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2009-08-14

一切衆生は必堕無間なのか6

親鸞聖人は大部な御著書である『教行信証』全体の実に1割を、信巻の中でも4割近くも費やして、阿闍世の回心から続く五逆罪、謗法罪を造った者の救いに関して解説をなされているのです。
これはそれだけ、阿弥陀仏の18願にある「唯除五逆誹謗正法」が、如何に重い内容であるかの表われでもあります。
その信巻の最後に書かれたのが五逆罪の定義についてです。


一つには三乗の五逆なり。いわく、一つにはことさらに思いて父を殺す、二つにはことさらに思いて母を殺す、三つにはことさらに思いて羅漢を殺す、四つには倒見して和合僧を破す、五つには悪心をもって仏身より血を出だす。


最初に三乗の五逆罪(通仏教の五逆罪)について、
 一.故意に父を殺す
 二.故意に母を殺す
 三.故意に阿羅漢を殺す
 四.間違った考えを起こして教団を乱す
 五.悪い心を抱いて仏身を傷つけて血を流す

と仰っています。
阿闍世が犯したのは、一番目の故意に父を殺すことです。あくまで故意にですから、極めて限定された人しか造らない罪です。
曇鸞大師、善導大師が仰っておられる五逆罪は、これです。また、法然上人が「正如房へ遣わす御文」に、


五逆十悪の重き罪造りたる悪人なお十声一声の念仏によりて往生しそうらわんに、まして罪造らせおわします御事は何事かそうろうべき。
たといそうろうべきにても幾程の事かはそうろうべき。
この『経』に説かれてそうろう罪人にはいい比ぶべくやはそうろう。



と書いておられます。「五逆十悪の重き罪造りたる悪人」と比較して、貴方はどんな罪を造っているというのか、と仰っておられますので、罪を造っているという点において、人には明らかな優劣があることを語られたのです。それで五逆罪を造っている人と、造っていない人がいることになりまして、法然上人も五逆罪といわれた場合は、三乗の五逆罪のことになります。

今日でも五逆罪と言えば、通常この五逆罪のことをさしてます。親鸞会でも五逆罪といえば、この三乗の五逆罪を説明します。
『教行信証』信巻ではこの後、


この逆を執する者は、身壊れ命終えて、必定して無間地獄に堕して、一大劫の中に無間の苦を受けん、「無間業」と名づくと。


と解説なされています。三乗の五逆罪を造ったものは、無間地獄に堕ちると教えられていますが、実際にこの罪を造っている人は、極めて稀ですので、無間地獄に堕ちる人も、極めて少数の人になります。

それに対して親鸞聖人は、敢てもう一つの五逆罪について挙げておられます。


二つには大乗の五逆なり。『薩遮尼乾子経』に説くがごとし。一つには、塔を破壊し経蔵を焚焼する、および三宝の財物を盗用する。二つには、三乗の法を謗りて聖教にあらずと言うて、障破留難し、隠蔽覆蔵する。三つには、一切出家の人、もしは戒・無戒・破戒のものを打罵し呵責して、過を説き禁閉し、還俗せしめ、駆使債調し断命せしむる。四つには、父を殺し、母を害し、仏身より血を出だし、和合僧を破し、阿羅漢を殺すなり。五つには、謗じて因果なく、長夜に常に十不善業を行ずるなり、と。


もう1つが大乗の五逆罪と呼ばれるもので、『大薩遮尼乾子所説経』から引用しておられます。

 一. 仏塔を壊し、経典を焼き、三宝を盗む
 二.声聞・縁覚・菩薩の教えを謗って仏教でないといい、仏教の布教を妨げ、危難を加え、仏法の光を覆い隠し弘まらないようにする
 三.持戒・無戒・破戒にかかわらず、すべての出家した人に対して、罵り打って苦しめ、過失を並べ立てて閉じ込め、還俗させて、かりたてて使い、重税を課して命を絶つところまで追い込む
 四.父を殺し、母を害し、仏のからだを傷つけて血を流し、教団の和を乱し、阿羅漢を殺す
 五.因果の道理を否定して、常に十悪の罪を犯す

三乗の五逆罪を四番目にまとめて、謗法罪と十悪を含めたものとなっています。三乗の五逆罪を造ったならば、どんな悪報がくるのかについて親鸞聖人は説明をされましたが、大乗の五逆罪には、それがありません。三乗の五逆罪と重複するところがあるとしても、違う部分が四項目もありますので、悪報は三乗の五逆罪とかなり異なる筈です。
なお、親鸞会では大乗の五逆罪について教えられたことは一度もないようです。

では親鸞聖人がこのように先師方が用いられなかった大乗の五逆罪を紹介されているのは、どのような御心なのでしょうか。

これにも様々な説がありますが、阿闍世の物語から曇鸞大師、善導大師、法然上人の五逆、謗法の解釈を踏まえると二つの理由が考えられます。

一つ目は、前回述べました『大無量寿経』の阿弥陀仏の18願で除かれて、どの経典にも救いが説かれていない謗法罪を造った人の救われる根拠を、経典上で示されるためであったと思われます。謗法罪を造った人が救われると教えられた明確な根拠は善導大師の『法事讃』にある


謗法闡提、回心すれば皆往く


だけですので、聖道仏教の人にも通じる根拠の必要性を感じられてのことでしょう。
救われた阿闍世が造った五逆罪、『観無量寿経』に説かれている五逆罪の救いに、謗法罪を含められることで、謗法罪を造った者の救いを証明されたのです。

もう一つは、三乗の五逆罪と謗法罪では、前回述べましたように、大多数の人はこの二つの罪を造っていないことになります。すると邪見で自惚れ強い我々は、阿弥陀仏の18願は自分たちよりも下の者のために建てられた本願であり、自分は自力修善をすれば助かるのだという迷った心を起こしますので、それを正されるためと考えられます。
それで、十方衆生が造っていると自覚できる十悪を含めた大乗の五逆罪を挙げておられるのです。阿闍世を最下の者と見下すのではなく、我々も同類であり、さるべき業縁の催せば如何なる振る舞いもすべき本性はかわらない、つまりは全ての人は阿闍世同様の五逆の者であり、善人と思い込んでいる人も阿弥陀仏の18願によらなければ救われないことを明らかにされるためであったのでしょう。
大乗の五逆罪を造った悪報について説明をされていない理由も、この当たりにあるのではないでしょうか。

まとめると、通仏教でいう五逆罪に謗法罪を含めることで、謗法罪の人が救われることを明らかにされ、十悪を含めることで十方衆生は18願でしか救われないことを明言されたということです。

この二つの理由を念頭において改めて前回、前々回に紹介した経典、聖教を読み返されれば、十悪、五逆、謗法を並べられて仰ったことと、謗法、十悪を含めた大乗の五逆罪とは、同時に成り立たない解釈になることが判られると思います。親鸞聖人がそれに気が付かれていない筈がありません。
実際親鸞聖人は、三乗の五逆ではなく大乗の五逆罪を採用しなさいとは仰っていません。
当然矛盾をすべてご承知の上で、親鸞聖人が敢て大乗の五逆罪を紹介された御心をよくよく理解しなければならないでしょう。

それを知ってか知らずか、「必堕無間」の悪報だけは、大乗の五逆罪的な解釈で「一切衆生」のことだとし、阿弥陀仏に救われるには、五逆謗法は通仏教の解釈をした、修善に励まなければならないという迷った考えを、都合良く取り上げている人物の頭の中はどうなっているのか?
根拠は断章取義、理論は竜頭蛇尾の教義が、親鸞聖人の教えと相容れないことは、これで十分お判り頂けると思います。
「一切衆生必堕無間」と「善の勧め」が、どんな目的で誰のために教えられているのか、親鸞会会員の皆さんは真剣に考えて頂きたいと願うばかりです。

2009-08-19

一切衆生は必堕無間なのか7~まとめ~

親鸞会が主張している「一切衆生必堕無間」について、これまで詳しく検証してきましたが、論文調で難しいという御意見を頂きましたので、簡潔にまとめます。

「一切衆生必堕無間」という言葉は、経典にも、七高僧方、親鸞聖人の御著書にも見られないものです。

その理由として考えられるのが、

A.真実は「一切衆生必堕無間」であるが、敢てそのように説かれなかった。

B.すべての人が必堕無間であるということはない。

の2つです。

Aの場合を考えてみましょう。

もし「一切衆生必堕無間」が真実で、釈尊、七高僧、親鸞聖人がそのことを敢て仰っていないとしたならば、釈尊、七高僧、親鸞聖人に倣わない高森会長は、どんな人物といえるでしょうか。釈尊、七高僧、親鸞聖人よりも偉い大大善知識か、もしくは説いてはいけないことを説く大悪知識か、そのどちらかになります。

親鸞会の会員は、前者で理解しているのでしょうか。しかしそこまで思っている人は流石に少ないでしょう。正常な思考であるならば、後者を迷わずに選ぶでしょう。

五逆罪を造って必堕無間の恐怖に脅えている阿闍世に対して釈尊は、無間地獄に堕ちる罪ではない、と励ましておられるくらいですから、「一切衆生必堕無間」と叫ぶことが、如何に仏教精神から外れているかが分かられるでしょう。

次にBはどうでしょうか。

このことについて、これまで6回に分けて説明してきました。
七高僧、親鸞聖人は、六道輪廻すると仰っています。蓮如上人も『御文章』の中で


されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。(一帖目第十一通)

はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかいとしりながら、ただいま三途八難にしずまん事をば、つゆちりほども心にかけずして、(二帖目第一通)

されば、五道六道といえる悪趣に、すでにおもむくべきみちを、弥陀如来の願力の不思議として、これをふさぎたまうなり。(二帖目第四通)


と仰っています。

また、化土往生については、釈尊、七高僧、親鸞聖人は、詳しく解説なされた上で、化土往生を誡められて、報土往生を勧められています。
化土往生は、主に自力念仏の人のことを指します。自力念仏で化土往生の人が多いために、誡められているのです。これは、化土往生が実際にあるという紛れもない証拠です。

では、無間地獄に堕ちる人とはどんな人なのか。

五逆罪、謗法罪を造った人ですが、そんな人は少ない、と説かれています。往生極楽、成仏を求めている人は謗法罪を造っていないし、五逆罪も故意に親を殺すような人だけです。

実際に五逆罪を造った人で信心決定していなくても、懺悔の心、大菩提心を発したならば、地獄には堕ちないと教えられています。

一方で、念仏の教えを謗る人や、邪義を唱えている人は、無間地獄に堕ちると教えられています。

『正像末和讃』の


念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕罪して
八万劫中大苦悩
ひまなくうくとぞときたまう



『御文章』の


それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。(二帖目第十四通)


などです。

以上のことから、すべての人が無間地獄に堕ちることはないというのが真実です。つまり、「一切衆生必堕無間」は完全な間違いです。
しかし、「一切衆生必堕無間」を説いたり、弘めたりするのは「念仏誹謗の有情」ですから、「必堕無間」になります。

仏教、浄土真宗は、往生極楽、成仏を目指すものであり、その無上菩提心を発すように話をするのが善知識です。だから、浄土仏教を求めることは楽しい筈です。
地獄の恐怖を植え付けるのは、外道カルトの教えであり、そんな人を悪知識と仏教では呼ぶのです。外道カルトの悪知識から話を聞けば、苦しくなるのは当然なことです。

苦しんでいる親鸞会の会員は外道カルトを離れて、浄土仏教に早く帰依して欲しいものです。

2009-08-20

一切衆生は必堕無間なのか8

善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。


という『末灯鈔』のお言葉を挙げて、全ての人は、謗法罪、五逆罪の者であるから、一切衆生は必堕無間である、と親鸞会では説明していますし、私の書いたものに対しての親鸞会内部での反論としているようです。また、善知識に従わないのは謗法罪であるとして、善知識への無条件服従の根拠ともしてるようです。

しかし、これは大きな誤りです。以下にそれを説明します。

まず、このお言葉は親鸞聖人が関東の同行に宛てたお手紙の一部です。親鸞聖人は、関東の同行に対して仰りたかったことは、後の文章を読まれればわかります。


善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。同座をせざれとそうろうなり。されば、きたのこうりにそうらいし善証坊は、親をのり、善信をようようにそしりそうらいしかば、ちかづきむつまじくおもいそうらわで、ちかづけずそうらいき。明法の御坊の往生のことをききながら、そのあとをおろかにもせんひとびとは、その同朋にあらずそうろうべし。


この部分を訳してみますと、


善知識をおろそかに思い、師を謗る人を、謗法の者というのです。親を謗る人を五逆の者というのです。このような人とは同席をしてはいけないといわれています。ですから、北の郡にいた善証房は、親を罵り、親鸞を様々に謗っていましたので、親しく接しようとは思わずに、近づけないようにしていました。明法房の往生のことを聞きながら、その遺志をおろそかにする人々は、同朋ではありません。


このようになります。
謗法罪の人、五逆罪の人とは親しくしてはいけないと教えられていますから、謗法罪、五逆罪を犯していた善証房を遠ざけていました、と親鸞聖人は仰っているのです。
このお言葉に近い内容として、同じく『末灯鈔』に


この御なかのひとびとも、少々はあしきさまなることもきこえそうろうめり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなずりなんどしあわせたまうよしきこえそうろう。あさましくそうろう。すでに、謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。『浄土論』(論註)ともうすふみには、「かようのひとは、仏法信ずるこころのなきより、このこころはおこるなり」とそうろうめり。また、至誠心のなかには、「かように悪をこのまんひとには、つつしみてとおざかれ、ちかづくことなかれ」とこそ、おしえおかれてそうらえ。善知識・同行にはしたしみちかづけとこそ、ときおかれそうらえ。


とあります。このお言葉も、関東の同行に宛てたお手紙の一部です。訳してみますと、


皆さんの中にも、少々悪い噂が聞こえてきます。師を謗り、善知識を軽んじ、同行を貶めあっていると聞いています。浅ましいことです。こんな人は、すでに謗法の人であり、五逆の人です。親しく接してはいけません。『浄土論註』という書には、「このような人は、仏法を信ずる心がないから、この心が起こるのだ」と書かれています。また、『観無量寿経疏』の「至誠心釈」の中に、「このように悪を好む人には、慎んで遠ざかれ、近付いてはならない」と教えられています。善知識・同行には親しみ近づきなさいと説かれているのです。


となります。
これらのお言葉から、かつて親鸞聖人から直接話を聞いていた関東の同行の中に、謗法罪、五逆罪の者がいるから、彼らに近付くな、と仰っていることがわかりますし、このような恐ろしい悪を慎むように誡めておられます。もちろん謗法罪、五逆罪を犯していない同行がいる前提で仰っていることは明らかです。以前にも述べました『教行信証』信巻の謗法罪、五逆罪の解釈は、『末灯鈔』でも同じです。曇鸞大師、善導大師の謗法罪、五逆罪の解釈をそのまま引用されているのです。
ですから当然のごとく全ての人が謗法罪、五逆罪を犯しているという意味合いで、親鸞聖人は仰っていません。
前後を読めば、謗法罪、五逆罪の人とは、一部の人という意味にしか解釈できません。

ところが断章取義で解釈することで、意味がまるっきり変わってきます。親鸞聖人が如何にも一切衆生必堕無間を教えられたかのように偽装しようという意図が見え見えです。

親鸞会は陰でこそこそと反論して、会員を騙すことだけに専念しているようで、私の書いたものに正面から反論してきたことはただの一度もありません。


善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。


親鸞聖人が、どんなお気持ちでこのお言葉を書かれたのかを無視して、このお言葉を一切衆生必堕無間の脅迫の道具として用いることは、断じて許されないことです。親鸞聖人の教えをネジ曲げて謗法罪を造り続ける者は、完全に悪知識です。
そんな悪知識をおろかにおもい、謗っても、謗法罪にならないのはいうまでもありませんが、善導大師や親鸞聖人が仰るように、「かように悪をこのまんひとには、つつしみてとおざかれ、ちかづくことなかれ」です。悪知識から離れることが、親鸞聖人の御心に叶うことなのです。

2009-08-20

一切衆生は必堕無間なのか9

前回、『末灯鈔』のお言葉を断章取義した親鸞会教義の誤りを指摘しましたが、全人類のことを親鸞聖人は「逆謗の屍」と言われているから、五逆罪、謗法罪を造っている一切衆生は必堕無間で間違いない、と尚も反論にならない反論を内部でしていると聞きました。今回はこの「逆謗の屍」について明らかにします。

親鸞会の公式HPには、


後生も菩提も分からず、相対の幸福しか知らず、後生の一大事と聞いても驚かず、絶対の幸福といっても、ウンともスンともこたえず何のことかい、とせせら笑っているのが私たちの本性です。

親鸞聖人は、逆謗の屍と言われました。



とあります。これは嘘です。
親鸞聖人が「逆謗の屍」とはっきり仰ったのは、『高僧和讃』曇鸞讃の


名号不思議の海水は
逆謗の屍骸もとどまらず
衆悪の万川帰しぬれば
功徳のうしほに一味なり



だけです。
これは、五逆罪、謗法罪の人でさえも阿弥陀仏の功徳に包まれたならば、一味平等の世界に入ることができる、と教えられたお言葉です。このお言葉から、全ての人の本性が「逆謗の屍」という解釈にはなりません。

また「逆謗」と書かれたのは、『教行信証』総序の


しかればすなはち浄邦縁熟して、調達(提婆達多)、闍世(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提(韋提希夫人)をして安養を選ばしめたまへり。これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。


です。ここでは、五逆、謗法、闡提の者でも救われることを仰ったものであって、全ての人のことを指している訳ではありません。

また『教行信証』行巻にも


「海」といふは、久遠よりこのかた凡聖所修の雑修・雑善の川水を転じ、逆謗闡提・恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海のごときに喩ふるなり。まことに知んぬ、『経』(『往生要集』)に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」とのたまへるがごとし。「願海」は二乗雑善の中・下の死骸を宿さず。いかにいはんや人・天の虚仮・邪偽の善業、雑毒雑心の死骸を宿さんや。


とあります。これも同じです。

『正信偈』には、


凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味


とあります。

いずれも五逆、謗法の者も含めて全ての人、という意味であって、全ての人が五逆、謗法の者ではありません。分かりやすく書けば、

全人類>逆謗の者

であって、

全人類=逆謗の者

とならないことは当たり前のことです。
ですから、私たちの本性を「逆謗の屍」と親鸞聖人が仰ったところは1つもありません。

全人類が五逆罪、謗法罪を造っているとは教えられていないことを、これまで何度か述べてきました。

一切衆生は必堕無間なのか5
一切衆生は必堕無間なのか6
一切衆生は必堕無間なのか8

これまで挙げていない根拠を挙げるなら、法然上人の『往生大要鈔』に


われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。


と仰っておられますし、また『浄土宗大意』には、


五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。


とあります。一般の人は、五逆罪を造っていないと仰っています。
また、親鸞聖人が尊敬されていた聖覚法印の『唯信鈔』には、


五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。


とか、


われら、罪業おもしというとも、五逆をばつくらず。


とあります。この『唯信鈔』は、親鸞聖人が関東の同行に何度も何度も読むように勧められている書物であり、その解説書として親鸞聖人が『唯信鈔文意』を著されているくらい重要視されたものです。
法然上人の教えを受け継がれ、聖覚法印の『唯信鈔』を自分の著書以上に勧められた親鸞聖人も、全人類が五逆罪の者と見做しておられないことは言うまでもありません。ましていわんや、謗法罪をやです。
これは前回の『末灯鈔』のお言葉からも明らかです。

但し、親鸞聖人の御著書には、「われら五逆を造らず」と書かれているところはありませんので、親鸞聖人は敢て五逆罪、そして謗法罪の人を下に見られずに、同じ目線に立たれたと言えるでしょう。親鸞は罪深い人と同じなんだということを示されたのが、肉食妻帯です。『教行信証』信巻に大乗の五逆罪を挙げられた御心もここにあるのかもしれません。

だからといって、それを逆手に取って、親鸞聖人は逆謗の者だ、といったり、全人類は逆謗の罪を造っている者だ、という理屈は成り立ちません。親鸞聖人が全人類の本性が「逆謗の屍」と仰ったから、全人類は五逆、謗法の者だ、とは、悪意に満ちた捏造であり、騙しの論法です。

このような親鸞聖人の御心を踏みにじり、親鸞聖人の教えを宗教ビジネスとして利用し、様々に搾取を繰り返して多くの人を苦しめている悪知識と取り巻きは、即刻退場して、会員をマインドコントロールから解放すべきです。また、悪知識を未だ信奉している会員には、親鸞会の御粗末な教義内容を知って、回心してほしいものです。

2009-08-20

一切衆生は必堕無間なのか10

以下の質問を頂きました。調べるのに時間が掛りましたが、現時点で判明している範囲でお答えします。

【質問】
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ある時、御弟子が釈迦に「仏のさとりを開かれた世尊には、私達が考えるような苦しみはないと思いますが、いかがなものでしょう」とお聞きした。
それに対し釈迦は、「確かに、私にはお前達が考えるような苦しみはない。しかし、仏に苦しみがないかといえば、そうではない。ただ一つだけある。今も、私の眼には、雨が降るがごとく、多くの人達が地獄に堕ちてゆく相が見える。その人達のことを思うと、何ともいえない気持ちになる。仏の苦しみとは、このような苦しみをいうのである。」と答えられた。
この仏の苦しみこそが、仏教の原点である。
釈迦は、そのような人々の相が、仏眼に映れば映るほど、命がけで「後生の一大事」を叫ばずにはおれなかったのである。
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という文章を見たことがあるのですが、どこからの引用なのかわかりますか。また、教義として正しいのでしょうか。


【回答】
高森会長の著した『会報 第一集』に

釈尊に或る時、お弟子が「釈尊は一切智人、みなことごとく知りわきまえていられる。世尊には何事でも御苦労に思召すことはないでしょう」と尋ねた。すると釈尊は「我身には他に苦労はなけれども、只一つ苦労にせねばならぬことがある。それは時々刻々にちぢまる生命、近ずく火車来現の迎えを受けねばならぬ身を持ちながら、如何ように教えても、今死ぬということを思うものがないのが、この釈迦の苦しみじゃ」といわれたそうだが、


とあります。
これは山本龍音編『香樹院金言録』に、


如来の御在世に、或る弟子が、「如来は一切智人、みなことごとく知りわきまえてござらせらるる。如来の御弟子の上には、何事でもご苦労に思召すことはござりますまい」と申し上げたれば、如来の仰せに、「我が身には外に苦労はなけれども、只一つ苦労にせねばならぬことがある。かくの如く時々刻々、縮まる我が命、近づく火車来現の迎えを受けねばならぬ身を持ちながら、何ように教えても、我が身に今、死するということを思うもののないのが、この釈迦の苦じゃ」と仰せらるる。


とあるのをほとんどそのまま引用したものです。
香樹院師が何を根拠にしてこのように言われたのか、様々な人に聞いたりもして調べてみましたが、そっくりそのまま当てはまる釈尊のお言葉を見つけることができませんでした。
そこで現時点では『涅槃経』迦葉品に、迦葉菩薩が如来の慈悲を讃えた偈があり、それをこのような表現にしたのではないかと推測しています。
以下がその部分です。


如来受苦不覚苦 見衆生苦如己苦
雖為衆生處地獄 不生苦想及悔心
一切衆生受異苦 悉是如来一人苦



とあります。訳しますと、


如来が苦を受けても苦とは感じないが、衆生が苦しんでいるのを見ることは己がことのように苦しむ。
たとえ衆生の為に地獄に堕ちたとしても、苦しいという想いも悔い心も生じない。
一切の衆生がそれぞれ異なる苦を受けても、悉くこれは如来お一人の苦である。



となります。釈尊の直のお言葉ではありませんが、如来の慈悲を表わされたものです。

これは阿闍世が獲信後に釈尊に語った言葉と非常によく似ています。それは『涅槃経』梵行品にありますが、親鸞聖人は『教行信証』信巻にも引かれています。


世尊、もし我審かによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせず。


とあります。如来でない阿闍世も、如来の慈悲と等しいとも言える度衆生心を発した言葉です。

いずれも『香樹院金言録』の内容とは異なりますが、『涅槃経』からの引用であれば香樹院師も如来の慈悲の深さを表現されたかったのだと思います。
(もし、『香樹院金言録』の元になった根拠が別にあるのをご存知の方は、教えて頂きたく思います。)

ところが、高森会長はそれを「一切衆生必堕無間」の脅迫の道具として使った訳です。

香樹院師は、地獄を強調されている部分も多いので、高森会長が利用するには都合がよかったのでしょう。
しかし一方で香樹院師は、化土往生についても言及されています。加藤智学編『香樹院講師語録』には、


綾五郎、命終に臨んで尋ねて曰く。
私、生涯御法を聞き、
この頃は日夜に六万遍の念佛を申して日課にいたし、
本願を心にかけ居り候えども、
信心なくば、空しく三悪道へ帰ると仰せらるるを思えば、
誠に嘆かわしく候、と。

予、これに答えて云う。
念佛を多く申して佛に廻向するさえ、
佛しろしめして辺地の往生を遂げしめ給う。
まして念佛申し本願に心をかけ、
そのうえ信の得られぬことを悲しんで、
加被を待つ。これ辺地の往生疑いなし、と。

また問うて云うよう。
何ぞ本願を疑うもの、辺地に往生するや。
信を得ぬは、疑いと承り居り候。

答。
これ如來の御誓いなり。

淨土和讃の初めに、

弥陀の名號となへつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
佛恩報ずるおもひあり

との給う。これ報土往生の人なり。次に、

誓願不思議をうたがひて
御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳
むなしくすぐとぞときたまふ

とあり。これ化土往生の人なり。

なにも悲しまずに、喜びて念佛すべし。
予も老年ゆえ、追っ付け淨土にて御目にかかるなり。
化土は五百歳永きようなれども、実にわづかの間なり、
と申しければ、
さてはかかる機なれども、辺地の往生を遂げしめて、
終には弥陀の真実報土に生れさせ給う御慈悲なれば、
たとい千年万年でも如來の御はからいなり、と、
たちどころに弘願に入り、めでたく往生いたされき。

右、日々六万遍の称名は、
臨終の両三日より初めて申せしなり。
かような人は、他には一人も見ず。
これを思うに、信は宿善開発にあらざれば、
得ること能わずと見えたり。
本願を心にかけ念佛せん人、
辺地の往生を遂げしめ給う御慈悲なれば、
身心を投げ込んで聞けば、信は得ずとも念佛申す御徳にて、
悪道に堕ちぬことなれば、命限り疑いのはるるまで求めて、
聞きとげずばおくまいと、勇み励んで聞き求むべし。
このたび本願に値い、生涯法に身を入れても、
少しも損のなきは聞法の利益なり。



とあります。
また死後に三悪道に行くとして以下のようにも言われています。


年久しく聴聞いただけども、
心の同辺たるは、過去の業報つよくして、
またも三悪道にかえるしるしなりと、
釈尊の説きたまえる金言に、少しも違わぬさまにて、
まことに悲しく覚え候。
この上は、行住坐臥、念佛を事として、
御化導を、火の中をすぐる心地して、
我が心をへりくだりて、恭敬尊重の思いより、
ひとすじに聴聞申すべし。
御慈悲にて候間まことの信は得らるるなり。



「一切衆生必堕無間」という思想は、香樹院師にはありません。

『歎異抄』の「地獄は一定すみかぞかし」のお言葉が知れわたるようになってから、親鸞聖人がほとんど仰っていない地獄が強調される風潮が真宗にはありましたが、それに更に輪を掛けて脅迫のネタに使うのは、明らかに外道です。

獲信したといいながら、阿闍世の度衆生心とは、真逆の心をもった知識をどう理解すべきでしょうか。
自分は、十悪、五逆、謗法の罪を一般の人よりも多く、しかも平気な顔で造りながら、会員には命懸けの善を勧める。本当に呆れるばかりです。
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