうけ]を受けてあへて違失[いしつ]せじ」と。

現代語版
 釈尊が仰せになる。
「わたしがそなたたち天人や人々を哀れむのは、親が子を思うよりもなお一層深い。だからわたしは今この世界で仏となって、五悪を打ち負かし、五痛を取り除き、五焼をすべてなくして、善をもって悪を攻め滅ぼし、迷いの世界の苦しみを抜き去り、五徳を得させて、安らかなさとりの世界に至らせるのである。しかしわたしがこの世を去った後には、仏の教えがしだいに衰えて、人々は偽りが多くなり、ふたたびいろいろな悪を犯して、五痛と五焼の報いをもと通り受けるようになる。それは時を経るにしたがってますます激しくなるであろう。そのようすを一々詳しく説くことはできないが、今はただ、そなたたちのために簡単に述べたのである」
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「そなたたちはそれぞれにこのことをよく考え、互いに教えあい戒めあって、仏の教えを正しく守り、決してこれに背くようなことがあってはならない」
 そこで弥勒菩薩は合掌してうやうやしくお答えした。
「世尊はたいへん懇切丁寧にお説きくださいました。世の人々のありさまについては、実に仰せの通りであります。そのために如来は、これらの人々を慈しみ哀れんで、すべてのものをお救いくださるのです。わたしたちもまた、世尊の丁重な教えをいただいて、決して背くことはありません」



 {浄穢欣厭}からここまで続いてきました所謂「三毒段・五悪段」ですが、『仏説無量寿経』の整った体裁をわざわざ崩してまで漢訳されたのは、ひとえに仏の「諸天・人民[にんみん]を哀愍[あいみん]する」慈悲心が反映された結果でありました。弥勒菩薩もそのことを深く心にとどめ、「あへて違失[いしつ]せじ」と皆を代表して戒めを保つことを誓うのです。

 ご存知のように、三毒は貪欲[とんよく](むさぼり)・瞋恚[しんに](いかり)・愚癡[ぐち](おろか)の根本煩悩であり(参照:{百八煩悩})、「五悪」は、「不殺生戒[ふせっしょうかい](生きののを殺さない)・不偸盗戒[ふちゅうとうかい](盗みをしない)・不邪婬戒[ふじゃいんかい](よこしまな性の交わりをしない)・不妄語戒[ふもうごかい](うそをいわない)・不飲酒戒[ふおんじゅかい](酒を飲まない)の五戒に背くこと(参照:{戒律について})」(『浄土真宗聖典 註釈版』巻末註)であり、また「五痛」は「五悪を犯すことにより、現世において受ける果報。現世の益たる福徳に対する語」、「五焼」は「五悪をなすことにより、来世において受ける果報。来世の益たる度世・長寿・泥オンに対する語」をいいます。

 ところで「五戒を保つ」というと、浄土真宗では得てして〝そんなものは自力だ〟と謗[そし]る傾向もあります。また、〝五戒は小乗仏教で説くもので、大乗の戒律とは違う〟と、はなから五戒を保つことを馬鹿にし拒否する人さえいます。
 しかしこれはとんでもない思い違いで、蓮如上人も「しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり」(『御文章』2-7)とその功徳を称えてみえます。
 もちろんすぐ後に「これおほきにまれなることぞかし」と、持戒が稀[まれ]なことであり、破戒者も捨てないことが阿弥陀の名の由来であることはふまえてみえるのですが、捨てることを勧めているのではありません。むしろみずから励んで十善五戒を行じ、十悪五逆を犯さないように勤めることを勧めるのであって、そこには〝戒を行じてこそ人間としての本当の暮らしではないか〟という意図が込められています。

 また、戒を保つことは〝自分の行為を選びとる基本の指針を示したもの〟であって、〝戒を保ったことを条件として人間界に生まれた〟というわけではありません。つまり「これおほきにまれなることぞかし」であってもなくても、簡単だろうが難しいかろうが、戒を保つよう努力することこそ人間として生きる基本であり、念仏者も出家者もその他の宗教もふくめ、人類共通の生活指針であることには変りありません。

 さらには、〝五戒は小乗戒か大乗戒か〟と問う人もいるようですが、本当は戒律自体に大乗戒・小乗戒の区別があるわけではありません。「戒に大小無し。受者[じゅしゃ]の心期[しんご]に由る」(『摩訶止観輔行伝弘決』4-1)とありますように、〝その戒を受ける者がどう自覚するかで、大乗の戒となったり、小乗の戒となったりする〟のです。するとこの荊渓湛然の言葉を浄土教にまで展開すれば、五戒を念仏者として自覚したものが三毒五悪段であり、これを浄土真宗の戒律の基本理念として定めるべきだと思うのですがいかがでしょう。
 こう申しますのは、以前、梯實圓師が――

罪悪性を自身のうちによびさまされた機の深信と、そこから出てくる悪への拒絶性、それに法の深信による本願の真実性へのめざめを通しての真実への指向性ということがあります。要するに本願の信に裏づけられた自律的な生活の誡めとしての戒の精神の復活と、菩薩道への尊崇の念が念仏者の生活をささえていくのではないでしょうか。
{真俗二諦「#新たな提言」}(本願寺出版社/教学シリーズ No.2)

と提言されていて、本来なら恥ずべき〝浄土真宗は無戒である〟ということを、まるで誇りにしているような現在の教団の悪癖に苦言を呈されていたことが思い起こされるからです。
 以上をふまえ、浄土真宗としての戒を具体的に提言すると――
殺生[せっしょう]によって供養[くよう]を失い、偸盗[ちゅうとう]によって至誠[しせい]を失い、邪婬[じゃいん]によって慈愛[じあい]を失い、妄語[もうご]によって信用を失い、飲酒[おんじゅ]によって自己そのものを失っていた五悪の人生をつねに懺悔[さんげ]し、真実信心の催しによって五戒を行じ、「不殺生戒[ふせっしょうかい](生きののを殺さない)を尊ぶことで供養[くよう]に転じ、不偸盗戒[ふちゅうとうかい](盗みをしない)を尊ぶことで至誠[しせい]に転じ、不邪婬戒[ふじゃいんかい](よこしまな性の交わりをしない)を尊ぶことで慈愛[じあい]に転じ、不妄語戒[ふもうごかい](うそをいわない)を尊ぶことで信用を得、不飲酒戒[ふおんじゅかい](酒を飲まない)を尊ぶことで自己を取り戻し自主的・主体的な人生に転じる、ということになると思います。戒を尊ぶというのは、戒の精神を人生選択の指針として尊び、戒を保ち切ることはできなくても、自らを恥じ、懺悔によって戒の精神を生かすのです。

 以上のように「三毒五悪段」では、三毒煩悩を野放しにさせず五戒を保つことを、具体的な例を挙げて勧めているのですが、これはひとえに「我がままを正す」ために説かれているのです。生まれたままの自分は未熟であり、物事の真実が解らず、すぐに悪い癖に染まってしまいますから、真実からの呼びかけに心をひるがえし、悪い癖を離れる必要があるのです。
 しかし、意識的に三毒煩悩を抑え五戒を保とうとすると、どうしても力が入り過ぎ、法に固執してしまいがち(自力)です。そこで浄土真宗では、〝本願成就の歴史を聞き開き、仏の功徳を信受し忘れないようにさせていただき、浄土に生まれることを願う〟道を勧めるのです。そしてこの他力一つで仏道を成就させていただくのであり、この本願一乗海[ほんがんいちじょうかい]のうちに五戒を行じる功徳も宿っているわけです。
 そういう意味で言えば「三毒五悪段」は正定聚の菩薩にとっては余分であり、梵語経典では省略もみられるのですが、自らの行く末を鑑みつつ煩悩と破戒の恐ろしさを再認識させていただく段となりますから、私のように鈍感で道心の足らない人間にとっては必要不可欠の導きとなっているわけです。

2009-08-01

親鸞会は諸行往生8

前回、正しい因果の道理について書きました。それは、親鸞会で説明している因果の道理が、仏教の因果の道理ではないことを分かって頂くことが目的でした。

以前にも述べましたが、浄土仏教では、因果の道理について教えられたことろがないといっても過言ではありません。この『大無量寿経』下巻の「五悪段」についてさえも、親鸞聖人は触れられていません。そのことについては様々な学説がありますが、ここではそれを述べません。前回引用した「浄土真宗やっとかめ通信」には、そのことも書かれてありますので、興味のある方はそちらを読んでください。
「浄土真宗やっとかめ通信」『仏説無量寿経』31

親鸞聖人も因果の道理については説明しておられません。
その理由は親鸞聖人の二双四重の教判にあります。『教行信証』信巻の横超釈


横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。


と説かれました。親鸞聖人は、仏教を大きく4つに分けておられます。「横」は浄土仏教、「竪」は聖道仏教のことです。「超」は悟りをえるのがはやい、「出」は悟りをえるのが遅いということで、「竪」を「竪超」と「竪出」に、「横」を「横超」と「横出」に分けられました。
二双四重の教判は、『教行信証』化土巻や『愚禿鈔』でも、説明をなされています。
この4つを具体的に当てはめると、

竪超-華厳宗・天台宗・真言宗・禅宗
竪出-法相宗・三論宗
横超-18願
横出-19願、20願

ということです。

『尊号真像銘文』には、『大無量寿経』の「横截五悪趣悪趣自然閉」を解釈なされて、横竪と超出について説明しておられます。


「横」はよこさまといふ、よこさまといふは如来の願力を信ずるゆゑに行者のはからひにあらず、五悪趣を自然にたちすて四生をはなるるを横といふ、他力と申すなり、これを横超といふなり。
横は竪に対することばなり、超は迂に対することばなり、竪はたたさま、迂はめぐるとなり、竪と迂とは自力聖道のこころなり、横超はすなはち他力真宗の本意なり。



と教えられています。
「竪」と「横」は、文字通り全く違います。「竪」は通常の道理、「横」は通常の道理と異なるものということです。つまり、「竪」は、因果の道理に従って自力をもって修行をし、仏果に到達するという法門です。「横」は、凡夫が他力である阿弥陀仏の本願力によって、浄土往生し、仏果を賜わる法門です。ですから「横」は、「竪」の因果の道理を完全に超えた法門なのです。
したがって、因果の道理を強調するのは、「竪」の自力の法門ということになります。一方「横」の他力の法門では、因果の道理について説明されないのは当然なことです。「横」の話をするのに、「竪」の話をしていては教えが全く噛みあいません。本願寺と親鸞会の宿善論争がそれで、本願寺が呆れて親鸞会との論争を放棄した理由もお分かりになられるでしょう。基本中の基本がわかっていないのですから。

このことを的確に表わしたお言葉が『改邪鈔』にあります。


それ三経のなかにこの名言をもとむるに、『観経』に「深信因果」の文あり、もしこれをおもへるか。おほよそ祖師聖人御相承の一義は、三経ともに差別 なしといへども、『観無量寿経』は機の真実をあらはして、所説の法は定散をおもてとせり。機の真実といふは、五障の女人・悪人を本として、韋提を対機としたまへり。『大無量寿経』は深位の権機をもつて同聞衆として、所説の法は凡夫出要の不思議をあらはせり。大師聖人(親鸞)の御相承はもつぱら『大経』にあり。『観経』所説の「深信因果」のことばをとらんこと、あながち甘心すべからず。たとひかの『経』(観経)の名目をとるといふとも、義理参差せばいよいよいはれなかるべし。
そのゆゑは、かの『経』(同)の「深信因果」は、三福業の随一なり。かの三福の業はまた人天有漏の業なり。なかんづくに、深信因果の道理によらば、あに凡夫往生の望みをとげんや。まづ十悪において、「上品に犯するものは地獄道に堕し、中品に犯するものは餓鬼道に堕し、下品に犯するものは畜生道におもむく」といへり。これ大乗の性相の定むるところなり。もしいまの凡夫所犯の現因によりて当来の果を感ずべくんば、三悪道に堕在すべし。人中・天上の果報なほもつて五戒・十善まつたからずは、いかでか望みをかけんや。いかにいはんや、出過三界の無漏無生の報国・報土に生るる道理あるべからず。
しかりといへども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・ 四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。いま報土得生の機にあたへまします仏智の一念は、すなはち仏因なり。かの仏因にひかれてうるところの定聚の位、滅度に至るといふは、すなはち仏果なり。



と教えられています。
長いので、現代語訳も載せておきます。
石田瑞磨著『親鸞全集』より

 いったい、浄土三部経のうちこの表現を探すと、『観無量寿経』に「深く因果を信ずる」という文章があるが、あるいはこれを意識したものか。おおよそ祖師上人が師より受けつがれた教えは、三部経を通じて共に差異はないという立場であるけれども、いうならば『観無量寿経』は、教えを受けるひとの側の真実の姿を表わし、そこに説かれた教えは定心や散心の善を表としたものである。そしてここに教えを受けるひとの真実というのは、五障を持つ婦人と悪人とが中心で、ここでは韋提希を説法の対象としておられる。しかし『大無量樹経』は、仏・菩薩が仮に姿をあらわされたものを同じ説法の聴衆に加え、説かれた教えは、愚かなひとが迷いからぬけでるための眼目の不思議を説き表わしたものである。大師聖人がうけつがれたものは、もっぱらこの『大無量樹経』にある。
 したがって『観無量寿経』が説く「深く因果を信ずる」という言葉をとろうとすることは、けっして満足することができるものではない。たといこの経の表現をとるとしても、道理に相違するならば、ますますとる理由はないであろう。なぜならば、この経の「深く因果を信ずる」というのは、経が説く三福といわれる行為のうち、もっとも大切なものであるが、この三福の行為はまた人間界や天上界に生れるための煩悩を助長する行為であるし、なかでも「深く因果を信ずる」という道理によれば、愚かなひとが浄土に生れる望みを達することができないからである。まず十悪でいえば、これを犯してもっとも悪質なものは地獄道に堕ち、やや悪質なものは餓鬼道に堕ち、少しく悪質なものは畜生道に行く、というが、これは大乗のうち聖道門で定めるところである。もし愚かなひとが、いま現在犯した罪を因として未来の果を導くものとすれば、地獄・餓鬼・畜生の三つの悪道に堕ちるであろう。人間界や天上界の果報は、五戒や十善を完全に守るのでなければ、どうして望みをかけられようか。まして、迷いの世界を超え、煩悩や生死を超えた真実の浄土に生れる道理はあるはずがない。
 しかしそうではあっても、いつの世の仏にも見ることができない阿弥陀仏の大願は、十悪・五逆・四重・謗法などの罪を犯すひとのためであるから、阿弥陀仏の願の絶大なはたらきをもって一切の因果を断ち切られ、三つの悪道に堕ちて受ける苦の原因を永遠に断たれて、もえさかる猛火ののようにはげしい悪業の果報を受けないですむならば、それははなはだしく因果の道理に背くわけである。もし「深く因果を信ずる」ものであるためには、前世に植えた悪因が引くものは、悪果でなければならないから、たとい阿弥陀仏の本願を信ずるとしても、そのときは阿弥陀仏の誓いのはたらきも役に立たないし、念仏のひとも三つの悪道に堕ちなければならないのではないか。もしそうだとすれば、阿弥陀仏が五劫という長いあいだ熟思を重ねた末に立てられた本願も、釈尊が真実を示された金言も、所仏が誠をつくして示された証明も、無意味とならなければならないのだろうか。おおよそ他力の教えは、釈尊一代の説法に一度も例がない、通常一般の聖道門の教えとはまったく別のものであって、言語を超絶した、思惟のとどかないものである、といわれるが、それは、愚かなひとが真実の浄土に生れるということから、そういわれるのである。もし因果は相互にめぐりあうという道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が骨折られた、他力という、勝れた浄土への特別な教えも空しくなってしまうだろう。その理由は、お助けになろうとする目当てである、生をうけたすべてのものが、因果は相互にめぐりあうという道理にとじこめられて、独自の誓いによってつくられた真実の浄土に生れることができないからである。いま、真実の浄土に生れる素質をもったものにお与えになる、仏の智慧のたまものとしての信心は、すなわち仏になるための原因であり、この仏になるための原因に引かれて得るところの、浄土に生れることを約束された境界から、涅槃の境界に到るのは、すなわち仏となった結果である。



さて、因果の道理を強調する親鸞会は、「横」の他力浄土仏教でしょうか。明らかに違います。「竪」の自力聖道仏教に近いです。一方で、親鸞会は他力の話もしています。他力の話をしているから浄土仏教だと主張していますが、実際は聖道仏教の真似をした教え方をしているのです。
親鸞聖人が、そのような教え方をどこかでされていますか。覚如上人、蓮如上人が因果の道理を強調されたことがありますか。歴代の善知識方のなされていない教え方が、正しいという根拠は何でしょうか。


親鸞会では、「30年、40年聞いた位で分かるものではない」、と説明しているのも当然です。「横」と「竪」の教えが混ざっている上に、「竪」の方に重きをおけば、何万年聞いても分かる筈がありません。
正しい因果の道理もわからず、「横」と「竪」の区別もつかない親鸞会は、まさに

教に昏くして真仮の門戸を知らず
行に迷うて邪正の道路を弁うることなし

です。

外道の因果の道理を用いている親鸞会で、求めれば求めるだけ「横超」から遠ざかります。会員さんはそのことに早く気が付いて、親鸞会を見限り、「横超の直道」に入って下さい。

2009-08-01

親鸞会は諸行往生9

二双四重の教判は、真宗教義の基本中の基本ですが、それさえも親鸞会は理解できていないことが明らかです。
最近、親鸞会を辞められた方からのコメントを多く頂きます。的を得た内容であり、親鸞会を辞めた方、親鸞会外部の方は、高森会長よりも余程二双四重の教判を勉強していることが分かります。
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-31.html#cm

前回書きましたように、『教行信証』信巻以外にも二双四重の教判について書かれています。

『教行信証』化土巻にも


おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。



とあります。
『愚禿鈔』にも


聖道・浄土の教について、二教あり。
 一には大乗の教、      二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
 一には頓教、        二には漸教なり。
頓教について、また二教・二超あり。
 二教とは、
  一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。
  二には易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等なり。
 二超とは、
  一には竪超  即身是仏・即身成仏等の証果なり。
  二には横超  選択本願・真実報土・即得往生なり。
漸教について、また二教・二出あり。
 二教とは、
  一には難行道 聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。
  二には易行道 浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。
 二出とは、
  一には竪出  聖道、歴劫修行の証なり。
  二には横出  浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。
小乗教について、二教あり。
 一には縁覚教    一に麟喩独覚、二に部行独覚。
 二には声聞教なり。 初果・預流向、第二果・一来向、第三果・不還向、
           第四果・阿羅漢向、八輩なり。
ただ阿弥陀如来の選択本願(第十八願)を除きて以外の、大小・権実・顕密の諸教は、みなこれ難行道、聖道門なり。また易行道、浄土門の教は、これを浄土回向発願自力方便の仮門といふなりと、知るべし。



とあります。

横超である18願以外の竪超・竪出・横出は、自力の法門であり、方便の仮門であるということです。ここで言われている方便とは、権仮方便のことです。

権仮方便については、「21世紀の浄土真宗を考える会」でも度々説明されていますので、詳しくはそちらをご覧になって下さい。簡単に解説すれば、真実の18願を受け入れることができない人を、18願へ導くために一時的に用いられる方便のことです。親鸞会で説くような外道の因果の道理を信じている人には、18願はとても受け入れられるものではありません。前回述べた通りです。そんな外道の人には聖道仏教を教え、19願、20願へ導かれて最後は、18願へ入れしめんとするものです。つまり、18願を聞いて既に知っていて、18願での救いを求めている人には、不要なものであり捨て去るべきものが、権仮方便です。

権仮方便についての親鸞聖人の御言葉は、『教行信証』化土巻


これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。


とありますし、『浄土和讃』大経讃には、


念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして
 自然の浄土をえぞしらぬ

聖道権仮の方便に
 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる
 悲願の一乗帰命せよ



とあります。
親鸞会では、聖道仏教と19願を区別して、聖道仏教は捨てなければならないが、19願は必ず通らなければならないとして、諸善を勧めています。
二双四重の教判は、横超のみが真実で、竪超・竪出・横出は権仮方便とされたものです。ですから権仮方便ということで、親鸞聖人は聖道仏教も19願も同列に扱っておられます。

『一念多念証文』には、


おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。
いま一乗と申すは本願なり。



といわれています。

聖道仏教にしても、19願にしても、諸善を修して救われようとするものです。18願で誓われたことはとても信じられず、善をしなければ救われる筈がない、というものです。方便と思って、善が間に合わない自分と知らされるために実行するというような教えではありません。
しかし親鸞会では、善のできない自分と知らされることを目的にして、善をしなければ信仰は進まない、という珍説を唱えているのです。
もし18願に入るためには19願が必要なら、聖道仏教も同様に必要であり、しなければならないことになってしまいます。
もっとも、最近の親鸞会では、親鸞聖人の比叡山での御修行も18願の救いに関係付けているようですから、二双四重の教判とは似ても似つかない教えになっており、そういった意味では現在は矛盾しないのかもしれません。


『教行信証』信巻には


律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。


とありますように、掌を返すがごとく、大いに易しいのが、18願の救いです。しかし、余りにも易しいが故に、信じることができないと仰っています。難信易行といわれる所以ですが、親鸞会は、30年、40年求めた位で雑行がわかるものではないと教え、その行の実践が非常に難しいです。その上、信心を獲ることは不可能といっても過言ではありませんので、難信難行、難往而無人の教えです。


『教行信証』化土巻にある


しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。


との親鸞聖人の御言葉は、親鸞会の誤りを痛烈に非難されたものです。

親鸞会、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

親鸞聖人が勧められていることと捨てよと仰っていることが、親鸞会で言っていることと同じなのか異なるのか、よく考えて下さい。

2009-08-01

親鸞会は諸行往生10

親鸞会が、獲信のための善を勧める根拠としているのが、七仏通誡偈と19願および『観無量寿経』の定散二善です。親鸞会では、『本願寺なぜ答えぬ』に獲信のための善を勧める根拠が余すところなく書かれてあるという迷信が未だにあります。

しかし、800年前の法然上人に対する非難について少しでも知っているならば、これが如何に噴飯ものであるかが、お分かり頂けると思います。

法然上人が阿弥陀仏の48願中18願を選択本願、王本願とされて、諸善を廃して念仏を専修すべきことを主張されたことは、これまで何度か述べてきました。これに対して、当然のごとく聖道仏教の学僧達から激しい非難が浴びせられました。
『延暦寺奏状』に

一、一向専修の輩、経に背き師に逆う事

とあり、この中に

諸悪莫作諸善奉行は寧ろ七仏通誡にあらずや。

と書かれてあります。七仏通誡偈を根拠に、諸善を廃することの誤りを指摘しようとしていることが分かります。
また『興福寺奏状』九箇条の中に、

六、浄土に暗き失。
七、念仏を誤る失。


があります。浄土と念仏という浄土仏教の根本的教義に踏み込んでの非難です。つまり、これまでの浄土仏教の教義に照らしても、法然上人の主張は間違っていると説明したものです。

「六、浄土に暗き失」には、『観無量寿経』の散善について書かれています。親鸞会の公式ホームページの「承元の法難」には、「六、浄土に暗き失」が省かれているのですが、これは意図的なものであることに間違いありません。
この内容は
「用管窺天記」の自業自得の救済論
に詳しく書かれてありますので、御参照下さい。

「七、念仏を誤る失」には、


ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。


と念仏往生の18願のみを選択された本願としているが、他の47願も本願ではないか、と法然上人の主張に異議を唱えているのです。

また明恵高弁が『摧邪輪』を著して『選択本願念仏集』を徹底的に非難しています。その中で以下のように


解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし。これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。


と具体的に19願を出しているのです。善を勧められた19願は本願ではないのかと。
これ以外にも『観無量寿経』の定散二善を解説し、菩提心等の余行を廃するという法然上人の教えは、間違っていると長々と述べているのです。

ここで『本願寺なぜ答えぬ』を見てみると


 かくて、大上段に〝修善をすすめた文証など、あろうはずがない〟と、アッと驚く、タメゴローならぬ、外道よりも、あさましい放言をなさるのである。
(中略)
 仏教で『七仏通戒偈』は、有名である。
すべての、仏教に共通した教えを、一言で喝破しているからだ。
 「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」
 〝もろもろの、悪をなすことなかれ、もろもろの、善をなして、心を浄くせよ、これが、諸仏の教えだ〟
というのである。
 本願寺サン、『七仏通戒偈』も、お忘れになったのか、と驚かされる。
 修善が獲信の障害ならば、獲信が唯一の目的である仏教に、なぜかくも、修善のすすめが説かれるものか。
(中略)
「獲信の因縁に、善をすすめる親鸞会は、間違いだ。
修善のいらぬ真宗に、善をすすめる文証など、あろうはずがない」
 耳目を疑う、本願寺の非難に、文証をあげて、親鸞会は、次のように、答えてきた。
"汝は、修善をすすめる弥陀仏の、十九の願を、お忘れか。
定散二善をすすめた観経の、釈迦の教説をしらざるや〟と。
 でなければ、本願寺サン。
"弥陀の十九願や、定散二善は、獲信の因縁として説かれたもの〟と、まだ、ご存知ない、としか考えられぬ。



とありますが、如何でしょうか。
つまり、高森会長が言っている善の勧めは、まさに法然上人を非難した聖道仏教の学僧達の主張そのままなのです。すべては聖道仏教の真似です。親鸞会が諸行往生と言われているのは、当然至極のことです。

法然上人へのこれらの非難に対して反論されたのが親鸞聖人であり、『教行信証』なのです。
『教行信証』真仏土巻


それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。


と仰っていますが、阿弥陀仏の48願の中に、真実と方便とがあるとする願海真仮釈です。方便とは、もちろん権仮方便のことです。高弁らの19願も本願ではないかとの主張に対して、18願が真実であり、19願は方便であると言い切られたのです。

『教行信証』の構成については、コメント欄で真偽検証さんが解説されていますので、紹介します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
親鸞会の会員は、教行信証の構成すらわかっていません。
私も会にいた頃はわかっていませんでした。
一番最初の【一・標挙】を見ただけでもお分りになると思います。

教巻:大無量寿経
真実の教 浄土真宗

行巻:諸仏称名の願(17願)
浄土真実の行 選択本願の行

信巻:至信信楽の願(18願)
正定聚の機

証巻:必至滅度の願(11願)
難思議往生

真仏土巻:光明無量の願(12願) 寿命無量の願(13願)

化身土巻:至心発願の願(19願) 邪定聚の機、雙樹林下往生、『無量寿仏観経』の意なり。
至心廻向の願(20願) 不定聚の機、難思往生、『阿弥陀経』の意なり。

18願を、11願・12願・13願・17願・18願に開かれて、真実の教・行・信・証・真仏・真土を明らかにされたのが真仏土巻までの内容です。

ところが、願海には真実と方便があり、方便の人は真実の世界(報土)へは往けず、方便の世界(化土)にとどまります。

そして今は方便の世界と、なぜ方便の世界にとどまるのかについて明らかにしましょう、ということで化身土巻が説かれます。

方便の行をやったからと言って真実の世界へ入れるわけではありません。

真実の世界へ入るには真実の行でなければならないのは当然で、親鸞聖人はそれを明らかにしてきました。

18願真実の世界を白、19願・20願方便の世界を黒とすると、白を際立たせるために黒を持ってきて比較するという説き方です。

方便(仮)を捨てて真実(真)に入れというのが親鸞聖人の教えですから、覚如上人は「真宗の門においては、幾度も廃立を先とせり」と教えられました。

また、方便(自力)を捨てて真実(他力)に帰せよというのが親鸞聖人の教えですから、覚如上人は「今の真宗においては、専ら自力をすてて他力に帰するをもって宗の極致とする」とも教えられました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この通りです。

なお、前々回、前回と述べてきた二双四重の教判は、高弁らの非難に対しての反論であることもお分かり頂けると思います。

高弁が拘った菩提心についても『教行信証』信巻の菩提心釈


しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。
また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。



と解説しておられます。
『観無量寿経』については、顕説の方便義が19願意の定散二善、隠彰の真実義が18願他力念仏と解釈なされました。
それが『教行信証』化土巻の三経隠顕


釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。
すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。



です。

『教行信証』は、諸善を勧める人からの非難に対して著された反論書なのです。

高森会長は、法然上人を非難し、親鸞聖人の破られた聖道仏教と同じ主張をし、それを本願寺にぶつけるというとんでもない論法をしたのです。その結果どうなるか、本願寺は呆れるより仕方がないでしょう。

親鸞会は諸行往生であると非難すれば、的外れな非難と親鸞会内部でこそこそ言っているようです。本願寺でなくとも呆れ果てます。
内部で土蔵秘事の真似事をしている暇があれば、承元の法難を真面目に勉強せよ、と言いたい。『教行信証』の理解は無理でしょうから。

会員さんには、少しだけでもいいですから浄土仏教の歴史と『教行信証』の勉強をして頂きたい。そうすれば親鸞聖人の教えとは似ても似つかない邪義と確信できるでしょう。
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