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2009-10-31

善知識には無条件服従しなければならないのか 6

『改邪鈔』の「一 本願寺聖人の御門弟と号する人々のなかに、知識をあがむるをもって弥陀如来に擬し、知識所居の当体をもって別願真実の報土とすという、いわれなき事。」について「幹部会員歴数十年」様よりコメントを頂きました。
前回と今回は、「M野氏ではないyo」氏から、このお言葉が、善知識への無条件服従が間違いである根拠になっていないとの反論に答えるかたちで書いていますので、御了承下さい。

私が「善知識には無条件服従しなければならないのか 3」で挙げた根拠が何を意味しているのか、分かる人には容易に分かることが、とにかく否定したいだけの人には分からないか、あるいは分かりたくないのでしょう。私の意図は、以下のコメントにすべて凝縮されています。

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『改邪鈔』
一 本願寺聖人の御門弟と号する人々のなかに、知識をあがむるをもって弥陀如来に擬し、知識所居の当体をもって別願真実の報土とすという、いわれなき事。

(中略)
 善知識において、本尊のおもいをなすべき条、渇仰の至りにおいてはその理しかるべしといえども、それは仏智を次第相承しまします願力の信心、仏智よりもよおされて、仏智に帰属するところの一味なるを仰崇の分にてこそあれ、仏身・仏智を本体とおかずして、ただちに凡形の知識をおさえて「如来の色相と眼見せよ」とすすむらんこと、聖教の指説をはなれ、祖師の口伝にそむけり。本尊をはなれて、いずくのほどより知識は出現せるぞや。荒涼なり、髣髴なり。実語をつたえて口授し、仏智をあらわして決得せしむる恩徳は、生身の如来にもあいかわらず、木像ものいわず経典くちなければ、つたえきかしむるところの恩徳をみみにたくわえん行者は、謝徳のおもいを専らにして、如来の代官と仰いであがむべきにてこそあれ、その知識のほかに別の仏なしということ、智者にわらわれ愚者をまよわすべきいいこれにあり、あさまし、あさまし。




【石田瑞磨著『親鸞全集』より現代語訳】

一 本願寺の聖人の門弟と名のるひとびとの中に、師を崇めて阿弥陀如来になぞらえ、師の住む住居を阿弥陀仏がとくに誓いを立ててつくられた真実の浄土とするということは、理由がないということ。

(中略)
 師を本尊のように思わなければならないということは、心底より尊敬を捧げる分には理として当然であるけれども、それは、仏の智慧を承けつがれた阿弥陀仏の誓いによって与えられた信心が、仏の智慧に導かれて、仏の智慧に帰属し、それと一体となる辺を尊崇する分際でなくてはならない。仏の身体・仏の智慧を本体と立てないで、ただちに愚かなひとと変わらない師をおさえて、「いまここに拝する師を如来のお姿と見よ」と勧めるらしいが、それは聖教の説く所を離れ、祖師聖人が親しく伝えられた教えにも背くものである。大尊を離れて、どこからあらわれて来たのであるか。口からでまかせで、支離滅裂の説である。ただ師が真実の言葉を承けてそれを親しく授け、仏の智慧を明らかにして正否の判断を与えられた恩徳は、生身の仏から受けるものと少しも変わらない。木像は物を言わないし、経典には口がないから、これに代わって教えを伝え聞かせるお徳を耳に蓄えた念仏者は、ひとえに徳を謝する思いに住し、如来の「代官」と仰いで、崇めるのであるが、しかしこの師のほかに別に仏はないというならば、智者に笑われ、愚者を迷わすにちがいないといわれるであろうが、その理由もまたここにあるのである。誠に浅ましいことである。


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『改邪鈔』のこの部分は、親鸞会そのままです。
長年幹部会員をしている人なら分かりますが、親鸞会には建て前と本音の二重構造があるのです。阿弥陀仏と高森会長との関係もそうです。
建て前では、阿弥陀仏一仏に向かえ、と教えています。
しかし、本音である実際の教えは、高森会長によって地獄も極楽も決まるかのように教えています。
高森会長の指示は絶対で、高森会長から背いたり、離れたら絶対に助からない、と徹底されています。その実例は退会者の体験談でいくつも挙げられていますが、元講師部員の「私の白道」であったり、「さよなら親鸞会」の除名になった特専部員の手記であります。
高森会長から離れたら助からない、というのならば、高森会長が除名にした人は絶対に助からないことになります。しかし、助けるのは阿弥陀仏のお仕事であって、高森会長ではありません。実質的に、「高森会長のほかに別の仏なし」です。
正本堂において、会長関係の施設だけで、4~5億円費やしたといわれています。建設費だけですから、備品や装飾品も併せればもっとかかっているでしょう。それに対して、阿弥陀仏を安置している仏間は2億円くらいと聞いています。
高森会長のための食事は、巨大な2つの厨房で専用の料理人を何人も付けて作っていますが、阿弥陀仏のお仏飯は、常住者の小さな古い厨房で常住者が交代で作っています。
高森会長の側近が高森会長にどのように接しているかを見れば、高森会長に深々と礼をして最大限に気を遣っています。阿弥陀仏よりも気を遣っているのは明らかです。

口では、一向専念無量寿仏ですが、実際は一向専念高森会長です。

「M野氏ではないyo」氏は、一般的な善知識だのみとは、ここは違う意味だから、管理人さんの解釈はおかしいといいたいのでしょう。しかし、親鸞会の本当の姿を知っている人からいえば、『改邪鈔』で仰っている邪義は、親鸞会そのままです。
このブログは、その名の通り、親鸞会教義の誤りを指摘することにあります。管理人さんは、親鸞会の実体を踏まえられてこの御文を根拠とされたのですから、建て前論で押し通そうとする「M野氏ではないyo」氏と話があう訳がありません。

親鸞会の会員と号する人々のなかに、高森会長をあがむるをもって弥陀如来に擬し、高森会長所居の当体をもって別願真実の報土とすという、いわれなき事

これが親鸞会の真実です。
2009-10-31 15:22 : 幹部会員歴数十年

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正本堂でも阿弥陀仏の真上に200畳の自分と家族の部屋を造って、平然としている。
救われたという弟子が現われれば、あれは異安心だと認定して除名にする。
家族が勤行をしていなくても当たり前ですし、自分もしていないから、大衆の前で間違える。
高森会長自身が、自分は阿弥陀仏より偉いと思っている証拠です。
その実情を無視して下らない議論をすることに意味は全くありません。時間の無駄です。

高森会長も、直弟子も、そして未だ目の覚めない会員も、皆、

高森会長をあがむるをもって弥陀如来に擬し、高森会長所居の当体をもって別願真実の報土とす

となっていることを自覚しなさい。

2009-11-03

善知識には無条件服従しなければならないのか 7

くどいと思われる方には申し訳ありませんが、思考力の衰えた人には未だ理解できないようですので、”無二の善知識”への無条件服従が間違いであることの補足説明を再度致します。

四依について、これまで二回解説をしてきました。
善知識には無条件服従しなければならないのか 3
善知識には無条件服従しなければならないのか 5

四依について解説なされた存覚上人が『六要鈔』の中で、根拠を2つ挙げておられました。その理由については、原文を読まれればお分かりになると思います。

1つ目が、『大無量寿経』下巻の往覲偈のお言葉です。現代語訳とサンスクリット本の和訳も載せておきます。

『大無量寿経』下巻

声聞あるいは菩薩、よく聖心を究むることなし。たとへば生れてより盲ひたるものの、行いて人を開導せんと欲はんがごとし。如来の智慧海は、深広にして涯底なし。二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり。たとひ一切の人、具足してみな道を得、浄慧、本空を知り、億劫に仏智を思ひ、力を窮め、講説を極めて、寿を尽すとも、なほ知らじ。


浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会 編『浄土三部経(現代語版)』

声聞や菩薩でさえも、仏の心を知りきわめることはできない。まるで生れながらに目が見えない人が、人を導こうとするようなものである。如来の智慧の大海は、とても深く広く果てしなく、声聞や菩薩でさえも思いはかることはできない。ただ仏だけがお知りになることができる。たとえすべての人々が、残らずみな道をきわめて、清らかな智慧ですべては空であると知り、限りなく長い時をかけて仏の智慧を思いはかり、力の限り説き明かし、寿命の限りを尽したとしても、仏の智慧は限りなく、このように清らかであることを、やはり知ることができない。


梵文和訳(中村 元・ 紀野 一義・ 早島 鏡正訳 『浄土三部経 (上) 無量寿経』)

たとえば、実に眼のない人が闇の中で、道を知らないようなもの。ましてや(他の人々に)道を教えられようか。<教えを聞いて修行する人々>は、仏の智慧について、みな、この通り、知ることが無い。いかにいわんや、他の人々のいてをや。ただ仏のみが、仏の功徳を明らかに知る。神々・竜・アスラ(阿修羅)・ヤクシャ(夜叉)や、教えを聞くのみの修行者たちは、(知ら)ない。仏の智が説き明かされても、独居する修行者たちは、これを知るいかなる道があるであろうか。たとえ一切の生ける者どもが幸せとなり、清浄な智識を得て、最高の真理を熟知する者となったとしても、かれらが億劫の間、あるいはそれ以上にわたっても、一人の仏のすぐれた徳性を語るとしても。多くの幾億劫の間、説明しつつ、その間にかれらはその身失[う]せるであろうとしても、しかも、〔その〕仏の智の量は、(知り)得ない。


これは仏と、声聞・菩薩との違いを明確にされたものです。

もう1つが、『散善義』の深心釈ですが、親鸞聖人は『教行信証』信巻に引いておられますので、現代語訳とあわせてそちらを挙げます。

『教行信証』信巻

仏はこれ満足大悲の人なるがゆえに、実語なるがゆえに、仏を除きて已還は、智行未だ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありて、未だ除からざるに由って、果願未だ円ならず。これらの凡聖は、たとい諸仏の教意を測量すれども、未だよく決了することあたわず。平章ありといえども、かならず須らく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称えば、すなわち印可して「如是如是」と言う。もし仏意に可わざれば、すなわち「汝等が所説この義不如是」と言う。印せざるは、すなわち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまうをば、すなわち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなわちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多・もしは少、すべて菩薩・人・天等を問わず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなわちこれ「了教」なり、菩薩等の説は、ことごとく「不了教」と名づくるなり、知るべしと。このゆえに、今の時、仰ぎて一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし、菩薩等の不相応の教を信用してもって疑碍を為し、惑を抱いて自ら迷いて、往生の大益を廃失すべからざれとなり。


浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会 編『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』

仏は大いなる慈悲をまどかにそなえた方だからであり、その説かれた言葉はまことだからである。仏以外のものは、智慧も行もまだ十分でなく、それを学ぶ位にあり、煩悩も習気もまだすべては除かれていないので、さとりを求める願いも、まだまどかに成就していない。したがって、これらのものは、たとえ仏のおこころを推しはかっても、確かに知ることはまだできないのである。物事の道理を正しく明らかに理解することがあったとしても、必ず仏にその証明をお願いして、当否を定めるべきである。もし、仏のおこころにかなえば、仏はこれを認められて<その通り>といわれる。もし、仏のおこころにかなわなければ、<あなたがたのいうこの理解は正しくない>といわれるのである。仏がお認めにならない説は、仏の正しい教えにかなうものなのである。仏のお言葉はすべて、正しい教えであり、正しい義であり、正しい行であり、正しい領解であり、正しい行業であり、正しい智慧なのである。多数のものでも少数のものでも、菩薩であっても人間であっても神々であっても、その説の善し悪しを定めることなどできない。仏の説かれた教えは、完全な教えであり、菩薩などの説は、すべてみな不完全な教えというのである。よく知るがよい。だから、今この時、往生を願うすべての人々に勧める。ただ深く仏のお言葉を信じて、ひとすじに行を修めるがよい。菩薩などの説く、仏のお心にかなっていない教えを信じて、疑いをおこし、惑いをいただいて、自ら往生という大いなる利益を失ってはならない。


『愚禿鈔』でも同様のことを書いておられます。

第六に「この『経』(観経)によりて深信する」について、六即・三印・三無・六正・二了あり。
六即とは、
一には、「もし仏意に称へば、即ち印可して〈如是如是〉とのたまふ」と。
二には、「もし仏意に可はざれば、即ち〈なんぢらが説くところ、この義不如是〉とのたまふ」と。
三には、「印せざるは、即ち無記・無利・無益の語に同じ」と。
四には、「仏の印可したまふは、即ち仏の正教に随順するなり」と。
五には、「もし仏の所有の言説は、即ちこれ正教なり」と。
六には、「もし仏の所説は、即ちこれ了教なり」となり。
三印とは、
一には即印可、
二には不印、
三には仏印可なり。[三印は上の六即の文のなかにあり。]
三無とは、
一には無記、
二には無利、
三には無益なり。[三無は六即の文のなかにあり。]
六正とは、
一には正教、
二には正義、
三には正行、
四には正解、
五には正業、
六には正智なり。
二了とは、
一には、「もし仏の所説は、即ちこれ了教なり」と。
二には、「菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり」と、知るべし。



仏は完璧な方ですので「了教」ですが、菩薩でさえも仏の真の御心がわからないので「不了教」といわれます。四依のお言葉でいえば、仏の説かれたものは「了義経」ですが、それ以外のものは「不了義経」です。「法に依りて人に依らざるべし」でいえば、仏の御心の通りに説いたものが「法」ですが、間違いを犯す菩薩以下の人間は「人」になりますので、その人が説くことを依りどころとしてはならないということです。
ましてや、仏の御心に叶わない教えに従うことも、もちろん仏の御心と明らかに違うことを説いている人物に従うことも、完全に間違いであります。弁解の余地はありません。

たとえば釈尊も、釈尊の御心の通りに説かれた歴代の善知識方も仰ったことのない、

・「一切衆生必堕無間」
・18願の「若不生者」に当益の意味は全くない
・善をしなければ信仰は進まない

等の邪説を、これこそが真実の教えであり、これが分かるのは自分だけと”無二の善知識”を名乗る人物に従うことが「法に依る」ことだと主張するのは、一体どんな明晰な頭脳をしているのでしょうか。

幹部会員であった方から聞くところによれば、仏間に空調を入れることはおかしいといいながら、自分の部屋はICU並の完璧な空調にしたり、阿弥陀仏を安置する宮殿須弥壇は何十年も使い続けて新調したことがないのに、自分の住居は各会館に次々と建設させたり、一度履いた靴下は二度と履かないとか、その”無二の善知識”は、我こそは生き仏であり、本師本仏と錯覚しているのではないですか。

釈尊、歴代の善知識方の仰った通りに教えている知識に従うことを「法に依る」というのなら、まだ理解できますが、阿弥陀仏を粗末にし、釈尊を頭がおかしくなったと誹謗し、親鸞聖人を盗作の大家と呼ばせている大悪知識に、無条件服従せよとは、それこそ、「貴方、頭がおかしくなったのではないですか」と言いたくなります。

外道邪教の親玉には何も期待していませんが、ここまでしつこく言っても、講師には、理解できないのでしょうか。ただし、親鸞会に所属してそれを正しいと人に伝えることが、念仏誹謗になることだけは、知っておくべきでしょう。
無間業を畏れる気持ちが少しでもあるならば、賢明な会員さんはまずは外道から仏教へ入られることを切に願うばかりです。

2009-11-10

善知識には無条件服従しなければならないのか 8

蓮如上人は『御文章』二帖目第十一通


そもそも善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、ひとをすすむべきばかりなり。


と仰っています。
では、善知識に無条件服従せよ、といっている知識は、善知識でしょうか。これまで何度も何度も述べてきましたので、今さら説明する必要はないでしょう。阿弥陀仏に向けといいながら、自分に向かわせる卑怯な教えを説く”無二の善知識”は、もちろん悪知識です。

親鸞聖人の御著書ではありませんが、『歎異鈔』第二章には、


弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰そらごとならんや。法然の仰まことならば、親鸞が申す旨、またもって虚しかるべからず候歟。


とあります。阿弥陀仏の本願がまことであるなら、釈尊、善導大師、法然上人、親鸞聖人の教えられたことが正しいことになる。これで間違いないのです。ところが目の前の知識に無条件服従したら、その知識が”無二の善知識”で正しいから、親鸞聖人、法然上人、善導大師、釈尊の教えられたことが正しい、そして最後に阿弥陀仏の本願がまことだという結論になります。全くの逆になります。
真逆の教えですから、釈尊、善導大師、法然上人、親鸞聖人のお言葉と明らかに違うことを教えていても、釈尊、善導大師、法然上人、親鸞聖人の御心が分かるのは”無二の善知識”だけだといって、会員は平気な顔をしているのです。それは、誤解するような表現しかされなかった釈尊や歴代の善知識方をまるで悪者にしているのですから、外道の集団なのです。


また、信心決定のために善を勧める知識はどうでしょうか。
蓮如上人は『御文章』二帖目第九通に、


そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらえるそのこころはいかんぞなれば、それ、弥陀仏のちかいましますようは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなるつみふかき機なりとも、すくいたまわんといえる大願なり。
しかれば、一心一向というは、阿弥陀仏において二仏をならべざるこころなり。
このゆえに、人間においてもまず主をばひとりならではたのまぬ道理なり。
されば外典のことばにいわく、「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず」といえり。
阿弥陀如来は、三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまわざるべきや。
このいわれをもってよくよくこころうべし。
さて、南無阿弥陀仏といえる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆえに、なにの不足ありてか諸行諸善にこころをとどむべきや。
すでに南無阿弥陀仏といえる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。



『御文章』では、雑行を捨てよとばかり教えられています。諸善は雑行です。信心決定のために善をしようとすれば、それは雑行、善に向かうのですから、阿弥陀仏に向かっていません。雑行を勧めている、つまり阿弥陀仏に向かえという教えに反したことを勧めていることになります。”無二の善知識”と呼ばれる人物は、「善をしなければ善ができない自分と知らされることがなく、捨てることができない」とか、「善をしなければ信仰は進まない」とか、歴代の善知識方が全く仰ったことのない珍しき屁理屈を説いていますが、その”無二の善知識”の心は、会員に敢て阿弥陀仏に向かわせていないのです。
親鸞聖人が『教行信証』信巻


また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。


と仰っている遠回りの教えを説いているのですから、この”無二の善知識”はやはり悪知識です。

最近親鸞会では、親鸞会式因果の道理をやたら強調していますが、何のつもりでしょうか。某講師のブログ「静かな劇場」でも、散々な非難を無視して狂ったように何やら書き続けていますが、それが外道の教えと分からないところがお目出たいです。しかも、誰もいっていない非難を捏造して自問自答を繰り返しているのですから、『本願寺なぜ答えぬ』と同じ構図です。
親鸞会は、もしかしたら聖道仏教で説かれる因果の道理の真似をしようとしているのでしょうか。だとすれば浄土仏教と因果の道理の関係も知らないのでしょう。このことは他のブログで詳しく解説されていますので、すでに読まれている方も多いでしょうから、ここでの説明は省略します。
一言だけ述べれば、浄土仏教では因果の道理について皆無といっても良いほど説かれておらず、それは親鸞会が浄土仏教の聖教から根拠を一つとして挙げられないことでもお分かりになると思います。

そして、「一切衆生必堕無間」という歴代の善知識方のなされてない極度の不安を煽ることも、阿弥陀仏に向かわせない教えです。言葉を替えれば、必堕無間という自己の罪悪感に徹することと、自力無功と知らされ他力に帰することとは全く違います。
この詳しい説明は以下を読んで下さい。

「苦笑の独り言」
大昔からツッコミ入ってます→親●会における「二種深信の機の深信」と「罪悪観」との混同
安心論題「二種深信」←「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してる人は、これを読んで勉強してね。(1)
わかりやすい宗義問答「二種深信」←「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してる人は、これを読んで勉強してね。(2)


”無二の善知識”は、釈尊、善導大師、法然上人、親鸞聖人がどう教えられたかなど関係ないという姿勢ですから、どう考えても悪知識です。

どんな観点から見ても、カルト教義を唱えている”無二の善知識”は「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と反対のことを教えていますので、善知識どころか悪知識です。


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